サイダー・マーメイド
晩夏ですので夏の余韻を感じてくださると幸いです。炭酸水を片手にどうぞ。
僕以外補習には誰一人来ていない。当然だろう。出席日数が足りないほど休んでいる人間なんてそうそういない。だから、補習が終わったとき、なんだかとても自由で、解き放たれたように感じたのだ。キーボードを叩く音が職員室から、廊下に居ても聞こえてくる。誰もいない渡り廊下を超えて、階段、プールを横切って少し黴びた匂いのする階段を登って、古びた屋上の扉に手をかける。誰もいない狭い屋上である。
雑多に建てられた住宅街、コンクリの地面に照りつけて蜃気楼を起こす太陽。この学校で、最後の夏を見つめたその時だった。ふと、フェンスの向こう。プールの方だった。
女の子が立っている。
僕が見ていることにも気づかず、制服のまま、彼女はプールサイドで助走をつける。
ちょっと、何をしているんだ!?
突然のことに心の整理が付かないまま、僕は体が動くままにフェンスを乗り越えて彼女の方へと向かった。彼女が地面を蹴って太陽が反射して輝く、塩素の匂いのする水色の中へと、僕は何も出来ないままに水の中に彼女の体が吸い込まれるのを見ていた。
さっと黒い影が刹那、水の中でくるりと回る。それから、まるで瞬間移動をしたかのように反対側の水面から、彼女の体が飛び出した。その体に足はなく、代わりにあるのは太陽光に照らされて七色に輝く鱗と、透けて後ろが見えるようなきれいなひれが。まるで水と戯れるように、大粒の水滴を跳ね上げて。
一瞬、彼女と目が合った。水に吸い込まれるところで、彼女が驚いたように目を丸くしているのを見た。その姿はまるでマーメイドのようで、あまりに美しく、僕がその姿を頭の中で処理する前にスローモーションのように彼女は水に吸い込まれていき、水がもう一回跳ねた。
水が、水に跳ねた音が聞こえる。
僕の、奇妙な夏が始まった。
ーーーーー
さて、今は昼休みなのだが僕はプールサイドにやってきている。まずは昨日起こった奇妙な出来事について、目の前に居る水上季利という女子に聞かなくてはならないことが山ほどあるからである。
「それで?宮川くんだっけ?私を昼休みにこんなとこに呼び出して何の用?もしかして告白!?きゃー、ドキドキしちゃう」
目の前にいる彼女は姿こそ昨日出会った『七色の鱗の人魚姫』そのものだったが、その姿は稀に居る下世話で俗っぽい女子そのもので、かの神秘性はかけらも感じられなかった。僕があきれて黙り込んでいると、ごめんごめん、で、話って何だっけ?とその淡い焦茶の瞳で僕を覗きこんで来る。
「君は、何者なの?」
人魚だとか、人外だとか、いろいろ聞きたいことはあったのだけれど結局そんな聞き方になってしまって、しかし彼女はそれを聞いてにやりと笑い、少し考えこんでから、ひとつ条件を出した。
「サイダーを奢ってくれない?そしたら話す気になるかもしれないな」
仕方がない。財布の紐を緩めて彼女にサイダーを投げる。
僕はてっきりサイダーを使って水芸でも披露してくれるのかと期待して彼女に缶を渡したのだが、それを渡すや否や彼女はそのプルタブをあけてこくこくとサイダーを飲み始め、あろうことか僕の前で「ぷはーっ」として見せた。
「ごめんごめん。そんな顔しないでよ。私は人魚だよ。たぶん君が思ってるとおりね」
彼女は僕の顔に暗い何かが宿ったのを察したのか、慌てて口を開く。そしてそのまま喋り続けた。
「訳あって人間界に来てるんだけどね。暑苦しくて嫌になっちゃうし、足を出しても大丈夫なとこがここしかないからここに居るんだ」
「ふうん、訳あってっていうのはどういうことなの?」
「訳は訳だよ。私は皆を救ったヒーローで、人間界に行くことが許されたんだ」
少なくとも後者が嘘であることは確定したが、彼女が人魚であるということは僕の推測に留まらず、本人の確認もあって今しがた事実となったのである。
正直、信じがたかった。彼女の足には人の物ではない美しいそれが確かにあったのを見たし、本人もそれを認めてはいるのだけれど、どうにも彼女の存在を頭で受け入れることが出来なかったのである。
「ははーん、さてはまだ頭で受け入れられていないみたいだね」
そんな僕の心中を察したのか、彼女がにやりとこちらを見る。
次の瞬間、彼女が水の飛沫とともに、プールの水面から飛び出した。あの虹色の鱗を称えて、それは太陽光を反射して光り輝く。それは彫刻のような美しいシルエットで頂点に到達し、そのままの姿勢で水の中へと滑り降りて飛沫の一つも立てずに着水した。
認めざるを得なかった。彼女は紛れもない、現世に生きる人魚である。
そのまま陸地に上がってきて彼女は、ね、これでいいでしょ?と言って笑って見せて、そのまま教室へと帰っていった。
彼女に興味を抱き始めたのはその日からだった。
そうして彼女を見ているうちにいろいろなことに気づいた。まず、彼女はサイダーが好きだということ。放課後は毎日のようにプールにいるのだということ。本を読むのもすきなのだと言うこと。そして、いつも一人でいること。
一人と言っても全く誰とも話せないとか、冷たくふるまっているとかそういうわけではなく、なんとなく所作に壁を感じるのである。近づいてほしくない、一人にさせてほしいというオーラを、彼女は常に放っているのだ。
だから僕は教室では彼女に話しかけるのがためらわれて、放課後のプールで彼女の話を聞きに行く。という手段を取ったのである。
「それで、どうして君はそうサイダーが好きなの?」
通いだして三日くらいが経ったけれど、彼女は毎日サイダーを飲んでいた。甘ったるい、夏特有のそれを、彼女は飽きもせずに飲んでは僕と世間話をする。その中で彼女のサイダーへの愛の理由が知りたかったのである。
「んーなんでだろうね、海の世界には無いんだよ。こういうの。だから新鮮なんだよね」
「それだけ?」
「んー、なんだろ、まだある気はするんだけどなぁ」
彼女は水中でくるりと回って、空を仰いだ。季節は七月、夏休みの足音が聞こえてくる頃合いであり、我々三年生は受験勉強を迎えるに当たって最後の長い自由時間でもあった。
「んー、じゃあ、いつもは何の本読んでるの?」
教室で、彼女はいつも本を読んでいる。可愛らしいカバーをつけたそれは彼女曰く先代のヒーローが持っていたブックカバーを借りてるらしい、ヒーローという冗談をまだ覚えていたことに驚くと同時に、僕はその中身が知りたくなったのである。
「んーとね、あれだよ。本屋大賞を獲得した…」
「『三毛猫と君と僕の約束』?」
「そうそれ。あれ好きだな。もう読むのも三回目くらいなんだけど、毎回切なくなっちゃうんだ。やっぱ恋愛小説は終わりのあるものに限るよね」
「あれね、僕も読んだことあるよ。いろいろな解釈がありそうだよね」
「んー、そうだね。君は、あれはどう思った?」
三毛猫と君と僕の約束は去年本屋大賞を受賞した恋愛小説で、主人公の拾った捨て猫が人間となって中学生だった彼のもとに現れ、しばらく経った後、社会人になって再会して結婚するというものである。
でも、結局猫である彼女は中学生の時から十三年目で、彼の前から姿を消してしまう。結局、彼は自分の妻があの時の猫であったと知り、もう一度猫としての姿で彼女を見つけるのだけれども、それをハッピーエンドと捉えるかバッドエンドと捉えるかは読み手次第である。といった小説である。
「バッドエンド。結局、主人公は幸せのまま居られなかったからね。君はどうなの?」
「んー私はね、秘密」
彼女はそうやって唇に人差し指を当ててとぼけて見せて、不本意にも一瞬そのしぐさがあまりに人魚の彼女に様になっているように見えたのが悔しかった。
帰り道はことの成り行きで彼女が隣にいた。夕焼けが山の端に沈んでくる時間帯で、彼女はそれを寂し気に眺めている。夕焼けに何か嫌な思い出でもあるのか?と聞くと、なんか胸騒ぎがするだけ。と答えた。
「そういえば」
「ん?」
「君は、家族はどうしたのさ?」
彼女にはどうやらちゃんと帰る家があるらしかった。ただ、家族連れで来れるほど人魚が簡単に地上と海中を行き来できるのなら、もうとっくに人魚は見つかって大騒ぎになっているだろう。という気もした。
「お母さんとお父さんはね、海にいるよ」
そう夕焼けを眺めながらつぶやく、彼女は依然悲しそうだった。
「そっか、どこに帰るの?」
「家だよ。面倒見てくれる人はいるからね」
「なんで?人間が面倒見てくれるの?」
「そうだよ。ここは人魚伝説のある町なんだよ。知らなかった?」
僕の住まうこの地は街の郊外にある小さな田舎町で、特段語るべきところもない。人魚伝説の話は聞いたことが無かったのだ。
「じゃあ、この町の人たちはみんな人魚のことを知ってるの?」
「ううん、家にいる人だけ。それ以外は君しか人魚のことは知らないんじゃない?」
「それは…どうして?」
そこまで聞くと、彼女ははい、おしまい。これから先は一文字ごとに一サイダーだよ。と言い。答えようとするのを辞めた。
「そういう君はどうなの?兄弟とか居ないの?」
そうして露骨に話をはぐらかそうとして、でも嫌がっていることを無理やり聞くのも違う気がして、僕はそれ以上の追及をしなかった。
「誰も居ないよ。父さんは事故でいなくなっちゃったし、母さんは病気で。兄弟はいない。一人暮らしなんだ」
「あ、えっと、ごめんね…?」
「全然気にしないでいいよ、毎日仏壇に向かってはいるけど、物心着いた頃にはもう二人とも居なかったんだ。だから別にトラウマとかじゃないから」
たしか二歳かそこらで父が、小学校低学年くらいで母が居なくなったのである。中学校を卒業するまでは叔母が一緒に居てごはんを作ってくれたりして、高校生になってからは本格的に自炊しているのだ。
「ああ、唐突だけどサイダーが好きな理由、分かったかもしれない」
彼女が夕焼けを望んだまま言った。
「ほう、それはどうして?」
一瞬、時間が流れた。夕焼けの中で僕らは孤立していて、僕らを前から照らす。彼女が口を開くのがゆっくり見えて、なんだかとても大事なことを言おうとしているみたいに見えた。
「夏の音がするから」
「ん?」
「夏の音がするの。思わない?」
夏の音。その言葉をゆっくりと咀嚼した。サイダーのパチパチする音。湧き上がってくるようなシュワシュワは浮かんでは消えて行って、ずっと続くことはない。
「ちょっと、分かるかもしれない」
ぼそっと呟くと、彼女はちょっと嬉しそうな顔をして、そうだ。連絡先交換しよう。ラインやってる?と詰め寄ってきた。
そんな風に夏休み前の束の間は終わり、休暇が始まったのだ。
ある日のことである。一日の四分の一くらいを勉強に費やして満足した僕は、ベッドの上に転がしていたスマートフォンを開いた。するとなんということだろう。つい先日彼女と交換したSNSのトーク画面に膨大なメッセージが送られてきているではないか。
三分前「開け―!勉強ばっかしてるな!」
二十分前「(スタンプ)」
四十五分前「遊びに行こうって言ってるの!」
…どうやら受験生真っただ中のこんな時期に彼女は僕を街に駆り出そうとしているらしい。行くわけがないだろう。馬鹿め、などと返してやりたいところだったけれど、ちょっとだけ、彼女のことをもう少し知れるんじゃないか、などと期待している自分がどこかにいることに気が付いたのである。
「どこ行きたいの?」
そういうや否や、五秒そこらで既読が付く。海中でもフリック入力を練習していたとしか思えないような速度で「君に任せる!」と返ってきた。
遊ぶ場所を決めるのは流石に面倒くさいなと思って既読無視をしたら、また魂の入力速度で「風物詩を私に教えてほしいの!お願い!」「(おねだりをしているスタンプ)」と送られてきた。頼まれると弱いな。
そうしていろいろ考えたけれど、とりあえず僕は彼女を僕の昔よく行っていたゲームセンターに連れていくことにした。
目的地は市内の大型ショッピングモールの中にある。大きな建物に入るのは初めてという彼女は、目をキラキラさせながらあたりをきょろきょろ見渡す。田舎くさいからあんま見渡すな。と言うと彼女は少し機嫌の悪そうな顔をして僕より先を行く。十字路でゲーセンと逆方向に進み始めたあたりで、僕は慌てて彼女を追いかけて引き留めた。
あっちへふらふら、こっちへふらふらを繰り返し、ようやくゲーセンにつく頃には彼女のテンションはMAXまで跳ね上がっていた。メダルゲームのエリア、クレーンゲームのエリアなどいろいろな場所をきょろきょろと見まわしては、目を輝かせている。
「うおー!これ全部遊んでいいの?」
「お金入れたらね」
「あ、ねえ、これどうやって取るの?」
僕の言葉を聞いたのか聞いていないのか、クレーンゲームが林立する世界へ愉快な世界へと、彼女は引き込まれていった。と、思えば向こうのほうでクレーンゲームに張り付いて店員さんに注意されている。これは面倒を見ておかないとと思った僕は、彼女の頭をアイアンクローで拘束して、とりあえず彼女の意見は聞かずに僕がいつもやっていたリズムゲームの筐体まで連れて行った。
それから二時間ほど。リズムゲームをしたら彼女のリズムは毎回一拍ズレ、レースゲームではダートというダートにはまり、ガンゲームをしたら即座にゾンビの餌食となっていた。不貞腐れた彼女は、つまんない。と吐き捨てるように言って先へ行く。
やれやれ、ほんとうに気分の上下が激しい人間だな。と思って彼女が人魚だったことを思い出す。今はどうでもいいのだけれど。
追いかけた先で彼女が立っていたのは最初に彼女が張り付いていたクレーンゲームで。彼女は最初のようにそれに張り付いて立っていた。
彼女の視線の先にあるのは、水色をベースとした腕時計だった。子供のように彼女はその時計を見つめて離れない。膨れっ面のまま。百円硬貨を一枚筐体に入れて立ち往生していた。
ふと、腕時計をもう一回見た。水色ベースでシンプルながらお洒落なつくりのその腕時計は彼女の雰囲気にとてもあっている気がして、それを身に着けた彼女の姿が少し見たくなったのだ。
「貸してみ」
僕は彼女を少しわきにやって、レバーを手に取った。一回じゃ無理かな。コインを三枚取り出す。こういうのは一回で取ろうとしちゃだめなんだ。僕は慎重にレバーを動かした。ああ、しまった。ちょっとずれちゃった。もう一回。もう一回。
そうやって僕が試行錯誤する間、ずっと彼女はこちらとクレーンゲームの行く末を見つめていた。一回で五センチほど動いて、それを何回も繰り返して。その間もずっと彼女の視線は僕とクレーンゲームに注がれている。
もしかしたらそれから三十分くらい経ったかもしれない。いや、使ったお金はせいぜい七百円くらいで、一回一回慎重にやっていたから時間間隔がおかしくなってたかもしれないけれど。クレーンでつかんだ腕時計の箱がぐらりと傾いた。
いいぞ!
