ホテル「水彩」は自殺の名所
東京都新宿区にあるホテル「水彩」。
名前だけ見れば、自然に囲まれた立地にある高級旅館であるが、その実は、ビル群ひしめく中にあるラブホテルである。
何の変哲もないラブホテル——と言って差し支えないだろう。
「水彩」の両隣も同じくラブホテルであり、向かいも斜向かいも然りである。
要するに、そういう目的のカップルが、とりあえずふらりと訪れるラブホテル街に「水彩」は位置しており、サービスに個性を持たせずとも、自ずと客は集まる。
もっとも、「水彩」は、オーナーの当初の思惑とは異なる「とある理由」により、唯一無二とも言える存在となり、有名となってしまっている。
すなわち、ホテル「水彩」は、いわゆる自殺の名所なのである。
日本において自殺の名所といえば、富士の樹海か、和歌山の三段壁などだろう。
死体が見つからないために統計は取れないものの、いずれも、おそらく毎年、数十人、数百人の自殺者を生んでいるのだろう。
対して、ホテル「水彩」に関していえば、毎年のように自殺者を出しているわけではない。報道ベースで確認できる自殺者数は、ここ十年間で、五人——いずれも若い女性である。
五人「も」自殺者が出ているとも言えるかもしれない。ただ、病んだ現代社会の、その縮図である新宿の繁華街における「自殺の名所」にしては、案外な数字とも言えそうである。
それでも、「水彩」が自殺の名所として名高いことに間違いない。
それは「水彩」の建物が高層であり、さらに、救急車両が入れない入り組んだ路地にあるからだろう。要するに、飛び降りれば確実に死ねるのである。
もしかすると、「水彩」と自殺との単なる語呂合わせが、名所とされた理由かもしれない。
とにかく、ホテル「水彩」は自殺の名所だ。
ネットの掲示板では、本来は立ち入り禁止である屋上に、部屋の窓から配管を伝い、非常階段を駆使してどのように到達するかについて、画像付きで丁寧に指南がされている。
なお、「心霊スポット」としても扱われる「水彩」は、行為にマンネリを感じているカップルが、「刺激」を求めてあえて利用する場所にもなっている。
さて、今宵、一人の少女がいる。
少女が、ネットの掲示板を見て、そこに書かれた指南に従ったのかどうかについては分からない。
ただ、とにかく、少女は、ホテル「水彩」の屋上へと辿り着いた。
そのまま、生ぬるい風に流されるようにして、少女は、道路に面した方へと向かう。そして、落下防止用の柵に、胸からもたれかかる。
眼下の路地は狭い。
人通りは、ないわけではないが、まばらである。
少女がいる屋上とは違い、繁華街の路地は、看板のネオンが煌々とし、通行人の顔までハッキリと見える。
タイミングさえちゃんと図れば、誰も巻き添いを出さずに済むのだ――
最後に、少女は背筋を伸ばし、腕をいっぱいに広げ、大きく深呼吸をする。
最後に――いや、最期に。
枯れ枝のように細い少女は、精一杯の勇気を振り絞る。
少女がこの世で最も醜いものだと思っている十七年の人生。それを一瞬で精算する。
そのために、少女は、飛ぶ――
「待って! あなた、何してるの!?」
少女の身体は浮かび上がったが、それは少女の意思によるものではなかった。
少女は捕まった。
漆黒の死の世界にではない。
温かい人の手によって。
十七歳の少女の飛び降り自殺を阻止したのは、少女よりも年上の女性——とはいえ、おそらく二十代半ばほどの若い女性である。
少女の華奢な身体は、今、その女性の腕の中にある。
もっとも、少女の虚な目は、身体はともなく、心の方はまだあちら側から引き戻されていないことを如実に物語っていた。
「あなた、自殺なんてくだらないことをしちゃダメ!」
少女の耳に、女性の言葉がこだまする。
