忠犬ハチ殺(コロ)【調査編】
衛藤は、横断歩道の向こう側にコーギー犬を連れて散歩をしている初老の男性を見つけると、すみません、と大きな声を掛ける。そして、小走りで横断歩道を渡り切る。
「すみません。今、この辺りで犬の散歩をしている方に声を掛けていまして、お尋ねしたいことがあるのですが」
「……なんですか?」
初老の男性は、怪訝そうに尋ねる。コーギー犬も衛藤に向かってウーっと唸っている。
「お尋ねしたいのは、〈忠犬ハチ公〉のことです——」
ベランダからリビングに戻ったあと、瀬身は、例によって、衛藤に【調査事項】を手渡してきた。自分は指示役に徹して部屋に籠り、捜査は専ら助手に行わせるというのは、典型的な〈安楽椅子探偵〉スタイルである。もっとも、瀬身の場合には、スタイルとして、というより、そうせざるを得ない事情があるのだ。事件の容疑者である以上、事件への介入は〈証拠隠滅行為〉だと疑われかねないという、のっぴきならない事情が。
今回の四つ折りのルーズリーフにも、この事件において重要だと瀬身が考えているポイントが、いささか要領が良過ぎるのではないかと思うくらいに、短くまとめられていた。
…………
【調査事項】
1 赤間大悟の病状はどのようなものだったか
2 赤間大悟に親族はいるのか
3 ハチの散歩コースと、救助の際にハチが通ったコースとの比較
4 ハチの知能レベルはどの程度か
5 交番にいた〈落とし物〉をした女性は何者か
…………
赤間大悟とは、トリカブト毒を飲まされて殺されたとされる被害者の名である。
衛藤が【調査事項】だけを見てもちんぷんかんぷんなのはいつものことだが、とりわけ今回の事件において、調査の必要性に疑問を持ったのは、3、4、5である。
赤間の毒殺と、ハチの救助未遂とは関係ないだろうというのが、衛藤の見立てだったからである。
ハチが交番に行き、警察官に助けを求めたのは赤間が毒を飲まされたあとのこと、つまり、事後のことだ。ゆえに、〈忠犬ハチ公〉による〈感動の逸話〉は、殺人事件とは切り離された独立事象であると考えるべきなのである。
それにもかかわらず、瀬身のメモの過半数は、〈忠犬ハチ公〉に関わる事項なのだ。衛藤は、今回ばかりは自らの調査活動が骨折り損となることを覚悟した。
「いやあ、赤間さんとはね、毎日とは言わずともかなり頻繁にすれ違っていたよ。三日に一度、いや、二日に一度かな。会うと必ず挨拶はしていたね。亡くなってしまったのは本当にお気の毒で、私も寂しい思いをしているよ。うちのフクもね、ハチとは仲が良くて。毎回会うたびに尻を嗅ぎ合ってたよ。どうやら、それが犬同士の挨拶方法らしいんだ。いやあ、まさかハチがあんな〈名犬〉だなんて、恥ずかしながら少しも見抜けなかったけどね」
一旦警戒が解けると、初老の男性は饒舌に話してくれた。コーギー犬のフクも、遊んでよと言わんばかりに尻尾を振りながら衛藤の足に飛びついてきている。
衛藤は、犬の飼い主というのは、寂しがり屋が多いのではないかと勝手に思っている。家での一人の時間を減らすために犬を飼っているのだ。その証拠に、先ほどから犬の散歩をしている者に片っ端から声を掛けているが、ほぼ全員が〈話し相手に飢えていた〉と言わんばかりに、訊いてもいないことまでペラペラと話してくるのだ。聴取する側としては、楽なような、ありがた迷惑なような……。
「ハチがこんなに有名になるなんて思わなかったね。有名になる前に肉球でサインをもらえばよかったな、なんてね」
初老の男性の冗談に、衛藤は、白い歯を見せて愛想笑いをした。
『何かあったときのために』と言われて瀬身から渡されていた合鍵を使い、アパートの一室を訪れる。
瀬身は、ワンルームのちょうど中央付近で、何やら奇妙なポーズをとっていた。
「……瀬身さん、何をやってるんですか?」
「ガルダーサナ——ワシのポーズだ」
「はあ」
指先を伸ばした状態で重ねた両手が嘴を模してるということだろうか。
「……それってヨガですか」
「そうだ。衛藤君も一緒にどうだい? 心が落ち着くぞ」
衛藤はため息を吐く。これが衣食住の充実に目覚めた新たな瀬身だというのか。とにかく調子が狂う。早く〈意識高い系〉に飽きて、いつもの怠惰な男に戻って欲しいと心から願う。
「たしかにヨガだったら留置所でもできますしね」
「衛藤君、君という者は……ふぅ、好き勝手に言うが良いさ。私の心は今落ち着いているから、何を言われても問題ない」
本当に調子が狂う——。
「まあ、構わないです。瀬身さんは、ワシのポーズだろうがハトのポーズだろうが、何でも好きな格好をしていてください。その間に、僕は【調査事項】について報告しますので」
「ハトのポーズ——エーカパーダカポターサナだな。了解」
実在するのかよ!
