桜の木の向こうから君の着替えを覗く(上)
タイトルからもう絶対にバレてると思いますが、去年のサイト内企画のために構想し、途中まで書いていたにも関わらず、書き終わらなかった菱川の「桜の木ミステリー」です。
「悟、F組の柏葉由伊乃さんって知ってる?」
僕ーー梶本光は、ついに親友にその話を持ちかけた。
ここ最近、僕の頭の中を占領している大問題。
それはとても悩ましい。まさに「悩ましい」としか言えない問題である。
「ああ。知ってるよ」
親友は、漫画本に目を向けたまま、あっけなくそう答えた。
一体、彼はどのような経緯で柏葉さんのことを知り、どの程度柏葉さんのことを知っているのだろうか。
とても気になるところだが、それは本題ではない。僕は話を進める。
「その柏葉さんなんだけど、僕同様に、ここの寮で生活していて」
「うん。そうだね」
「柏葉さんの部屋は、この建物の向かいの棟で」
「知ってる」
「僕の部屋が504号室で、柏葉さんの部屋が向かいの建物の506号室なんだけど」
「……それで?」
「僕の部屋の窓と、柏葉さんの部屋の窓とは、ちょうど向かい合わせなんだ」
親友の視線は、相変わらず漫画本へと向かっている。よほど目の離せないバトル展開なのか、僕の話に興味が沸かないのかのどちらかだが、おそらくは後者だろう。
僕が口下手だからというわけではない。親友は、17歳の男子高校生であるにも関わらず、そういう話には疎いのだ。
親友の名前は、由良悟。
彼とは中学校入学時からの付き合いである。僕にとって、「親友」と言える存在は悟だけである。
そして、僕以上に交友関係の狭い悟にとっては、そもそも「友達」と言える存在が僕しかいないものと思われる。
2人が、地元から離れた同じ高校に進学したのも、決して偶然ではない。悟が、僕に「同じ高校を受験しよう」と誘ったのである。
当時の僕の学力を考えれば、それはあまりにも無責任な誘いに思えた。わずか1年足らずで、僕は偏差値を10も上げなければならなかったのである。しかし、中学校でトップの成績だった悟は、僕に「熱心」な個別指導を行うことで、見事責任を果たしたのである。
高校に進学してからも、僕と悟の友情は変わらず続き、今でも授業中以外のほとんどの時間を一緒に過ごしている。
とりわけ、溜まり場となっているのが、寮にある、僕の部屋である。
そして、今も、悟は僕の部屋にいて、青いカーペットで寝そべりながら、いつの間にやらできていた彼専用の本棚から取り出したコミックスに読み耽っているというわけだ。
同じカーペットであぐらをかいてた僕は、脚を組み替えるとともに、身体の向きを、悟の方から90度変える。
その方向には、ワンルームの部屋にただ一つだけ設置されている窓がある。
窓の向こうの景色として、まず目に入るのは、大きな桜の木である。
植物の分類には詳しくないが、日本にある桜はほとんどがソメイヨシノだ、と何かの本で読んだことがある。なので、おそらくそこに生えているのもソメイヨシノなのだと思う。
ただ、そのサイズは、そこらに生えている桜とは比較にならないほどに大きい。高さは、8階建ての寮の建物と張り合うほどである。樹形の枝も、複雑に、しかし、伸び伸びと広がっている。
その桜越しに見える横長の小さな窓。それが柏葉さんの部屋の窓なのだ。
「悟、柏葉さんのこと、どう思う?」
「……どう思うって?」
「可愛いとか、可愛くないとか」
「色白だと思う」
「……それは可愛いってこと?」
「顔は整ってる方だと思うよ」
青春真っ只中の男子高校生らしからぬ、あまりにもお行儀の良い返答である。
もっとも、我が親友はいつもこんな調子なのだ。普段は雄弁なくせに、異性の話になると急に口数が減る。
それが、異性に対する過剰な意識が屈折した結果なのか、単に異性に一切興味がないのかは、僕にはよく分かっていない。
とはいえ、そんな悟の性分を考えれば、「色白」「顔は整っている」という評価は、最大限の賛辞だと言っていいだろう。
そう。柏葉さんは、誰がどう見ても「可愛い」のである。
ゆえに、僕の抱えている問題は深刻なのである。
「柏葉さんの部屋の窓は、僕の部屋の窓と向かい合わせの位置にあるんだけど」
「それはさっき聞いた」
「今も、僕の部屋の窓から柏葉さんの部屋の窓が見えてるんだけど」