そのままゆっくりと落ちてきた腕時計は、ガラスケース越しに見るよりきれいな色をしている気がした。
「取れた!」
「ほんとに!?」
彼女は被さるようにして僕の腕時計を見てきた。
いいよ、僕はもう満足したからこれは君がつけてよ。
ほんとに、と言いながら遠慮がちに僕の手から淡い水色の腕時計を受け取ると、彼女はまるで宝物でも身に着けるかのようにそっと大事に腕にはめた。
「似合ってるじゃん」
彼女のマーメイドの雰囲気を感じたのはあの日から次いでこれが二回目だった。たった腕にワンポイントが入っただけなのにショッピングモールの照明がすべて彼女を引き立てるためにあるような気がして、簡素なベージュの石タイルの床にカツン、彼女の街歩きに向いているような靴の跳ねる音が、その場の空気が全部彼女のテリトリーに置かれていたような気がした。
似合っていた。ほんとに、それ以上言葉が見つからなかったので、僕はもう一度彼女に似合っている。と言った。
「やだな、急に少女漫画みたいなことするじゃん。実は女の子の扱いに慣れてたりするんじゃない?」
「そんなこと…別に無いよ。さっきのはただの感想。他意は無いよ」
「そーですかー、いいよ。私は嬉しかった」
「ああ、でも似合ってるって思ったのは本当だよ」
それから、僕たちはゲームセンターを後にした。行きとは違ってスキップ交じりに僕の少し前を歩く彼女にはもう機嫌の悪い様子はなかった。いや、別にあの時だって本当に腹を立てていたかは分からないけど。それでも、なんだか来た時よりも彼女は…なんだろう。そう。まるで一つの目標を達成したみたいな。そんな顔をしていた。
「今日は楽しかったなぁ」
「そりゃあ良かった」
「私、今日を楽しむために地上に上がってきたのかもしれない」
その刹那、そう言った彼女がどうしようもなくその場から消えてしまいそうな、そんな根拠のない空想が頭を過ったのだ。まるでそうなるのが自然の流れのように。打ちあがっている途中の花火とかサイダーの炭酸みたいに、やがて消えてしまうことが決まっているような存在に思えたのだ。
はっとしてもう一度彼女を見る。気のせいだったのか。彼女はいつもより似合う腕時計をつけたただの女の子だった。
―――――
「助けて。宿題が全く分からない…しんじゃう…」
そんなラインが送られてきたのは、ゲームセンターに遊びに行ったあの日の数日後のことだった。字面からして相当追い込まれているようだった。布団にスマホをぽすりと叩きつけて、横になって彼女のラインを少しくすぐったいような気持になりながら見た。なんて返そうか。僕は三十秒くらい悩んでからスマホを持ち上げる。
「君はどうすればいいと思ってるんだい?」
「君が私に宿題を写させてくれたらいいと思ってる」
「甘えんな。僕は家から一歩も出ないぞ」
「うわああごめん!図書室!図書室来て!写させてくれなくていいから勉強教えて!」
「サイダー一本で手を打とう」
そのあと、くだらない問答が五六回続き、僕と彼女は次の日曜日に図書室で勉強することとなった。ああ、じゃあ数学の予習は終わらせておこうか。サイダーはしっかりと奢ってもらおう。じゃあサイダーがなかったら行かないのか、って言われたらそんなわけでもないが。
さて、じゃあ少し急いで宿題を終わらせないとな。ちょっと晴れやかな気分で僕は数学のワークを手に取った。
ぱらぱらと問題を解きながらページを捲っていくこと一日、二日、三日。彼女との勉強会の副産物として思いがけず勉強のはかどった一週間を過ごし、久しぶりに靴を履いた時にはワークの大部分を終わらせてしまった。
集合場所である図書館前に着くと、十分前だったにも関わらず彼女はすでにその場に居て、そわそわして待っていた。僕の姿を認めると、はっと顔を明るくして近づいてくる。サイダーの支給を求めると殊勝そうな顔をして自販機へと向かった。
「いやあ、君もサイダー好きなんじゃん。私に影響されちゃったかな?」
「抜かせ。この酷暑に僕を呼びつける当然の対価だよ」
聞いているのかいないのか。どっちでもいいのだけれど、彼女ははっはっはと笑って自分の分もサイダーを買い、腰に手を当てて由緒正しく一気飲みして見せた。けれど満杯のサイダーを一気に飲むというのは喉に並々ならぬ負担をかけるもので、げほげほとむせこんでまたも彼女はこっちを見、からからと笑った。
彼女の飲み方は前に僕がして見せた飲み方だろう、というのはすぐに分かった。君も僕に影響されてるじゃないか、と言おうとして踏み止まった。
さっきは強がったけれども、僕は確かに彼女に影響されていた。元来僕はコーラのほうが好きだったし、サイダーはどうも炭酸が足りないような気がしてそれほど好んではいなかったのだ。彼女も僕の影響を少なからず受けているというのが、少しだけくすぐったかった。
そんな気持ちを振り払うために、僕は図書室へと進む。インクにと紙の古びたような香りをかぐと、僕の頭の中は昨日予習していた微積分のことで少し埋められていた。
さて、切り替えよう。
御託はいい。君はどこが分からないか言ってみな。
そう聞くと、彼女はうんうんうなりながら数学の教科書のページをめくり始める。どこが分からないのか探しているのだろう。少し難しい分野に入り始めたところで彼女の手が止まった。
「ここから先が全部わからないです」
そう、彼女は数弱だったのだ。
「そう!そこを微分する!そしたら接点の傾きが出るだろ!そしたらこの点が出る。この点は出ねぇよ!!!」
約二時間。彼女は僕の指導を受けながら戦い続けた。基本的に彼女が理解できていないところは概念的なところだったので、説明するだけでだいたいは理解できた。ただ、理解できていない概念があまりに多岐に及んでいたので、取り返しに時間がかかってしまったのだ。僕自身はいい復習になってよかったと思うけれども。
「もう無理…」
机に溶けている彼女を尻目に、僕は本を読みに行った。僕も疲れていないわけではないし、気分転換は大事だと思う。近代文学、最近の本屋大賞。割と読んだことや見たことのある本が多くて、僕の足は書庫の奥のほうへと進む。そこに一つ僕の目を引く本があった。
『地域伝承記録』
そう記されたその本は作者がなく、古くに村の僧などが編纂したものの写しだという。なぜそれが目を引いたかというと、表紙の絵が人魚のようだったからだ。
ページをペラペラとめくっていくと、長ったらしい年表表の後ろ。本の真ん中に差しかかるあたりで、人魚についての話が載っていた。
曰く、昔人魚はもともと人間だった。ある時、とある皇族の一座が呪いを受け、余命一年という死の淵に立たされてしまう。その皇族には幼い姫君がいて、さぞかし美しい君だったそうだ。皆に惜しまれながら、死を待つだけの日々。絶望の淵にあった姫は、しかしその知己であった呪術師に海底であれば呪いを受けずに生きられるのだと告げられる。そこから呪術師の力で二人は人魚となり、そこから人魚の一族として発展していったそうだ。そしてこの話には続きがあり、大安であった時代が過ぎて戦国の世となったころ。人魚のうちの一人が人間にさらわれてしまう。そこから人魚の里の位置が分かり、征服欲、好奇心の赴くままに人間たちは海上から鉄塊を落とし、物を沈め、攻撃をした。攻撃手段も無く、呪いの影響で陸戦にも持ち込めない人魚たちはどうしようもない。結局人魚側から一人の生贄を人間に差し出し、話合わせて和平に持ち込んだという。五十年に一回だけ、人魚側は使いを人間によこすという条件付きで。これは人魚にとっては致命的な物だった。陸上に上がることはすなわち呪術師の海底の護りの放棄。すなわち死を意味する。五十年に一回死ぬ人間を、人魚は選ぶこととなるのだ。誰しも死にたい物など居るわけもなく、話し合いは難航した。その結果、人魚の姫が名乗りを上げ、それ以来姫が五十年に一回ずついなくなっていくのだ、と。そんな話だった。
呪術師の下りなどはでたらめのように思えるにも関わらず、妙にリアリティがあった。彼女を人魚姫…マーメイドにあてはめたら、びっくりするほど脳みそがすっきりしたのだ。果たして、彼女がたまたま何かの間違いで陸上に…人魚伝説の残るこの地に来ることがあるだろうか。そしてその話が本当だとすれば、彼女はどうなってしまうのだろうか。
「何読んでるの!?」
「うわっ!びっくりした。本を読んでる人に声かけるときは慎重にしろって学校で習わなかったの!?」
「残念、人魚にはそんな掟ありません~。それは、伝承の本?ふーん、表紙が人魚じゃん。私のこと考えて取ってくれたのかなぁ?」
「自惚れんな。僕は古書を読むのが好きなんだ。断じて君とは関係ないよ」
「それで、どんなことが書いてあるのかな?」
彼女は前のほうから僕の持っている古びた本を覗き込む。へえ、とかふうん、とかわざとらしく相槌を打ちながら彼女は僕の本を読み進めていく。人魚の逸話に入ったところで、彼女は小さく…意識していないと分からないくらいに顔をしかめて、僕の顔を見た。
目が合って、すぐに反らした。
「ねえ、もう勉強しよ?せっかく図書館来てるんだし」
「あ…うん。そうだね。戻ろうか」
結局勉強はつつがなく進み、僕も途中から自分の宿題を片付けはじめ、12時から6時までしっかり勉強して僕たちは図書室を後にする。
ただ、彼女は一切あの本について触れなかった。
僕たちは図書館から帰路を並んで無言で歩いている。
小さな疑問が僕の中で確信めいたものになっていくのを感じた。彼女に対して抱いている自分の印象も、彼女が現世の僕の前に現れた真相も。そしてそれをほうっておけない自分がいることも感じた。
やはり、彼女は一言も口にせずに、まるで瞑想でもするかのようにその人魚の瞳で遠くの夕焼けを見ている。その原因があの本にあったことを僕は分かっていた。分かっていたけれども。
彼女との距離感、だいたい一メートル。まるで僕らの心の距離感を表しているようだ。埋まらない人一人分の隙間はしかし踏み込むにはあまりにも遠いようで、彼女の横顔を見つめることしか出来なかった。
家についても、その日は何もやる気にならなかった。やるせない。僕はスマホを手に取ってインターネットをぱらぱらと眺める。
彼女のことを、僕はまだ知らなきゃいけなかった。何か、いい口実は無いものか。逡巡して、インターネットに目をやる。これだ。
「今度僕と映画を見に行かない?」
いつもどおり、そのラインも一瞬で既読が付く。
「お、デートのお誘いかな?うれしいねえ」
「それで、何を見に行きたいのかな?」
僕も負けじと、間髪入れずに書き込んだ。
「人魚姫」
しばらく既読が付いたまま、何も返ってこなかった。そうして十分くらい待って、ようやく携帯が鳴ったのである。
「いいよ、サイダー一本で付き合ったげる」
―――――
サイダーを自販機で選ぶと、あたりが出た。生まれて初めてかもしれない。少し気分のよくなった僕はそのサイダーとあたりで手に入れたもう一本を持って、暇そうに空を眺めている彼女のもとに向かった。
「ほう、ご苦労ご苦労。君も買っちゃったか」
「いや、自販機であたりが出たんだ。運がいいよね」
「へ―、あたりなんてあるんだ。初めて知った」
「うん、景品提示法かなんかで二パーセントとか言ってたかな」
「おお、二パーってことは百回サイダー買って二回か。運いいね」
とりとめのない会話だったけれど、彼女はどこか上機嫌に感じられて、僕は少し安心した。自分で少し会話がぎこちなかったかもしれないと感じていたからだ。
サイダーを開けると小気味良い音を立てて炭酸がはじける。夏の音。アスファルトに下から焼かれる不快感がサイダーのそれで冷やされていくような気がして心地よかった。
「で、なんでさ、人魚姫を見ようとしたってのは」
「なんでもないよ。ただ君が僕に与えてた影響は僕が思ってたより大きかったかもしれないなって、昨日気づいただけ」
「あはは、なにそれ。口説き文句?」
「そのつもりで言ったなら、そのまま平静を保って居られるほど僕は女性経験が豊富じゃないよ」
ふーん、とにやにやしながら見てくる彼女を無視して、僕は黙って足を進める。
駅から徒歩十五分の映画館には、体感時間にして三分くらいでついてしまっていた。
「さて、チケットは?」
「これ。ネット予約だからちょっと大きいけど、あってるから心配しないで」
「へえー、そんなこと出来るんだ。便利だね」
僕たちはポップコーンと各々飲み物を買って劇場に入った。僕らの席は真ん中の列の右寄り。真ん中の真ん中は空いていなかったのだ。
