愛と青春の……
【ネタバレ注意!】初めての方、途中の方はネタバレにお気をつけください。
『ハロウさん?』
呼びかけられ、僕はまぶたを開く。
寝起きの視界は白くぼやけていた。気だるく、頭もぼーっとしている。状況がいまひとつ飲みこめていないが、とりあえず体は椅子の上に腰掛けているようであった。
誰かが身をかがめて、真正面から僕の顔を覗いている。
くすりと、その顔はやわらかく微笑した。
目の前にいる相手は──ヘリオス探偵事務所の秘書を務める、シトラス・リーフウッドであった。
『ああ、すみません……ちょっと、うとうとしていたようです』
眼鏡を外して、僕は目元をこすった。
シトラスは優しいため息をつき、『昨日も、夜遅くまでお仕事を片してらしていましたからね』と僕の身を気づかってくれた。
『どうぞ、そのままごゆっくりなさってください。そうだわ、なにか温かい飲み物でもご用意しましょう……』
そう言って、彼女は僕のそばから離れていった。近くのテーブルに置かれたティーポットを手に取り、慣れた手つきでお茶の準備をしていく。
ご厚意に甘えて礼を述べたのちに、僕は改めて周囲を軽く見まわした。
とても見覚えのある風景であった。
それもそうだ、ここは探偵事務所の談話室ではないか。
『ハロウさん。お茶がご用意できましたよ』
湯気の立つ熱いカップを手に、シトラスが再び僕の元へ近寄る。それをやわらかく手で制して、ひとまずテーブルの上に戻してもらうよう頼んだ。
シトラスは眉を寄せて困った顔をする。『なんだか、気分が優れないご様子ですね?』と、大げさに彼女は僕の額に手まで当ててきた。
『もしかして、季節の変わり目の風邪にでもかかったのでしょうか……?』
その手のひらは、とても温かかった。
僕はなんだか、くすくすと笑い声を立ててしまった。
遠い昔の、まだ無垢であった子どものころに戻ったような……ほのかな笑みを顔に浮かべた。
『大丈夫ですよ。ただ、少しばかり変な夢を見ていただけですから』
『ゆめ?』
きょとんとした表情で、シトラスは言葉をくり返す。
『それはいったい、どんな夢でしたの?』
彼女からの質問に僕が答えようとしたところで、談話室の赤い両扉が大きく開かれた。
賑やかな三人の若者たちがつれ立って現れた。
『まったく、あの依頼人ときたら! お金持ちのくせに、とんだケチのいやしんぼだわっ!』
その場で地団駄を踏み、声高に憤慨しているのは──姉妹探偵の姉のほうである、メイラ・リトルだ。短い黒髪を振り乱し、目いっぱい悔しそうに仕事の愚痴を振りまいている。
『このアタシが事件を解決してあげたのよ? なのに、報酬がこれっぽっち! ああっ、腹立つ腹立つ……!』
『姉さんが途中で大暴れなんてしなければ、ね。ワタシがもっと上手に、依頼人さんとのお話をまとめることができたんだけどなぁ……』
ツンと澄ました顔で、姉の脇を通り過ぎていったのは妹のマリーナ・リトルだ。『短気は損気、いまの姉さんにぴったりの言葉よ』と妹が茶化せば、『なんですってぇ!』と姉が食ってかかるのが恒例のやりとりである。
『まぁまぁ、お二人さん。ここは俺の顔に免じて、どうかご機嫌を直しておくれよ』
そんな姉妹の間を取り持とうとするのが、キザな探偵のシルバー・ロードラインだ。
マリーナの手前、頼れる男っぷりを見せようという魂胆が見え見えだ。決まって姉にど突かれ、妹からは袖にされるというのが、これまた鉄板のオチであった。
何度見ても飽きないやり取りに、僕の隣に立つシトラスも思わず笑い声を立てていた。
『ふふっ、相変わらず楽しそうですね』
『…………』
さらに三人のあとに続いて、小柄な少年と大柄な青年の二人が談話室の扉をくぐった。
