疑惑の判定
2023年◯月×日
「ガセネタ・デナイ・スポルト」
昨夜、セリアAの審判であるロマリアさんが、何者かによって銃撃された。
ロマリアさんは銃撃の5時間前にキックオフの試合において笛を吹いていたところ、そのジャッジが、勝利したホームチームを利するものではないかと一部アウェイチームサポーターから疑われていた。
警察は、ロマリアさんが激昂したアウェイチームサポーターの過激派に殺害された可能性もあるものとして捜査を進めている。
ロマリアさんの笛が本当に「偏った」ものだったかどうかの検証記事は3面へ。
…………
「エミリアーノ刑事、息抜きにサッカー観戦ですか?」
そう言ってパソコンのディスプレイを覗き込んできたのは、今年から刑事課に配属になったばかりの新人刑事だった。
ブロンドの白人女性であり、名前をアンナという。田舎の方の出身だということだが、訛りのない綺麗なイタリア語を話す。
エミリアーノは、アンナの教育担当を任されていたのだが、一流大学を卒業し、出世キャリアまっしぐらのアンナに教えることなど何もない、というのが本音のところだった。
「息抜きじゃない。これは仕事だよ。今は業務時間中で、ここはミラノ警察のオフィスだ」
「随分と楽しそうな仕事ですね。私にも教えてください」
アンナは、自分のデスクから、車輪付きの丸椅子を移動させ、エミリアーノの隣に陣取った。
「そんなに楽しい仕事じゃないかもしれないぜ。脅迫事件だからな」
「脅迫?」
「しかも、殺害予告だ」
「セリアA所属のサッカー選手がですか?」
セリアAは、イタリアプロサッカーの1部リーグである。イタリア代表はじめ、各国の代表選手も多く所属しており、世界三大リーグの1つにも数えられる。
「いや、選手じゃない。審判だ」
エミリアーノが新たに担当することになった事件は、セリアAで笛を吹く審判に対する殺害予告事件だった。
殺害予告を受けている審判の名は、ブルーノという。
「なんだか面白そうですね! 事件の詳細について教えてください!」
「殺害予告事件」を面白いと評するのは不謹慎にも思えたが、アンナはそういう人間である。好奇心旺盛で、良い意味で仕事を仕事と思っていないところがある。
「事件の詳細は後で教えるよ。もし手伝ってくれるならね」
「もちろん手伝います! 何を手伝えば良いんですか!」
上目遣いのアンナは、まるで餌をねだる猫のようだった。
「サッカーのルールについて教えて欲しいんだ。俺は昔からサッカーにはあまり興味がなくてね」
イタリア語で「カルチョ」と呼ばれるサッカーは、イタリアの国民的スポーツである。多くのイタリア国民が週末のセリアAの結果に一喜一憂し、「アズーリ」の愛称で親しまれる代表チームの活躍に夢を見ている。
かといって、国民全員がサッカーに興味があるわけではない。エミリアーノは、サッカーの試合を見るのはW杯くらいであり、どちらかというとバレーボールの方が好きだった。
「エミリアーノ刑事、サッカーは足でボールを扱うスポーツです。ですので、手を使うと反則です」
「アンナ君、さすがの俺でもそれくらいは分かるよ。俺が聞きたいのは、『オフサイド』についてだ」
「ああ、『オフサイド』ですね」
サッカーは、一言で言うと「ボールをゴールに蹴り込むだけ」のシンプルなスポーツだとエミリアーノは考えている。しかし、「オフサイド」だけは難解で、どうしてもよく理解できなかった。
「私に任せてください」と言ってアンナは席を立つと、デスクから自分のタブレットを持ってきた。
「これをホワイトボード代わりに使います」
アンナはスラスラとタッチペンで書き込む。
「矢印の方向に青チームが攻めてるとして、この状態で青色の7番の選手が、10番の選手にパスを出すのが典型的なオフサイドです」
「どうして?」
「オフサイドは、簡単に言うと『ゴール前待ち伏せ』禁止ルールなんです。相手ゴール前で待ち伏せしてる味方にひたすらロングボールを蹴るだけだと面白くないですよね。サッカーの魅力の一つは中盤の攻防にあるわけですから」
「なるほどな……。なんとなく分かるよ」
「ですので、相手ディフェンスの最終ラインより後方にいる味方にはパスを出したら『オフサイド』の反則なんです。この図で言うと、赤チームの最終ラインはここですね」