「へえ、少し混んでるんだね。こんな暑い日はあんまり皆外に出たがらないものと思ってたよ」
「むしろそうだからじゃないかな。映画館だと涼しく楽しめるし」
「あー、確かに。涼しー、気持ちいー」
席にぐでーっとだらける彼女を横目で見ていると、ちらっと彼女と目が合った。眼を反らしそうになったけれど、なんだか目を反らしたらその隙に彼女が居なくなってしまうような錯覚に陥って、僕は彼女から目が離せずにいた。
「もう、なんでそんなに見てくるの?」
「たまたまだよ、目が合ったんだ」
「たまたま十秒以上見つめあうことなんて無いよ」
「人の顔見たらさ、なんかどっちから眼を反らせばいいか分からなくなる時ってあるじゃん?それだよ」
「そんなものかな?」
僕から遠慮がちに目を離して画面に見入る彼女に、僕も彼女を見るのを辞めた。どうして、いなくなりそうなどと思ったのか。理由の分からない感情に、僕の心は少しざわついている。そんな気持ちを振り払うように、僕は売店で買ったコーラを一口飲んで、ポップコーンを食べた。それは彼女といつも飲んでいるサイダーより少しチープな味がした。
そうこうしている家に映画の宣伝は終わり、映画泥棒のプロモーションが始まったあたりで彼女がもう一度耳をそばだてて喋りかけて来たのだ。
「で、今日はなんで誘ってくれたの?」
「別に、映画が見たかったんだよ」
「ふうん、私と?」
「うん」
それ以上は何も言えなかった。こそばゆい気持ちになりながら彼女のほうを見ようとしたら、シアターの灯りが落ちる。完全な闇になったことに乗じて、彼女の顔をふっと見ると、またもう一回目が合った気がした。何も見えなかったけれど。
「始まったね」
「うん」
スクリーンの明るさでもう一度シアターから闇が漏れ出す。僕は後ろも横も見ずに前を向いて映画を見ていた。
舞台は現代で、とある港町の話だった。一人の若い漁師が浜辺に一人の少女が倒れているのを見る。医者に運んだがそれらしい症状は見つからず、仕方なく彼は彼女を自宅で預かることにした。眼を覚ました彼女に身元を問うても彼女は何も答えない。家出かと思い、警察に問い合わせたが、そのような届も全国的に出ていない。
結局漁師は彼が預かり、二人はともに暮らしていくことになる。徐々に彼らは惹かれていく。彼らはともに過ごしていくが、漁師は少しずつ彼女の態度に変化が現れていっているのに気が付く。彼女は命幾許もない人魚だったのだ…と、そう知って漁師は彼女と最後の日々を送るのだ。
正直少し期待はずれでベターな話だったけれど、その姿はいくらか僕自身に重なった。いや、正直に言うと少し泣きそうになった。
ヒロインと主人公は仲良くなる過程で互いに残された時間の最後に人魚のヒロインはドラマチックに看取られて死ぬのだ。瞬きも赦さないような美しい静寂の中で、ゆっくり彼女は冷たくなっていって、幸せの教科書のような笑顔で最後の一瞬を終わらせる。その描写が、美しすぎてつらかったのだ。
死ぬのはそんなに美しいものではないと、僕は思っている。世の中に数少ない絶対のゴールであり、絶対の終わりである。引継ぎは許されない。引き伸ばしも許されない。そんな「絶対」が死なのだ。
それなのに、同時に僕はそれを美しいと思ったから。中身の薄いストーリーの終わりに惹かれて、あまつさえ泣きそうになったのが、僕はなんだかやるせなくて、最後のヒロインの死に顔をもう一度思い返してしまって、羨ましさと、映画館特有のエンドロールの残響と、静かな情動の名残だけが僕の中に残っている。
ああ、分かった。僕と彼女の出会いにそれを重ねてしまっていたんだ。図書室であんな本を読んだからか、彼女の存在が僕の中で希薄になりつつあって、その中であんなストーリーを見てしまったから、僕はこんなに心が揺れているのかもしれない。
ふと、彼女が映画が終わってから…いや、映画を見ていて彼女のほうを向いていなかったからいつからかは分からないのだが、下をむいてうなだれている彼女に眼をやった。あんまり面白く無かっただろうか。衝動的に誘ってしまって、彼女には申し訳ないことをしたかもしれない。
そう思って遠慮がちに覗き込む…彼女は、静かに泣いていたのだ。
―――――
「いやぁ、ごめんよ。ほんとに。迷惑かけました」
「いや、それは全然いいんだけど、まさかそんな号泣するほど感動するとは」
あれから少し映画館に残っていたけれど、彼女は嗚咽も漏らさずに、文字通り堰を切るようにぽろぽろと泣き続けた。
流石にこの田舎の映画館にこのまま残り続けるのも次の上映時間に影響が出てしまうかと思って僕は彼女の手を引いて映画館と同じビルにあるファストフード店に入ることにしたのだが、やはり周りから好奇の目で見られることは避けられない。
「いや、なんか最後のシーンが琴線に触れちゃってさ」
ハンカチをいそいそと鞄の中にしまいつつ彼女は言った。琴線というのは何だろうか。彼女の悲しい過去か、辛い未来か、それとも今この瞬間なのか。それによって大分その意味合いが変わってくる。僕はふと、図書室のあの本のことを思い出していた。
加護の放棄。そして死。映画に描かれていたみたいな内容だ。証拠も無ければ根拠もない、そんな拠り所のない昔話。だけれど彼女との日々はその霧のようなぼんやりとした疑念をなんだか形を持った大きなものへと変えていく。いつからだろうか。根拠のない昔話だ、なんて客観的な考えは不安を打ち消すための材料のようにすらなってしまっている。それは、彼女に関わる大きな秘密をはらんでいる気がして、僕はそろそろその正体を知らなくてはならなかった。
「ちょっと関係ない話していい?」
「ん?」
「前にさ、三毛猫と君と僕の約束が好きだって話してたじゃん?」
「…?うん」
「君はさ、あれをハッピーエンドだと思う?それとも、バッドエンドだと思った?」
顔を上げた。彼女と目が合う。今度はタイミングとか、そういう問題じゃなく意図的に眼を反らそうとはしなかった。
「急だね」
「急だよ。思い付き…というか、思い出しだからね」
「そうだね…私はあれは、最高のハッピーエンドだと思ったよ」
彼女はそのまま言葉をつづけた。
「まず、ヒロインが出会いたいと思ったから二人は出会った。それからヒロインが結ばれたいと願って二人は結ばれて、ヒロインが離れ離れになりたくないと思ったから、二人はまた違った形で一緒になる。いろいろあったけれど、全部思った通りになってる」
「でも、主人公は結局彼女を忘れられなくて、そのまま生き続けることになるんだよ。呪いみたいじゃない?」
「そこを見るか。君とは意見は合わなそうだね」
彼女はくすくすと笑って、少し流し目気味にこちらを覗く。
「でもね、君が聞きたいのってこういうことじゃあないんじゃない?」
僕は何も言わなかった。
彼女がさっき泣いていた理由も、彼女がこの場にいる理由も、彼女が生き急ぐような価値観を持っている理由も。知りたいことはいくつもあったけれど、それを聞くと僕たちの間にあった何かが壊れてしまう気がしたのだ。
「じゃあさ、逆に私から一つ君に聞いてもいいかな?」
「うん…?」
「私たちがプールサイドで出会ったあの日、」
ファストフード店の窓から一筋、雲間から日差しが彼女と僕の間に差し込んだ。外は真夏の太陽でけだるくなりそうなくらい熱気が漂っている。日差しでぼんやりした店内の空気と彼女の口を動かす挙動ひとつひとつがまるで蜃気楼のようにゆっくりと夢のように僕の眼に飛び込んできた。
「あの日、君は死のうとしていた。違う?」
蜃気楼と遠くから聞こえる蝉の声、溶かされそうになる夏の中。
彼女の得意気とも儚げとも寂し気とも取れる、物語の終わりに感じ入るようなそんな眼を見つめ続けることは僕には出来無かった。
「そうだよ」
時間は五年前に遡る。
―――――
「じゃあ、コウくん。明日の一時に待ち合わせね」
「分かってる、分かってるって!また明日な」
「うん、じゃ」
彼女ができた。同じ演劇部の子だった。
小学校の頃、僕はそれなりに名のある劇団に入っていて演劇に少し自信があったこともあり、中学生になるにあたっても僕は演劇部に入って将来は役者になるんだ。なんて考えたりしていたのだ。
そこに現れたのが彼女…十河真桜だったのだ。
彼女はいわゆる天才だった。演劇は初めてだったと言っていたが、その透き通った声と愁いを帯びたような表情、所作はまるで演劇をするために生まれてきたようだった。普段はあまり目立たないような子だったが、ひとたび演技をすると視線はすべて彼女がほしいままになる。
僕はそんな彼女の才能が羨ましかった。スポ魂ものの物語とかだと僕はここで彼女を敵対視するようなところだけれど、そんなことはしなかった。それが無駄だと思えるほどに彼女の才能は素晴らしく、美しいものだったのだ。
ある時、僕は彼女に聞いた。
「ねえ、十河さんはさ、なんで演劇部に入ったの?」
すると彼女はその表情の読めない顔のまま十秒ほど考えて、ゆっくりと納得したようなそぶりをみせ、それからこう言った。
「一回、自分のやりたいことと真逆のことをしてみようかな、と思って」
と。
どうやら、彼女はもともバスケットボール部に入るつもりだったとか。
うちの中学校の女バスは強豪で、何回も県大会に出場して全国大会に出たことも一度や二度ではないようなところだった。
彼女はそこに入りたかったようだが、小六のときに腕をケガしてバスケットボールからはリタイヤすることとなり、少し自棄になった果てにやりたいことと真逆だった演劇部に入部届を出したという。
それを聞いて僕はどうしたか、腹を立てたか?苛立って嫌になったか?とんでもない。僕はそれを聞いて彼女の前で大笑いしてしまった。これこそ奇跡だと思ったのだ。彼女が故障でバスケが出来なくなったことも、やりたいことの真逆に演劇があったことも、そして僕が彼女と同じ学校に入って演劇部に入ったことも。すべてが計算されていたようなことに思えてきて、僕はその素晴らしさを、ただただ笑って祝福していた。
「ちょっと、そんなに笑わないでくれない?私だって辛い思いしてるんだけど」
そう言っていつもの無表情からちょっぴり眉をしかめて見せる彼女に、十河さんが演劇部に来て僕は正解だったと思う。と告げると、少し彼女は得意になってみせて、わりとセンスあるかもなぁってね。とはにかんだ。
それから演技するときの彼女に、そのダウナーさは無くなった。代わりにその眼は明確に「魅せる眼」になっており、演技が力強くなった。僕の演劇もいつしか彼女と並べても相応に「観れる」ものへと成長しており、僕たちはお互いに高めあっていた。
もともとそんなに強豪でも無かったうちの演劇部は、彼女が入った代を境に県のコンテストで銀賞なんかをもらうくらいにまで活発な部活になり、二年生の代の時は全国大会に出場した。その彼女への憧れが好意に変わるのにはそう時間はかからなくて、そうしているうちにいろいろあって彼女とは付き合い始めることとなったのだ。
三年生として最後の舞台、全国大会で惜しくも銅賞で終わったところで、僕たちの部活生活は幕を閉じた。でも、僕はそれまで本当に楽しくて、それから、僕たちは別々の高校に行って、それでもすごく仲良しだった。
中学生じみた幼い考えかもしれないけど、正直、僕と彼女は結婚するんだって思っていた。たぶん彼女もそうだったと思う。
僕たちは高校に入ってからもよく二人で会った。真桜の学校に彼女を迎えにいったこともあったし、何回もデートに行った。いうまでも無く僕は幸せで、真桜と一緒に過ごすことで親がいない寂しさみたいなのを埋めていたのかもしれない。
約束の一時に約束の場所に出向いた。ちょうどその日は付き合ってから一年の記念日だったと思う。噴水のそばのベンチには、いつも先に来て、僕を見つけて少し嬉しそうな顔をする彼女の姿は無かった。珍しく寝坊でもしたのかな?と思い真桜の姿の見えるのを待ったが、一時間経ち、二時間経ち、夕方まで待ったけれども彼女はおろか、ラインに既読すら付かない。なんだか嫌な胸騒ぎがしたのだ。
帰り道、ようやく携帯に着信が来て、僕は安心した。ああ、良かった。何があったんだろうか。真桜は約束をすっぽかすような真似をする人間ではないし、何があったんだろうか。携帯を開いて、受話器を耳に当てた。
「あの!昂君よね!?」
「え、真桜のお母さんですか。何でしょうか?」
「真桜が!真桜がね!」
車に…轢かれて…!