「そうだろうね……で、それがどうしたの?」
「窓から見えるんだよ」
「何が?」
「柏葉さんの着替えが」
そう。これこそが四六時中僕の脳内を駆け巡っている、極めて「悩ましい」問題なのである。
手脚が長くて、髪もサラサラで、黒目が大きくて、顔は小さくて、色白で、某人気アイドルグループにいそうで、おそらく学年で一番の美少女である柏葉さん。
その柏葉さんが白い肌を露わにする様子が、僕の部屋から一直線に見えてしまうのである。
大問題ではないか。
さすがに悟は息を呑み、ページをめくる指も止まる……かと思ったが、そんなことはなく、彼は平然と、
「それって犯罪なんじゃないか」
と指摘しただけだった。
「犯罪じゃない! 別に僕はわざと覗いているわけじゃないんだ。監視カメラを仕掛けてるわけでもないし、オペラグラスで覗き込んでるわけでもない」
「でも、女子の着替えを見てるんだろ?」
「見てるんじゃない。見えるんだよ」
「わざとじゃないってこと?」
「ああ」
「でも、柏葉さんが着替えてるときに、光が窓の外を見なければいいだけの話だろ。普段どおり、スマホでも漫画でも見てればいいだけの話だろ」
「それはそうだけど……」
たしかに悟が言っていることは正論だ。
おそらく他の寮生もそうであるように、僕だって、窓の外の景色をずっと見ながら生活しているわけではない。
むしろ、朝一番に天気を確認するために窓の外を見遣って、それから夜寝るまでの間は窓の外になど一度も気に掛けないという日が圧倒的に多かった。
それにも関わらず、最近は、部屋にいると窓の外ばかりが気になってしまう。柏葉さんのせいだ。
結局、健全な男子高校生にとって、このような状況に立たされれば、窓の外を見ないなどおよそ不可能なのである。
僕がそんなことを考えながらしばらく黙っていると、悟は、カーペットから起き上がり、背を向ける格好で、僕の前に立った。実際に窓の外の景色を確認するためである。
「……なんだよ。見えないじゃないかよ」
「そりゃ、柏葉さんだって24時間ずっと着替えてるわけじゃないから」
「そうじゃない。窓と窓の間に桜の木があるだろ」
そのとおりである。
僕らが住んでいる寮の建物と、柏葉さんが住んでいる寮の建物の間には庭があり、そこには巨大な桜の木がそびえ立っているのだ。その木が、僕の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓との間を遮っている。
「完全に見えないわけじゃないでしょ。ほら。枝と枝の隙間から」
「それはそうだけど……ただ、これからの季節はどんどん見にくくなりそうだな」
今日は3月27日。今年は冬が冷え込んだせいか、例年よりも桜が咲くのは遅いようで、まだ蕾か二、三分咲きといったところである。
たしかに冬場の方が、柏葉さんの部屋までの視界を遮るものは少なかった。それが春になるにつれて、蕾がなり、花が咲くにつれて、どんどん視界が遮られていくだろう。
もっとも、視界が完全に塞がれるということまではないと思う。
悟は、柏葉さんの部屋の窓の方を指差した。
「あそこの長い枝が邪魔だな」
正確には、悟が指差していたのは、僕の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓とを結ぶ直線上に、立派に伸びている桜の枝だったようだ。
その枝は幹から伸びて、さらに四方八方へと複雑に広がっている。
「たしかにあの枝がない方が、よく見えそうだね」
「じゃあ、切るか」
「まさか。そんなことはしないよ」
「だって、柏葉さんの着替えが見たいんだろ?」
「別に見たいわけじゃないって!!」
無論、見たくないと言えば嘘になる、というか、見れるのであれば見たいのだが、声を大にして「見たい!」というのは違う気がする。
柏葉さんも、決して、僕に見せたいと思っているわけではないだろう。
というか、僕が見ていることを知ったら、柏葉さんはどう思うだろうか。きっと怒るに違いない。
ただ、見えている以上、見ないというのは、それはそれで柏葉さんに魅力がないと言っているようなもので、失礼に当たるような気もする。
そんなことを考えながら、僕の顔は、僕自身で気付けるほどに赤く火照っていた。
他方、僕同様に少し考え込んでいた親友だったが、彼の考えは、僕とはだいぶ違うベクトルに向かっていたようで、ボソッと
