探偵を辞めたいとはじめて思った日
「遅れまして、すみません。途中、ひどく道に迷ってしまいまして」
菱川あいずは、館に到着して早々、ハンチング帽を被ったまま、広間で待っていた八人に深々と頭を下げた。
「おやおや、ようやく探偵さんのお出ましかい。待ちくたびれたぜ。道に迷ったって言うが、まさか丸一日近く迷ってたというのか?」
「……本当にすみませんでした。場所がとても分かりにくく……」
「これじゃあ、迷う方の〈迷探偵〉だな。アハハハハハ」
いかにも人を馬鹿にしたように、小刻みに声を振るわせながら笑う黒縁メガネの男を、菱川は睨みつける。ハンチング帽の下の鋭い目に気付いた男は、遅刻しておいて逆ギレかい、などと言って、さらに笑う。
菱川は思う——こいつ嫌い、と。
「菱川さん、ここまで辿り着くのにだいぶお疲れでしょう? 無理されないでください」
対照的に、菱川に優しく声を掛けたのは、淡ピンク色のカーディガンを羽織った女性である。
「時間のことは一旦放念されて、少し休まれたらどうですか?」
カーディガンの女性は、背もたれのある椅子から立ち上がると、菱川に水の入ったグラスのコップを差し出す。
その素晴らしい気遣いを抜きにしても、このカーディガンの女性は美人の部類に入るな、とコップを受け取りながら菱川は思う。
ちょこちょこと菱川に駆け寄り、コップを持った右手とは逆の左手にルーズリーフを手渡したのは、助手の渡戸俊史——ワトスン君だった。
ワトスン君が菱川に耳打ちする。
「制限時間はあと三十分です」
分かってるよ、と菱川はワトスン君に耳打ちをし返す。
今回、菱川は、〈依頼から二十四時間以内に事件を解決するコース〉で事件を請け負ったのである。
ところが、痛恨の迷子によって、菱川が現場の館に到着した段階で、すでに依頼から二十三時間三十分が経過してしまっていた。契約上、あと三十分以内に事件を解決しなければ、菱川は報酬を一切受け取れないこととなってしまう。
正直、かなり焦っていた。
「ワトスン君、例のブツは?」
「今菱川さんに手渡したルーズリーフです。そこに、菱川さんよりも一足早く館に到着した僕が調べたことが全て書いてあります」
「でかしたぞ。ワトスン君。たまには使えるじゃないか」
「たまにはは余計です。それから、言っておきますが、ルーズリーフには犯人が誰か、ということまでは書いてありません。書けなかったんです。僕にはそっち方面の才能がないので」
「ちゃんと自覚できていて偉いじゃないか」
「分別はあるんです。犯人を言い当てるのは探偵である菱川さんの役目ですからね。関係者全員を広間に集めておきましたので、あとはルーズリーフに書かれた情報を基に、菱川さんが華麗に犯人を言い当てるだけです」
「分かった」
菱川は、カーディガンの女性にもらったコップの水を少し飲んでから、ワトスン君からもらったルーズリーフをグシャグシャに握り潰す。
そして、目をまん丸に見開いた探偵助手を尻目に、宣言する。
「犯人はあなたです」
菱川が指差したのは、他でもない、黒縁メガネの男である。
もはや唖然としていたのは、探偵助手のみではなかった。広間にいた全員が度肝を抜かれたようだ。菱川の超特急推理に。
黒縁メガネの男は、アハハハハとまた嫌な笑い声を上げる。
「これはたまげたなあ。まさか読者が登場人物の名前はおろか、事件の内容すら全く把握していない段階で犯人を言い当てるだなんてな」
「今のご時世、タイパが大事なんです。結論だけ知れれば読者は満足するでしょう」
「いや、そんなわけない。読者は探偵の推理過程の美しさに酔いしれたいんだよ」
「それも一理はあるかもしれません」
「それなのに、お前は一切推理をしていないじゃないか。俺を犯人だと指し示す根拠はあるのかい?」
もちろんあります、と菱川は答える。
「その根拠というのはなんだ? まさか俺の第一印象が悪いから、とかではないだろうな?」
菱川は、冷や汗をかく。——図星だった。
しかし、内心ヒヤヒヤなことを悟られないように、菱川は余裕を取り繕う。