言い終わるか終わらないうちに僕は携帯を閉じて近くにある一番大きな病院へ走った。走って、息が切れながら走っていった。救急車の運ばれるような大きな病院といえばここしかないのだ。無心だった。本能だろうか。走って、走って、ようやくたどり着いた病室に。彼女は。
真桜は、真桜の薄化粧は、すでに死に化粧となってしまっていた。
「ああ、こ…う…くん?なの?真桜は…まお…は」
夕日が残酷に彼女の顔に差し込んでいた。もう紅みのない真桜の頬が、残酷にも赤く染められている。その彼女の頬に触れて、すぐに離した。
また、もう、くすぐったいからやめてよね。とか言って、手をやんわりと上から抑えなおしてくれるものだと思っていた。
そこにあるのはただの彼女だった「モノ」じゃなければ、その願いは叶っていたのか。血の気の無い唇にも触れた。初めて抱きしめたときに細さにびっくりした肩にも、絶対に触らせてくれなかった首筋にも、ゆるくウェーブがかった髪にも、触れた。触れなければよかったと、すぐに思った。
泣けなかった。泣けるほどの余裕は無かった。
そのまま家に帰って、携帯の電話帳から彼女を消した。メール履歴から彼女を消した。そのまま、すべてが夢であったことを願いながら布団に入った。眠れなかった。彼女との写真が、立派な枠に飾られて窓際に立っている。それを徐につかんで、握って、窓を開けて外に投げ捨てた。それが地面に落ちて、滑稽な音を立てて割れたのを聞いて、ようやく、ようやく僕は泣いた。
僕の部屋から、暮らしから、彼女の陰が消えても僕は外に出られそうも無かった。部屋には上げたことも無かったけれど、一緒に勉強したリビングと、一緒に晩御飯を食べたダイニングが目に映って、僕を崖の淵から蹴落とそうとしてくるのだ。もう、僕には何も無かった。
どれだけ時間が経ったか、三年生の半分まで保健室でのテストの受験時以外は家に閉じこもりつづけて、気づけば三年の夏だった。補習に呼び出された僕は、何の気なしに、屋上に立ち寄った。空がきれいだった。彼女と過ごした空だった。あの愁いを帯びた目と、ダウナーで緩慢な所作と、細い体を全部まとめて抱きしめたかった。出来ない。そうだ、もう生きている必要は無いんだ。と。
そこで僕は最後の夏を一望して、その中に「彼女」がいた。
―――――
「そう、僕は死のうとしていた。よく分かったね」
「誰だって気づくよ。あんな吸い寄せられるような愁いを帯びた目、幸福な人間には出来っこないって。まるで悲劇のラストシーンみたいだったよ」
彼女は心配そうに僕を見て、それからゆっくりと目を瞑った。
「ねえ、君が知りたいことに答えてあげるよ」
緩慢な所作で目を開く。
「私はね、人魚姫。水上季利なんて名前じゃない、ただのキリだよ」
これで十分?と彼女はウインクして見せた。
僕が呆然としていると、彼女は「ああ、もちろんあの歴史書は私も読んだよ。ほんとうに史実どおりでびっくりしちゃった」と笑う。それは彼女が自分の命が幾許もないことを認めたようなものだった。彼女には悲しみも虚しさもないようだった。ただ諦観と少しの幸福感のみがその目に映っていた。
「だからね、今日でさよならしよう。これ以上君といても君を悲しませるだけだしね」
そう言って、彼女は席からふらりと立ち上がった。時間が止まったみたいに僕は体が動かない。
「私が君の中で「君」以上の存在になる前にね」
そう言って彼女は踵を返して僕に背を向けた。すたすたと歩いて行って、店を出る前にちょっと立ち止まった。もう一度、彼女は白いワンピースを翻してこちらを向く。
「ああ、あのね。今まで本当にありがとう、もう何も思い返すことはないよ」
店の外には人込みも何も無かったけれど、彼女の姿はすぐに見えなくなった。その表情が泣いているように見えたのはきっと見間違いじゃなかった。だから、つまり、何も思い返すことがないというのもきっと嘘だった。それらは全部分かっていたけれど、わかっていたけれど、僕は動けなかった。
真桜が死んだ時とは違った。僕には彼女をひきとめておけるだけの手段が無数に用意されていた。
立ち上がって彼女の言葉に反論しても良かった。出ていこうとする彼女の手首を掴んで止めてもよかった。彼女の行く先に立ちはだかっても、彼女の名前を呼んでも良かった。それでも何も出来なかった。むしろ、彼女が離れることを選んだのだ。
彼女が僕の中で大きな存在になって、そんな彼女が居なくなる苦しみを感じたくなかったから。真桜が居なくなったときとか、母親の居なくなった時と同じような苦しみを味わいたくなかったから、僕は敢えて彼女と離れることを選んだのか。
そんなはずはない。そう、否定しきることが出来なかった。
久しぶりに、僕は十河家に連絡して真桜の仏壇に手を合わせに行った。真桜のお母さんは長い時間が経った今でも僕を快く仏間に通してくれた。
写真の中に居る彼女は、半年くらい経った今でも変わらずに不器用と面倒の間くらいの笑顔で写真におさまっている。しばらく来れないでごめん、母さん、死んじゃったんだ。と彼女に言った。
それで、今、僕は気になる女の子が居るんだ。薄情みたいでごめん。もうすぐに死んじゃう子で、なんだかほっとけない雰囲気でさ。その子、人間じゃないんだ。人魚。きれいな鱗を持って水を跳ね上がる。だいぶまえ劇団に見に行った人魚姫がそのまま現れたみたいなね。
「僕は、君を失って、親を失ったのと同じ苦しみをもう一度味わうなんて耐えきれないと思う。今度はね、多分ひとりじゃだめだよ。母さんが居なくなった時もね、真桜のほうへ行こうと思ったんだ。でも、その子に止められちゃってさ」
口に出して仏壇に向かっていうと、彼女が、まあ、君が女の子に興味を持つって言ったらそんな時だろうね。と僕に語りかけてくれているような気がして。僕は写真の真桜をもう一度見つめた。
その時である。
「でもね、その子はきっと寂しいよ。一人で死んじゃうのは、きっと誰だって辛いと思わない?うん、そうだ。ねえ、人って、きっと最後の最後の一秒に、笑って幸せだったって思うために、毎日不幸を生きてるんだよ。胸がつぶれるほど悲しいことがあっても、涙が抑え切れないような寂しさに苛まれても、それでも最後に勝ち逃げするために、ずっと戦い続けてるんだよ」
彼女の声が、はっきりと僕の胸に響いてきて、僕はもう一度写真の中の真桜を見つめた。彼女は変わらないダウナーな笑顔でそこにいる。
「ねえ、君はつらいよね。でもね」
私がその子なら、最後に君と居たいと思う。
そんな言葉が聞こえてきて、僕は顔を上げた。そうか、僕の心はもう決まっていたのかもしれない。急に足に力が入った。心からは曇りが無くなり、今ならなんでもやれるというような全能感が湧き上がってくる。
僕は改めて真桜の写真を見た。そうそう、私は君のその顔が好きだったよ。写真の中の君はきっとそう言って笑ってくれる。もはや傷つくことなんて考えることも無かった。
ごめん、浮気になっちゃうな。そう僕は言い残して仏間を後にした。
部屋に戻った。僕は今、人生最大に強かった。彼女に何度か話をしようとラインをしたが、一日、二日と経ち、もうラインは消されていると結論づけた。電話も何回もしたが、ずっと着信拒否を貫かれていた。なんでもいい。彼女と会う方法がほしい。
僕は外に足を運んだ。もう夏休みは一週間と少ししか残されていない。彼女の行動範囲は知らなかったけれど、今まで一緒に行ったところを手当たり次第に回った。図書室、ショッピングモール、その中のゲーセン。どこにも彼女は居なかったけれど、僕はどこかで彼女に会える確信があった。
夏風が僕の頬を優しく撫でて僕を励ましてくれる。そうだ、僕はずっと孤独だった。両親が居ないことにずっと強がって平気と言ってきたが、心のどこかでは常に寂しさを感じていたのだ。だから、今の僕には彼女が必要だった。いずれ彼女が居なくなるなんてことは今はどうでも良かった。孤独の縁にあった僕を見つけ出して、拾い上げて、救ってくれたのは他でもない彼女なのである。喪失感と戦うべきは来たる未来ではなく今この瞬間なのだ。
ふと、何かを感じて屋上へと上った。彼女と初めて出会ったこの場所は、あの日と全く変わらない。ただ、あの日とは見える景色が違った、というのは大きな違いだと思う。
あれから、僕はだんだん孤独じゃなくなっていった。目の前に現れた彼女という存在によって。
今までの短い期間を思い返した。だいたいまだ彼女と出会ってから一か月くらいしか経っていないということが信じられなかった。まるでずっと前から僕たちは出会う運命だったような。プールに跳ねる彼女の姿が、まるですべての伏線だったような気がしてきて、僕はあの日と全く同じようにフェンスに手をかけて、その時である!