女性の涙が、少女の肩にポトリと落ちたこともちゃんと分かった。
それでも——
「……なんで? なんでアンタは私を死なせてくれないの?」
少女は、女性の腕を乱暴に振り解く。
少女は、「命の恩人」である女性の言葉を真に受けることができなかったのだ。
なぜなら――
「アンタだって、私と同じで、死ぬためにここに来たんでしょ」
――ホテル「水彩」は、自殺の名所である。
客室はともかく、立ち入り禁止の屋上に訪れる者の目的は一つ——飛び降り自殺しかないのである。
少女に胸を押され、突き放された女性は、少女の質問にしばらく答えることができなかった。「答えることができない」ということが、この場面では一定の答えになる。
長いの沈黙の後、女性は、
「……あなた、名前は?」と少女の名を問う。
少女は、「ミサキ」と答える。そして、同じ質問を、若い女性に返す。
若い女性は、「サクラ」と名乗った。
「ミサキちゃん、あなたみたいに若くて可愛い子がこんな所にいてはいけない。早くおうちに帰りなさい」
「おうちなんてない」
「……家出してるの?」
「ずっと前からね」
サクラは口籠った。これ以上事情を追及して良いものなのか分からなかったからである。
しかし、ミサキは、まるで、文庫本の裏表紙に書かれたあらすじを朗読するように、淡々と、悲惨な身の上を打ち明ける。
「私が十五歳の頃、ママが死んだの。ママは覚せい剤にハマってて。その時は牢屋から出てきてまだ二ヶ月と経ってなかったんだけど、またクスリをやって幻覚を見て線路に飛び込んで死んだ。本当にバカだよね。その日に会ったばかりの男とヤルのにゴムを付けないで、私を妊娠したのも本当にバカ。私にはパパはいない。「パパ」を名乗る人はいたよ。でも、私と血の繋がりのない人で、ママに薬を勧めた人。ママが生きてるうちは我慢してたけど、ママが死んだら、もう関わる価値がなかった。私は、ママの葬式の後、当たり前のように家を出て行った」
サクラは、今度は何か声を掛けるべきだと思ったのだが、掛ける言葉など見つからなかった。
ずっと口籠っている間に、さらにミサキが続ける。
「最初は、当時付き合ってた男の家に泊めてもらった。顔と、口だけは良い奴だった。『俺が守ってやる』『安心しろ』って。ただ、そいつの家に泊めてもらえたのは、たった二週間。そいつは飽き性で、私の身体に飽きるのと同時に、ヒーロー気取りにも飽きたみたい。そいつはハッキリ言ったよ。『お前を匿って俺に何になるんだ』って。だから、私は行く宛もなく、路上を彷徨った。そして、生きてくためになんでもしたよ。詳しく聞きたい?」
ミサキは、ニヤリと笑った。邪悪な笑みが、月明かりに照らされる。
――しかし、その邪悪さは、不意にミサキの目から流れた涙ともにパッと消え去った。
華奢な少女が次に纏ったのは、深く重い悲しみである。
「でも、私にはカレがいたの。私が心から愛し、私のことを心から愛してくれていたカレが」
「……じゃあ、そんな、飛び降りるなんてやめておきよ」
「……昨日フラれたの。『もうお前は俺の一番じゃない』って言われて」
ミサキは、その場に体育座りをすると、細い指で顔を押さえ、号泣した。
オエオエと吐くようにして泣く、ツインテールでゴスロリ服で色白の少女。
それを見下ろすサクラの目は、冷めていた。
「……あなた、そんな理由で死のうとしてるの? そんなくだらない理由で」
「……今、くだらないって言った?」
「ええ」
サクラは、真っ赤に充血した目で睨みつけてきたミサキを、さらに鋭い目で睨みつけ返した。
「あなたの身の上には同情する。でも、死ぬ理由はくだらない。たかだか男のことじゃない。しかも、何、その『一番』って? その男は女に順位を付けてたわけ? もしかしてホスト?」
