入れ替わった戦隊ヒロイン
「……松前さん、これは一体……」
松前に招かれて寝室に立ち入った九谷は、衝撃的な光景を前にして、立ち尽くした。
「見ての通りだ。俺が殺したんだ」
ダブルベッドの上で横たわっていたのは、白いパジャマを血で真っ赤に染めた死体だったのである。白いベッド、白いクロスの至るところにも血が飛び散っている。
「この死体は……?」
「言うまでもない。俺の妻――すみれだよ」
松前宅の寝室に女性の死体があるのだから、当然、九谷としては、それが松前の妻である杜川すみれの死体であろうという推測はついたものかと思う。
しかし、九谷が死体の身元を確認したのも無理はない。頭に鈍器での一撃を食らったすみれの死体は、断末魔の苦しみで、それくらいに形相が変わっていたのである。
目をひん剥いたその顔からは、今をときめく美人女優の面影など、微塵も見てとれなかった。
松前貴裕と、杜川すみれは、4年前、「中華戦隊テンメンジャー」の撮影現場で知り合った。
「中華戦隊テンメンジャー」は、日曜日の朝に放送される特撮の、いわゆる「戦隊モノシリーズ」である。それは子どもたちの週末の楽しみであると同時に、小さな子どもを持つ父兄が、新人タレントを品定めする場であった。「戦隊モノシリーズ」は若手俳優の登竜門なのである。
松前は、「中華戦隊テンメンジャー」の赤色担当、つまり、主役を務めていた。
そして、すみれはピンク色担当のヒロインだった。
松前は、「中華戦隊テンメンジャー」のオーディションを勝ち抜くまでは、無名タレントだった。たまに雑誌のモデルを務めたり、ローカルのCMに出たりする程度で、道行く人に声を掛けられるようなこともなかった。
しかし、戦隊モノの主役を射止めたことで、人生が変わった。
端正でクールな顔立ちと、シリアスからコミカルまで振り幅の広い演技が、お茶の間のハートを掴み、一躍トップスターへと駆け上がったのである。現在、松前は、1年間にドラマ10作、CM20本以上に出演する売れっ子俳優であり、間隙のないスケジュールの中、目の回るような日々を過ごしている。
それだけではない。
すみれと出会い、人生の伴侶を得た点でも、「中華戦隊テンメンジャー」は、松前にとっての人生の転機だった。
世間から羨望の嫉妬の眼差しを受けながら、大人気俳優同士が入籍したのは、半年前である。結婚すると同時に、高級住宅街に一軒家を購入し、愛の巣とした。
松前は、誰もが羨む順風満帆なキャリア、幸せな生活を送っていた。
それなのに――
「松前さん、一体何があったんですか?」
一体何があったのか――
それは松前自身が知りたいことであった。どうして殺してしまったのか。どうして。どうして――
すみれは、今朝、5時に帰宅した。
いわゆる朝帰りである。
すみれの仕事のスケジュールを詳しく把握しているわけではないが、少なくとも、朝までかかるような撮影は入っていないはずだった。
むしろすみれは、松前に、昨日を「オフ」と話していたのである。
普段の松前なら、何も咎めることはなかったかもしれない。というより、仕事で疲れ果てて寝ていて、すみれの朝帰りに気付くこともなかっただろう。
しかし、なぜか今日は深夜に目が覚め、そこから寝つくことができず、貰い物の焼酎を煽ってしまっていたのである。
そのせいか、帰宅をしたすみれを玄関まで迎えると、この時間まで帰って来なかった理由を問い詰めてしまったのだ。
「言えない」
すみれは、そう答えた。
松前は、すみれの浮気を疑っていたわけではなかった。朝帰りを責める気もあまりなかった。しかし、すみれの頑なな回答が、松前の癪に障った。
「言えない、っていうのはどういうことなんだ? 旦那に言えないことでもしてるのか?」
「言えないの」
「なんで?」
「それが私たちのためだから」
すみれの回答の意味は、よく分からなかった。
お酒が回っていた当時も分からなかったし、すみれの死体を目の前にして頭が冷めた今だって、よく分からない。
すみれは気怠そうな表情のまま、靴を脱ぎ、下駄箱にしまうと、松前を横切り、寝室に繋がる階段の方へと向かった。