「ダメだよ!!」
屋上の入口に、彼女が、いた。
「あっ」
しまったと言わんばかりに分かりやすい表情で彼女は焦り、そのまま扉を開けて逃げだそうとする。階段を降りたら職員室があるから、そこまで行かれたら彼女を追いかけることは出来なくなる。それに、今この瞬間を逃したら、彼女に二度と会えなくなるような気がして。
がっしりと彼女の手を掴んだ。
「う…放してよ」
「やだ」
彼女は屋上の階段の行き止まりのほうへじりじりと追い詰められていって、そこで座り込んだ。
「なあ、なんで僕の顔を見て逃げたんだ?」
「…」
「なんであれから僕の通話とラインを無視し続けてた?」
「…」
「なんで、居なくなった?」
彼女は答えない。口を真一文字に結んで下を向いている。
「じゃあ何も答えなくていい。まず、なんで僕が死のうとしてたのか聞いてくれ」
それでも彼女は何も言わない。ただ、抵抗したように、何も聞かないようにするような態度を辞めた。
「僕は、中学校のとき、彼女がいたんだ。一緒に演劇部をしてたんだけどさ、その子は演劇の天才だったんだ」
「僕も演劇はずっとやってたんだけど、彼女には敵いっこなかった。彼女の声はサイダーよりも澄んでいて、演技も天才的だったんだ」
「二年生になってついに全国大会に出られてさ、そこから僕と彼女は付き合ってたんだ。性格はそれほど似ていなかったんだけど、何故か僕らはとても波長が合った。二人と後輩とで演劇部はどんどん強くなっていって、ついに引退の年の全国大会で銅賞をもらってね、せっかくだから一位を狙ってたんだけど、それでも嬉しかった」
演劇の話の下りから、彼女が少し顔を上げた。僕の目を見た。僕はそのまま続けた。
「それでね、受験を控えて最後にデートしてそれから二人で勉強頑張っていこうって、一時に駅で待ち合わせてたんだ。そしたら彼女は、死んじゃった。交通事故でね」
「えっ!?」
「何も出来なかった。僕が病院に着いたころにはもう彼女は冷たくなってた。本当にどうしようもなくて、どうしようも無かったけれど、どうにかしたくって、僕はずっと独りの殻に閉じこもってた」
「…」
「ほんとに、どうしようもない。どうしようもないんだけど、どうにかしたい。でもやっぱり、どうにもならないんだって、その時教えられた気がしたんだ」
もう一度、彼女は黙り込んだ。こんなことを聞かせてやるのは申し訳ないと思ったけれど、僕はまだ話をつづけた。
「僕はもう一回、ずっと悩んだ末に、ここで死んじゃおうと思ったんだ。もう一人でいても何の意味もない。この世界に僕はいらない。ってね。正直、これは許してほしい。そのときは冷静じゃなかったし、冷静になれないことも分かってもらえると思う。そうやって屋上を飛び降りようとした時、その時そこに、君がいたんだよ」
「だったら、ますますもう死んじゃう私となんて関わらないほうが…」
僕は、そこで彼女の顔を見た。睨んだ。彼女は息を飲んで僕の顔を見る。おびえているようではあったけれど、僕の顔から目を背けようとはしなかった。
ほど近い、少し空いた屋上の扉から、風が僕たちの間を通り過ぎる。雲間を抜けて日差しが入る。彼女の横顔を照らす。僕は一歩踏み出して、それに合わせて座り込んだまま彼女は一歩引いた。そうして、僕はもう一歩詰めた。彼女との間には、もう半歩分の距離もなかった。
「違う」
思ったより大きな声が出て、自分でもびっくりした。彼女は半分泣きかけていて、それに罪悪感を覚えたけれど、僕は退かなかった。
「僕が、僕が君が死ぬのが怖いっていつ言ったよ!そりゃあ君が死んだら悲しい。でも、君に放っておかれたまま、また前みたいに彼女を亡くした時みたいに!そうやってどうしようもない、何もできない状況のまま置いて行かれるほうがよっぽど辛い!たぶん君ならそれを分かるんだろ!」
一回、そこで僕は息をついた。自分が冷静さを失いかけていることに気が付いたのだ。目の前の彼女は小さくなって僕の前に座っている。女の子にこういうやり方をするのは良くないと思ったけれど、でも、僕はここで彼女に気持ちをぶつけておかないと何も始まらないような気もした。
「だから、居なくならないでよ」
下を向いて小刻みに肩を震わす彼女は、それでもなお何も語ろうとはしなかった。僕は彼女と目線を合わせた。彼女の頭を軽く撫でて、そうして、ようやく彼女はぽつぽつと言葉を紡ぎ始めたのだ。
「ヒトの、悲しむ顔が見たくないんだ」
ぽたぽたと床に涙が落ちて、歪な水玉模様を形作った。彼女は一回涙を拭って続けた。
「みんな、私が地上に行くのを止めた。でもね、私は止めてくれるような、自分のことを大事にしてくれる人間が居なくなるより自分がいなくなったほうがいいと思ったんだ。妹と、お母さんと、お父さんが。自分を護ってくれた人がいなくなるよりね」
「今はね、人魚姫って、人魚の姫って意味じゃないんだ。昔はそうだったみたいなんだけど、今は平等に抽選で死ぬ人間が選ばれる。平等…でもないんだろうけどね。で、それで私の家族が選ばれた」
「私はね、ちょっと特殊だったんだ。普通人魚の鱗って、一色なんだ。青とか赤とかピンクとか。家族や先祖とか、そういうのの遺伝で決まるみたいなんだけど、詳しいことはよく分からない。私は、生まれたときから虹色だった。とにかく、私、変な見た目で、ずーっと周りの人にいじめられてきたんだ」
変なんかじゃ無い。そう言いたかったけれど、彼女は何を察したか僕の目を見て微笑む。
「私がね、覚悟を決めて行こうとしたんだ。ほんとに辛くて、悲しくて、でも、家族がだいすきだったから、私が行こうと…いや、行かなきゃなって思ったんだ。大好きだったから、だからずっと笑っててほしくて、幸い家には妹も居たから三人家族としてやってける。だから、大好きだったから、最後に泣き笑いでもいいから笑っててほしかったんだよ。みんなずーっと怒ってた。なんで勝手に自分が行くって決めたんだって。親より先に死ぬなんて親不孝をして許されると思ってるのかって。地上まで昇って行ってる間ね、ずーっとその顔が頭にこびりついて離れなかったんだ。悲しみと絶望がまざりあったみたいなさ。そんな顔されるって思ってなくて、ずーっと家族の事ばっか考えててさ」
そこまで言って、彼女は自嘲的に笑った。
「その辛さはさ、地上に上がってどんなひどい目に遭うんだろう。っていう怖さでもあったんだよね。どんな死に方をするのか、どんなことをされるのか。地上にあがってみてわかったよ。私は何もされなかった。あの歴史書に書いてあった呪術師の家系の人たちがね、五百年くらい前から私みたいな死にゆく人魚の面倒を見てくれてるんだ。それはずっと、秘密にされてる。人間に知らせたら、また人間は人魚の里を荒らすに違いないって、そう教えられたの」
「えっ、じゃあ、君が地上に上がってきたのは…」
「うん、全く意味が無かったよ。それを知ったときはショックだったな。せっかく大好きな家族を守るために出てきたのに、こんなことになってるとは思わないじゃん?人魚に伝えようにも、もう人間の落としたモノには触れないってしきたりがあるからそれも無理なんだ」
「海に戻ることは…出来ないの?」
「それも無理らしいね。どうもまだ姫様が人魚姫担当だったくらい昔の生贄の子が海に飛び込んだらしいんだけど、結局その人は帰ってこなくて、で、また五十年後に別の子がやってきたんだってさ。せっかく死ぬ命なんだから試しても良かったけど、せっかくなら楽に死にたいからね。それに、自分を育ててくれた海に飲まれて死ぬなんて、最後にしてはあんまりだよ」
何にも、彼女にかける言葉は無かった。無知ということの罪が背中に鉛のように重くのしかかる。不幸合戦ではないけれど、彼女の傷は僕の物よりずーっと深くて、もはや僕のようなちょっとやそっとの人間ではそれは癒せないもののように思えた。
「だからさ、君は、傷つかなくていいよ。あの日君とあったとき、君はまるで私の旅立ちの時の両親のような顔をしてたんだよ。それを見ているのがあまりにも辛くて、つい、声をかけちゃったんだ。もう、私のことは忘れて。私と出会わなかった世界を生きてほしいんだ。あんな顔なんてすることが無いようにね」
最後の言葉だけ、真剣な顔をしていた。いや、どちらかというと願うような顔か。
外から差し込む光はいつしか夕日、西日に変わっていた。ひぐらしが鳴いている声が聞こえた。徐に、時間だと言わんばかりに彼女は立ち上がって、じゃあね、と僕に一言だけ言って階段を下に下りていこうとする。
スローモーションのように時間が流れて、僕は彼女がゆっくりと立ち上がるのを見ていた。あの喫茶店と同じ光景だった。
また、ダメなのか?彼女を、バッドエンドへと足を進める彼女を見ながらにして放っておいていいのか?ショッピングモールで腕時計を手に取ったときの、あの綺麗な笑顔は演技だったってのか。あのとき、君は幸せじゃあ無かったっていうのか?
何より、君はこのまま居なくなってしまっていいのか?
ふと、真桜の声が聞こえた。
「私はね、ずっと君が覚えてくれてて嬉しいよ。ずっと泣いてくれて、それで何回も会いに来てくれて、私のもとに来てほしいとは思わないけれど、ずっと覚えててくれたら、記憶の中に残していてくれたら、それ以上のことはないよ」と。
そうだ、僕は君に言われたじゃないか。人の生きる目的は最後の一秒に笑っていることだって。笑って、幸せだって言いながら勝ち逃げすることだって、そう君は言っていたじゃないか。
はっと目が覚めたような気分になった。目の前にいる人魚姫がひどく消えそうなくらいに小さく見えてきて、僕はその傷を癒すことができるかもしれない唯一の人間だった。それが出来るか出来ないかではなく、そうあるということが大事なのだ。
であれば、そんなこと、良いわけがないのだ。
「だめだよ!」
彼女の手を、今度はしっかりと掴んだ。手伝いに彼女の体が跳ねるのを感じた。やめてよ!と半分泣き声になって言う彼女に、しかし僕は絶対に手を緩める気は無かった。
僕が一度ならず二度までも離した手なのだ。真桜の手を握って見送ることも、ファストフード店で彼女を呼び止めることも出来なかった。そのときにした後悔と苦悩を僕は何があっても忘れる気にはなれなかった。今こうやって掴んでいる彼女の手を離すと、そうやって自分の間が悪いばっかりに亡くしてしまった真桜とのことも、それで苦しんだことを全部失くしてしまうような気がしたのだ。
「やだ、放して…ねえ…」
「絶対に嫌だ。それは君の本心だというなら考えようはあるけれど、僕はショッピングモールで腕時計をつけた君の笑顔を覚えてる。あの時の君は幸せそうだった。違う?」
「それは…」
「だから、考えてよ。どうしたら自分が幸せになれるかっていうのを」
彼女の手首を握る力を弱めたけれど、彼女は僕の手を振りほどこうとはしなかった。
空の端には、もう大きな太陽が半分ほど隠れて見えなくなっている。廊下の一角はもう十分薄暗かった。
「辛かったんだよ…!私が地上に送られる時の家族の最後の顔が、君はそれとおんなじ目をしてたから…だから、もう二度と人のそんな顔、見たくないんだよ」
「うん」
「でも、このまま死にたくないよ…もっと生きて、生きて、当たり前に幸せになりたい。このまま、何もなくなって死ぬのはやだよ…」
「うん」
「ねえ、どうすればいいの。教えてよ…!これから、私は…」
その眼には、もう諦観の色は無かった。代わりに、悔しさが滲んでいた。自分が幸せになれない、なり方が分からない。そんな。
僕は改めて彼女を見た。きっと目を合わせて、視線をそらさないようにした。
「ねえ、キリ」
彼女の名前を呼んだ。
「キリ」
もう一度。
「言ってたよね。私が君の中で「君」以上の何かになる前にって。ねえ、キリ。だから、もう遅いよ。僕のそばにいてよ」
日が、完全に沈んで、陰だけが残った。彼女の顔も見えなかった。彼女は緊張の糸が切れたように僕にもたれかかってきて、ぽろぽろと泣き続ける。その間僕は彼女の背中をさすり続けて、彼女はずーっと泣いて、それからゆっくりと言った。
「あと二か月で文化祭でしょ?それくらいまでなんだ。私が居れるの。だから文化祭でさ、主役になってよ。君の…昂くんの演技が、私は見たい」
「分かった。約束する」
もう一度、胸元にある、小さな彼女の影をなぞった。もうすぐ失くなってしまうとは思えないくらい暖かくて、消えそうなくらいに細い。いったい何を。どれだけの痛みを抱えてきたのか。この小さな身体に。果たして、自分が失くなってしまう怖さってのはどれくらいのものなんだろうか。どう思っているのだろうか。そしてそれをどう割り切ったんだろうか。
考えれば考えるほどに彼女の上には大きな大きな重い石が乗っているように見えて、彼女の小さな身体の上には到底乗り切らないようなものに見えた。きっと、それを全部抱え込めるような深さも、広さも僕にはなかった。
でもな、キリ。なんでそんなにまでなって、それでいて、幸せを求めようとしなかったんだよ。僕らはみんな、最後の最後に笑って、幸せだって勝ち逃げするために生きてんだ。そう教えてもらったよ。きっとそれは権利とか、価値観とか、夢だとか、そんな仰々しいものじゃなくてさ、もともとそういうふうにできてんだよ。「ヒト」ってのは。たぶん。
だからさ、諦めないでくれよ。幸せになることを。最後に笑ってることを。いい人生だったって思ってたいのはみんな同じなのに、なんでもう不幸な終わりを決めつけてるんだよ。
ふと、キリの手首にまだ、こじんまりとした腕時計がついているのを目にした。初めて出かけたゲーセンで取ったものだった。その手首を僕はそっと持ち上げた。