「……仕事はね。でも、タクくんは私のことを特別扱いしてくれてて、私にとって、タクくんは世界でただ一人の特別な人だった」
「本当にくだらない!! あなたみたいな若くて可愛い子には無限の可能性があるのに!! 私は、そんな『ちっぽけなこと』で悩めるミサキちゃんが羨ましいよ」
「うるさい!」
ミサキは、サクラに掴みかかろうとした――しかし、脚に力を入れることさえままならず、その場に倒れ込んだ。
「大丈夫? ミサキちゃん、ホストに貢ぎ過ぎてて、ちゃんと食べれてないんじゃない? 私がお金をあげるよ。それでちゃんとした家に住んで、ちゃんとした生活を送りなよ」
うつ伏せに倒れた哀れな格好でも、ミサキは鬼の形相を崩さずにいた。
「アンタは何も分かってない! そもそも、そんな偉そうなことを言って、アンタだって、自殺しようとしてるんでしょ? それはそれはよほど大層な理由なんだよね?」
ええ、とサクラは頷く。
「私は、あなたと違って、ちゃんと死ぬ理由がある。私は、あなたと違って、醜く、ブサイクに生まれた。だから、私は、あなたみたいに恋愛なんてしたことはない。したくても、できないの」
月明かりに照らされたサクラの顔は、たしかに整っているとは言い難い。化粧をしていないせいもあるが、決して男が寄りつくような見た目ではないだろうということは、ミサキにも一目で分かった。
「ちなみに、母親と父親がいないのは私も一緒。父親は五年前に病気で死んで、父親が死んだ三ヶ月後、母親は父親の後を追って自殺した。だから、私には、一人で生き抜くほかに選択肢がなかった。この見た目じゃ男性とお付き合いして、幸せな家庭を築くなんてことなんかもできないから」
でも、とサクラは声を落とす。
「私は、一人で生きていくことすらできなくなった」
「どうして?」
「会社に行けなくなっちゃったの。上司からずっとイジめられてて、会社のことを考えると過呼吸になっちゃってさ。今日は朝からずっと携帯が鳴りっぱなし。その上司から『逃げるな』『ふざけんな』ってメッセージがたくさん届いてる」
顔全体に憂鬱を浮かべているサクラとは対照的に、ミサキはポカンと口を開けている。
「……それだけ? サクラさんはそれだけの理由で死のうと思ってるの?」
「は?」
「だって、その仕事辞めれば良いだけじゃん」
「簡単に言わないでよ! ミサキちゃん、あなたと違って、可愛さという取り柄がない私は、周りのみんなが遊んでる時に必死に勉強して、良い大学に入った。それで、就活も人一倍を必死にやって、それでようやく就くことができた仕事なの! 辛かったけど、頑張って二年間勤めた。それはあなたはそう簡単に……」
「サクラさんがそんなに優秀な人で、学歴もあるんだったら、すぐに別の仕事に就けるんじゃない? それにさっきから見た目のことをイチイチ言ってるけど、そんなに自分の見た目が嫌だったら整形すれば良いじゃん」
「そんな簡単に……」
「簡単だよ。私だって、何箇所かイジってるよ」
ミサキは、屋上の床に横たわったまま、舌を出し、あっかんべーをする。
「……だいたい、仕事を辞めろって言うけど、そう簡単に辞められるわけ……」
「辞められるよ。私、何回もバイト蒸発んだことあるよ。もしサクラさんにできないんだったら、私が代わりに退職届出してあげようか?」
悔しそうに地団駄を踏むサクラを、ミサキはさらに揶揄う。
「サクラさん、視野狭すぎ。私、大学出てる人ってもっと頭良いのかと思ってた」
ミサキは、歯を食いしばるサクラを尻目に、おもむろに起き上がる。そして、パンパンとスカートについた埃を払った。
そして、サクラの方を振り返り、言う。
「サクラさん、早く屋上からいなくなって」