普段とは違ってあまりにも素っ気ないすみれの態度は、松前にとって面白くなかった。
とはいえ、その時点では、松前はすみれに手を上げる気はなく、ましてや、すみれを殺してしまおうなどとは毛頭思っていなかった。
すみれ、そして、松前にとって運が悪かったことが2つある。
1つは、寝室の戸棚の上に銅製の置き時計があったこと。
そして、もう1つは、松前が、すみれの左手薬指の異変に気付いてしまったことである。
「おい。すみれ。結婚指輪はどうしたんだ?」
ハワイでの新婚旅行の際に松前が買い与えた純金の指輪。それがすみれの指から消えていたのである。
ベッドに腰掛けたすみれは、虚な表情で、天井に左手を翳した。
「あれ? 本当だ」
「どこにやったんだ? なんで外したんだ?」
「……分からない」
「分からないじゃないだろ!! ふざけるな!!」
松前は、すみれを恫喝すると、戸棚の上の置き時計を持ち上げた。
そこから先の記憶は、ない。
気付いた時には、寝室は血で染まっていて、すみれは息をしていなかった。
松前が妻であるすみれを撲殺したのである。すみれの死体に残されていた殴打の跡は一つや二つではなかった。
振り返ってみると、すみれの朝帰りが、不貞相手と一夜を共にしたためだったのかどうかは、ハッキリしない。
結婚指輪も、あえて外したのではなく、単に落としてしまっただけという可能性もある。
しかし、あのときの松前は、怒りに支配されていて、完全に我を失っていた。
そもそも、深夜に目を覚まして酒を煽っていた時点で、松前はいつもと違っていたのである。
今日は何かが違っていた。
まるで悪魔に取り憑かれたかのようだった。
「九谷」
「……はい」
朝早くに突然呼び出され、不意に死体と対面させられたマネージャーは、明らかに気が動転していた。普段の3倍くらいの瞬きをしている。
そんな彼にこのようなお願いをすることは、松前にとって気が引けることだったが、それ以外の選択肢がなかった。
「九谷、すみれの死体を処理してくれ」
「……処理って」
「すみれを失踪させるんだ」
松前が芸能界で生き残るためには、それしか方法がなかった。
松前がすみれを殺したことが世間にバレるわけにはいかない。
明らかに他殺体である死体の状況を考えれば、死体が誰かに見つかるわけにもいかない。ゆえに、すみれが死んだ、という事実すらも伏せる必要がある。
すみれは失踪し、行方不明になった、というのが、松前にとって最善のシナリオなのだ。
無論、すみれも松前に負けず劣らずの売れっ子俳優なので、そのすみれが突然メディアから消えれば、世間が騒ぐことは不可避である。
もっとも、愛する妻が突然失踪し、悲嘆に暮れる夫を演じることは、松前にとってそれほど難しいことではない。松前は演技のプロなのだ。
「もちろん九谷一人に全てをやってもらう必要はない。事務所の協力を得るんだ」
松前が所属している雪月プロダクションは、日本で最大の芸能事務所である。これは世間にそれなりに知られていることだが、芸能事務所と反社会勢力とは密接不可分な関係にある。
大手芸能事務所のバックには、必ず暴力団がついているのである。その「黒い繋がり」を使えば、すみれの死体を完全に消し去り、すみれを失踪させることはできるはずなのだ。
そして、松前は、今、雪月プロダクションの看板タレントであり、最大の稼ぎ頭である。松前を殺人犯にしないための偽装工作に、事務所は喜んで手を貸してくれるに違いない。
それに、雪月プロダクションには、あの前例がある。
「松前さん、そう簡単に言いますけど、どんなに上手く隠しても死体はいずれ見つかってしまうんじゃ……」
「万が一見つかっても、身元が分からないようにすればいい」
「顔を潰したり、指紋を消したりということですか?」
「ああ。そうだな。上手くやってくれ」
「でも、たとえば、幼少期の歯の治療跡とか、どうしても誤魔化せない部分もあると思いますよ」
「その点は大丈夫だ。そもそも、そこにある死体は杜川すみれじゃないからな」
九谷は、一瞬戸惑う表情を見せたが、すぐに松前の言葉の真意を理解し、「なるほど」と漏らした。
