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メンヘラ織姫

 ついに今年もこの日が来てしまった。


 7月7日。七夕。


 年に1度だけ、天の川に大きな橋がかかり、織姫が俺に会いに来ることが許される日。



 天下人たちは、この日をロマンチックで素敵な日と「勘違い」しているようだが、張本人の彦星である俺から言わせてもらえれば、1年で最も憂鬱な日である。



 なぜなら、今の織姫には、俺と結婚した当初のような健気さやいじらしさなど一切ありやしない。

 彼女は、1年に1度しか会えないという極限的な遠距離恋愛のせいで、精神を病んでしまったのである。



 1年に1度のメンヘラ織姫との再会。



 それは俺の心にのしかかる重たい重たい負担でしかなかった。





 日が暮れて、天の川に橋がかかり始める。

 俺は、年に1度の約束を律儀に守ってくる神に対して、殺意を覚えざるを得なかった。



 橋がかかりきるや否や、織姫が、着物の裾を踏みそうになりながら、バタバタと駆けてくる。



「彦星様、ねえ、悲しかった? 1年間私に会えなくて悲しかった? ねえ? 答えて?」


 第一声からこの問い詰めである。

 早速気が滅入る。



「ああ」


「嬉しい! 大好き!」


 メンヘラ織姫は俺の空返事で満足したらしく、俺の胸に飛び込み、キツく抱きしめてきた。



「私、死ぬかと思ったの。彦星様と1年間も会えなくて、私、死ぬかと思ったよ」


「そんなこと言うなよ」


「でも、私、心配だったんだよ。彦星様はかっこいいから、私以外の女に言い寄られて、その女のことが好きになっちゃたらどうしようって。大丈夫だった? 私以外の女を好きになってない?」


