九份老街殺人事件【読者への挑戦状付き】
新北市瑞芳区は台湾の北部、台北よりもさらに電車で四十分ほど北へ行ったところにある。かつて金山で栄えたこの町で今もなお有名なのは、山あいの観光地である九份老街だ。
急坂に昔ながらの屋台が立ち並ぶ街は、有名な台湾映画である『悲情城市』の舞台となった後、日本のアニメ映画『千と千尋の神隠し』の舞台にもなった。赤提灯が印象的な夜景は、台北の夜市とともに台湾観光のシンボルともなっている。
十一月の台湾は、雨季の終わりで、多くの雨が降る。
温暖な気候の台湾では、雨が降っても、あまり気にならないことも多い。さすがにスコールとなれば足止めを喰らうが、多少の雨であれば、むしろ涼しさを与えてくれる恵みの雨だ。
とはいえ、この季節、九份にしとしとと降る雨は、幾らか冷たい。寒さに凍えるというほどではない。ただ、濡れないに越したことはない。
新北市政府警察局刑事警察大隊に務める陳宇翔は、白い雨合羽で全身を包んでいた。昨日の昼過ぎから降り続いているという雨は、強くなったり弱くなったりを繰り返しているが、決して止むことはない。足元を見下ろすと、石段の上には雨水の小川が流れている。宇翔は、小川に沿って、目線を這わせる。
小川の流れる先には――。
「死体があったのはここか……」
「そのとおりです。陳刑事」
宇翔としては独り言をぼやいただけのつもりであったが、〈相棒〉の蔡枋玲がすかさず相槌を打つ。
「写真を撮っておきましょうか?」
「……ああ、よろしく頼む」
枋玲は、小柄な体躯に不釣り合いな巨大な一眼を構え、最下段に照準を定める。
宇翔は、自らと同じ新北市政府警察局刑事警察大隊の刑事である枋玲のことを〈相棒〉だと思っているが、枋玲自身は、自らのことを宇翔の〈弟子〉だか〈助手〉だか思っている節がある。常に宇翔の動きを気にしていて、何かにつけてサポートを申し出るのである。
刑事歴五年で齢三十六の宇翔に対して、枋玲は今年刑事に成り立てで、二十七歳である。たしかに一回りの年齢差のある先輩後輩の間柄ではあるのだが、一時代前の夫婦じゃあるまいし、年下の女性が年上の男性をサポートする関係というのは居心地が悪いな、と、宇翔は内心思っている。ついでに、数年前の台湾映画賞で主演女優賞に輝いた女優と、枋玲は雰囲気が似ているな、というのも宇翔は内心思っているのだが、こちらも思っているだけで口にしない。
パシャパシャと一眼レフのフラッシュが焚かれる。君は頑張り屋さんだね、くらいは、今回の事件が解決したら言ってあげよう、と宇翔は心に決める。
今回の事件――。
――否、これは〈事件〉ではない可能性が高い。
第一報を受けた時から、宇翔は、事件性に疑問を抱いていた。宇翔だけではない。おそらく上層部も、今回の〈事件〉が単なる転落事故に過ぎないと考えたからこそ、二人合わせても、新北市政府警察局のベテラン刑事一人の年齢に及ばない若手ペアに捜査を任せたに違いない。
要するに、今回の宇翔と枋玲の仕事は、滑落死に事件性がないことの確認、裏取り作業なのだ。
「陳刑事、死体は日本人のものなんですよね?」
「ああ。たしか名前は、光沢柿秋。四十五歳の男性だ」
「九份老街には何をしに?」
「十中八九、観光だろうな」
『千と千尋の神隠し』の影響に違いないが、九份老街は、特に日本人の観光客が多い。とりたててお茶が美味いわけではないにも関わらず、『阿妹茶樓』が混み合っているのは、そこが映画に出てきた『油屋』のモデルだからだ。
光沢の台湾滞在の目的自体は、観光ではなく、ビジネスだという。光沢は会社の経営者なのだという。会社、とはいっても、光沢のほかには彼の妻が経理を担当するだけの小さな会社だそうだ。