「どうして?」
「私と違って、アンタには死ぬ理由がないから」
「もしも私が屋上からいなくなったら、ミサキちゃんはどうするの?」
「飛び降りるよ」
「ふざけないで!」とサクラは声を荒らげた。
「死ぬ理由がないのは、ミサキちゃん、あなたの方よ。あなたの方こそ、早く下に戻りなさい。今夜ここから飛び降りるべきなのは、私なんだから」
「何それ? バカじゃないの? たかが仕事ごときで」
「バカはそっちよ! たかが男ごときで」
死にたがりな二人は、互いに互いを睨み合う。
「ミサキちゃん、早く地上に降りて」
「アンタこそ早く降りてよ」
「私は、あなたみたいなお子様をこんな危険なところに放ってはおけないの」
「何? ママ気取り? 私だってサクラさんみたいなネガティブ人間を屋上で一人きりにできないんだから」
「ミサキちゃんだって、ネガティブでしょ。たかだかホスト一人に嫌われたくらいで、人生に絶望するなんて」
「まだ男と付き合ったことも無い人に言われたくないんだけど」
「は?」
「そんな可哀想な人、死なせるわけにいかないでしょ」
「何様のつもり? 私だって、ミサキちゃんみたいに世の中のこと何も分かってない子を死なせるわけにはいかない」
二人の口論は、どこまで行っても平行線に見えた。
「もしも弱虫サクラさんが一人で降りられないんだったら、私が付き添ってあげるよ」
「マジで何様のつもりなの? こちらこそ、ミサキちゃんの保護者として、降りるの付き添ってあげる」
「どうせ私を降ろしたら、サクラさんはまた屋上まで行くつもりでしょ? そんなことさせないから」
「それはこっちの台詞。ミサキちゃんは絶対に死なせない」
「お豆腐メンタルのサクラさんに守られたくなんかない」
「それもこっちの台詞だよ。ひ弱なお子様に心配されたくない」
「私に心配されたくないんだったら、サクラさん、しっかりしてよ。せめてもう一年くらい生きてみて、それから判断してよ。本当に死ぬしかないかどうか」
どこまで行っても平行線に見えた二人の口論は、ついに一つの「出口」を見つけた。
「……分かったわ。今日からちょうど一年後に、また会いましょう。だから、その時まで、ミサキちゃんも生き延びて」
「……もちろん。サクラさんが死んじゃわないか、一年間、ちゃんと監督してあげるよ」
「何よ。お子様が偉そうに。監督が必要なのはミサキちゃんの方なんだから」
サクラは、ミサキに対して、握手を求め、手を伸ばす。
しかし、ミサキは握手を拒否した。
握手をする代わりに、ミサキは、サクラに飛びつき、強く抱きしめた。
「……サクラさん、ありがとう」
「……こちらこそありがとう。ミサキちゃんに出会えて良かった」
ねえ、とミサキがサクラに問いかける。
「一年後、どこで会う?」
そうねえ、と少し考えた後、サクラは言う。
「とりあえず、ここではない、どこか安全な場所にしようか」
ミステリではなく、文学風の作品となってしまいました。
……文学といえば、次の日曜日(5月19日)の文学フリマ東京に「新生ミステリ研究会」の一員として参加します!(強引な宣伝)
前回書籍化した「殺人遺伝子」の残部が10部くらいあるのでこれを販売するのに加え、
新刊として「メビウス館の殺人」を書籍化しました。こちらは50部用意しました!
全体を修正して、1万7000字くらい加筆し、かなり良い作品になったと自負しております。
また、無料配布短編ミステリとして完全新作「マカロンと殺人」を用意しました。こちらは少なくとも1000部は用意します!
宣伝の意味も込めて、前回の文学フリマ京都で無料配布した「生成AIを使って殺しました」をこれからアップしようと思います。
よろしくお願いいたします!!