「……そ、そ、そんなわけないじゃないですか」
「図星だったか」
「……違います」
「菱川、お前は名探偵なんだろう? だったら、ちゃんと論理的に根拠を示せ。良いか。論理的にだ」
「……分かりました。僕の推理過程を論理的に示すとこういうものです」
広間には、セミナー等の用途で使うためなのか、ホワイトボードとマーカーペンが置かれていた。
菱川はマーカーペンを手に取った後、少し考えてから、ある論理式を示す。
「めちゃくちゃじゃねえか! お前はバカか!?」
黒縁メガネの男が、唾を飛ばすほどの勢いで、菱川のことを罵倒する。
「バカはあなたの方です。僕が示した論理式を理解できないんですか? 完璧な三段論法じゃないですか」
「前提が間違ってるんだよ! 前提が! なんだよ、その『名探偵は犯人を言い当てる』って」
「間違ってませんよ。シャーロックホームズもポアロもフェル博士も、いつも犯人を言い当ててます」
「……まあ、それは否めないが、論理的に言えばそれは逆だ」
「逆?」
黒縁メガネの男は、菱川からマーカーペンをふんだくり、ホワイトボードにいかにも神経質そうな細かい字を書く。
「『犯人を言い当てられるならば、名探偵である』。これなら正しい立論だ。他方で、その逆は真ではない。『名探偵であれば犯人を言い当てられる』というのは、そういう場合もあれば、そうじゃない場合もある」
それに、と黒縁メガネの男は偉そうに続ける。
「そもそも、菱川、お前が〈名探偵〉だという事実すら疑わしいだろ」
「何を言ってるんだ! 無礼者! 僕は名探偵に決まってるだろ!」
「どうして?」
「だって、名探偵だから」
黒縁メガネの男は、フッと鼻で笑う。
「完全な循環論法じゃないか!」
「そうじゃなく、ちゃんと論理的に示してくれたまえ。菱川、お前が名探偵だということを」
「論理的に……どうやって?」
黒縁メガネの男は、マーカーペンで、ホワイトボードをトントンと叩く。
「ここに書いたとおりだ。『犯人を言い当てられるならば、名探偵である』は真。菱川、今回の事件の犯人を見事言い当ててみろ。そうすれば、お前が名探偵であるということが証明される。ただし、当てずっぽうではダメだ。犯人が誰かを論理的に言い当てるんだ」
菱川は、思う——やっぱりこいつ嫌い、と。
とはいえ、黒縁メガネの男が言うことにも一理あることは認めなければならない。
少なくとも、ワトスンがまとめてくれたルーズリーフの調査結果くらいは確認した方が良さそうだ。
菱川は、一度グシャグシャにしたルーズリーフを、シワを伸ばしながら広げる。
…………
【登場人物一覧】
右腕に怪我を負った青年……栄野
腰の曲がった老人……尾位田
カーディガンを羽織った美女……椎奈
白髪の老女……泥坂
背の低い童顔女性……飯島
車椅子の少年……江風炉
被害者(大柄な中年男性)……比嘉井
黒縁メガネの男……犯澤
探偵……菱川
助手……渡戸
…………
ルーズリーフの記載はその後も続いていたが、菱川は、冒頭の【登場人物一覧】を見ただけでピンと来てしまった。
犯人はあなたです、とある人物を指差す。
その人物とは——。
——黒縁メガネの男、もとい、犯澤である。
「犯人は、犯澤さん、あなたです!」
本日二度目のご指名にも、犯澤は、さして驚いた様子はなく、平坦な口調で問うてくる。
「根拠は?」
菱川は、迷いなく答える。
「名前です。犯澤という名前の人物は、犯人だと決まってるんです」
「……なぜだ?」
「なぜって……読んで字の如くじゃないですか? 犯澤の〈犯〉は犯人の〈犯〉なんですから。犯人以外に、犯澤なんて名前は付けないでしょう。普通」
「名前を付ける? 誰が俺に〈犯澤〉という名前を付けたんだ?」
「もちろん作者です」
「メタ視点はやめろ! 論理的に推理するんだ! それに、作者はミステリ書きなんだろ? ミスリードを誘うために、犯人じゃない人物に〈犯澤〉と名付けてる可能性だってあるじゃないか!」
「この作品の作者がそんなアンフェアな名付けをするはずが……」