「松前さんのおっしゃるとおり、杜川すみれは3年前に死んでいますからね」
――杜川すみれは3年前に死んでいる。
あまりにも不運な事故によって。
若手俳優の登竜門である戦隊モノのヒロインの座を見事射止めた彼女は、小動物のような愛らしいルックスと、オーディションでも見せた怪物級の演技を武器に、順調に撮影をこなしていた。
「中華戦隊テンメンジャー」は、ここ5年間の戦隊モノの中で一番の高視聴率を記録していたが、そこにはピンク担当のすみれの活躍は欠かせなかった。
しかし、想定外の悲劇が彼女を襲った。
撮影は残すところあと2回分だった。
「よし、みんな、最後まで気合い入れていくぞ」
「おお!!」
撮影は、いつもの円陣と、監督の掛け声によって始まった。
クランクアップを目前とし、一種の達成感や高揚感が現場に纏っていたことは事実だが、他方で、1年あまり続いた長期の撮影がもたらすスタッフの疲労もピークに達している。
撮影が深夜にまで及ぶことは日常茶飯事であったが、その日も例に漏れなかった。
もっとも、終電を気にする者は誰もいなかった。
北映撮影所の屋内スタジオを使えば、外の天気や明るさなどに影響されることなく、監督が納得する画が撮れるまで、いつまでも撮影することができたのである。
「ここが敵の根城ってわけか。グリーン、ブルー、イエロー、ピンク、みんな気合いを抜くなよ」
「分かってるわ。お父様の仇、絶対に討ってやるんだから!」
深夜の撮影は、屋内スタジオ内の、その日の朝に設置された大掛かりなセットで行われた。敵の総本山である魔界の洞窟をイメージしたセットであり、美術担当スタッフが1ヶ月近くかけて作成したものだ。
「よし! 道はこっちだ! みんな、俺に続け!!」
「ラジャー!!……あ」
「きゃあああっ」
設置したスタッフも徹夜続きだったため、彼を責めることはできないだろう。
しかし、結果として、固定が甘さゆえに、重さにして300キログラムほどあるそのセットは倒れた。
そして、杜川すみれがその下敷きになった。
すみれのすぐ隣には松前もいた。倒れたセットは松前までは届かず、松前は、飛んできたビスによってかすり傷を負った程度だった。
しかし、松前は誰よりも近くですみれの断末魔を目撃する羽目になった。
倒れたセットから覗いていた手足はあらぬ方向に曲がっており、彼女が再起不能であることを如実に示していた。
杜川すみれは即死だった。
ゆえに医療的処置を施す必要はなく、救急車を呼ぶ必要はなかった。
しかし、監督をはじめ、現場にいる者全員が119番通報を躊躇ったのは、違う理由からだった。
彼らは、撮影を中断したくなかったのである。
すみれの事故死を公表すれば、最終回を目前にして、「中華戦隊テンメンジャー」が打ち切りになってしまう。多くの人が、多くの時間とお金、そして心血を費やしたこの作品が、「黒歴史」として世の中から葬られてしまうのである。
松前からすると、事態はさらにクリティカルである。
「中華戦隊テンメンジャー」はお茶の間の好評を得ており、このまま無事撮影を終えさえすれば、松前の芸能界における将来もほぼほぼ約束されたようなものだった。
掴みかけていた成功が、すみれの事故死によって、指の隙間からこぼれ落ちようとしていたのである。
「……松前君、どうしようか?」
監督は、伸び切った髭を指で触りながら、松前に対して、ぼやくように問うた。
「……どうしようって、何をですか?」
松前は質問を質問で返したが、それに対し、監督は何も答えなかった。とはいえ、松前には、監督の真意は十分に伝わっていた。
監督は、松前に対して、どのようにして撮影を継続していくかについて相談しているのである。
普通に考えたら、そんなことは不可能だ。
杜川すみれの死を隠蔽すること。
これに関してはできるかもしれない。
すみれが事故死したことを知っているのは、今、屋内スタジオにいるスタッフとタレントだけである。彼らは全員、杜川すみれの死を闇に葬る共通の動機を持っている。
そして、北映撮影所は周辺環境から隔絶されており、関係者以外が立ち入ることはない。
北映撮影所内に死体を隠してしまえば、すみれの死の事実を世間に隠すことは不可能ではない。
