テトリスサバイバル
村田沙理愛は、縦二〇マス×横一〇マスの二次元空間に召喚された。誰もが知っている超有名落下パズル——テトリスの世界である。
沙理愛が、ある街の交差点からこの世界に召喚されたのはおよそ三〇分前である。それは沙理愛の心に大きな穴が開いたタイミングだった。
頭上からは、カラフルな、そして様々な形のブロックが、次々と落ちてくる。落ちるときにはドシンと大きな音がする。沙理愛の身長は一マス分であるのに対し、ブロックの大きさは四マス分。潰されたらひとたまりもないだろう。
——とはいえ、沙理愛がブロックに潰されることはありえない。ブロックの落下速度は遅い。おそらくまだレベルが一か二くらいなのだ。
——またブロックが落ちてくる。
沙理愛は、頭上のブロックの位置と形を見極めて、さっさと安全な場所に移動する。
その後、ぼうっと物思いに耽る。
途端、アイツの顔が頭に浮かぶ——決して思い出したくないアイツの顔が。
沙理愛はアイツにずっと騙されていたのだ——。
アイツのせいで沙理愛の人生はめちゃくちゃだ——。
沙理愛は、幼少の頃より、テトリスが好きだった。一人ぼっちになると、沙理愛はいつもスマホでテトリスをプレイする。テトリスが、沙理愛の時間の空白を、そして、沙理愛の気持ちの空白をいつも埋めてくれるのである。
今回アイツに開けられた心の穴も、テトリスが埋めてくれるのだろうか——。
ドシンと赤いブロックが落ちた時、沙理愛は、テトリスに、いつもとは〈違うこと〉を期待している自分がいることに気付いた。
もし——もしこのタイミングでアイツがこの世界に召喚されたら——。
そうすれば沙理愛は、アイツを確実に殺すことができる。
その時——。
——沙理愛の希望が叶えられた。
憎きアイツ——伊豆田隆盛が、テトリスの世界に現れたのである。
★★★★★★★★★★
――ここは一体どこだ?
隆盛は、あたりをキョロキョロと見渡す。
「テトリスだよ。私が大好きなパズル」
隆盛は、オレンジのブロックをよじ登ってこちらに近寄ってきた沙理愛に指摘され、ようやく理解した。なるほど。ここは沙理愛がいつもやっているくだらないゲームの世界なのだ。
ついでに、この世界に召喚されたのが自分だけでないことに、隆盛は安堵した。
隆盛自身は、テトリスなぞという地味で退屈なゲームをプレイしたことは一度もない。ゆえに、この場面での沙理愛の存在は大きい。沙理愛は、隆盛よりもはるかにこの世界のことを深く理解しているはずなのだ。
「沙理愛、どうしたらこの世界から出られるんだ?」
「多分、ゲームをクリアしたら出られるんじゃない?」
「クリア? テトリスはどうすればクリアできるんだ?」
「多分、〈全消し〉だと思う」
「〈全消し〉?」
「ブロックを全部消すこと。テトリスは続ければ続けるほどレベルが上がるゲームだから、本来は〈クリア〉なんて概念はないんだけど、〈クリア〉といえるような区切りがあるとすれば、多分〈全消し〉くらいかな」
正直、隆盛には、沙理愛の言っていることがよく分からなかった。
「沙理愛、お前に任せるよ。上手くいくように、俺に適当に指示してくれ」
「分かった」
沙理愛は、従順で良い女だ。
−−−−ふいに隆盛は、頭上に何かの気配を感じた。
「……沙理愛、紫のあれはなんだ?」
「ブロックだよ」
「俺のところに落ちてきてるよな?」
「うん。テトリスは落下系パズルだから」
「避けた方が良いよな?」
「うん」
「どっちに避ければ良いんだ?」
「どっちでも良いんだけど、そうだね……あっちの隅が良いんじゃないかな?」
沙理愛が指で示した場所に逃げたのち、ドシンと紫のブロックが落ちた。隆盛は、ふうっとため息を吐いた−−−−が、実際のところ、そこまでハラハラさせられた訳ではない。ブロックが落ちる速度は、亀のように遅い。四つん這いの赤ん坊でも容易にかわせるほどのスピードだ。
次に頭上に現れたのは、青色のブロックだ。
「……沙理愛、どうすれば良い?」
「動かないで大丈夫。隅にいたままで大丈夫」
「本当か? 俺の頭上にあるみたいだが」
「大丈夫。私の方に落ちるはずだから」