「大丈夫だよ」


「私のことが1番好き?」


「ああ」


 織姫に抱きしめられながら、俺はある強い違和感を覚えていた。


 織姫の発言はいつも通りメンヘラ平常運行である。



 俺が気になったのは、彼女の体型についてである。



「織姫、ちょっと失礼なことを聞いていいか?」


「何?」


「……太った?」


「……え?」


 抱きしめられたときの感触が、去年とは違っていたのだ。


 俺は、半ば突き放すような形で、織姫とのホールド状態を解除する。


 すると、やはり去年との違いは明白だった。

 織姫のお腹の部分だけがぽっこり膨らんでいるのである。



 織姫は、ペロッと舌を出す。



「彦星様に会えないストレスで、最近過食気味で……」


「嘘つくな!! 妊娠してるだろ!!」


 織姫の体型は完全なる妊婦体型だったのである。

 肥満ではこのような体型にはならない。

 確実にお腹に新たな命を宿している。



「人に浮気するなとか言いながら、お前が浮気してるだろ!! 一体誰の子どもなんだ!!」


 さすがに妊娠している事実は隠せないと踏んだらしい。

 織姫の言い訳は、妊娠を前提としたものにシフトした。



「彦星様!! なんてことを言うの!?? 最低よ!!! これは彦星様の子どもよ!!」


「ふざけるな!! そんなわけないだろ!! 1年前に会ったとき、俺はお前のことを抱いてないからな!!」


「ひどい!! そうやって責任逃れするの?? 無理!!」


「無理はこっちのセリフだ!!」



 追い詰められた織姫は、その場に倒れ込むようにしてうずくまり、おんおんと咽び声をあげた。


 俺がその様子を醒めた目で見ていると、やがて織姫はすくっと立ち上がり、涙で目を赤く腫らしながら、俺の方へと詰め寄ってきた。



「彦星様、ごめんね……。私、最低の女だよね。死んだ方がいいよね?」


 「また始まったよ」と俺は心の中で舌打ちをする。



「私、彦星様に会えないのが辛くて辛くて、本当に耐えられなかったの……」


「だからと言って、別の男と寝るのは違うだろ?」


「ごめんね……。本当にごめんね……。私が、彦星様と違って、弱くて、バカな人間で……」


「そういう問題じゃない」


「私には彦星様しかいないの。私、彦星様のことが1番好きなの。信じて」


「信じられないね。客観的事実と矛盾し過ぎてる」


「うう……」


 織姫がまた倒れ込み、うずくまる。


 これで完全にノックアウトかと思いきや、しばらくしてまたすくっと立ち上がった彼女は、ある「秘策」に打って出たのである。



「彦星様、嫡出推定ちゃくしゅつすいていって知ってる?」


「……は?」


「彦星様は私より頭が良いから知ってるよね? 妻が婚姻期間中に懐胎した子については、夫の子であると推定する、という法律の規定よ」


 たしかに天上界にはそのような法律がある。

 要するに、結婚している期間に妻が妊娠した場合には、どうせ夫とヤッたんだろうから、夫との間の子だと推定する、というルールである。


 なお、これは天下ではよく勘違いされているが、俺と織姫との関係は恋人ではなく、夫婦である。

 いわゆる「お見合い結婚」をした後、イチャイチャして仕事を怠けていた俺らを見兼ねて、神は2人を引き離したのだ。



「この嫡出推定により、私のお腹の中の子どもは彦星様の子どもということになるの」


「……だからなんだって言うんだ?」


「彦星様には養育費を支払う義務がある、ということよ」


「……は?」


 このメンヘラ女、完全にイカれてやがる。

 浮気をして他の男と寝て、子どもを作った上で、その子どもの養育費を俺に払わせようだなんて。


 メンヘラというのは、自分の心の痛みには敏感なのに、どうして他人の心に対しては一切の配慮がないのだろうか。



「ふざけるなよ。その子にもちゃんと父親がいるだろ。そいつに食わせてもらえ」


「本当の父親は、妊娠したことを知られた瞬間に連絡が取れなくなった。私には彦星様しかいないの!」


 どうしてメンヘラはいつもしょうもない男とばかり寝るのだろうか。自ら不幸になることを求めているのだろうか。



「とにかく、俺はそんな子ども知らない」


「絶対に無理!! 彦星様がそんなこと言うなら、私、天の川に飛び込んで死んでやる!!」


 織姫は、天の川にかかる橋の上まで走っていき、靴を脱ぎ始めた。



 俺は、少し考えてから、織姫の背中を追いかけることにした。


 そして、靴を丁寧に揃え、橋の欄干によじ登ろうとしていた織姫を、そのまま背後から抱き寄せた。



「織姫、分かったから。分かった」


「……何が分かったの?」


「お前の気持ち。俺に会えないことが寂しくて耐えられなくて、その寂しさを紛らわせるために、仕方なく他の男と寝ちゃったんだろ?」


「……うん」


「それはもう完全に俺の責任だよ。俺のせい。お腹の子どもは俺の子どもだ」


「分かってくれるの?」


「ああ」


「じゃあ、養育費を払ってくれる?」


「もちろん」


「彦星様、大好き!!」


 織姫は俺に向き合うと、対面から俺を抱き締め、俺の唇に自らの唇を重ねた。


 俺はそれを優しく受け入れ、舌と舌を絡め合うディープキスが数分間続いた。




 ようやく唇と唇が離れた後、俺は、織姫に提案する。



「今日はもうバイバイしよう」


「なんで? まだ橋が消えるまではまだ時間があるよ? これからホテルでイチャイチャしようよ」


「お腹の中の子どものためにも安静にしてた方がいい。俺も気持ちを少し整理したいしな」


「……そっか。分かった。じゃあ帰るね」


 いつもは聞き分けの悪いメンヘラ女も、今日に限ってはさすがに罪悪感があったのか、大人しく引き下がった。



「バイバイ。まだ子どもは生まれてないから、養育費は、来年会ったときにまとめて請求するね」


「了解。健康に気をつけて、元気な子を産めよ」


「ありがとう。バイバイ」


 天の川にかかった橋を渡っていく織姫の姿を、俺は手を振りながら見送る。



 もっとも、もう一方の手でスマホを操作し、織姫の全身が写った写真を撮ることだけは決して忘れなかった。





 織姫の姿が完全に見えなくなったところで、俺はそーっと後ろを振り返る。



 案の定、そこには、しかめっ面の()()が突っ立っていた。



「ちょっと、彦星様、どういうつもりなの? あのメンヘラ女と別れるどころか、養育費の支払いまで約束して、最後はあの長い長いディープキス。全然話が違うじゃない!」


琴姫ことひめ、ごめん。今ちゃんと事情を説明するから」


 琴姫は、俺の本命の女性である。

 年に1度しか会えない相手との遠距離恋愛など不可能だと悟った俺は、早々に織姫を見限り、琴姫と親密さを深めていった。

 

 思い返してみると、織姫がメンヘラを拗らせ始めたのは、俺が琴姫と交際を始めたのとほぼ同時期であった。無意識のうちに俺の織姫に対する態度が冷たくなっていて、織姫の心に傷を与えてしまったのかもしれない。



「事情って何よ? ただ、あの女に丸め込まれただけでしょ?」


「違う。メンヘラにはメンヘラの扱い方っていうのがあるんだよ。うまく扱わないと大変なことになるんだ。あいつが川に飛び込もうとしてたのを見てただろ」


「勝手に死なせればいいじゃない。あんな女」


「1人で勝手に死んでくれる分にはいいけど、もしかしたら、俺を無理心中に巻き込もうとするかもしれないだろ? あいつをあまり追い詰めるのは俺にとっても得策じゃないんだ」