光沢の会社は、金になりそうなことならば何でも手広くやっており、今回は、台北で、日本の魚介ラーメン屋を出店することに関する商談があったとのこと。
もっとも、その商談が終わったのち、もしくはその合間に、台北を離れ、九份老街を訪れたのは、間違いなく観光目的だろう。九份老街は、屋台か、レストランか、ホテルか、そういった類の施設がほとんどなのである。
「観光客が九份老街の石段から落ちて、頭を打って死亡した……ということは、やはり事故死でしょうか」
「うーん……」
宇翔は悩んでいるフリをしたが、実際、答えはほとんど決まっていた。
殺人事件には、動機がいる。
しかし、観光客は、通常、相手から動機を持たれないのである。
現地の台湾人にとって、観光客である光沢は、単なる〈一見さん〉に過ぎない。殺人の動機を抱くほど、光沢との関係が成熟した者が、台湾にはいないのである。
動機がない以上、殺人は起きない。
ゆえに、商店が閉まった後の夜分で目撃者はいないとはいえ、光沢が殺されたわけではないことは、光沢が観光客であるということから伺い知れるのである。
光沢は、深夜、雨で濡れた石の階段で誤って足を滑らせ、滑落死したのである。決して、誰かが後ろから突き落としたわけではないのだ。
「宇翔君、事件現場はここかい?」
「うわぁっ!」
石段から落ち、危うく仏の後を追うところだった。
宇翔は、つま先を立て、今いる段にギリギリ踏み止まると、体重を後ろに戻したついでに、後ろを振り返る。
そして、背後から突然声を掛けてきた男の、無駄に整った顔を睨みつける。
黒い傘を差して立っていたその男は、この場にいるはずのない、警察学校の同期だった。
「……徐宥安、なぜここに?」
「もちろん、事件を解決するためだ。僕は刑事だから」
「なぜここにいるんだ?」
宇翔は〈這裡〉という言葉を強調した。宥安はたしかに刑事である。しかし、宥安が仕事をする管轄はここではない。宥安は、台北市政府警察局の刑事なのだ。
「観光だよ。今日は非番なんだ。休みの日に台湾随一の観光地に観光に来て何が悪いんだ?」
「観光? さっきは『事件を解決するため』とか言っていなかったか?」
宥安は、宇翔の怪訝な顔を笑い飛ばしたいと言わんが如く、フンッと鼻を鳴らす。
「宇翔君は僕の発言が矛盾してると言いたいのかい? ひどい話だね。君が全く同じ質問を二回したから、二回とも同じ回答だと退屈かと思って、わざと答えを違えてあげただけなのに」
それに、と宥安は続ける。
「実際問題として、両方なんだ。僕は、観光と事件の解決の二つの目的を持ってここに来た」
「非番なのか仕事なのかどっちなんだ?」
「非番だよ。休みの日に仕事をするっていうんだから、殊勝なもんだろ?」
ようやく話は見えた。それが了解可能なものなのかどうかはさておき。
「つまり、ボランティアで捜査協力をしたいと?」
「我ながら善良な市民だと思うよ」
「市民はここに立ち入れないはずだ。立ち入り禁止のテープが見えなかったのか?」
「警察手帳を見せたら、規制線の中には入れたよ」
宇翔は、わざとらしく大きくため息を吐く。
「公私混同も甚だしいな。非番の日は非番の日らしく、家で花生糕でも食べながらNetflixでも見てな」
「花生糕は九份でも食べられる。それに、宇翔君の方こそ公私混同じゃないか」
「は?」
「こんな可愛い女の子を連れて、事件現場でデートだなんて」
宥安の視線の先にいたのは、枋玲に他ならなかった。二人は初対面だが、枋玲の中で、宥安の第一印象が〈煩死了〉で確定したことは、宥安を睨み返した目つきからして間違いないだろう。言わずもがな、宥安は、その印象どおりの男である。
「宥安、ふざけたことは言わないでくれ。彼女は俺とペアを組んでいる後輩刑事だ」