ないとは言い切れない、と思った菱川は、そこで黙ってしまった。こいつ、なかなかやるな。犯澤のくせに。
腕時計を確認する。そうこうしているうちに十分も時間を食ってしまい、残り時間はあと二十分。
もどかしくはあるが『急がば回れ』という言葉もある。
菱川は、ルーズリーフの先を読み進める。
…………
【事件の概要】
昨日の夜遅く、この館から徒歩で片道二十分ほど距離のある崖の下の岩礁で、比嘉井の死体が発見された。
比嘉井には全身を強く打ちつけた痕があり、何者かに崖の上から突き落とされたに違いない。
…………
これだけを読んで、菱川はまたもやピンと来てしまった。
そして、自信満々に、ある人物を指差す。
その人物は——。
「犯人は、犯人さん、あなたです!」
「犯人さん?」
「すみません、言い間違えました。犯澤さん、あなたです」
本日三度目のご指名にも、犯澤は一切動揺しなかった。
「菱川、今度の根拠はなんだ?」
「今度の根拠はちゃんとしっかりしてます」
菱川は胸を張る。
「へえ、一体どんな根拠なんだい?」
消去法です、と菱川は言う。
「【事件の概要】からすると、犯澤さん以外の人物は、誰も殺人を実行できないのです」
菱川は、滔々と述べる。
「今回の事件の犯行態様は、崖から突き落とすというものです。そして、【登場人物一覧】によると、被害者である比嘉井は『大柄な中年男性』だとのことです。比嘉井を崖から突き落とすことができるのは、力関係的に比嘉井以上か、少なくとも同等な者に限られます。そこで、まず——椎奈さんは犯人候補から除外されます」
「待ってくれ!」
またもや犯澤が突っかかってきた。
「どうして『まず椎奈』なんだ!?」」
「だって、椎奈さんはいかにも上品でか弱い女性じゃないですか」
「『上品』という形容詞は不要だと思うが……それはさておき、力関係を問題にするなら、女性かつ高齢の泥坂の方が劣るだろうし、他にも車椅子の江風炉だって……」
菱川は、ゴホンと咳払いすると、単なる順番の問題です、と断る。
「順番の問題に過ぎませんので、別に、椎奈さんだけが犯人候補から除外されるわけではありません。犯澤さんの言うような理由で、結果的には、老女の泥坂さんも車椅子の江風炉さんも犯人たりえません。さらに、老人である尾位田さんも、小柄な女性である飯島さんも、右腕を怪我している栄田さんも、犯人ではありません。よって、消去法により、犯人は犯澤さんしかあり得ないのです」
決まった、と菱川は思った。自惚れてしまうほどの美しい論理である。
それにもかかわらず——。
犯澤は笑っている——例の、人をバカにしたような笑い方で。
「アハハハハ。そんなの詭弁だよ。全くもって論理的じゃない」
「……どこが論理的じゃないんだ?」
「だって、すべての女性が男性より力が弱いだなんて言い切れないだろう? 著名な女子レスリングの選手の名前を挙げるまでなく、反例はいくらでもある」
「でも、椎奈さんは器量が良くておしとやかで美しくて上品でか弱い女性なので……」
「菱川はだいぶ椎奈に熱を上げてるみたいだな……まあ、それは別に構わないよ。百歩譲って、椎奈らが力関係で比嘉井に劣っていたとしても、たとえば油断した隙をつくなどして、崖から突き落とすことはできるだろ?」
「……そ、それは……」
——たしかに正論である。
ただ、その正論を突き詰めてしまえば、古典的な探偵小説における〈フーダニット〉の推理は大抵成り立たないことになってしまう。
粗暴犯は男性の仕業で、毒殺は女性の仕業だという程度の〈決めつけ〉は、ミステリの世界においては〈論理的〉な推理として許容されるのだ。
「それから、江風炉の車椅子が〈演技〉である可能性は? 栄田が被害者との揉み合いの中で怪我を負った可能性は? それから……」
「うるさい! 分かったから! もうちょっと先を読むから黙っててくれ!」
残り時間は十五分。
犯澤の演説を聞いている時間などは、微塵もない。
菱川は、ルーズリーフに目を落とし、今度はちゃんと最後まで読み切る。
…………
【死亡推定時刻】