しかし、残りの2話分を、すみれ抜きで撮影することができない。
台本上、すみれの出番と台詞は多いし、今から台本を書き換えたとしても、最後の2話にヒロインが一切出演しないというのはあまりにも奇妙である。とりわけ最終話には、主役5人が揃うシーンがどう考えても必要だ。
しかし、松前の頭にはあるアイデアが浮かんでいた。
それは、突拍子もないものだったが、この状況を打破できる唯一の「解決策」であることに違いなかった。
「あの……」
松前は、恐る恐るそのアイデアを口にする。
「監督はご存知ないかもしれないですけど」
「なんだ?」
「杜川すみれには、双子の妹がいるんです」
「……ほお」
「杜川みさきっていう名前なんですけど、一卵性双生児で、みさきはすみれと瓜二つなんです」
松前は、「中華戦隊テンメンジャー」の撮影を通じて出会ったすみれと意気投合し、恋愛関係ではなかったものの、プライベートでも何度か一緒に遊びに行くことがあった。
そうした中で、すみれから双子の妹であるみさきを紹介され、3人で飲んだことがある。
「乾杯!!」
「……いや、それにしても、こうして2人が並んで座ってるのを見ていると、なんというか……」
「不思議な気分でしょ? 松前君?」
「ああ、そうだな。すみれ……いや、みさき?」
「うふふ」
「松前君、2人の見分け方を教えてあげる。右利きがすみれで、左利きがみさきだよ」
「……なるほど……って分からないよ!」
「うふふ」
すみれとみさきは、まるで鏡で映したようにそっくりだった。それどころか、声も仕草も似ていて、服装が同じならば見分けがつかないほどだった。
また、杜川すみれは、「中華戦隊テンメンジャー」でヒロインに抜擢される以前は芸能活動を一切しておらず、この作品を通じてしか、世間に顔を知られていない。
杜川みさきを「杜川すみれ」として出演させれば、視聴者の目は完全に誤魔化せるに違いない。
先の飲みの場でも、2人を眺めながら松前はそんな冗談みたいなことをぼんやりと考えていたが、ついにそれを現実に実行しなければならない時が来てしまったのである。
「松前君、名案だね」
松前の「双子入れ替え計画」に、監督、現場のスタッフ、共演者はみな賛同した。
決して出来の良い計画ではなく、むしろ穴だらけの杜撰な計画だったが、藁に縋るしかない状況だったのである。
この計画を実行する上での最大の問題は、みさきの同意を得られるかどうかであった。
みさきにはすみれの死を正直に伝えた上で、すみれの代役になることを依頼しなければならない。
みさきが、姉の死に憤慨し、それを隠蔽するだなんてとんでもないと考えるようであれば、計画を実行に移すことはできない。
すみれの死の隠蔽には同意したとしても、姉になりすまして戦隊ヒロインを演じるなんて大それたことなどできない、と拒否する可能性も高かった。
しかし、結果として、みさきは、松前の提案を承諾し、「杜川すみれ」になることに同意をした。
みさきとすみれはとても仲が良かったので、すみれの死を伝えた時、みさきは取り乱し、目を泣き腫らした。
しかし、みさきは、
「姉のためにも頑張ります」
と涙声で言ってのけた。
作品に対する姉の並々ならぬ思い入れの強さを知っており、この作品が打ち切りになることこそ、姉がもっとも望まないことであろうと考えたに違いない。
姉の代わりに作品を完結させることが、姉への最高の餞になると信じたのである。
「ピンク、やったぞ!!」
「ええ、ついに私、お父様の仇を討てたのね……夢みたい」
杜川みさきは、見事、「杜川すみれ」として、最後の2話でピンクレンジャーを演じ切った。
松前の思惑通り、視聴者は誰一人として戦隊ヒロインの入れ替えに気付かなかった。
当時の松前は知らなかったのだが、みさきは学生時代にすみれとともに演劇部に所属しており、演技の腕前はすみれに負けていなかった。みさきは、ピンクレンジャーも、死んだ双子の姉も、この上ない完成度で演じたのである。
みさきの活躍により、「中華戦隊テンメンジャー」は無事クランクアップし、打ち切りにならずに済んだ。