「宇翔君、それはラッキーじゃないか。だって、この子は、昔、君が好きだと僕に話してくれた女優に似ている。たしか、あの有名な映画に出てきた……」
「黙れ」
宥安は、人の言うことを聞くような男ではない。それでもこの場面で宥安が黙ってくれたのは、宇翔が、宥安の靴を踏みつけたからだ。
宇翔は、咳払いをすると、話題を変える。
「わざわざ休みの日に来てもらったのに申し訳ないな。今回の事件は、もうすでにほとんど解決してる」
「おぉ、さすが宇翔君は優秀だね。事件現場を一目見ただけで事件解決とはね」
「ここに来る前にも色々と情報は入れてる。それに、俺は『ほとんど解決してる』と言ったんだ。もちろん裏付け捜査はする」
「とにかく聞かせてくれよ。この事件に対する宇翔君の見立てを」
部外者の宥安に話す必要はない、と突っぱねようとも思ったのだが、枋玲の眼差しが気になった。枋玲も、宇翔が、この事件の見立てを披露することを期待しているのである。
宇翔は、宥安のためではなく、枋玲のために、自らの考えを披瀝することにした。
「単なる事故だよ。滑落死だ。被害者は、深夜に、九份老街の石段で足を滑らせ、不幸にもお亡くなりになったんだ」
「宇翔君、その根拠は? 事故に見せかけた殺人という線はなぜ消せる?」
「動機だよ。被害者の光沢柿秋は、日本に居住する日本人だ。九份とは縁もゆかりもない。そんな男を、一体誰が殺したがるんだ?」
枋玲は、なるほどそうですね、と深く頷いている。他方で、宥安は、不敵な笑みを浮かべている。
「なんだ? 宥安、何か言いたいことはあるのか?」
「うーん、そうだね。僕はともかく、何か言いたいことがある人が他にいるんじゃないかな?」
「他に?」
宇翔が目を合わせると、枋玲は、何度も首を横に振った。すると、この場には、他には誰もいないはずである。
「死体だよ。被害者の死体が何か言いたがってないかい?」
「被害者の死体?」
宇翔は、石段の下を見下ろす。数時間前には死体があったはずのそこにはもう死体はなく、代わりに白いチョークが引かれている。
「宇翔君、もう死体は回収されてるよ。当たり前だけどね。死体を見たいなら、これを見れば良いさ」
そう言って、宥安は、宇翔に対して、自らのスマホを差し出した。その画面に映っていたのは――。
「宥安、どうしてお前が仏の写真を持ってるんだ?」
それは、事切れて石段の下で横たわる光沢の写真だった。新北市政府警察の内部資料に他ならない。
「別に何もおかしいことではないよ。僕は台北市政府警察の人間なんだから。台北市は台湾の首都だろ。台北市政府警察は、台北市のことだけではなく、全国のことを管掌してるんだよ」
それはそうだとしても、事件発生から間もない段階で、しかも、非番の刑事に対して捜査資料が共有されているというのは、明らかに妙である。おそらく、宥安は、正規から外れた何か別のルートで、この事件の捜査資料を入手したに違いない。
それはさておき――。
「この写真はもちろん俺も見ているが、被害者の死体が何を物語ってるって言うんだ? よく見るとナイフで刺された傷があるとでも言うのかい?」
「そんな明らかな証跡を見落とすほど、君らは無能なのかい? そうじゃないよ。被害者の手首だ」
「手首……」
たしかに被害者の左手の手首には、太い線状の跡があった。
「……腕時計を巻いた跡か」
「そのとおり。被害者の腕には、腕時計を巻いた跡がある。じゃあ、腕時計はどこに行ったんだろうか。枋玲ちゃん」
「……あ、はい!」
突然名前を呼ばれた枋玲は、慌てて背筋を伸ばし、畏まった返事をした。こんな男であっても、一応先輩刑事である以上、従順な態度を示したというわけだろう。別にその必要はないのに、と宇翔は心から思う。