「この日のために、海から上がってきたかもしれない。ってまた何度でも思わせる。約束するよ」
そっと、キリは頷く。
校舎巡回の警備員がライトを持って向こうの廊下を照らしているのが見えた。今は一秒すら惜しいけれど、もう行かなくちゃいけなかった。
「行こう?」
「もうちょっと」
腕時計の手で僕の手首を掴む。窓から差し込む月明りに彼女の影を捉えながら、世界がこの瞬間に終わってしまえばいいのに、なんて物騒なことを考えたりした。
―――――
「これ。これに行こう」
キリがラインで送ってきたのはどこで手に入れたのか街のほうで行われる夏祭りの案内だった。通話口から彼女の期待に弾んだ声が聞こえてきた。
「いいけど、なんで急にまた?」
「風物詩をみたいなって思ったんだよ。サイダー一気飲みみたいなそういう一シーンじゃなくて、多くの人に認知されてる、いわゆる風物詩ってやつがみたいの」
「分かった分かった。何時?」
「明後日…八月二十三日。ちょっと急だけどいける?」
「うん。いけるよ。何時集合にしようか?」
「どうだろ、出来れば昼から一緒にいたいから、早めのほうがいいな。一時じゃだめ?」
「一時ね」
分かった。と言いかけて、口を噤んだ。あの、真桜が居なくなったあの日も、一時に集合だった。それを思い出した。
「ねえ、もしもし?大丈夫?」
「ごめん、一時はちょっとやめてほしいかもしれない」
「どうして?」
君が居なくなっちゃうかもしれないと思って。とはあまりに女々しくて言えず、僕はもう一度黙り込んだ。だけど、ぴりっと胸が痛むような感じがして、慌てて言葉を探した。でも、先に話し出したのは彼女だった。
「ねえ、今、君の前の彼女の事考えてたでしょ?」
「…」
「そうみたいだね。分かりやすいんだから。なんか嫌な思い出でもあったの?」
「…なんで、分かったの?」
「ふふふ、女の勘ってのを侮っちゃダメだよ。男の子が会話中に黙り込んだら女のことを考えてるって相場が決まってるんだよ」
彼女のにやりとした顔が見えてくるような気がして、勝手につられて僕の口角も上がった。全く、自分が思ってるよりも何もかもお見通しなのかな、と思って少し嬉しくなったり、恥ずかしくなったりした。
「真桜…彼女ね、が居なくなっちゃった日も一時集合で待ち合わせてたんだ」
「うん」
「それを思い出したら、なんかやだなって」
「ふーん…何がやだなって思ったの?」
彼女のいたずらっ子のような声が聞こえた。
「キリが居なくなったらやだなって思った」
絞り出すような声で言うと、数秒間沈黙が流れて、彼女がこぼれるような声で笑い出す。多分僕の顔は赤かった。
「ちょっと、笑わないでよ!」
「ふふふふふ、ごめんごめん。いやぁー。幸せだなぁ。こんなに幸せでいいのかなぁ」
そうやって彼女はひとしきり笑って、それで、午前中から過ごすことにして、それで電話を切った。
出しっぱなしにしているベッドの上に寝転がって、いつかのように天井を眺めると、独りの日々に見たそれより今日の天井はちょっとだけ色味が明るくてソフトフォーカスがかかっているように見えた。胸も暖かかった。
何か自分の心臓のちょっと手前側に暖かくてかけがえの無いものが住み着いているみたいで、僕はそれを壊れないように優しく抱きしめて、横になった。
十時集合だったので九時四十五分程に集合場所に行ったら、キリはもうベンチに腰かけて辺りをきょろきょろと見渡していた。僕の姿を認めると、ぱあっと笑顔になって手を振ってくる。
「遅れてごめんね。待たせたかな?」
「ううん!今来たとこ!」
待ってましたとばかりにキリは言って、一回言ってみたかったんだ。とはにかんだ。
これから祭りが始まる十七時くらいまで何をして過ごすかはお互い全く決めておらず、とりあえずは喫茶店に入ってその作戦会議を立てるところから始まったのだ。
「夏らしいものをとりあえず上げてみてよ」
「プールとか…?ああ、それはダメか。じゃあ、かき氷、はお祭りで食べるしね」
「もしかして、実は私、夏っぽいものをすでにかなり制覇してしまっている!?」
「案外そうかもしれないよ。ああ、飲み物、何にする?」
例によってサイダーを頼んだ彼女は、そのまま頬杖をついて外を眺めた。夏の変わらない一風景。道行く何食わぬ人たちの顔を見ているうちに、この夏が全部嘘なんじゃないかって思えてくるような気がした。
これは僕だけの感覚じゃないと思うんだけど、どうも、夏ってやつはものの見え方を捻じ曲げるような性質を持ってるんじゃないかって思う。街路に浮かぶ蜃気楼も、気づけば終わる夏休みも、溶けてなくなるかき氷も、それから、夜空に打ち上げられた一瞬のうちに消えていく花火だって。
夏が始まるのと同時に僕らはかけがえの無い何かを手に入れて、夏が終わると同時にそれらを手放して行くんだ。その何かは誰にも分からない。幼い過去の思い出なのか、それとも不安定な未来なのか、消え入りそうな今日なのか。でも、僕らはきっとその何かをずっと探し続けて、見つけられずに夏が終わる。それを十何年間、繰り返して生きてきたような。キリと街行く人を見比べて、ふとそんなことを思ったりした。
「ねーえ、話聞いてる?」
ふと、頬に冷たいものが当たって、耳元で夏の音がしゅわっとはじけた。左手で持ったサイダーを、キリは一口飲んで、その眼で僕の目を覗き込む。
「難しい顔、してたよ?」
「うん」
「大丈夫?なんか思うところでもあったの?」
「んー…キリはさ、夏ってどう思う?」
「えー、どうって、難しいなぁ…もっと具体的な何かをくれない?」
「んー、じゃあね、夏っていろいろあると思うんだ。季節としての夏もそうなんだけど、風物詩に使われる「夏」。暑くて、蜃気楼の覆うとりとめのない何か、概念みたいなものなのかな?分かる?」
「んー、あんまり。でも、季節じゃないってのはちょっと分かるかもしれない。季節の夏は暑いし、蒸すし、あんまり好きじゃないんだけど、私が今感じたい「夏」はそれじゃないかな?」
「そうそう。そういうこと。そういう夏ってどういう仕組みで出来てるのかなって思ってね」
そういうとキリはちょっとだけ考えて、サイダーをちょっとだけ飲んだ。
「私は、こうやってサイダーが美味しく飲めるのが夏って思ってるかな。そんな難しいものじゃないと思うよ。たぶん、昂君にも何かしらの合図みたいなのがあるんじゃない?夏が始まるさ」
そう言ってもう一度キリはサイダーを飲んで、それでサイダーは無くなった。
「僕は君が助けてくれた時に夏が始まったかもしれない」
「ふーん、なかなかクサいこと言うじゃん。じゃあ、君にとっての夏は私か」
道行く人は、何かを考えながら行くのか。夏なのか。すこしばかり溶けだした僕の疑問とともに、僕はまだ手をつけていなかった自分のサイダーを少し飲んだ。
「そうそう、言おうとしてたことを完全に忘れちゃってたよ。私ね、美術館に行きたいな」
「へえ、なんで?」
「涼しいし、それに…」
「それに?」
「死ぬ前に地上にある美しいものを目に入れたいなーって思ってさ」
思わず黙り込んでしまう。なにか気の利いたことを言おうと思ったけれど、何も思いつかなかったし、思いつくのもおかしいことに気が付いた。
「あはは、ごめんね。やっぱ君といる時にこういう事いうのは良くないな」
「別に悪いとは思わないけど、何も言えないよ」
「うん、ごめん。それに、私も君と居る時間までこんなこと考えてるのはもったいないや」
たまに、こんな風に現実に直面することがある。彼女はどんなに足掻いても二か月後に死ぬ。それは彼女も言う通り自販機で当たりが出る確率より低い。僕の短い人生において一回は自販機の当たりが出ることはあっても、その何倍も長い未来の人生に彼女が居ることはありえない。あくまで僕らが二人で演じているのは虚構なのだ。自分に対しての暗示なのだ。だがしかし、幸か不幸かそれはどう転んでも嘘ではない。
ふと、テーブル越しに彼女と目が合った。彼女は困ったように笑って、もう一度ごめんね、と言った。そのやりとりはまぎれもない虚構だった。
「さあ、辛気臭いのはやめよう!ごはんももう食べちゃわない?私、おなか空いちゃったよ」
そういうと、彼女はサンドイッチを頼みだした。言われてみれば僕も少し空腹である気がして、軽めにホットドッグを頼んだがしばらくすると僕の机にも彼女の机にもこれでもくらえと言わんばかりの特大のパンがやってきた。
うおお、なんだこれ、すごっ!?ねえ、写真取らない?とはしゃぐ彼女。二人でお皿の上にピースサインを出して、それからどさくさにまぎれてサンドイッチを頬張る彼女も撮ったら少し怒られて、二人で改めて写真を撮った。
美術館についた後は、いろいろな絵画を眺めるもあいにく僕もキリも芸術への造詣は浅いどころか無いに等しく、二人で眠そうな顔をしながら館内を歩き回っている。ようやくキリが足を止めたのは海を描いた絵画の前に来た時だった。
「この絵…すごいね」
「なんで?普通の海の絵に見えるんだけど」
「だって、これは私たち人魚の見てる世界そのものだよ。五十年前の有名な画家だったって書いてあるね。すごい人が居たもんだ」
「へえ。そうなんだ。君たちからは…こんな世界が日常なんだね」
普通の海の絵だった。普通の。しかし、彼女の言うように、その海はあまりにも自然に描き出されていた。まるで現物を見ながらそれをスケッチして、それに色を乗せたような絵だったのだ。
「元気に。してるかな。お母さん、お父さん」
ぽろっと、キリが呟いた。
「あ、いや、違うの。ちょっと懐かしくなっちゃってさ。一応、故郷だし」
「違うって、僕はまだ何も言ってないけど…」
「ああ…うん、いや、ちょっとちゃ取り乱しちゃったなって」
「寂しい?」
「うん、そりゃあね。でも、一年も前からだから。もう慣れたよ」
「そう、ならいいんだけど」
どう見ても強がっているキリをおいて、改めて彼女の居たという世界の絵を見た。海の青が印象的で、海面から降り注ぐ光の槍の数々が海底面を照らしている。
光を発するバクテリアがいくらか海底に散在し、暗がりを照らしていた。
マーメイドの彼女がそこに居る姿を思い浮かべたら、より、その世界は鮮やかに見えた。深い青と淡い青とそのコントラスト。太陽の白色光はしかし少しばかり黄色がかって降り注ぐ。そこに、その光を全身に浴びて虹の光を反射する人魚姫が、一人でそこに座っている。歌を歌っているのだろうか。彼女から発された光とも泡とも言い得ぬそれは彼女の周りに囲いを作り、その存在をいっそう神秘的に飾っている。
そんな姿が、思い描かれた。まるで生きているかのように動きを伴って。
「行こっか。おまたせ」
ふっと祈るように顔を上げて、キリはこちらを見た。
人魚姫。その子が目の前にいる。こんなに儚く、消えそうな人魚姫が。
「なあ、キリ。手、つながない?」
そっとキリに手を差し出すと、黙って彼女はそれを力強く握った。僕も負けじと絶対に離れないように強く握った。海の絵はもう彼女とは見に来ないようにしたい。
どちらからともなく一歩踏み出した。館内をゆっくり回ったら、移動時間も込みで夏祭りの始まるのに都合の良い時間だろうか。
順路沿いに進んできた道が入口に戻って、美術館はそこで終わった。外に出ると西日が僕らを正面から照らす。二人で慌てて目を覆うために手をかざしたら、つないだ手が同時に持ち上がって、僕らはおたがい笑いあった。
駅からお祭りの縁日に向かう道中、電車の中で、彼女は唐突に口を開いた。
「昂君はさ、友達がいないよね」
「なんだそれ、悪口?」
「いやいや、そんなつもりないよ!ただ疑問に思っただけ。きっと前の彼女さんが死んじゃった時も慰めてくれるような親友はいたんじゃないの?」
「あー、親友って呼べる子は居なかったんだ。僕、転勤族で。特別に仲良くなった子が居なくて」
「なーるほど。で、友達は君がうじうじしている内にそばを離れてっちゃったんだ」
「ご明察。痛み入るね」
友達はいた。助ける手も差し伸べてくれていて、僕に居場所もくれていて、だけど僕は必要以上に彼らと関係を持つことをしなかった。無くなることが怖かったのだ。真桜を失って、同時に彼女の隣を失った時のショックをもう味わうことのないように、彼らを必要以上に大事にしないようにしていたのだ。愚かにも。
「いいじゃん、今、君は私を大事にしてくれてる。そっちのが私はよっぽどうれしいな」
そう言ってキリは、でも、と続ける。
「私が居なくなった後、君が一人でまた悲しむのだけは、嫌かもしれない」
だから友達、頑張って作るんだよ!と彼女は微笑む。あまり、そういうことを考えるのも、するのも今の僕には気が進まなかったが、それでもその言葉は僕の胸の底のほうに音をたてて沈んだ。
「分かった。考えとくよ」
「むう、そっけないなぁ。さ、降りよ。そんな顔してないでさ。駅、着いたよ」
ぎゅっと彼女に手を掴まれて、そうやってつないだ手を引かれるようにして僕たちは縁日の中に迷い込む。人は思ったよりもたくさん来ていて、はぐれないように、離れないように、彼女の手をぎゅっと握りしめていた。
「わあー、すごいね。皆浴衣着てるじゃん。私も着てくれば良かったなぁ」
「へえ、浴衣持ってるんだ。どんな機会があったの?」
「んー、どうも前の人魚姫さんのお古らしいよ。きれいな浴衣だったな。ねえ、昂君は私に浴衣着てほしいって思う?」
「んー、そうだね。見れるものなら見たいかな。きっと似合うと思うよ」
「ふふふ、いいよ。また機会あったら浴衣来てお出かけしようよ」