……まあ、気を取り直して。
「順番どおりいきましょう。まずは【調査事項】の1『赤間大悟の病状はどのようなものか』です。この点の調査は楽勝でした」
「報道されていたからな」
半袖半ズボンというラフな格好の瀬身は、右の二の腕と背筋を弓のようにしならせている。
「たしかに報道もされていましたが、二次情報だけだと不十分だと思い、赤間のかかりつけ医にも直接問い合わせて、カルテを開示してもらいました」
「どうやって? 今のご時世、医療機関は個人情報保護云々にはうるさいだろう?」
「もちろん警察の名を騙りました」
瀬身は、アハハと、全身の力が上手く抜けた、よく通る声で笑った。
「衛藤君は相変わらず大悪党だな」
「悪いのは、警察を名乗っただけで、警戒せずにクライアントの個人情報を開示してしまう病院の方ですよ」
「それは言えてるな」
警察ほど信用できない連中はいないのに、と瀬身は、〈平和の象徴〉の格好をしながら毒を吐く。
「それで、医者はどんな個人情報を易々と流してくれたんだ?」
「まあ、結局は報道されているとおりなんですが、赤間の病状はかなり重篤だったみたいで、ここ1年間で3度も心臓の病で緊急搬送されていたそうです」
「それで、今回が4度目だと」
「仮に遺体からトリカブト毒が検出されなければ、そういうことになったでしょうね」
84歳という年齢を考えても、赤間の余命はそう長くなかったものと思われる。もしも犯人が赤間の顔見知りだとすれば、なぜ赤間の死期を待てず、あえて赤間を毒殺する必要があったのかという動機の部分は気になるところである。
「それから、赤間は、脚も悪かったみたいです。左脚が言うことを聞かず、引き摺って歩いていたそうで」
これは病院から入手した情報であると同時に、赤間の〈散歩仲間〉複数から聞いた情報でもある。案の定、赤間と面識のある瀬身も、たしかにそのとおりだ、と相槌を打った。
「赤間の病状に関しては、とりあえず以上ですかね」
「ありがとう。衛藤君、特に真新しい情報はなかったが、この点は非常に重要なポイントだと思うよ」
瀬身が次のポーズに移行したところで、衛藤も、次の【調査事項】へと移行する。
「それじゃあ2番目の【調査事項】です。『赤間大悟に親族はいるのか』という点です。これは探偵にとっては典型的な調査の一つですね」
「どうだい? 隠し子のひとりやふたりの存在を炙り出すことはできたかい?」
衛藤は大きく首を横に振る。
「いいえ。隠し子も、隠されていない子どもも、誰ひとりいませんでした。赤間には、10年前に亡くなった妻がいましたが、子宝には恵まれなかったみたいで」
「兄弟姉妹や甥姪は?」
「いません。元々、赤間は両親を含め、親族の多くを空襲で亡くしており、幼少期には孤児院で過ごした経験もあったそうで」
「ほお」
赤間は、いわゆる〈身寄りのない〉状態だったのである。
この調査結果は、少なくとも、衛藤にとっては意外なものだった。というのも、【調査事項】1の調査結果を受けて、瀬身は、今回の事件は相続絡みだろうと踏んでいたからである。もう少し待っていれば死ぬであろうヨボヨボの高齢男性の死期を無理やり早める必要がある者がいるとすれば、それは赤間の相続人しかいないと思ったからだ。
しかし、実際には、赤間には相続人がいなかった。すると、赤間が死んだのちの赤間の財産は、原則として国庫に帰属することとなる。
ただし——。
「ちょっと気になったんで調べてみたんですけど、赤間にはこれといった財産もなかったようで、住まいもペット可の借家でした」
「つまり、今回の事件はどう逆立ちしても相続とは無縁だと」
「そういうことです。ところで、瀬身さんはどうして逆立ちをしてるんですか?」
「逆立ちではない。肩立ちのポーズ——サーランバサルヴァーンガーサナだ」