それにしても、なぜ宥安は、枋玲の名前を知っているのだろうか。たとえ台北市政府警察局が、全国の警察局を管掌していたとしても、一刑事が、全国の刑事のプロフィールを把握しているはずはないだろう。
おそらく宥安は、宇翔の近辺の情報を集めているのだ。宇翔の周りにいる人物、そして、宇翔が担当している事件を嗅ぎ回っているに違いない。たかが警察学校で同期の刑事に対するものにしては、異常な関心と執着であるが、この男はそういう男だ。
「……徐刑事、何でしょうか?」
「被害者の持ち物リストを示してくれ。死亡時に身に付けていた物と宿にあった物の両方だ」
「……は、はい!」
枋玲は、腰に巻いていたバッグから、丁寧に四つ折りにされた用紙を取り出す。現場に来る前に警察署で印刷してきたものである。
…………
【被害者の所持品(死亡時)】
・ 衣服(着ていたもの)
・ 現金やカードが入った財布
・ スマートフォン
・ パスポート
【被害者の所持品(民宿内)】
・ 衣服
・ スーツ
・ パソコン
・ 歯ブラシなどの洗面用具
・ 書類(仕事に関するもの)
…………
「枋玲ちゃん、ありがとう。噂どおり、君は、几帳面で、準備が良い」
「お褒めいただきありがとうございます」
「宇翔君も優秀だけど、少しそそかっしいところがあってね。君みたいな子が宇翔君のことを公私ともに支え……」
「そんなことより、宥安、被害者の持ち物から何が分かるんだ?」
話が明らかに妙な方向に行きそうだったので、宇翔は、毅然とした態度で、話を元に戻す。
…………
【読者への挑戦状その1】
被害者の持ち物リストを見ると分かる不審点とは。
…………
「宇翔君、すぐに気付くだろう? 我々は一体何を探していたんだ?」
たしか――。
「腕時計だ。被害者の持ち物に腕時計がない」
「そのとおり! 被害者が巻いていたはずの腕時計がどこかに消えてるんだ!」
宥安に指摘されるまで気付かなかった。いけ好かない奴だが、鋭い目を持っていることは認めざるを得ない。
「腕時計がないということは……物盗りの犯行か?」
宥安が、もう一度『そのとおり!』と声を上げることを期待したのだが、そうはならなかった。代わりに、宥安は、それはどういう見立てかな、と宇翔に問うたのである。
「見立て……そうだな。犯人は強盗で、被害者を石段から突き落として殺した後、被害者の死体から腕時計を盗ったんだ」
「矛盾してるね」
宇翔には、宥安の指摘の意味が分からなかった。
「矛盾してる……? 何が?」
「死亡時に身に付けていた被害者の持ち物だよ。被害者の持ち物に、被害者の財布が含まれているだろ? 犯人が死体から身ぐるみを剥いだのだとしたら、なぜ財布を盗らなかったんだ?」
言われてみれば、全くもってそのとおりである。なぜ自ら気付けなかったのかと恥じらいさえ覚える。
「……もしかすると、順序が逆なのではないでしょうか?」
おそるおそる口を開いたのは、枋玲だった。
「犯人は、まず先に腕時計を盗んだんです。腕時計を盗んだ後で逃走を図ったところ、被害者に追いつかれてしまったので、被害者を石段から突き落とした。そして、そのまま逃走した、というストーリーならば、被害者の荷物に財布が残っていることと辻褄が合います」
後輩が立てた見立てに、宇翔はただただ感心した。枋玲は先輩である自分以上に鋭いかもしれない。
しかし――。
「枋玲ちゃん、それも矛盾してるよ。被害者の手首にハッキリと腕時計の跡が残っているのは、被害者は腕時計をちゃんと装着していたからだ。犯人は、どうやって生きている被害者から腕時計を剥ぎ取るんだ?」
これも言われてみればそのとおりである。
枋玲も、クッと息を呑み込んだまま、黙り込んでしまう。彼女もまた、宥安の掌の上で転がされているに過ぎなかったのだ。