「なるほどね……」


 琴姫は、言葉ではそう言ったものの、内心は少しも納得していないようで、表情には露骨に不服が表れていた


 それはそうだろう。


 今朝、俺は、琴姫に対し、「今日、絶対に織姫に離婚を切り出す」と宣言していたのである。琴姫は、俺が、本当に織姫に離婚話をするかどうかをチェックするため、2人の様子を遠く物陰から観察していたのだ。



 しかし、実際には、今日、俺は、「離婚」のりの字も出していないのである。



 もっとも、それにはちゃんと理由がある。



「琴姫、聞いてくれ。これで全て終わりだ」


「終わり? 何が終わったの? まさか私と別れて、あのメンヘラ女に殉じようってわけじゃないでしょうね?」


「そんなわけないだろ。俺と織姫との関係が終わった、ってことだよ。無事離婚成立ってわけ」


 琴姫は、怪訝そうな表情を崩さない。



「どうして? 離婚届にサインしてもらってないのに?」


「あのメンヘラ女相手に協議離婚は最初から無理なんだよ。メンヘラ女は、悪霊と一緒で、一度取り憑くと死ぬまで離してくれないんだ。でも、今回あいつと会って、あいつが不倫、すなわち、不貞行為をしたことが発覚した。天上界の法律上、不貞行為は立派な離婚事由だ。離婚事由が裁判所に認められれば、あいつの意思と関係なく一方的に離婚ができる」


 俺は、琴姫に、スマホの画面を見せる。表示されているのは、つい先ほど撮影した、橋を渡る織姫の全身が写った写真である。



「この写真を不貞行為の証拠として裁判所に出す」


「どうしてそれが不貞行為の証拠になるの? たしかにお腹が膨らんでて妊娠してることは分かるけど、それだけじゃ証拠として不十分じゃない? あなたの子どもかもしれないんだから」


「いや、その可能性はないよ」


「たしかに私は分かってるわ。あなたがあの女に冷めきっていて、もう何年もご無沙汰だってこと。でも、裁判所はどうかしら? 去年会ったときに一発ヤッた、と思うんじゃないかしら?」


「その可能性もないんだよ。だって、()()()()()()()()()。俺とあいつとは1年に1度しか会えない。これは裁判所も知っている周知の事実。他方、妊娠の期間というのは十月十日とつきとおかと言われている。仮に俺が去年の7月7日に子種を与えたとしたら、子どもは5月17日頃に生まれてるはずで、今年の7月7日まで彼女が妊娠し続けているなんてことはあり得ないんだ」


「たしかにそうね……」


「だから、天の川の橋を渡る妊娠したあいつの写真は、これだけで不貞行為の確たる証拠なんだよ。離婚裁判は無事勝訴だ」


 天の川にかかる橋は1年に1度、7月7日にしか出現しない。ゆえにこの写真は、7月7日に撮影されたことが明らかであり、7月7日に織姫が妊娠をしているという事実は、それイコール、織姫が俺以外の男とセックスした事実となるのである。



 高笑いをする俺とは対照的に、琴姫はまだ不安げな様子である。



「どうしたんだ? 何か心配でもあるのか?」


「彦星様があの女と離婚できることは分かった。それは私もすごく嬉しい。でも、子どもは大丈夫なの? 『嫡出推定』だっけ? あの女が懐妊したタイミングであなたは結婚してたんだから、子どもに対する責任からは逃れられないんじゃないの?」


「ああ、そのことか。それについても心配は要らないよ。嫡出推定は、あくまでも()()だからね。推定は、反証があれば崩すことができる。夫が懲役刑で刑務所暮らししてる間に妻が妊娠した事例で、嫡出推定が崩れて、夫の子どもと認められなかった判例なんかもあるよ。今回のケースもそうさ。この写真と十月十日の計算が合わないことが反証となって、嫡出推定は崩せるんだ。俺が養育費を支払う義務なんてどこにもない」


「さすが彦星様、頭が良いのね!! 大好き!!」


 琴姫が、俺の身体を強く抱きしめる。当然、俺はそれを受け入れ、俺の方から彼女の唇に唇を合わせる。



 興奮して息を荒らげながら、琴姫は、俺の首の方へと手を伸ばす。


 そのとき、琴姫の着物の袖がめくれる。


 露わになった彼女の白い腕には、何十本ものリストカットの跡が残っている。



 俺は心の中でため息をつく。


 どうして男はいつもメンヘラばかりを好きになってしまうのだろうか。


 自ら不幸になることを求めている――わけではないはずだ。多分。







 メンヘラって可愛いですよね(おい)


 ということで、作者の性癖全開の作品になりました。幸せになる気なんて、これっぽちもありません←


 あ、ダービーの本命はアスクビクターモアです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 途中からおかしくないかなぁと、妊娠中な女性を書いた事があるので思っていたのですが最後まで読んで納得しました(;'∀') いやぁ、どっちも罪作りよな。 でも罪作ったそもそもの原因が因果応報な…
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