司法解剖がされたわけではないが、被害者の死亡推定時刻は、20時00分であるとハッキリ特定できる。
なぜなら、被害者が崖から突き落とされた際、被害者が腕に巻いていた腕時計が壊れて針の動きが停止してしまったところ、その指し示す時刻が20時00分だったからである。
なお、被害者の時計は、一秒の狂いも生じ得ない、電波時計であった。
【動かしがたい事実】
関係者の証言や客観的な状況から、以下の事実に関しては、前提として良い。
・ 比嘉井には防御創のようなものが見られることから、比嘉井が自殺した可能性はない
・ 館には、談話室、食堂、遊戯室、さらにそれぞれの登場人物(菱川と渡戸除く。以下同じ)が宿泊する部屋があり、犯行があった20時00分時点で、犯人以外の登場人物は、談話室、食堂、遊戯室、自室のいずれかにいた(ほかにも広間があるが、広間には監視カメラが設置されており、かつ、このカメラには誰も映っていない)
・ 犯澤は、比嘉井から一千万円近いお金を借りており、しつこく取り立てを受けていた
【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】
(なお、犯人以外は嘘をつかないということ、同じ部屋に複数人いる場合には相互監視下につきアリバイが成立することは当然の前提として良い)
《栄野の証言》
「僕は、自室にも誰かの部屋にもいませんでした。僕が談話室にいたならば泥坂さんとふたりきりで、僕が食堂にいたならば尾位田さんとふたりきりで、僕が遊戯室にいたならば飯倉さんとふたりきりでした」
《尾位田の証言》
「わしは、自室にも誰かの部屋にもいなかったのう。わしが食堂にいなければ談話室におったし、わしが食堂にいたら椎奈さんと一緒だったし、泥坂さんが食堂にも遊戯室にもいなければ、わしは談話室にはおらんかった」
《椎奈の証言》
「私は自室にも誰かの部屋にもいませんでした。私が遊戯室で泥坂さんと一緒にいたのでなければ、食堂にいたかもしくは栄野さんと一緒にいたということです。私が談話室にいなければ、飯島さんと江風炉さんは一緒にいたということになります。私がどこかにひとりきりでいただなんてことは絶対にありません」
《泥坂の証言》
「わたしゃ自室にも誰かの部屋にもいなかったわい。わたしが遊戯室におったならば飯島とふたりきりじゃないということはなかった。わたしが遊戯室もしくは談話室にいなければ、尾位田かつ江風炉と一緒におった。わたしが談話室でひとりきりということはなかった」
《飯島の証言》
「私は自室にも誰の部屋にもいなかったよ。私が栄野クンと一緒にいるなら談話室、椎奈ちゃんと一緒にいるなら談話室もしくは遊戯室、江風炉クンと一緒にいるならば遊戯室って感じ」
《江風炉の証言》
「……ぼ、ぼくは自室にも誰の部屋にもいなかったです。ぼくが[椎奈さんと一緒に談話室にいる、かつ、泥坂さんと一緒に談話室にいる]ということではない場合には、ぼくは食堂にも談話室にもいなかったです」
《犯澤の証言》
「俺はずっと自室に籠ってた」
…………
ルーズリーフに書かれたメモをすべて読み切った菱川は、まず、このメモの作成人である探偵助手の姿を探す。
ワトスン君は、まるで〈一仕事終えてホッと一息〉と言わんばかりに、関係者席のソファに腰を深く沈め、熱い紅茶を啜っている。
菱川は、殴りかかるくらいの勢いでソファまで駆け寄ると——ワトスン君の顔面を思い切り殴った。
「痛いっ!……菱川さん、一体何をするんですか!?」
「一体何をしてるんだはこっちのセリフだ! なんだこの【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】は!? クイズか!? 真面目に聴取したのか!?」
ワトスン君は、シャツの袖で鼻から出た赤い液体を拭う。
「……もちろん真面目にやりました。真面目に聴取した結果、各人は、まさに一字一句違わずにルーズリーフに記載したとおりの証言をしたんです。たしかに要領良くまとまってはいないかもしれませんが、僕も数時間前にこの館に着いたばかりなんです。証言を整理したり、再度聴取をしたりする時間はなかったんです」