「腕時計は盗まれているけれども、他方で財布は盗まれていないというのは、実に興味深い現象だ。犯人の思惑は、正直、僕にもよく分からないよ。ただ、一つ明確に言えることとして、この事件には、少なくとも被害者から腕時計を盗んだ犯人はいる。そうすると、単なる事故として処理することに躊躇を覚えるだろ?」
「……つまり、光沢を突き落とした者がいるということか?」
宥安は、首を横に振る。
「僕はそんなことは言っていないよ。あくまでも事故死という結論には疑義があると述べたまでだ。少なくとも、今のところはね」
「今のところは? ということは、結局、お前も現段階では事故死なのか殺人なのか判断できていないということか?」
宥安は、またもや首を横に振った。
「そうじゃない。僕が言いたいのは、腕時計が無くなっているということだけからはまだ分からない、ということさ。真相に辿り着くためには、無くなっている別の物に着目しなければならない」
「無くなっている別の物?」
「当ててみてくれ」
完全にゲーム感覚である。宥安は、刑事の仕事を、そして、人の生死を一体何だと思ってるのか。宇翔は、この人でなしを叱るか殴るかしようと心に決めた。ただし、このゲームに勝った後に。
宇翔は、枋玲がカバンから取り出したリストを念入りに見返す。自分が一人旅に行ったときの荷物を思い出しながら、それとリストに書かれた物とを照らし合わせる。
しかし、いくら考えても答えは見つからない。それは枋玲も同じのようで、腕を組んだまま、うーんと唸っている。
宥安は、黒い傘を頭上で回しながら、そんな二人の様子を、退屈そうに、しかし、楽しげに見ていた。
…………
【読者への挑戦状その2】
明らかに無くなっている被害者の持ち物とは。
…………
クルクル、クルクルと、宥安はいつまでも傘を回し続ける。
もう負けを認めざるを得なかった。
「降参だ。何が無くなってるのかサッパリ分からない。答えを教えてくれ」
宥安には勝利の喜びを隠そうという奥ゆかしさは一切なく、ハハハと高笑いをした。
降参と言うのが早過ぎた、と宇翔は早速後悔する。
「宇翔君、君の敗因を教えてあげよう。それは君が着ている合羽だ」
「合羽? 何をトンチンカンなことを……」
「トンチンカンじゃないさ。合羽を着ているとあまり意識しなくなるだろう? 雨のことを」
そこまで言われて、宇翔は、ようやく答えに辿り着いた。そして、宥安が、今までずっとヒントを出してくれていたことに気付き、悔しさでいっぱいになった。
「……傘か。被害者が持っていたはずの傘がどこにもない」
「ご名答! さすが優秀な刑事だ」
宥安は、明らかに宇翔のことを馬鹿にしている。唇を噛むほかなかった。
「九份はここ最近は毎日雨で、事件があった日の昼過ぎから今までずっと雨が降り続けているだろう? そして、九份老街の商店街の各店舗には雨よけだか日よけだかは付いてるけれども、雨を完全に防いではくれない。事件当時、被害者は傘を差していたはずなんだ。それにもかかわらず、死んだ被害者の所持品に傘が無いのはどう考えてもおかしい」
完全に盲点だったが、言われてみるとそのとおりだ。ただ――。
「傘が無いというのが、事件と何か関係するのか? まさか犯人が傘を盗んだわけではないだろ?」
「いや、犯人が傘を盗んだんだよ」
宥安は、質問をするたびに、想定外の答えを返してくる。
「犯人が傘を盗んだ? 一体何のために?」
「それはもちろん雨に濡れないためだろ。傘の用法はそれ以外にあるのかい?」
それはそうなのだが――。
「宥安、それは矛盾していないか? さっきお前は、九份老街の日よけは雨を防げないから、事件当時、被害者は傘を差してたはずだと言ったよな?」
「ああ、言った」