「10番の選手は、相手ディフェンスの最終ラインよりも後方にいるので、『オフサイドポジション』になるわけです。ちなみにオフサイドかどうかの判断のタイミングは、ボールを蹴る瞬間です。7番がボールを蹴る瞬間に10番が『オフサイドポジション』にいるかどうかが問われます」
「つまり、ボールが蹴られた後にオフサイドポジションに移動する分には構わないということだね」
「そのとおりです。それがいわゆる『裏への飛び出し』です。ちなみに、最近ではボールに特殊なチップが埋め込まれてて、衝撃を認識することができるので、ボールが蹴られたタイミングがいつかを正確に知ることができ、オフサイドの判断精度が飛躍的に向上しました」
さすが頭が良いだけあって、アンナの説明は分かりやすかった。
そして、ここまでのアンナの話は、エミリアーノが今まで漠然と考えていた「オフサイド」のルールとも一致している。
問題はここから先である。
「アンナ君、この試合の動画を見てくれ」
エミリアーノが、デスクトップパソコンのディスプレイを指差す。
「先ほどエミリアーノ刑事が見ていた動画ですね! おそらく3日前にやっていた、今季最終節のレノボ・ミラノVSサンプラザニアの一戦かと」
「よく分かるな」
「私、ジェノヴァの山間部の方の出身なんです。ですので、ジェノヴァをホームとしているサンプラザニアのことは応援してまして」
「なるほどね」
エミリアーノは、サンプラザニアがジェノヴァのチームだということすら知らなかった。
エミリアーノはマウスでパソコンを操作する。そして、ディスプレイに最初の「問題」のシーンを表示させる。
「おお、これはサンプラザニアの先制点のシーンですね! 最後のクロスに至るまで、見事な崩しでした!」
さすがサポーターだけあって、アンナは興奮した様子であった。
しかし、エミリアーノは、このゴールシーンについて、腑に落ちないことがあるのだ。
「アンナ君、このゴールはオフサイドで取り消しにはならないのかい?」
エミリアーノが見る限り、サンプラザニアでゴールを決めた選手は、レノボ・ミラノのディフェンスの最終ラインの後方、つまりオフサイドポジションにいるように見える。
「オフサイドにはなりませんね」
「ひいき目なしで頼むよ」
「ひいきではありません。そういうルールなんです」
アンナは、再びタブレットをホワイトボード代わりにする。
「シチュエーションとしてはこんな感じですね。白がサンプラザニアで、青がレノボ・ミラノです」
「そうだな。ここで白の18番が、白の9番にパスを送るのはオフサイドじゃないのか? 9番は最終ラインよりも後方にいるだろ?」
「つまり、エミリアーノ刑事は、ここが最終ラインだと考えてるわけですね」
アンナがタブレットに線を引く。
「違うのか?」
「そうですね。違います。ボールがディフェンスラインよりも後方にある場合には、最終ラインはディフェンスラインではなく、ボールになるんです」
「はあ」
「ですので、この場合の最終ラインはこうなります」
アンナが線を引き直す。
「すると、白の9番はオフサイドポジションではありませんので、9番の決めたゴールが取り消しになることはありません。我が軍が先制です!」
なるほど。それでサンプザラニアの先制点は取り消しにならないということか。
すると、審判のジャッジにも「不正」はなかったということになる。
ただ、審判の「不正」が疑われるのはこの場面だけではなかった。
「アンナ君、次はこのシーンについて解説してくれ」
エミリアーノは動画を早送りし、次の「問題」のシーンに持っていく。
今度はレノボ・ミラノの「ゴール」のシーンである。
「ああ、これはレノボ・ミラノの幻の同点弾ですね。オフサイドで取り消しになったやつです」
「そうだ。ただ、俺にはなぜこれがオフサイドなのか理解できないんだ。だって、得点を決めた選手は、相手の最終ラインよりも手前にいるじゃないか」
「このシーンは少し難しいですね。ただ、間違いなくオフサイドです」
アンナは軽快にタッチペンを踊らす。
「アンナ君、この場合の最終ラインは、白の3番だろ? 点を取った青の9番はそれより手前にいるよな?」
「エミリアーノ刑事、ゴールキーパーの位置を確認してください。直前のプレーで前に飛び出した結果、だいぶ持ち場を離れてしまってますよね?」
「たしかにそうだが、それがオフサイドと関係があるのか?」
「大アリです。最初に見せた図を思い出してみてください」