瀬身は事件の話をしながらもよくヨガにも集中できるな、と感心する。衛藤の方は、床に頭をついた瀬身に見上げられることでこんなにも気が散っているというのに——。
「3番目にいきますよ。【調査事項】その3は『赤間の愛犬であるハチの散歩コースはどのようなものか』」
ここからは犬の話である。
「赤間の〈散歩仲間〉に地道に聞き込みをして、毎日の散歩コースを再現しました。簡略化して図にまとめると、こんな感じです」
衛藤は、瀬身からもらった【調査事項】が書かれたルーズリーフを裏返し、手書きの図を提示する。
瀬身は、この格好だと見にくいな、と至極当然のことを言い、ポーズを座位に切り替えた。
「散歩コースは黄色く塗り潰したところで、反時計周りに家から家までグルリと一周していたみたいです。要点をまとめると、まず、赤間が倒れていた『ザワザワ森』は散歩コース上にあります。他方、ハチが駆けつけた交番は、散歩コースからは少しだけ離れたところにあります。あと、瀬身さんの家の前も散歩コースですね」
「私の家は図から消してくれて構わない。私はこの事件と無関係だからね」
瀬身はそうは言ったものの、少なくとも凶器である毒物は瀬身のアパートのベランダから見つかっているのである。図には残しておくべきだろう。
「交番が散歩コースから少しだけ離れている、というのはとても重要なことだよ。衛藤君もそう思わないかい?」
「……正直あまり」
そもそも、衛藤は、瀬身の指示どおりの調査をしてもなお、やはり〈忠犬ハチ公〉の件は、毒殺事件とは関係のない〈事後のこと〉に思えてならないのである。
「すると、衛藤君は気付いていないようだね。〈忠犬ハチ公〉物語の最も胡散臭い点を」
「胡散臭いですかね?」
思い返してみると、最初の電話でも、瀬身は、今回のハチにまつわる逸話を〈胡散臭い〉と非難していた。今は胡散臭い教祖様のような格好で座禅を組んでいるにも関わらず、である。
「かなり胡散臭いよ。百歩譲って、倒れた飼い主を助けるために、犬が他の人間に助けを求めることはあり得るとしよう。ただ、そのために交番に犬が駆け込むというのは、あまりにもオカシイじゃないか。なぜ犬が人間社会における交番の役割を知っているんだい?」
「……たしかに」
言われてみるとそうである。
「ここが今回の事件と、アメリカのギタの件との大きな違いさ。ギタの場合は、現場付近の路上で助けを待っていたところ、たまたま森林保安官が立ち寄ったんだ。決して保安事務所に駆け入ったわけじゃない」
「しかも、交番は、ハチの散歩コース上にもなかったと」
「そのとおりだ。ハチは交番が何たるかだけでなく、交番の場所さえも知らないんだ。それなのに、どうして交番に助けを求めに行けるというんだい? 道理が通らないじゃないか」
衛藤にもようやく分かった——毒殺事件そのものと関係があるかどうかはさておき、〈忠犬ハチ公〉のエピソードには不審な点があるということが。
「それから、『救助の際にハチが通ったコース』についてですが、交番から『ザワザワ森』まで警察官らを誘導したコースを赤線で図に記してあります。交番付近を除いては、散歩コースと丸っきり重なっています」
「『ザワザワ森』に行くにしては幾分か遠回りだな。北にまっすぐ行く道があったのに」
「そうですね。ただ、ハチは普段の散歩コースしか知らず、近道が分からなかったということでしょう」
もしもハチが最短距離で警察官らを誘導していたとすれば、救助が間に合って、赤間の命が助かった可能性もあるかもしれない。かといって、ハチを責めることはできないだろう。
「それから、衛藤君、【調査事項】4の確認も済ませてしまおう。これは念のための確認だからな」
「分かりました。【調査事項】その4『赤間の愛犬であるハチの知能レベルはどの程度か』ですね。これも赤間の〈散歩仲間〉複数から証言をとりました」