「だとしたら、当然、被害者のみならず、犯人だって傘を差していたはずじゃないか。犯人が被害者から傘を奪わなければならない理由なんてこれっぽっちもない」
これまで宇翔の考えを否定してばかりだった宥安だったが、今回ばかりは、良い着眼点だね、と宇翔の指摘の正当性を認めた。
「宇翔君の言うとおり、犯行当時、犯人は傘を差していたはずなんだ。それにもかかわらず、犯人は、犯行後、被害者から傘を奪わなければならなかった。なぜだと思う?」
「なぜって……傘が壊れたからか?」
「どうして傘が壊れてしまったんだい? 被害者の死体には揉み合いの跡などない。犯人は、油断していた被害者の背中を、ポンっと後ろから押しただけなんだ。被害者が油断していた……これもヒントかもしれない」
またゲームが始まっているのである。今度こそは諦めずに、自ら答えを出さなければならない。
傘を持っていたのに傘を盗まなければならなかった合理的な理由――そんなものが本当にあるのだろうか。
「苦戦しているようだね。いくつかヒントをあげよう。被害者は、今回ビジネストリップで台湾に来ているんだ。普通、台北のホテルに連泊し、そのホテルを起点に行動すべきなんじゃないのかい? それにも関わらず、なぜ被害者は九份という観光地に一泊したんだ? なぜホテルじゃなくて民宿なんだ? そして、なぜ商店も閉まっている深夜に被害者は九份老街に繰り出したんだ?」
宥安が列挙した〈被害者側の事情〉は、本件が単なる事故死だろうと高を括っていた今までは、それについて考えてみようとさえ思わなかったものである。
しかし、言われてみると、いずれも奇妙といえば奇妙なものなのだ。
被害者が何らかの秘密を抱えていた可能性がある。思うに、その秘密は――。
…………
【読者への挑戦状その3】
被害者が抱えていたある秘密とは。
…………
「……もしかして、被害者には不倫相手がいたのか?」
口にはしたものの、宇翔自身、半信半疑だった。しかし、宥安は、パチパチと手を叩く。
「正解! 被害者の台湾来訪目的は、ビジネストリップを兼ねた不倫旅行だったのさ!」
「……それで、犯人はその不倫相手の女性ということか?」
「そういうことだね。もちろん、日本の警察に頼んで裏を取る必要があるけども」
見事に犯人まで言い当ててしまった宇翔だが、あまり腑に落ちていなかった。
「……どういうことなんだ? なぜ犯人が不倫相手の女性だと断定できるんだ? 犯人が傘を奪ったこととどう関係してくるんだ?」
…………
【読者への挑戦状その4】
犯人が被害者から傘を盗んだ理由は。
…………
宥安は、事も無げに説明する。
「なぜ犯人は傘Aを持っていたにもかかわらず、被害者から傘Bを盗まなければならなかったのか。その答えは、A=B、つまり、犯人は被害者と相合傘をしていたからだ」
――なるほど。それならば傘は一つしかないのだから、犯人はその傘を持ち帰る必要がある。そして、相合傘をするということは、犯人と被害者が恋仲であることの証拠だ。
「なぜビジネストリップなのに九份で宿泊したのか。それは、不倫旅行も兼ねていたから。そして、深夜の店の閉まっている商店街に繰り出すなんて〈奇行〉も、恋人同士だったら説明がつけられるだろう?」
点が全て繋がっていく――。
「そして、なぜ民宿なのか。それは、我々警察が、被害者に日本から連れて来た同伴者がいることに気付けなかったこととも関連するが、おそらくこういうことだ。被害者は、一人旅を装い、宿泊先にも〈二人目〉の存在を隠していたんだ」
「つまり、一人分の宿泊料金で二人で泊まることで、二人目の宿泊料金を浮かしてたというわけか」
光沢は会社の経営者だという。それなのに、なんてセコイ男なのだろうか――。