菱川はもう一度ワトスン君の鼻っツラにパンチをお見舞いしようか迷ったのだが、やめた。ワトスン君は所詮ワトスン君なのである。ワトスン君にまともな仕事ぶりを期待しても詮無きところである。
それに——。
【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】に頼るまでもない。そこに至る以前に、菱川は犯人を一人に絞ることができていた。
「犯人は——犯澤さん、あなたです」
菱川が黒縁メガネの男を指差すのは、本日四度目だった。
「俺が犯人だって? 何か根拠はあるのかい?」
「根拠は【動かしがたい事実】に隠されてます」
菱川は、館にいる関係者一同に、広げたルーズリーフを示す。
「【動かしがたい事実】、すなわち、争う余地のない事実の中に、こういったものが含まれています。『犯澤は、比嘉井から一千万円近いお金を借りており、しつこく取り立てを受けていた』と。つまり、犯澤は、比嘉井のことを逆恨みして、比嘉井を殺害したのです」
犯澤が、待ってましたと言わんばかりに、すかさず反論してくる。
「仮に俺が比嘉井のことを殺したいほど恨んでいたとしても、本当に比嘉井を殺すとは限らないだろ? 論理的にいえば、『犯人であれば動機がある』という命題は真だとしても、その逆である『動機があれば犯人である』は明らかに偽だ」
「仮に動機を持つ者がみな犯人だなんて言ったら、すべてのミステリがクリスティの某名作になってしまうぜ。何か反論はあるか?」
反論は——ない。そして、時間もない。
菱川は唇を噛みつつ、暗号解読に取り掛かることにする。
残り時間はあと十分。
気はとても重かったのだが、【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】を再度読み返してみると、菱川の灰色の脳細胞はすぐに動き出した。
そして、あっという間に犯人を指弾した。
「犯人は——犯澤さん、あなたです!」
犯人だと指摘されるのは本日五回目だというのに、犯澤は平然としている。手数の多さには圧倒されないタイプのようだ。
「今度こそ、まともな根拠があるんだろうな?」
「もちろんあります」
菱川は、掲げたルーズリーフの最後の一行を指差す。
「被害者の止まった時計が指し示す時刻より、被害者が殺されたのは昨日の20時だと特定できます。そこで、昨日の20時にアリバイがない人間が犯人だと特定できるのですが、【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】によれば、犯澤さんは『俺はずっと自室に籠ってた』と証言しています。つまり、犯澤さんには犯行時のアリバイが一切ないのです。ゆえに、犯人は犯澤さんです!」
ああ言えばこう言う男は、やはりこの場面でも口ごたえをしてきた。
「それも論理的におかしいだろ。正しい命題は、犯人ならば犯行時のアリバイがない、であって、その逆である、犯行時のアリバイがなければ犯人だというのは成り立たない」
「たしかに俺にはアリバイはないが、他にもアリバイがない者がいて、そいつが犯人かもしれないだろ?」
菱川は、いま一度ルーズリーフを見直した後、言う。
「それはあり得ません。犯澤さん以外の全員が、犯行時、自室にも他人の部屋にもいなかったと言っているんです。ということは、犯澤さん以外の人たちは、談話室、食堂、遊戯室のいずれかにいるということですから、相互監視下でのアリバイがあります」
「論理的にそうは言い切れないぜ。たとえば、談話室に三人いて、食堂に二人いて、遊戯室には一人しかいないとしたら、その遊戯室にいた一人にはアリバイはないだろ。だから論理的には、自室にいなくてもアリバイがない場合がありえるんだ」
先ほどから、〈だから論理論理〉だとか、〈だけど論理論理〉だとかあまりにうるさい。お前はポルノグラフィティか?