沙理愛がいるところは段差になっている。
そして、実際に、隆盛の頭上にあったブロックは、沙理愛の方へと空中をスライドしていった。沙理愛が、ブロックを避けるためにまたこちらに寄ってくる。
「どうして分かったんだ?」
「だって、あそこに嵌めれば、綺麗に段差がなくなるでしょう。段差がなくなって横列がブロックで埋まれば、ブロックが消えるの。それがテトリスのルール」
「なるほどな。〈クリア〉に近づくわけだ」
「そういうこと」
「じゃあ、俺はずっと隅にいるからな」
「うん」
頷いた後、沙理愛が隆盛から目を逸らした−−−−気がした。
青色のブロックがドシンと落下する。
二列分の横列を埋まる。
その瞬間−−−−。
ブロックが消え、隆盛の身体は自由落下を始めた。
隆盛が自らの状況を理解したのは、狭い穴にスッポリハマってしまった後だった。
★★★★★★★★★★
「おい! 沙理愛、この穴はなんだ!? どうしてここに穴があるんだ?」
隆盛が、唾を飛ばしながら叫ぶ。この男はなんて愚かなのだろうか——。
「元々穴はあったんだよ。遅れて来たアンタには見えてなかっただけで」
「沙理愛、お前はここに穴があることを知っていたのか!?」
「もちろん。私は三〇分前からこの世界にいるから」
「……まさかお前、俺をわざと穴に落としたのか!?」
そうだよ、と沙理愛は平坦な声で言う。
「どうしてだ!? 俺とお前は愛し合う仲じゃないか!」
沙理愛は、ついに堪え切れず、フッと鼻で笑った。
「愛し合う? 何言ってんの? アンタには妻子がいるのに?」
隆盛の声が震える。
「……沙理愛、どうしてそれを……」
「偶然見かけたんだよ。アンタが妻子と仲良く一緒に街を歩いてるところを」
穴の中から声が返って来なくなった。
沙理愛がバカだった——。
自分が不倫相手——単なる遊びだということに気付かないまま、この男と結婚できると信じていたのである——。
沙理愛は、頭上を見上げる。出現したのは、縦長の水色のブロックである。そのブロックが落下すべき場所はひとつしかなかった。
穴の中から、ごめん俺が悪かった、と必死な声が聞こえた。そんな謝罪の言葉はちっとも薬にはならない。
沙理愛の心の穴を埋めてくれるのは——。
「ぎゃあ……」
——ドシン。
沙理愛の心の穴は埋まり、ブロックは〈全消し〉された。
元の世界に戻った沙理愛は、スッキリした気持ちで、一から人生をやり直すことに決めた。
(了)
こちら2024年9月に「新生ミステリ研究会」のメンバーとして菱川が参加した文学フリマ札幌の無料配布短編となります。カラーで印刷しまして、300枚以上お受け取りいただきました。1枚あたりの印刷費用が50円だから、総費用が……つまらないことを考えるのはやめましょう。
この短編集にも掲載した「サタンの声が聞こえる」がかなりの自信作だったのでした。ただ、他方で、文学フリマ大阪の会場にて配りながら、文字ばかりでげんなりされそうだなという気も湧いてきました。そこで、次は絵だらけのものにしようと考え、早速文学フリマ大阪の翌日か翌々日にはこの「テトリスサバイバル」を書いていました。いや、描いていました。
この作品は余計な描写を捨て去って、文字数を極限まで減らしています。
最後の一行でスカッとしてくれればと思います。
これは本当にありがたいことなのですが、今まで配布してきた全ての無料配布短編に関して、リアルもしくはSNSで何かしらの好意的な反応をいただいています。多額の印刷コストをかけている甲斐がありますね(泣)
そして、次回の文学フリマがなんと明後日(2024年10月27日)に迫っています。開催地は福岡で、この時期リアルが異様に多忙な菱川は欠席するのですが、書き下ろしの無料配布短編は「新生ミステリ研究会」のメンバーに託しました。新たな試みも入れた作品となりますので、お近くにお住まいの方は是非お受け取りください。
最近、文学フリマで配った無料配布短編しか掲載していないのですが、次作に関しては、この短編集のために書き下ろそうと考えています。11月1日にアップしたいです。察しの良い方はなぜこの日か分かりますかね笑?