「花盗人」
と、聞き慣れぬ単語を呟いた。
「……はなぬすびと? 何それ?」
「桜泥棒だよ。簡単に言うとね。桜のあまりの美しさに魅了され、桜の枝を切って持ち帰ろうとする輩さ」
桜の枝を切る。綺麗な桜を持ち帰りたいという動機は美しい気もするが、桜の枝を切ってしまうことは自然破壊と言わざるを得ない。
「……雅なのか無粋なのかよく分からないな」
「その通りだね。その両面価値ゆえに、花盗人に関しては、さまざまな逸話があるんだ」
たとえば、と悟は続ける。
「鎌倉時代、土御門天皇の時世に、宮中の八重桜の枝が切り取られ、盗まれる事件があった。言うまでもなく、宮中のものを無断で持ち去るのは重罪だ。驚くべきは、花盗人の正体だよ。とんでもない有名人だからな。誰だと思う?」
「え?……うーんと……」
鎌倉時代の有名人というと、源頼朝くらいしか思いつかない。しかし、彼は将軍だ。そんな地位も栄誉も持った人間が、桜の枝を盗むなどというくだらないことをするはずがない。
「……残念。タイムアップ。正解は、藤原定家だよ」
これは驚いた。
源頼朝ほどではないが、超有名人である。
たしか百人一首を編纂した中心人物ではないか。
詳しくはないが、社会的にもかなりの地位を有していたはずだ。そんな人物が、コソ泥のような真似をしただなんて、信じられない話である。
「定家自身が木に登って枝を切り取ったわけではなく、彼の従者に命じてやらせたんだけどね。でも一緒さ。定家は花盗人なんだよ」
「……ちょっと待って。さっき、悟は、宮中のものを無断で持ち去るのは重罪だ、って言ってたよね? だとすると、定家は罰せられたということ? 定家が処刑された、とか、そんな話は聞いたことがないんだけど」
「そりゃ聞いたことはないだろうね。定家には一切お咎めなしだったからね」
「……どういうこと?」
重い罪を犯したのに一切お咎めなしというのは矛盾している。もしくは――
「……まさか、定家は、犯行に気付かれないまま、無事に逃げおおせたということ?」
「いいや。そんなことはない。むしろ完全犯罪とは程遠いよ。だって、従者が桜の枝を切る場面も、切られた桜の枝を定家が自らの袖に隠す場面も、全部目撃されてたんだから」
「それは滑稽だね……。じゃあ、どうして定家は罰されなかったの? 有名人だから?」
民主主義社会と言われている現代だって、政治家本人や、その親族が罪を犯しても、一般人同様には処罰されないことがある。鎌倉時代にはその風潮はもっと強いはずである。
しかし、悟は、フッと偉そうに鼻で笑うことによって、僕の推測を否定した。
「違う。光、君自身もさっき言ってたじゃないか」
「え? 僕が何か言った?」
「『雅なのか無粋なのかよく分からない』って。偉い人は、前者の価値観をとったんだ。すなわち、答えは、桜の枝を盗むという行為が風流だから、だ」
「ああ」
いかにも昔の逸話らしいオチである。良くも悪くも現実感がない。
「それで、悟、どうして突然その『花盗人』の話をしたんだ?」
「もちろん、光に『花盗人』になることを勧めてるんだ」
「バカ言うなよ!」
光は大きく首を横に振る。おそらく顔の色は先ほど以上に赤くなっている。
「女子の着替えを覗くために桜の枝を切って盗むだなんて、少しも風流じゃない!」
「そうかな……?」
「そりゃそうだろ!」
悟は、天才的に頭が良いが、それにも関わらず、もしくは、それゆえに、常識に欠けるところがある。今までも、光は、悟の突飛な言動に幾度となく振り回されてきたのである。
悟が次に発した言葉は、さらにとんでもないものだった。
「柏葉さんは、わざと光に着替えを見せてるんじゃないのかな?」
「は!?」
そんなこと絶対にあり得ない。そんなの少年漫画、いや、アダルトビデオの世界である。これっぽちも現実感がない。
「だって、柏葉さんの部屋の窓にはカーテンがあるだろう?」
たしかに、彼女の部屋には、いかにも女子の部屋らしい、ピンク色のカーテンが付いている。
「普通カーテンを閉めるだろ。着替えるときは」
「……まあ、そうだけど、柏葉さんはうっかりした性格だから……」
「光は柏葉さんの性格に詳しいんだね」
「いや、そんなことはないけど」
むしろ、僕は柏葉さんのことは何も知らない。知ってることと言えば、名前とクラスと容姿と……それから、下着の色。