アンナがタブレットの画面を切り替える。
「このとき、最終ラインは、ゴールキーパーも含めると、赤チームの後方から2人目に引かれてますよね?」
「……ゴールキーパーも含めればそうだな」
「オフサイドラインは、ゴールキーパーも含めた、後方から2人目に引かれるんです」
ですから、とアンナは線を引く。
「レノボ・ミラノの『幻の同点弾』のシーンのオフサイドラインはここなんです。よって、レノボ・ミラノの9番はオフサイドポジションです」
なんだかキツネにつままれた気分である。ただ、これがサッカーのルールだというのだから、異論を挟む余地はない。
「これにて我が軍は命拾いしました。試合は後半戦へと移ります」
後半25分、それまで攻め立てていたレノボ・ミラノが強烈なミドルシュートによって同点に追いつく。
そのゴールで勢いづいたレノボ・ミラノは、ホームの声援に後押しされ、その後もサンプザラニアを攻め立てる。ホームでの最終戦を勝利で締めくくり、有終の美を飾ろうとしたのだ。
しかし、試合の最終盤に、エミリアーノから見て、もっとも「怪しい」シーンがあった。
「アンナ君、これはどうなんだ? さすがに誤審じゃないのか?」
後半ロスタイム、それまで防戦一方だったサンプラザニアが、目の覚めるようなカウンターによってゴールネットを揺らした一幕。
「やりました! 我が軍の勝利です!」とアンナははしゃいだが、エミリアーノには、このシーンはどう考えてもオフサイドにしか思えないのである。
エミリアーノがそのことを指摘すると、アンナは、「たしかにこれは説明が必要ですね」とは言ったものの、決して誤審とは認めなかった。
「先ほどまでの要領で図示すると、こんな感じです」
「どう考えても、白の22番の選手はオフサイドポジションだよな?」
「それはそのとおりです」
「じゃあ、どうしてゴールが認められたんだ?」
8番の選手からパスを受け、ゴールを決めたのは22番の選手だった。
「簡単に言うと、青の4番の選手がボールに触れているから、ということになります。オフサイドは、味方からパスを受ける際のルールなので、相手に一旦ボールが渡った場合には適用されません」
理屈は分からなくはない。ただーー
「動画を見る限り、青の4番の選手は、白の8番の選手の蹴ったボールが『当たった』だけのように見えるんだが」
「そうですか? 青の4番の選手は、白の8番の選手にアプローチをして、ボールを奪いにいってるんじゃないですか?」
言われてみるとそうかもしれない。
「ルール上は、青の4番が『セーブ』、つまり、シュートを阻止した場合には、『当たった』だけなので、オフサイドが適用されます。しかし、今回みたいにボールに『意図的に』関与している場合には、あくまでも一旦ボールの主導権が変わっていると考えて、オフサイドの適用外なんです」
エミリアーノが不満げな表情をしているのを、アンナは敏感に読み取った。
「納得いかない気持ちは分かります。実際、過去にヨーロッパ王者を決める大会の決勝でこのルールが適用されて、負けたチームの選手が『ルールを変えるべきだ』と意見したこともあります」
それから、とアンナは続ける。
「たしかに最後のサンプラザニアの得点に関しては、主審によって判断が分かれるでしょう。『意図的に』関与しているかどうかというのは、主観的な判断を含みますから」
「つまり、別の主審ならばオフサイドと判断した可能性もあるということか」
「ええ。そのとおりです」
だとすると、この試合の主審であるブルーノの笛は「不正」や「誤審」とまでは言えないとしても、「偏っていた」可能性はあるということか。
だとすると、ブルーノが殺害予告を受けるのにも一定の理由があるのかもしれない。
「『君の軍』の勝利も疑わしいな」
「そんなこと言わないでください! それに、仮に微妙なジャッジがあったとしても、結果は結果です。後から覆るようなことはありませんから」
アンナが頬を膨らます。童顔ということもあり、その様子はヘソを曲げた幼児のようである。
「ところで、エミリアーノさん、そろそろ事件の詳細について教えてください! 審判への殺害予告というのはどういうものなんですか!?」
…………
レノボ・ミラノのサポーターはお前をゆるさない。
すぐに審判をやめろ。さもなくば、お前を殺す
…………
エミリアーノは、被害届とともに捜査記録に綴られた「殺害予告」の写しを今一度確認する。