それどころか、最終回は、21世紀に入って以降、戦隊モノでは最大の視聴率を記録した。
これで一件落着、かといえば、そうではない。
作品の放映が終わっても、すみれが蘇るわけでもなければ、撮影中に事故があったという事実が消えるわけでもない。
放送終了後に、実はすみれが撮影中の事故で亡くなっており、そのことを現場が隠蔽し、双子の妹を利用することによって撮影を強行したことが世間にバレれば、「中華戦隊テンメンジャー」は曰くつきの作品となり、すでに得た名声を全て失うことになる。
製作陣や、松前をはじめとする出演タレントも、芸能界から追放されることになろう。
すみれの事故は最後まで隠蔽し続けなければならない。
それはすなわち、すみれが死んだことを隠し通さなければならないということである。
そのためには、まず、すみれの死体を隠す必要があるが、それは問題なくできた。
すみれの死体は、みさきが撮影に協力することを承諾した時点で、北映撮影所の庭に深い穴を掘り、埋めた。
池と松の木を擁する日本庭園風の庭は、北映撮影所のいくつかの建物に囲まれた場所にあり、たまに撮影で用いられるほかには人の出入りはなかった。
ゆえに、誰か部外者がきて掘り返すということも想定できず、この庭にさえ隠してしまえば、死体が見つかるはずはなかった。
もっとも、すみれの死体を隠す以上に重要なことがある。
それは、みさきに、撮影後もなお、すみれを演じてもらうことである。
みさきには、残りの人生をすみれとして生活してもらう必要がある、ということである。
他人に成り代わって生きる。そんなこと、普通に考えたら不可能である。
しかし、みさきの場合には、それができる客観的な条件が揃っていた。
まず、すみれとみさきは瓜二つである。容姿だけではない。声も仕草も雰囲気も似ている。
加えて、すみれとみさきの両親はすでに他界しており、2人には親戚らしい親戚もいなかった。交友関係も狭く、定期的に連絡を取るような関係の友人もいないという。とすれば、誰もすみれとみさきの入れ替えに気付くものはいない。
ゆえに、すみれではなく、みさきが失踪したことにし、みさきがすみれとして生きるということが、奇跡的に可能なのである。
とはいえ、最終回までの2話分にとどまらず、「杜川すみれ」を一生演じ続けることを、みさきが了承するとは、普通は考えられない。
四六時中も世間の人を騙し続けるということは心身にとって大きな負担だ。
それだけではない。「杜川みさき」をこの世から消し去ることは、みさき自身のアイデンティティの否定そのものである。
ほとんど自殺のようなものである。
しかし、みさきは決断した。
「私、これから先、ずっと姉になります」
と。
みさきは、「杜川みさき」を殺し、「杜川すみれ」として生きることを決めたのである。
なぜそのような決断ができたのか。
みさきには、「杜川すみれ」になることにつき、2つのメリットがあった。
1つは、「中華戦隊テンメンジャー」のヒットにより、「杜川すみれ」が人気女優の仲間入りをしていたということである。姉のように頻繁にオーディションを受けてはいなかったものの、みさきにも芸能界への密かな憧れがあったのである。演技の腕前には申し分ないことは前に述べたとおりである。
もう1つは、みさきが、松前に対して恋心を抱いていたということである。
当時の松前はこのことを知らなかった。
みさきの口からその話を聞いたのは、結婚する直前だったと思う。
みさきは、すみれの紹介で松前とはじめて出会った時から、松前のことが好きだった。
ゆえに、すみれが事故死し、すみれの代役を頼まれた時も、口では「姉のため」とは言いつつ、内心では松前のためを思い、承諾したのである。
そして、一生をすみれとして過ごすことについても、やはりそのことが松前のためになるとみさきは考えた。
加えて、自らが「杜川すみれ」として芸能界に残るのであれば、松前との接点を継続することができるとも考えた。
結果として、みさきの思惑通り、「杜川すみれ」となったみさきと松前とは徐々に親交を深め、結婚し、夫婦となった。