下着の色を知ってるとなると、なんだか深い関係のようだが、僕の場合は「特殊なケース」に過ぎないのであって、実際には、接点は何もない。
直接話したことだって一度もない。
「知ってるんじゃなくて、あくまでも想像だよ。柏葉さんって、見た目的になんとなく天然っぽい、というか……」
「意外と合ってる……かもな」
悟だっておそらく柏葉さんと接点などないだろう。一方的に顔と名前を知ってるだけだろうから、「合ってる」というのもおそらく想像だ。
というか、柏葉さんが僕にわざと着替えを見せてる、という彼の説も想像だし、もっと言うと、妄想だ。
モテない男子高校生による妄想トーク。
ある種の青春なのかもしれないが、なんだか虚しい。
しかし、柏葉さんという美少女についてアレコレと妄想を繰り広げることが、「青春」だったのだとすれば、僕の「青春」は、桜が満開となる前に枯れ果ててしまった、ということになる。
悟と妄想トークを繰り広げた3日後、柏葉さんは自らの尊い命を絶ってしまったのである。
…………
ヴー、ヴー、ヴー……
先ほどからずっと無視し続けているのに、スマホのバイブが鳴り止まない。
布団の中でうつ伏せになって、顔を枕に深く埋めている僕は、手を伸ばしたら取れる距離にあるスマホに手を伸ばす気は一切ない。
先ほどから僕にしつこく電話をかけているのが誰かということは、スマホのバイブを見るまでもなく分かっている。
そんなことする奴は、彼しかいない。
申し訳ないが、今は誰とも話したくない気分なのである。布団から出る気すらない。
スマホのバイブを徹底的に無視してると、今度は、ピンポーン、ピンポーン……というインターホンの音、さらにそれも無視してると、バンバンバン……と玄関ドアを叩く音に変わった。
常識のない親友を持つということは、これだから困る。
悟がドアを強く叩く音は、間違いなく寮のほかの部屋にも響いてる。近所迷惑になるのはさすがにマズイと思った僕は、渋々ながらも親友の来訪を認めた。
僕の部屋に入るやいなや、悟はいつもどおり、カーペットの上にあぐらをかいた。僕はそそくさと布団をしまう。
「元気だけが取り柄の光が寝込んでるなんて珍しい。一体何があったんだ?」
あまりにも白々しい質問である。彼はその答えをハッキリと認識しているのに。
僕がしばらく黙っている間、悟はぐるりと僕の部屋を見渡し、あるところに目を留めた。
「なんかいつもより部屋が暗いと思ったら、窓のカーテンを閉めてるのか。カーテンを開けて太陽光を部屋に入れた方が良いぜ」
「やめてくれ」
立ち上がって窓の方へと向かおうとする悟の両肩を、僕は、両手で掴んで制止した。
「なんでだ? 今日は雲一つない晴天だぜ」
「だからこそ嫌なんだ」
さすがに無神経過ぎる。僕は見たくないのである。窓の向こうの景色を。そこにある真実を。
だから、僕は窓に、そして、自分自身の心にカーテンをかけているのである。それくらい察して欲しい。
「もしかして、光、君は柏葉さんが死んだのがショックなのか?」
「……当たり前じゃないか」
「どうして?」
「……どうしてって……」
こちらが聞き返したいくらいである。どうして「どうして?」なんてそんなことを訊いてくるのか。
「まさか、窓から女の子の着替えを覗くことができなくなったことが、塞ぎ込むほどのショックなのか?」
「そんなわけないだろ」
「だとすると、もしかして……」
悟の目は、まるで異国人のような、腫れぼったく思えるほどの二重瞼である。
その目を、悟は、極限まで大きくまん丸に見開いた。なんだかとてもわざとらしい。
「光、柏葉さんのことが好きだったのか?」
「放っておいてくれ」
僕は、先ほどまで布団の敷いてあったフローリングにうつ伏せに寝転んだ。両腕で顔を覆うようにして、外の世界を遮断する。
もう何も見たくないし、何も聞きたくないし、何も話したくない。
「柏葉さんが好きだったら、正直にそう言えばいいのに」
「……言っただろ」
「いや、言ってないね。数日前だって、むしろ、君は、君が柏葉さんのことをどう思っているかについて一言すら言及していない。柏葉さんが可愛い、とさえ言っていない。単に、窓から柏葉さんの着替えが見える、という話を僕にしただけだ」
言われてみるとそうだったかもしれない。ただ、そこは察して欲しかった。