「菱川、分かったか? 【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】をすべて整理しない限り、論理的に犯人を言い当てることはできないんだ。諦めて、【昨日20時00分時点での所在にかかる各人の証言】に向き合うんだ」
「いやだいやだいやだいやだ」
「駄々をこねるな」
「だって、意味分からないじゃないか! なんだよこの江風炉の証言の『ぼくが[椎奈さんと一緒に談話室にいる、かつ、泥坂さんと一緒に談話室にいる]ということではない場合には』って! なんで証言の中に数学みたいな括弧が入ってるんだよ!」
ああそれは簡単だよ、とか言って、犯澤がホワイトボードにマーカーペンを走らせる。
「〈ド・モルガンの法則〉によってこのように書き換えられるんだ。つまり、『ぼくが[椎奈さんと一緒に談話室にいる、かつ、泥坂さんと一緒に談話室にいる]ということではない場合には』というのは、『ぼくが椎奈さんと一緒に談話室にいない、もしくは、泥坂さんと一緒に談話室にいない場合』と書き換えられる。それとも、〈ド・モルガンの法則〉は学校で習わなかったかい?」
「習ったよ! ただ、一体どこの世界に、推理の中で〈ド・モルガンの法則〉を使う探偵がいるんだよ!? そんなの探偵が使うべきものじゃない!」
菱川が色々と駄々をこねている間に、制限時間は五分を切っていた。
背に腹は代えられない。
ついに観念した菱川は、犯澤の手からマーカーペンをぶん取ると、〈論理パズル〉を解き始めた。
こんな方法で推理する探偵なんて、古今東西どこにもいないだろう……某ガリレオ先生を除けば。
「……ふう、解けた」
制限時間を三十秒残して、〈論理パズル〉の答えが出た。
この答えから導かれる帰結は——。
「犯澤、結局お前じゃねえかよ!」
あまりの拍子抜けに、菱川は、犯人を指さすという〈いつものお約束〉すら忘れてしまっていた。
結局、犯澤以外の関係者は、談話室、食堂、遊戯室にふたりずついて、いずれも相互監視下のアリバイが成立していたのである。
アリバイがないのは犯澤だけであり、論理的に、犯人は犯澤しかあり得なかった。
——犯澤は、ついに観念した。
今までの反抗的な態度が嘘だっかのように、項垂れると、俺が殺しました、と素直に認めたのである。
「俺は比嘉井が憎かったんだ。比嘉井は、たかが俺が借りた一千万円を返さなかったというだけで、俺にしつこく連絡してきて、金を返さなければ裁判で訴えるぞとまで言ってきて……」
要するに、犯澤の逆恨みである。
「参ったよ。降参だ。菱川、お前は正真正銘の名探偵だよ」
どうやら手放しで褒められているようであるが、菱川としては、なんともいえない複雑な心境だった。
——しかし、これで事件が終わってくれるのであれば、まだ良かった。
「菱川さん、待ってください! 菱川さんの推理は間違ってます!」
——場が静まり返った。
事件関係者全員の視線が、ある一人の女性へと注がれている。
——椎奈である。
椅子から立ち上がり、菱川の推理に異議を申し立てたのは、淡ピンク色のカーディガンを羽織った美女だったのである。
「……椎奈さん、今なんて……?」
「菱川さんの推理は間違っているんです」
「いや、でも、僕は論理的に正しい道のりを辿ってこの結論に……」
「私には論理はよく分かりません。ただ、事件の犯人が誰かは分かっています」
それは私です、と椎奈は言う。
誰も何も言い出せないうちに、椎奈は犯行の自白を続ける。
「事件の前の晩、私は、比嘉井にレイプをされたのです。比嘉井に部屋に誘われ、比嘉井に出された飲み物に口をつけたところ、そこには睡眠薬が入っていて、気を失うように眠ってしまった私を比嘉井は……」
椎奈の目から大粒の涙が流れる。
「行為中、比嘉井はスマホで動画を撮影していました。私は、せめてそのスマホの動画だけでもなんとかしたいと思い、翌日、その話をするために崖の付近に比嘉井を呼び出しました。そして、揉み合いの挙句、比嘉井からスマホを盗み取りました。私は盗んだスマホを崖の下に投げて壊してしまおうと思っていたのです。それなのに——」