松前は、もちろん、自らの妻の正体が杜川みさきであることを知っている。
しかし、対外的にとどまらず、家の中においても、松前はみさきのことを「すみれ」として扱っていた。それどころか、彼女を「みさき」として扱うことは夫婦間の禁忌であり、撮影中の事故についても、2人とも決して触れることはなかった。
松前の妻は「杜川すみれ」なのである。
それは、松前にとって揺らぐことない事実であった。
しかし――
妻が死体と成り果てた今では、事情が大きく異なる。
松前の目の前にある死体は、杜川みさきのものである。
ゆえに、もし死体が発見されたとしても、顔を潰し、指紋を消す等してあれば、死体が杜川すみれのものと判断されることはない。
死体にある歯の治療跡だって、杜川みさきのものだ。
松前が「杜川すみれ」を殺したことは、世間にバレようがないのである。
「撮影中の事故の直後といい、今回の妻殺しの直後といい、松前さんはよく悪知恵が働きますよね」
「九谷、俺を貶しているのか?」
「いえいえ。褒めてます」
九谷が一生懸命首を振る。
芸能界は、世間から見えてるような綺麗な世界ではない。悪知恵を使うことも、この世界で生き抜くためには必要なスキルなのかもしれない。
優秀なマネージャーは、すぐに事務所に連絡を取り、人を集め、死体の運搬作業に取り掛かった。昼までには死体は外に運び出され、さらに、松前の寝室の清掃も済んだ。
その後、死体は事務所が借りているビルの一室に運び込まれ、そこで身元を分からなくするための「処理」をされた。
そして、決して誰にも見つからないであろう場所に死体は隠されたとのことだが、具体的な場所については、松前は聞いていない。
これで一安心である。
松前は、愛する妻を失ってしまったものの、犯罪者になることも、芸能界から追放されることもなくなった。
松前が捜索願を出せば、すみれの知名度を考えても、警察は必死ですみれのことを捜索するであろう。
しかし、「杜川すみれ」の死体は金輪際発見されることはない。
松前の完全犯罪が成立する――
――はずだった。
……
2022年2月30日、殺人の容疑で松前貴裕は逮捕された。
松前の妻であり、人気女優である杜川すみれは、松前が逮捕される約1ヶ月前に、松前によって捜索願が出され、「失踪」したことになっていた。
捜索願を受けて、警察は大人数で体制を築き、杜川すみれの行き先を追った。
連ドラの主演も含め、すみれのスケジュールは数ヶ月先までびっしり埋まっていたのだが、それにもかかわらず、すみれは事務所に何の断りもなく行方を眩ましていた。
そのことから、単なる「家出」ではなく、事件性があることを、警察は最初から嗅ぎ分けていた。
結果として、警察は、ついに杜川すみれを発見した。
すみれは、あまりにも変わり果てた姿で発見された。
もっとも、検死の結果、死体が杜川すみれのものであることは99.9%以上の確度で明らかとなった。幼少期の虫歯の治療跡も完全に一致したのである。
杜川すみれの死体は、地中深くに埋められていた。
このことから、警察は、何者かがすみれを殺害し、死体を地面に埋めたという見立てを持った。
死体が発見される前から、すみれの夫である松前は、犯人候補として真っ先に捜査線上に乗せられていた。
もっとも、任意同行し、取調べを行うまでの証拠がなかった。死体の発見によって、ようやく警察は松前をしょっぴく口実を得たのである。
そして、松前は、すぐに自白をした。
松前にとっての最大の失敗は、杜川すみれの命日を失念していたことである。
杜川みさきが演じていた「杜川すみれ」ではない。
撮影中のセットの倒壊によって命を落とした、本物の杜川すみれの命日である。
杜川すみれの命日は、3年前の1月23日だった。
この日、不幸な事故が彼女の命を奪ったのである。
そして、松前が寝室で杜川みさきを殺してしまった日も、1月23日であった。
これは単なる偶然の一致ではない。
松前がみさきを殺してしまう動機となったのは、みさきの朝帰りである。
あの日、みさきが朝帰りをしたのは、あの日がすみれの3回忌だったからだった。
それだけではない。