「いいね。でも、お祭り以外で着ることなんてめったに無いけどね」
キリは縁日の一つ一つに新鮮な反応を示した。命中させても倒れる気配を見せない射的に怒りを露わにし、スーパーボールすくいで髪がやぶれた時は唇を噛んで悔しがっていた。相変わらず不器用なのはゲーセンの時から変わっておらず、ラッキーボールの弾をすべて垂直落下させたところで彼女はゲームの縁日には立ち寄らなくなった。
それから僕たちは食べ物に手を付けた。イカ焼き、たこ焼き、りんご飴。流石にりんご飴はしなかったけれど、ほかの食べものは二人で一つのものを買って歩きながらゆっくりと食べていく。そうして、僕らは縁日の中へ中へと吸い込まれていった。
「いいね、縁日。嫌いじゃない。ってか、好きだな」
「ね、僕もこうやって歩いてたら小さい時のころを思い出すなぁ」
「へえ、君が小さい時の話か、聞いてみたいかも!」
「そうだね、あれは小学校三年生のときだったかな」
僕はお母さんに手を引かれて、縁日を回っていた。当時はもう少し人は少なくて、はぐれることはないくらいの混雑具合だったと思う。
はじめて縁日を目にしたとき、僕は夢の世界のように感じたのだ。どこまでも続く提灯の道と林立する屋台。見える限り終わりはなくて、人々の間をすりぬけてゆっくりと進んでいく。どこからか祭囃子が聞こえてきて、それで大きな広場のある河原にたどり着いたら向こう岸から花火が上がる。そうやって、帰り道は疲れてよく覚えていないといった具合に、本当にお祭りの夜は夢の中だったと。と。
そういうと、キリは辺りを見渡した。彼女は身長が低いほうではないけれど、僕でも先のほうまでは見渡せないのだから、きっと彼女でも無理だろう。そうして、見渡せないことを分かった彼女は、確かにこれはどこまでも続いてそうだね、と楽しそうに言った。
ただ、河原まではあまり長い時間はかからなかったように思えた。道中で焼き鳥を買ったらキリが全部くわえて行ったりとか、りんご飴をバリバリと食べる彼女に爆笑したりとか、色々話すこと、食べることに事欠かなかったからだろう。河原にはすでに多くの人が集まっていて、それでも真ん中辺りの列で僕らはついに立ち止まった。祭囃子がどこからか聞こえてくる。静かだった。
「始まるよ」
近くで誰かが言った。ヒュルルルルと音を立てて一筋の光が天を穿つ。そうして昇っていった光はそのまま潰えることなく、空中で赤と黄色に炸裂した。
~バーン、パチパチパチパチ。
~ヒュルルルルル、バーン。パチパチパチパチ。
すっかり暗くなった藍色の空に、細かな光輪があまねいて、僕らに降りかかる。打ちあがった光の礫はどこへ消えるのか、その先を見つける前に次の花火がまた打ちあがる。ひとつづつ、花火が終わり続けて、始まり続けて、キリは食い入るようにそれを見つめていた。
ぎゅっと、キリの手を握って軽く引き寄せた。彼女は驚いたような顔をしてこちらを見てから、泣きそうな顔で微笑んで、身体をすりよせてくる。誰も僕らを邪魔しなかったし、僕ら自身花火に見入っていた。
「夏の音だね」
ふと、キリが独り言のように呟く。彼女とプールサイドで過ごした日、初めてサイダーの音を夏の音と称した時のことを思い返した。
パチパチと浮かんで来てはつぎつぎと消えていく。その数を数える間もなくまた次、次と矢継ぎ早に終わりを繰り返していく。それはまぎれもないキリの教えてくれた夏の音だった。
「夏の音だ」
誰にともなくそう言って、僕はもう一度小脇に居る彼女を確かめながら、花火を見続ける。
何百発にも感じられるような、せいぜい何十発くらいかの花火が終わって、最後にひと際大きな光が緩やかな速度で天空へと立ち上っていく。キリが息を飲むと同時にぎゅうっと僕の手を握りしめて、それで空がまばゆく光った。
「…すごい」
最後の大輪の花が夜空に咲いて、ゆっくり、ゆっくりと僕らの真上で消えて行って、パチパチと音を立てた。十秒くらいみんな黙っていた。
「終わったね」
夏の夜空は、もう何にも染まらずひたすら藍をたたえている。彼女の言った言葉も、空に吸われていくような気がした。
「ねえ、楽しかったね」
繰り返して彼女が言う。手を強く握ったまま、せがむような声だった。
「あのね、私、死にたくないって、思っちゃった」
「…」
「今日、すっごい幸せでさ、でも、幸せだなって思うたびに、今幸せでもどうせ二か月後に全部終わっちゃうんだってささやく自分が居るんだ」
「…」
「でも、幸せで、昂君といると楽しくて、終わりたくなくて、今まで諦めてたことが諦められなくなってきちゃうんだよ」
「キリ…」
「やだなぁ。ずっと、こうやって幸せで居たいよ。途中で終わっちゃうのなんてやだよ」
「うん」
「どうしたら、いいんだろう」
キリの頬に一筋涙が落ちたのを見た。どうしようも無いことはきっと彼女が一番分かっていて、僕がその次に分かっていた。僕だって分かっていたはずなのだ。どんなに足掻いても、藻掻いても、待ち受けているのは絶対的な終わりであると。分かっていたはずなのに。それなのに、受け入れられないでいて、立ち向かえないでいる。
そっと、涙に濡れたキリの頬に触れて、それを拭った。柔い、今にも消えそうな輪郭に、少し胸が打たれた。
「ねえ、キリ、僕は忘れないよ。キリの言った夏の音も、腕時計の時にくれたとびきりの笑顔も、何もかも」
初めから、キリは少し無理をしているのが分かった。喫茶店での話とか、美術館の絵とか、最後の花火とか。いや、その実僕も苦しんでいたのかもしれない。幸せでいて、僧であるが故にその幸せへの依存が怖い。そこから引き離されて、自分はどれだけ傷つくのかを想像するのが怖い。でも、一緒に居たい。二律背反を抱え込んでぐちゃぐちゃになって、それでいて初めからそこに解答なんて無いことも分かっていて。
彼女の気持ちが僕に流れ込んで来るように、胸の奥の奥のほうがちくちくと痛かった。
「でも、それでも辛いんだったらさ、僕は…」
僕は、なんだろう。いなくなってあげるとでも言うのだろうか。楽なほうを選んでほしいんだとでも言うのだろうか。そんなんじゃダメなことくらい分かっていて、その続きは言えなかった。
「私ね、今まで分かってなかったかもしれない。死んじゃうってどういうことかって。向き合ってきてなかったよ。自分と。でも、でもね、死にたくないなって、今思った」
「うん」
「だから、私は君の隣に居ないほうがいいのかもしれない。君はもう死んじゃう私なんかじゃなくて、もっと別の人と一緒にいたほうがいいんじゃないかって、思えてきちゃうんだ」
彼女の手を一瞬離した。彼女はあっ、と言って悲しそうに一瞬こちらを見て、何にも無かったかのように前を向き直った。
「ダメじゃん。やっぱり」
「ううん、そんなことないよ。君が幸せになればいいから」
どう見てもその姿は虚勢を張っていて、でも言葉だけは撤回しなくて、そんな姿がたまらなく哀しく、いとおしく見えたのだ。
「ねえ、キリ」
彼女の顔にもう一度触れた。顔の近くで彼女と目が合う。その吸い込まれそうな淡い焦げ茶色の瞳に、吸い込まれていって。
一刹那、影を同じくした。
「そばにいてよ」
キリは驚いて目を丸くしたまま、へ?と変な声を出して、わたわたと慌てふためいたあと、もう一度そばにいてよ、と言うと涙ぐんで笑った。
「ほんと、少女漫画の主人公なんじゃないの?君は」
河原にはもうあんまり人はいなかったし、誰も僕らのことは見ていなかった。帰路を、手をつないでゆっくりと戻り始める。泡沫の夢から現実に引き戻されている感じがして、それでも、なんだか悪い気はしなかった。
そうして、僕らの夏休みは終わりを告げた。
―――――
久しぶりにリュックを背負って、教室の机についた。クラスでは来週行われる校内模試への愚痴だったり、夏休みの思い出話に花が咲いている。僕にとっては夏休みは少し短く感じて、だけれど名残惜しくは感じなかった。
「やあ、三日ぶりだね、昂君。私と会えないのが寂しくて泣いてなかった?」
ふと、頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、キリがにやりと笑って僕の顔を覗き込んでいる。やけに機嫌が良さそうに見えた。
「うん、久しぶり…ってほどでも無いかな。せいぜい三日だし。なんかいつもより機嫌良いね。どうしたの?」
「ふふ、良く聞いてくれたじゃないか。文化祭だよ!文化祭が始まるんだよ!」
校内模試や課題提出などの都合の悪いことはきれいさっぱり忘れた彼女は腰に手を当てて上機嫌でいる。そう、今までなんだかしおらしいところを見せられてきたが、この都合の良さと言っても遜色ないほどの明るさが彼女の取柄なのだ。
さて、彼女が上機嫌に語る文化祭だが、わが校は少し変わっていて、体育祭が六月、文化祭が九月にあるのだ。三年生は演劇に取り組むのが通例で、毎年多くの劇が体育館や多目的ホールで行われる。
僕は体育祭には参加できなかったけれど、文化祭には参加するし、彼女も去年の文化祭は見ていないから楽しみなようだった。
「で、約束、覚えてるよね?」
「ああ、覚えてるよ。でも、この前家で声出ししていたけど、全然声が出なかったからね。またそこそこ練習しなきゃいけないかもだなぁ」
「ふふふ、楽しみだなぁ~。そういえばどのくらい演劇やってたの?中学の三年だけ?」
「いや、小学校の高学年くらいからかな。小学校の時は遊びの延長線みたいな感覚だったけど、中学生になってから本気でやり始めたかな。実は全国のコンクールで銅賞をもらったりしたんだよ」
「へえ!全国か、それってどれくらいすごいの?」
「すごくすごい」
「なんじゃそりゃ」
実は自分でも全国中学コンで銅賞というのはなかなかすごいというのは理解しているけれど、あまりそれを自分の功績として誇るのは気が進まなかった。ひとえに真桜が規格外に演劇の天才だったというだけだからだ。
「前に言った演劇一緒にやってた彼女。あの子が天才だったんだよ」
「ああ、言ってたね。そんなにすごかったんだ。銅賞っていったら全国で三番目でしょ?」
「うん、漫画みたいに上手かった。だから僕も影響されて上手くなってあそこまで行けたってのはあると思うな」
「そうかぁ。いいなぁ。私も昂君と一緒に全国行きたかったなぁ。一年で消えた天才になってみたかった」
「いやぁ、キリに演技出来るかな?なんか下手そう」
「まあ、やったことないしねぇ。なんとも言えないよ」
そんなやり取りをしたからだろうか。一週間経って、校内模試が終わる。どれだけやれたかとか、そんな話で盛り上がる中、文化祭のムードが徐々に教室に漂っていた。劇は校内模試の前のアンケートで「人魚姫」に決まり、それから役を決める段階になっていた。
意を決して主役で思い切り手を上げた僕を、皆は驚いたように見て、しかし他に誰も立候補者も居なかったようで主役は僕に決まったのだ。そこまでは予定通りだったし、僕も安心していた。
「じゃあ、次に人魚役をやりたい人、いますか?」
委員長がそう言って、周囲を見わたす。これも主役と同じで一人も手が上がらなかった。皆が受験で忙しいのか、それか或いは誰も僕とヒロインとして並ぶ気は無いのか。
後者なら悲しいなあ。もちろん誰にも好かれることはしていないし、関わっていないから演じづらいのは言うまでも無いだろうが、ここまで一切合切誰も出ないとなると自分の清潔感のようなものを疑わなければならなくなるのが悲しい。
そこで、ふと、キリと目が合った。彼女はじっとこちらを見つめてにやりと笑うと、ウインクして前に向き直る。その動作に目を丸くしている隙だった。
「私がやります」
ただでさえ急に学校に来て主役をやりたいヤバい奴が現れたところで、ヤバい奴はどうやらもう一人現れてしまったようだった。
「で、君らはなんでこんな急にやる気出してきたの?僕は本気で脚本書くつもりだから、劇を妨害したいから、とかだったら僕もそれなりに手を打たなきゃいけなくなるんだけど」
もっとも、そんな風には見えないけどね。と脚本担当の彼は僕ら二人をわざわざ放課後に呼び出して言った。
「実はね、僕は昔演劇をやってたんだ。だから最後の文化祭でもう一回やってみたくなって」
こんな風に荒々しく呼び出されはしたものの、僕自身彼には悪印象を抱いては居なかった。彼の態度は理性的そのもので、僕らを訝しんでいるというよりは訝しまないように話を聞きに来たというような感じだったからだ。
「へえ、演劇やってたんだ。少し意外だね。なんで不登校だったのかってのは、聞いても大丈夫かい?」
「あー、母さんが死んじゃってさ。それでいろいろあって人に会いたくなかった」
別にもう傷ついちゃいないから大丈夫だよ。と言ったが、彼は俯いて深く考え込んで、すまなかった。と小さく言った。
「いいよ、別に気にしてない。それより名前を教えてくれない?台本は君が書いてくれるんだよね?台詞は出来次第頭に入れてくからさ」
「ああ、ありがとう。僕は小形柊弥、よろしく。いきなり無作法なことをしてすまなかったな」
そう言うと、彼は鞄を軽やかに担いで教室の外へと出て行った。
「言ってよかったの?家族のこと」
「いいよ。もともと隠していたような事でもないし」
「ふうん、そう」
キリは少し拗ねたようにそう言って、行こ?と僕を一瞥して教室の戸を抜ける。またサイダーを買って、プールサイドに腰かけて足をぶらぶらしていた。
「今日は水には入らないの?久しぶりだけど」
「んー、そうだね。水着持ってくるの忘れちゃったんだ」
短く会話は切れて、でもなんだか居心地が悪くは無かった。