魔が差しました、と椎奈は言う。
「醜い形相で崖まで追いかけてきた比嘉井を見た時、こう思ってしまったのです。〈レイプを『記録しているもの』だけでなく、レイプを『記憶している者』まで消してしまえれば〉と。私は、私に飛びかかってくる勢いを利用して、比嘉井を崖に突き落としました」
自白には迫真性があり、到底嘘には思えなかった。
ただ——。
「そうだとすると、犯澤さんはどうなるんですか? 犯澤さんも先ほど犯行を自供していましたが……」
「犯澤さんは、私の罪を被ってくれたのです」
ちょっと待ってくれ、という犯澤の声には、今まで一度も見せなかった焦りの色が混じっていた。
「椎奈さん、そんな出鱈目なこと言わないでください。比嘉井を殺したのは、あなたではなく、俺であって……」
「犯澤さん、もう良いんです。もうこれ以上あなたの好意を利用することはできません」
「それは……」
「ずっと前から気付いてました。犯澤さんが私のことを好きだということは。そのことを知りながら、私は、比嘉井を殺してしまったことをあえて犯澤さんに相談したんです。私はなんて罪深い女でしょう」
「そんなことは別に構わないんだ。そんなことは別に良くて……」
「いいえ。良くなんかありません。私の罪は、私自身で償います。比嘉井さんを殺した罪を償うために警察に出頭し、必要な期間服役をします」
それから、と椎奈は続ける。
「犯澤さんの好意を利用してしまった罪も私は償います。もし犯澤さんがよろしければですが、私が服役したのち、私と結婚していただけないでしょうか?」
「椎奈さん……」
「それとも、人を殺した女と結婚なんてできませんか?」
「いいえ。結婚します。出所まで待ちます」
菱川は一応指摘しておく。
「汲むべき事情はあるとはいえ、やったことは盗んだものの取り返しを防ぐための事後強盗で、強盗殺人罪が適用されると思うので、結構長く服役すると思いますよ」
犯澤は、少しも臆することがなかった。
「何年、いや、何十年でも待ちます」
「ありがとうございます。犯澤さん、あなたは本当に優しい人」
犯澤と椎奈は、お互いに歩み寄り、抱き合うと、そのまま熱い口づけを交わした。
そのシーンを〈特等席〉とも呼べる位置から見ていた菱川は思う——なんてものを見せつけられているのだろうと。
菱川は、読者にも謝りたい気持ちでいっぱいだった——こんなクソみたいな探偵小説を一万字も読ませてしまい申し訳ないと。
〈犯澤〉という名前の人物が実は犯人ではない、というアンフェアなフェイントを使ってしまった件に関しては、きっと作者も謝りたい気持ちでいっぱいだろう。
長い接吻のあと、椎奈の整った顔が、菱川の方を向く。
「私は菱川さんも利用してしまいました。本当にごめんなさい。私は、犯澤さんの立てた計画に基づき、探偵に〈誤った推理〉をさせるために菱川さんを呼んだのです。今回、菱川さんはまんまと罠にかかって犯人当てを外したわけですが、菱川さんへの謝罪の意を込めて、報酬はお支払いします」
菱川は、真顔で答える。
「要りません。ご祝儀にしてください」
(了)
井上真偽の「恋と禁忌の述語論理」を読んで、自分も「論理学×ミステリ」に挑戦したいと思ったのが最初のきっかけでした。
しかし、プロットを練っている最中から、「あれ? これつまらないぞ」と気付いてしまい、執筆しながらも「絶対につまらないんだけど、どうしよう」と焦っていて、完成して「ヤバい。超つまらない。お蔵入りさせよう」と思ったのですが、なぜか投稿していました。
自信があるのは、ポルノのくだりだけです。
それから、タイトル回収はそれなりにうまくいってますかね。
なお、椎奈の動機については、東野圭吾の某名作のアレンジではあるものの、このしょうもない短編で使うべきではなかったなと後悔しています。