あの日、松前は普通ではなかった。
普段ならば寝ている時間であるにも関わらず、妙な胸騒ぎがし、寝付けず、酒を煽ってしまっていた。
そして、普段ならばせいぜい怒鳴りつけて終わるところを、激昂し、妻の頭を繰り返し殴ってしまったのである。
このことは、松前が記憶から消そうとしていたものの消すことができなかった3年前の「悪夢」と無関係ではない、と松前は思う。
松前の事件は、3年前の事故の一種の「フラッシュバック」だったに違いない。
松前とみさきの夫婦にとって、すみれの事故のことは、決して口に出してはならない禁句であった。
杜川みさきは、最初から「杜川すみれ」なのである。そうやって2人はずっと過ごしてきたし、それが夫婦を成り立たせるための暗黙の条件だったのだ。
とはいえ、みさきが、実の姉の事故を、そして、実の姉の存在を完全に忘れ去ってしまっていたかといえば、それは違う。
みさきはすみれのことを心底慕っていた。
ゆえに、松前には内緒で、毎年、すみれの命日に「すみれの墓」を見舞っていたのである。
「すみれの墓」と表現したが、文字通りの墓石が存在しているわけではない。
すみれの死体は、北映撮影所内の庭に埋められている。
そこが知る人ぞ知る「すみれの墓」なのである。
松前は身を持って知っていることだが、北映撮影所には、戦隊モノシリーズの撮影のため、朝早くから夜遅くまで演者やスタッフが詰めている。とりわけ、すみれの命日の前後は、撮影のクランクアップに向けた大詰めである。
「すみれの墓」があるのは、撮影所を奥に入ったところにある庭であり、撮影等がなければ立ち入ることが予定されない場所である。
今をときめく大女優が、そんな辺境で、すみれの事故について知らないスタッフとばったり鉢合わせしまうと不都合だ。
そのため、みさきが「墓参り」をできる時間は、スタッフらが帰宅し、もしくは撮影所で就寝する後の時間、すなわち、深夜から早朝にかけてに限られていた。
みさきは、終電も終わっている時間に、撮影所内に不法に侵入し、こっそり姉の冥福を祈っていたのである。
そんなわけで、すみれの3回忌の前日も、みさきは家に帰ることなく、北映撮影所付近の24時間営業のネットカフェで、夜が更け、日付が変わるのを待った。
そして、撮影所のスタッフらが寝静まる深夜3時過ぎを待って、塀をよじ登り、撮影所に侵入した。
そして、誰にも見つかることなく、「すみれの墓」のある庭園まで辿り着いた。
みさきは、ショルダーバッグから、あるものを取り出す。
仏花である。
数本の菊の花が、短めに切り揃えられ、和紙で包まれている。
みさきが事前に準備したものである。
みさきは、スマホのライトで手元を照らしながら、丁寧に包装を解いた。
本来であれば、その花をすみれが埋まっている地面の上に置き、線香とともに手向けたいところである。
しかし、そのような露骨な痕跡を残してしまうわけにはいかない。
すみれがそこで眠っていることは内緒なのである。
ゆえにみさきは、菊の花を数本まとめて、下手投げで、フワリと池の中へと投げ入れた。
花は放物線を描き、ポチャンと水飛沫を上げる。
その際、みさきは気付いていなかったのだが、彼女にとって、そして松前にとっても「命取り」となるミスを犯してしまう。
菊の茎に引っかかり、彼女が指につけていた婚約指輪が外れ、地面に落ちてしまったのである。ちょうどすみれが埋まっている地面の上に。
みさきが左利きであったことも、この最大の不幸の誘引であった。
みさきはその後、侵入した時と同じように塀をよじ登り、北映撮影所を後にし、タクシーを使い、そのまま真っ直ぐ帰宅した。
そして、みさきは、起きて彼女の帰りを待っていた松前に殺害されてしまう。
今更説明するまでもないが、みさきは不倫などしていない。
ただ、松前に内緒で、存在しないはずの姉の「墓参り」に行っていただけなのである。松前に外出先を問い質されても、みさきが答えることができなかったのは、そのためである。
杜川すみれの存在は、夫婦にとって禁忌だった。
そして、結婚指輪が外れていることについては、みさきも、松前に指摘されて初めて気が付いた。