彼女が名乗りを上げてからは少し大変で、もう役に出ようとする人が少なく、半ば譲り合いのようになっていたが、それでもいちおう今日中にすべての役を決めることはできた。誰も出ないことにしびれを切らして委員長が少し大事な役に名乗りを上げたり、それに次いで大人しそうな人が役に入ったりしていたりと、いろいろな波乱がありはしたが。
「ところで」
「うん?」
「なんでキリは人魚姫をやろうとしたの?」
「んー、昂君のヒロインに誰も名乗り上げなくて可哀想って思ったからかなぁ」
そう耳に痛いことを言うと、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「冗談だよ。ちょっと昂君の前の彼女さんが羨ましくなっちゃったんだ。同じ舞台に上がって一緒の景色を見たいなって、私も思ったの。舞台の上なんてなかなか経験できるものでもないでしょ?」
隣に座る彼女はサイダーを一口飲んで、足をちゃぷっと水の中でかき回して見せた。水の礫が滑らかに跳ねて、また水に落ちる。その間に何か返そうと思って考えたけれど、何も思いつかなかった。
多分、舞台に上がるっていうことについて真剣に考えたことが無いんだと思う。小学校から演劇をやっていて、中学の頃は毎日演劇をしていただけあって、もう舞台に上がることは僕にとってあたりまえのことになってわざわざ考えを巡らせるような対象ではなかったのだ。だから、キリのその感覚は僕にとってとても新鮮だった。
「えいっ」
だから、返事をする代わりにキリの足に向かって水を飛ばした。
「あ、そういうことしていいんだね?水中戦では私にだいぶ分があるよ!」
キリは足をパタパタと動かして水をぴちゃぴちゃと器用に僕の足にかけてくる。なんとなく、勝手に口角が上がって、
さて、そのようにして過ごす日の、その三日後くらいにやつれた顔の小形君から台本を渡され、僕たちはついに練習に取り組むこととなった。
読み合わせの段階で、嫌々集まっていたようにも見えた皆が意外と楽しそうにしていたり、キリが演技面で意外な才能を発揮したり、委員長と好きな曲で意気投合したりといろいろなことがあった。
一日、一日と僕らは練習を重ねていった。だんだん僕も演劇の感覚を取り戻してきて、そして学校に着いたときにおはようと言う回数も増えていく。そんな一か月という時間は濃密で、でも瞬きのように一瞬で、あっという間に過ぎていった。
「あ、宮川君、おはよう。」
「ああ、委員長。おはよう。朝早くから何してるの?」
「大道具とか背景の最終確認」
今日は文化祭で、だけれど登校時間よりも一時間も前の教室に、佐々原さんはひとりで整頓を行っていた。手伝うよ、と言って僕も大道具の点検をしていくと、ありがとう、とだけそっけなく言って佐々原さんはそのまま作業を続けた。
「ねえ、ずっと気になってたんだけれども」
ふと、手を止めずに前を向いたまま佐々原さんは口を開いた。
「季利ちゃんのことを、何か知らない?」
「ん?何かっていうと具体的には?」
「あの子ね、貴方と同じように皆と打ち解けていってるんだけれど、どこか距離を取っているように見えるの。深入りしすぎないように意図的に仲良くなることを避けようとしているようなそんな気がする」
「あぁ…なるほどね」
彼女は鋭い。委員長という立場にあるだけあって、しっかりしているだけではなく他人のことをよく観察しているのだ。
当然、思い当る節はあった。というか、それを思い知らされた。彼女はもう僕以外の人間と関わる気は無いのだ。それを本人はおそらく辛いとも思っていなくて、それを通し抜くつもりなのだろう。それを佐々原さんに言うつもりは無かったが、僕の心にはその意識は強く根付いた。
「さあ、でもキリはあれで人見知りなところがあるからなぁ。そのせいじゃない?」
「そう、ならいいんだけど。毎日楽しそうではあるしね」
いいわよね、大事な人が居るって。とぼそっと彼女は言うと、また作業に戻る。徐々に校舎内に人は増えていき、作業を手伝う人も増えていった。
「おはよう、委員長が最初に居て、準備してたからね。手伝ってただけだよ」
そういうと彼女は「へぇ、そうなんだ!佐々原さんありがとね!」と陽気に言い、人魚役の大道具を拾い上げた。
「うん、やっぱよく出来てるねえ。どうよ、衣装。似合ってる?」
「うん、すごい似合ってる。まるでほんとに人魚みたい」
「あはは、何それ!」
彼女と二人で笑いながら、僕はちょっとだけ複雑な気分でいた。
さて、文化祭が始まったはいいが、僕らの劇の順番は最後のほうでそれまでは自由行動である。
キリはいつにもましてはしゃいで、あれが食べたいとかこれが見たいなどといろいろな所を回りに行く。そのたびにこれがおいしいと顔を緩ませたり、喜劇を見て爆笑したりと、感情を思う存分露わにしていた。
また、僕らはあまり学校内でべたべたしたりしていなかったのだけれど、今日は彼女は僕の手を掴んでいろいろなところに連れて回っている。時折握る力が強くなって、僕のことを離さないようにしているみたいだった。
「ねえ、キリ」
「んー?何?」
「もしかして、皆とはあんまり仲良くならないようにしていたとか、ある?」
そういうと彼女は俯いて、気づいちゃった?と照れくさそうに言った。
「まあ、別にそれで良かったんだ。私は。覚えてたまに泣いてくれるのは昂君だけでいいからね。余計な人を悲しませるのはちょっと心が痛むんだ」
「そんなの、気にせずに過ごしたほうが良かったのに…」
「ううん、これで良かったの。というか、そう私は決めてた。人間じゃないからね。未知との会合は君だけで十分だったよ」
そんな君は思ったより普通の男の子だったけどね。
安心したように彼女はそう笑って、僕の手を離さないように握って人混みを潜り抜けていく。イベントの戦利品の飴を一つ彼女からもらって、口に放り込んだ。
劇の時間が来て、キリと僕は手をつないだまま教室に戻った。
案の定冷やかされたけれど、彼女は涼しい顔をして僕にすり寄ってきた。流石に恥ずかしかったけれど、ここで突き放したら彼女との間にある大事な何かが壊れるような気がして僕は受け入れる。舞台に上がるまでずっとそんな調子だったから、緊張なんてしている暇が無かったのである。
キリは舞台袖で一言も喋らずにじっと僕のそばにいた。微かに繋いだ手から脈が伝わってきて、彼女が緊張していることに気がつく。大丈夫だ。と小声で言って笑うと、こくりと頷いて彼女はきっと前を見た。
幕が、上がった。
―――――
僕に照明が当たって、その逆光で観客席の人たちは見えなくなった。今更になって、僕は彼女が何のためにヒロインに名乗り出たかを考え直していた。貴重な経験をしたかったと言っていたが、どうもそれが芝居がかっていたからだ。
「君は…」
舞台の真ん中に水色の光のスポットを当てられてキリが倒れていて、僕はそれに駆け寄る。彼女の足には作り物の、しかし本人の物かと見紛う程に完成度の高い人魚の足がつけられていて、僕はなんだか不思議な気持ちになりながら、漁師を自分に重ねていた。
「ごめんね、隠してて。もうそんなに長くは生きられないんだ」
「そんな冗談…」
「冗談じゃないよ。人魚は陸に上がったら四か月で死んじゃう。そういう運命なんだ」
もはやそれは演技では無かった。僕たちは舞台の上でもう一回出会っているようで。
「だから、これで私はさよならだ。君と居れて楽しかったよ」
ラストシーン。ひらりと、白いワンピースを翻してキリは舞台袖へと消えて行こうとする。そんな彼女を、僕は台本通りに呼び止める。
「君が居ないと、僕はもう生きていけない!僕のそばにいてくれないか!?」
振り返って、彼女は観客席を一瞥した。そうして、僕をまっすぐに、その吸い込まれそうな瞳で見つめる。彼女は泣いていた。
「私は!君が好きだよ!」
台本には、そんな台詞は無かった。
無かった。無かったけれど、怖いくらいにその人魚姫の雰囲気に合っていて…いや、それはいずれ死ぬ哀れな人魚姫じゃない。キリだった。
琴線に触れた。涙が勝手に溢れてきて、止められなかった。そのまんま僕は言えたか言えていないかも分からないような台詞を言って、それでそのまま舞台は終わる。
これは、僕たちの物語だったのだ。
大舞台の幕は閉じて、その向こう側からは拍手が聞こえてきた。クラス全員から湧き上がる歓声の中で、僕はキリを、キリだけを探した。もうここには居ないみたいだった。
きっとキリは今日が最後の日であることを知っていたのだ。僕はキリをあの日のように追いかけた。居場所は分かって居た。
泣きじゃくりながら走っている僕を不審な顔で見る人たちをかき分けて僕はプールのある校舎へと向かった。階段を駆け上って最上階までいくと、もう空には昏い夕暮れが望んでいる。果たして、そこにキリはいた。
「やっぱり、来てくれた」
「キリ…」
「泣かないで、それが一番辛いよ」
止めようとも、止めようともとめどなくそれは溢れてきて、とどまるところを知らなかった。彼女は制服でプールサイドにほど近いところで浮いている。
今にも彼女は消えてしまいそうな雰囲気を放っていて、でも、同時に彼女はこれ以上無いくらい幸せそうで、僕はプールサイドから身を乗り出して彼女の頬に触れた。今にも山の端に消えていきそうな夕焼けが僕たちを横から照らして、僕はもう一度、彼女がそこに居ることを確かめるように彼女を抱きしめる。
「えいっ」
彼女はそんな僕をプールに無理やり引きずり込んで、それで僕のことを受け止めた。
「ごめんね。制服濡らしちゃって。最後くらいわがまま許してよ、ね?」
沈みゆく夕日に笑顔を咲かせて、キリは微笑む。
あのね、ほんとに全部嬉しかったの。君が初めてサイダーを買ってくれたことも、腕時計を取ってくれたのも、勉強教えてくれたのも。あと、映画を見に行ったのも、私を探し出してくれたのも、それから、夏祭りでキスしてくれたのも。
それから文化祭の練習のときは、ずっとカッコよかった。私、ずっとドキドキしてたんだからね。君は頑なに皆の前で私を特別扱いしたりしなかったけど、私はずっと今日みたいなことしたかったんだよ。恥ずかしかったならごめんね。
それから、私と一緒に居てくれてありがとう。見つけてくれてありがとう。大事にしてくれて、わがまま聞いてくれてありがとう。
彼女は言葉の一つ一つを絞り出すように、ゆっくりとそう紡ぎだしていく。
プールサイドが世界で、僕たちはそこで完結した存在だった。
「ねえ、最後にキスしてよ。もう一回」
彼女は僕にそうささやいて、ふっと目を瞑った。
彼女の頬に手を添えた。その夕焼けで照らされた紅い唇に、僕はゆっくりと一回だけ唇を落として、彼女が消えないように強く、強く抱きしめる。
夕焼けが、ついに沈み切った。
「ありがとう、幸せだよ」
キリのその表情は、ほんとうに世界で一番幸せだった。そのまんま、彼女はゆっくりと水の中に崩れ落ちて行って、消えていった。何も、そこには残っていなかった。彼女の体温も、やわらかい表情も、七色の鱗も。何も、ないのだ。
ただ一つ、感情だけがそこに残った。僕は泣いて、泣いて、彼女を探して、どこにもいない水の中に手を伸ばした。分かっていて、分かっていたけど認めがたくて、ただ、泣いて、泣いた。
「あっ」
その時だった。キリが居なくなった水の底がひと際青く輝いて、プール全体を照らした。それから水の底から泡が、限りなく小さい泡が無数に浮かんで来たのだ。それは浮かんでは消えて行って、光とともにプール全体を包み込む。
そう、夏の音だ。夏の音が、音が、僕をつつみこんで蠢いている。まるでキリがそこにいたことの存在証明をするかのようにその音は僕を包み込んで大きくなり続ける。
音がね、夏の音がするから。
彼女の声がやけに鮮明に聞こえてきて、僕は思わず天を仰いだ。半月が藍色になった空に、半月がいつものように輝いている。
初めて出会ったときの水しぶき、腕時計をつけて嬉しそうにしていた顔、図書館で勉強につかれて突っ伏す姿。映画館での涙と屋上でのやりとりと、喫茶店と美術館と花火。そしてさっきの演劇。それらすべてが次々と頭の中を駆け巡っていく。
「昂君にも何かしらの合図みたいなのがあるんじゃない?夏が始まるさ」
「僕は君が助けてくれた時に夏が始まったかもしれない」
そんなやり取りを思い出した。ああ、そうだ、僕の夏は今終わったのだ。季節としてではない。概念としての夏が。君という名の『夏』が。
泡の音が徐々に小さくなっていって、静かにそれは終わった。人魚姫は…サイダー・マーメイドは静かにその存在をこの世から消して、幸せに消えていく。『三毛猫と君と僕の約束』のヒロインのように。それは紛れも無いハッピーエンドだったのだ。
ふと、屋上にクラスメイトが集まっているのに気が付いた。
ああ、宮川君!そんなとこに居たの!?なんで水の中に入ってるの!?水上さんは?と、口々に僕に語りかける声。ごめんごめん、今そっちに行くよ。と叫ぶと、しっかりしてくれよ!主役さん。お前が一番今楽しまなきゃいけないじゃないか!とたくさんの声が帰ってくる。
そこで、僕はもう自分が一人じゃないことに気が付いた。
「まさか、キリが僕に文化祭の主役をやらせようとしたのって」
彼女がくすくすと笑っている顔が浮かんだ。うん、君はもう一人じゃない。だから、大丈夫。幸せになってよ。
「おーい!速く来てくれ。打ち上げに行くぞ。打ち上げ」
いつになくはしゃいでいる小形君の声を聞きながら、僕はプールを上がる。もうここに用はなかった。
「ああ、幸せになるさ」
僕はそのまま彼女のくれた夏を抱きしめて、あの日のフェンスを乗り越えた。