そういうことには疎いとはいえ、さすがにそこは付き合いの長い親友なのだから、少なくとも彼女の死の直後に僕が寝込んでいることを知った段階で、最低限それだけは察して欲しかった。……無理か。
「とにかく、今日はもう帰ってくれ。放っておいて欲しいんだ」
「光が体調を崩しているのに、放って帰るわけにはいかないよ。僕は君の親友だからね」
パサっという布が擦れる音ともに、真っ暗だった視界がうっすらと明るくなった。
顔を伏せたままでも分かる。悟は、先ほどの僕の制止を無視して、窓のカーテンを開けたのである。
僕は、より一層強く、腕で顔を覆う。
「桜はもう満開に近いな」
これまた僕の神経を逆撫でする言葉である。
晴天も、満開の桜も、今の僕には必要がない。
「早くカーテンを閉めてくれ」
「窓の向こうの景色にそんなに過剰に反応することないだろ? 柏葉さんの部屋のカーテンは閉まってて、中は見えないぜ」
「だからなんなんだ」
「てっきり『現場』を見たくないのかと」
それはもちろんそうである。
柏葉さんは、昨夜、あの部屋で亡くなったのだ。首を吊って自殺したのである。
おそらく死体はすでに片付けられているのだろう。とはいえ、あの部屋で柏葉さんが死んだという事実は消えない。
カーテンがかかっていて中が見えないとしても、シュレーディンガーの猫のように柏葉さんが「生死不明」になるわけではない。柏葉さんが死んだ事実を動かすことはできない。
……あ、それは僕の部屋のカーテンを閉めてても一緒か。
「あれ? 光、もしかしてマジでやったのか?」
「……何の話だ?」
僕はおもむろに起き上がり、悟の姿を視界に捉える。
彼は、窓枠に両肘をつき、窓の向こうの景色を見つめている。
「ハナヌスビトだよ」
「は!?」
最初、悟は異国の言葉を話したのかとさえ思った。
しばらくして、それがこの前話していた「花盗人」のことだと気付いたものの、それでもやはり悟の言っている意味は分からなかった。
「つまり、悟は、僕が、柏葉さんの着替えを覗くために実際に桜の木の枝を切ったのかを訊いてるのかい? この期に及んで。柏葉さんはすでに亡くなっているのに」
「切ったときにはまだ生きていたかもしれないだろ?」
「切ってない! そんなバカなことしないよ!」
このタイミングで悟が「花盗人」の話をするのは、あまりにも笑えない冗談だと思った。僕の恋心への配慮はともかく、死者への最低限の敬意すら欠けていると。
ーーしかし、僕は悟の言葉の真意を掴めていなかった。
彼は、ほんの冗談のつもりで「花盗人」の話を持ち出したわけではなかったのである。
「……じゃあ、誰が『花盗人』なんだ……?」
「誰がって、どういうこと?」
「現に桜の枝が切られてるんだよ。明らかに人為的にね」
「嘘だろ」
「花盗人」は、鎌倉時代の逸話であり、おそらく「作り話」だ。そして、柏葉さんの着替えを覗くために桜の枝を切る、という話も、男子高校生同士のしょうもないジョークに過ぎなかったはずである。
現実に「花盗人」をやる人間など存在しないはずなのだ。
「分かった。悟。君は僕に是が非でも窓の外を見せようとして、そのために嘘をついてるんだろ?」
「そんなわけないだろ。光が窓の外を見ようが見まいが、僕には何の利害もない」
悟が真顔でそう言うので、僕はついに窓の外の景色と対面せざるを得なくなった。
それは、僕と柏葉さんとの「唯一の接点」であり、「唯一の思い出」でもある。
僕はそれを見るのがずっと怖かったのであるが、いざ見てみると、何の変哲もない日常の光景である。
そこにはいつもどおりの青空と、ずっと昔から立っている桜の木がある。
悟の言うとおり、対面の寮にある柏葉さんの部屋の窓のカーテンは隙間なく閉まっている。
まるで何事もなかったように。
そして、桜の枝についても、悟の言うとおりだった。
一部分の枝花が露骨に欠けていた。桜の花はほぼ咲き誇っているのに、その部分だけ虚しい空白ができているのである。
「どうして……? 一体誰が……?」
「一つ言えることは、犯人は光じゃないということだね」
だって、と悟が付け加える。
「切り取られてるのは、光の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓との間を遮る枝じゃないから」