「どうだった?」
「普通でした。バカとまでは言えずとも、かといって躾が行き届いていたというわけでもなかったようで。まあ、なんせ、まだ若いですからね」
「ハチは何歳だったっけ?」
「三歳だそうです。人間に換算してもせいぜい二十代の若者ですかね」
衛藤君も二十代の若者だろう、瀬身は言う。かく言う瀬身も、床に横たわり、まるで人生に達観した涅槃のポーズをとっているものの、まだ三十代前半である。
「まあ、いずれにせよ、人間と犬とでは知能レベルは比較になりませんよ。それに、ハチは、ギタとは違って、救助犬としての訓練を受けた経験もありません」
「まあ、ごく普通の柴犬といったところか。調査してくれてありがとう。念のためとはいえ、実はハチが〈人間社会の仕組みを熟知した超天才犬〉だったという〈ウルトラC〉の可能性を潰すことは重要だ」
瀬身が、ハチが飼い主を救うために自ら交番に行ったということはあり得ないと考えているのは明らかである。だとすれば、ハチは、なぜ、どのようにして交番を訪れたというのか——。そのあたりは衛藤には全く見えてこなかった。
「……ところで、瀬身さん、そのポーズは何ですか? 全面降伏ですか?」
「チャイルドポーズ——パーラーサナだよ。ヨガにおける基本的なポーズさ」
額を床に付け、さらに伸ばした両腕もピタリと床に付けるそのポーズは、衛藤には大袈裟な土下座に見えた。
「ついに諦めて捜査機関にひれ伏すという意思表示かと思いました」
「そんなわけないだろう。あまり変なことは言わないでくれ。これは最後のクールダウンだよ」
それでは、衛藤も最後の【調査事項】の報告に移るとしよう。
「【調査事項】その5です。『交番にいた〈落とし物〉をした女性は何者か』ですが、調査の結果、面白いことが分かりました」
「何だい?」
「この52歳の女性——岩本富士子は、なんと被害者の赤間と面識があったんです。赤間は週に二度ほどデイサービスを利用して在宅介護を受けていたのですが、岩本は、赤間の担当ケアマネージャーでした」
この調査結果に瀬身はさぞ驚くかと思いきや、意外にも無反応だった。
「……この情報で重要じゃないですか?」
「重要だよ。ただ、予想どおりで、驚くべきようなことじゃない。被害者と女性に面識がなければ、今回のようなことは絶対に起き得ないんだ」
「つまり、この岩本という女性が事件に関連していると言いたいんですか?」
「もちろん」
瀬身は断言する。しかし、衛藤にはどうしても腑に落ちなかった。
「たしかに、僕も岩本は怪しいと思いました。〈落とし物〉をしたとして交番に訪れた割には、交番でも何を落としたのか最後まで言わなかったんだそうです。それに、僕が調べたところ、岩本は金に相当困ってたみたいです。一人暮らしのアパートのポストは、消費者金融からの督促状で溢れかえっていました」
ただ、と衛藤は言う。
「岩本にはアリバイがあります。赤間が殺されたタイミングで、岩本は交番にいたわけですから。岩本は30分以上も交番で警察官と話していたんだそうです」
「衛藤君、君は大きな勘違いをしているよ。まんまと騙されてしまっているんだ」
瀬身がそこまで言うということは、瀬身には、すでに今回の事件の真相が見えているということだろう。
今度こそは警察に逮捕される前に——。
ピンポーン——。
家のチャイムが鳴った。
座椅子から立ち上った衛藤は、モニターを見てきましょうか、と提案したが、瀬身は、その必要はない、と断る。
「警察だよ。私の家を訪ねてくる不届者は、合鍵を持っている元助手を除けば、警察だけだ」
今度は、ドンドンドンドンと激しくドアを叩く音がする。来訪者の正体は警察官で間違いなさそうだ。
元探偵は、捜査機関にひれ伏すポーズをとりながら、言う。
「衛藤君、居留守を使おう」