「宇翔君、そういう思惑があった可能性は否定しないけど、被害者にはもっと切迫した事情があったはずだよ」
「切迫した事情?」
「分からないかい?」
…………
【読者への挑戦状その5】
被害者が一人分の宿泊料金で宿に泊まらなければならなかった切迫した事情とは。
…………
宇翔が思いつく前に、それを口にしたのは、枋玲だった。
「経理担当の奥さんの存在ですね! ビジネストリップである以上、宿泊代金は経費となります。すると、帰国後、奥さんに、宿泊の領収書を見せなければなりません。そこで二人分の宿泊料金がかかっていたら奥さんに怪しまれます。ゆえに、宿に一人で泊まったことにしなければならなかったわけですね!」
「正解! さすが枋玲ちゃんは優秀だね! 君、台北市警察局に来ないかい? こんな片田舎で刑事をしてるのはもったいないよ」
さすがに聞き捨てならなかった。
「おい。宥安、引き抜きはやめろ。彼女は新北市警察局で重宝している貴重な人材なんだ」
「そう目くじら立てないでくれよ。もちろん僕は、宇翔君にだってこっちに来て欲しいと思ってるよ」
「そういう問題じゃ……」
「まあ、落ち着けよ。単なる冗談なんだからさ。僕が人事権を握っているはずはないだろう?」
それはそうである。要らぬところで熱くなってしまった。
「まあ、ともかく、事件の真相はそんな感じだよ。被害者が民宿に泊まったのは、民宿の方がホテルよりも緩いから。民宿には監視カメラがあるわけではなく、〈二人目の宿泊者〉の存在を隠すにはちょうど良かったんだろうね。不倫相手の女の子が被害者を殺した理由はハッキリとは断言できないけど、無限に考えられる。危険な橋を渡ってる最中のことだからね」
新北市警察局が〈事故死〉だと思い込んでいた事件を、台北市警察から来た〈非番〉の男が、〈殺人〉であることを見事に明かしてしまった。素直に感謝する気持ちにはなれないが、それでも、宥安が只者ではないことは、宇翔も認めざるを得ない。
捜査を引き継いだ日本の警察は、光沢を殺した犯人として、光沢の愛人である若い女を逮捕した。
その若い女は犯行を自供し、光沢との不倫旅行の全容を語った。
光沢を九份老街の石段から突き落とした動機は、有り体にいえば〈痴情のもつれ〉であり、光沢が既婚者であることを隠していたことに端を発する、よくある話である。
若い女が、光沢の腕時計を盗んだ理由は、〈慰謝料代わり〉だという。光沢は、常に金ピカの高級腕時計を着けており、然るべき店で売れば云十万はするのだと、若い女は常に聞かされていた。
他方で、財布には手を付けなかった理由は、電子決済が主流となった今のご時世では財布の中に入っている現金の額はたかが知れているし、事件性を疑われたくなかったからだという。
(了)
先週から今週にかけて8日間ほど家族で台湾旅行に行きました。この作品はそれを踏まえて、ということになります。本当は台湾やこの作品のことを色々と書こうと思ったのですが、それどころではなくなりました。
なんと目標としていたブクマ100を達成しました!!
2022年5月に投稿を開始しましたので、2年半もかかりました。総文字数もなんと34万字を超えています。
我ながら無茶な挑戦をしたなという思いもありますが、皆さんのご支援のおかげでここまで辿り着けて本当に良かったです。ありがとうございました。
そして、ちょうど本日(2024年12月1日)ですが、文学フリマ東京で出店しています。
「新生ミステリ研究会」(く―21・22)で出店しています。近郊にお住まいの方は、本当に素敵なイベントですので、ぜひお立ち寄りください。
ということで、今は文学フリマの準備でバタバタしてますので、この後書き欄は、後日充実させます。
とにかくここまで支えていただき、本当にありがとうございました!!