そして、それをどこで落としてしまったかについて、みさきには本当に心当たりがなかった。
みさきの死は、夫婦のすれ違いが生んだ不幸とも言える。
ただ、それ以上に、やはり3年前の事故の当然の帰結なのではないか、という気もしてならない。
2人が夫婦になったのも、そして2人が死別したのも、きっかけはすみれの事故死なのである。2人の夫婦生活は、杜川すみれの死によって規定されていた。
さて、これ以上は蛇足かもしれないが、最後に説明しよう。
なぜ松前の「完全犯罪」は失敗に終わったのかである。
松前によって出された捜索願を受けて、警察は、松前の妻である「杜川すみれ」の行方を懸命に追った。
目撃証言を集め、さらに防犯カメラを入念に確認したところ、警察は、松前が捜索願を出した数日前に、「杜川すみれ」が北映撮影所の塀によじ登っていたことが分かった。
「杜川すみれ」との繋がりは警察においても周知の事実であり、また、深夜に、大女優がこのような態様で不法侵入することは異常である。警察は、北映撮影所の許可を得て、撮影所の敷地内の捜索を開始した。
警察犬を使った捜査の結果、警察は、決定的な痕跡を発見する。
それは、結婚指輪である。
すみれの結婚指輪が、北映撮影所の庭園内に落ちていたのである。
同時に、ちょうど指輪が落ちていた下の地面が、過去に一度掘り返されたことがあるらしいことも分かった。
そこで、警察は、地中を捜索した。
すると、なんと白骨化した死体が出てきた。
それは、法医学的な見地からして、正真正銘、杜川すみれの死体だった。
たった1ヶ月程度で白骨化するものかという疑問はなくはなかったものの、松前を容疑者とし、任意同行をするには十分過ぎる証拠だった。
警察が、北映撮影所の敷地内で杜川すみれの死体を発見したことを松前に告げると、松前は直ちに妻の殺害を自白した。
警察が発見した死体は、松前が殺したものでも、松前が埋めたものでもない。
しかし、松前は、死体が自らの妻のものであることを認め、死体を埋めたことも自供した。
真実を話したところで、結局妻殺しは事実なのであるから、ここまで捜査の手が及んでいては逃れようがない。
家宅捜索をされたら、みさきの血液反応が検出されるだろう。ゆえに松前は観念していた。
もっとも、それだけではない。
松前は、真実を話したくなかったのである。自らの出世作である「中華戦隊テンメンジャー」、そして、自らの結婚が嘘で満ちたものであることが世間に露呈することこそ、松前が最も望まないことだった。
松前は、決して過去を掘り返したくなかったのである。
こうして、戦隊ヒロインの入れ替えは完遂されることなった。
とにかく皆様に謝りたいです。申し訳ありませんでした。
僕の中では、ほぼ毎日、せいぜい3日に1度くらいは投稿しようという気持ちでいたのですが、多忙により全然執筆ができませんでした。
加えて、この作品が、構想はサッとできていたのですが、文章に起こす段階でかなり難産でした。
要するに、長編にしなければならないアイデアだったのだと思います。地の文を減らして読みやすくすることを普段は心がけているのですが、すみれの事故死とみさきとの入れ替えを記述するシーンが、完全に地の文のみになってしまいました。小説ではなく、もはや論文ですよね。執筆にめちゃくちゃ時間を食われました。
自分で言うのもなんですが、ミステリーの構想としては、それなりに良い線に行っている気がします。僕が好きなタイプのどんでん返しができたかなという気がします。
ただ、本当に書き方をミスってしまい、おそらく最後まで集中力を持って読めた方はほぼいなんじゃないかなと思います。途中読み飛ばしていただいて、最後の種明かし部分を先に読み、それから読み返していただいた方が良いかもしれません……とか、後書きに書いても意味がないんですが……
想定外に本業が多忙なので、次回作もいつできるか分かりませんが、構想はあるので、なるべく早くアップします。
【2023年2月16日追記】
地の文ばかりで自分でも辟易したので、会話文をいくつか挿入し、少し読みやすくしました。今後は気を付けます。