『たしかに僕はまだ見習いです。でも、今回の事件では、なかなかにいい働きをしたんじゃありませんか?』
したたかな笑みを浮かべ、見習い探偵のロイ・ブラウニー少年は、寡黙な探偵のゴート・イラクサの顔を見上げる。『無口なゴートさんじゃあ、人から警戒をされずに聞き込みをするのもひと苦労ですもんね』と言って、少年は曲げた肘の先端で相手をからかうようにつついた。
『ああ、たしかにその点は大助かりだった』
『でしょう! いやぁ、ゴートさんは話がわかる人で本当によかっ──』
『だが、分け前に関しては事務所の規則に従ってもらうぞ。不満があるのなら、おまえもさっさと探偵に昇格することだな』
ガクッとよろけるロイに、いつも無愛想を貫いていたゴートが珍しく、してやったりとばかりに口元をゆるめた。
談話室にぞくぞくと集まる探偵たち。
その一人ひとりの個性豊かな姿を眺めて、僕も満足げに目尻を下げるのであった。
気づけば、シトラスがまた僕の顔を覗いている。さっきの質問の答えを聞きたそうなそぶりを見せていたが、『どんな夢だったか、忘れてしまいました』と、僕は濁しておいた。
直後に、椅子の背もたれにも人の気配を感じた。
僕が振り向くと、そこにはデュバン・ナイトハート所長がいた。背もたれに手を置いて寄り添う所長に、僕は振り向いたまま微笑を向ける。所長もおなじように、温かく笑い返してくれた。
──そして、最後の一人が現れる。
『全員、お集まりのようだな』
『ギルっ!』
扉がバーンと大きく開かれ、一番騒々しいやつのご登場である。
事務所の花形を務める、我らが名探偵ギル・フォックスだ。
室内にいた全員が、そろって名探偵に愛ある野次を飛ばす。僕も椅子から勢いよく立ち上がり、この狡猾なる野心家を大いに歓迎した。
『ああ、ギル……』
『相変わらず情けない面だな、おまえは』
なぜだかわからないが、ギルの顔を見たとたん、胸いっぱいの感傷の波が押し寄せてきた。体の内側から圧迫されているような気分だ。
息苦しさに、僕は言葉を詰まらせる。
そんな僕を見て、ギルはあざけるように鼻を鳴らした。
『ちょうどいい、せっかく全員そろっているんだ。このヘリオス探偵事務所がいま以上の功績を上げるために、俺からみなへ素晴らしい提案を一つしようと思う』
無能な見習い探偵、ハロウ・オーリン。
と、ギルは高らかに僕の名を呼ぶ。
『いますぐ、この場から消え失せろ。この──ヘリオス探偵事務所に、おまえの居場所はない』
『!』
ギルの吐いた台詞に、僕はあいわかったとばかりに赤い瞳を光らせた。
上着の胸ポケットを探るも、渡された台本の紙切れはなくしてしまったようで、代わりに大声ではつらつとアドリブをかましてやる。
『そんな! 僕を事務所から追いだすつもりかい?』
満面の笑みを浮かべて、僕は言った。
『なぁ、ギル……そんな冷たいことを言わないでくれ! 僕だって、頑張っているじゃないか! 探偵の見習いとして!』
僕だって、頑張っていたんだ。
そうさ、頑張っていた……。
途中でこらえきれずに、僕は吹きだした。
『ふっ、アッハハハ! ……だから、ひどいよ! ひどすぎる……ハハッ、追放だなんて! 頑張っていたんだ、僕なりにっ!』
愉快に笑う僕の襟首を、ギルの手が優しくつかむ。『だったら、ここにいる連中にも聞こうか?』と、彼もにこやかに言った。
軽く突き飛ばされて、僕は再び椅子の上に座る。
ひとりで大笑いする。
腹の底から、たぶん一生ぶんは笑い転げた。
満たされた幸福のひと時よ。
願わくば、永遠に。
永遠に続きますように……。
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