ペンで書かれた文字は震えていて、ぎこちないものである。おそらく、犯人は筆跡を隠すために、利き手と逆の手で文字を書いたのだろう。
この殺害予告状は、ブルーノの家の郵便受けに投函されていたものであるが、消印が付いていない。それゆえ、犯人は、郵便を使わず、直接郵便受けに投函したものと解される。
「ブルーノ」
エミリアーノは、目の前で座っている男の名を呼ぶ。
細身だが、筋肉は程よくついていて、アスリート体型だ。聞く話によると、サッカーの審判の走行距離は、1試合で約10kmもいくらしい。
「もう一度訊くが、殺害予告状を送った相手が誰かについて、心当たりは全くない、ということで良いな?」
「……ええ、一切ありません」
ここはミラノ警察署の小部屋である。被疑者の取り調べではなく、被害者への事情聴取なので、なるべく圧迫感のないよう、ドアを開け、隣の執務スペースの様子も見えるようにしている。
「ただ、おそらくはレノボ・ミラノのサポーターの仕業なんだろうな。ブルーノさんが主審を務めた最終節の試合で、レノボ・ミラノはサンプラザニアと対戦し、1ー2で負けて、優勝を逃した」
最終節を迎えた時点で、レノボ・ミラノは、2位のナポリ・ケチャップズの勝ち点2差をつけて首位であった。
しかし、サンプラザニアに負けたことにより、最終節を勝利したナポリ・ケチャップズに勝ち点で逆転され、2位となってしまったのである。
「レノボ・ミラノのサポーターは、サンプザラニアに負けたのはブルーノさんのせいだと考え、その『仕返し』としてブルーノさんに殺害予告を出したんだ」
「それはとんだお門違いですよ!」
ブルーノが語気を荒らげる。
「私は公平にジャッジしました。サンプラザニアが勝ったのは、サンプザラニアの残留への執念によるものだと思います」
たしかに、サンプザラニアは18位でセリアA降格圏にいたが、レノボ・ミラノ戦で「ジャイアント・キリング」を果たしたことにより、残留圏の16位に浮上した。
「それに、私に偏った笛を吹くインセンティブはありません。もちろん、私がサンプラザニア側からお金をもらっていたなどということも断じてありませんし」
エミリアーノもそのようなことを疑っているわけではない。ただーー
「ブルーノさん、あなたの出身はどちらだい?」
「……イタリア南部のナポリです」
「つまり、ナポリ・ケチャップズのホームタウンだな。さらに、警察の調べたところによると、ブルーノさん、あなたは幼少時代からナポリ・ケチャップズのサポーターらしいな」
「刑事さん、何が言いたいんですか……?」
「ナポリ・ケチャップズのリーグ優勝は嬉しかっただろ? 約30年ぶりの快挙だからな」
最終節でレノボ・ミラノがサンプラザニアに負けた結果、ナポリ・ケチャップズが勝ち点1差でセリアA優勝を果たした。
仮に、後半ロスタイムのサンプラザニアのゴールがオフサイドで取り消されていたとすれば、1ー1の引き分けだった。そうであれば、勝ち点差では並ぶものの、得失点で上回っていたレノボ・ミラノが優勝していた。
「刑事さん、私がナポリ・ケチャップズのサポーターであることは事実です。しかし、私は審判である以上、常に公平に試合をさばいています。偏った笛を吹いて、ひいきのチームを優勝させるだなんてことは断じてありえません!」
アンナによれば、サンプザラニアの2点目をオフサイドとするか否かは、審判の判断次第とのことである。ブルーノが「気心」を加えた可能性は否めない。他方で、オフサイドにしてもしなくても「正解」なのだから、ブルーノの判断に「他事考慮」があったかどうかを検証することは不可能だ。
ーーそもそも、警察がそのことを検証する必要はない。
「ブルーノさんのジャッジが実際に公平だったかどうかについてここで議論するつもりはないよ。ただ、俺が指摘したいのは、レノボ・ミラノのサポーターには、不公平だと感じた者もいただろう、ということだ」
「……それは否定できません」
「ブルーノさんの自宅はミラノにあるからな。そうしたレノボ・ミラノのサポーターの中に、ブルーノさんの自宅を知っていて、郵便受けに殺害予告状を入れる輩がいても不思議ではない」
ゆえに、警察の捜査対象は、ミラノ、もしくはその近郊に住むレノボ・ミラノサポーターということになろう。
それだけだとあまりにも広範なので、筆跡や指紋、防犯カメラ映像などから対象を絞っていくほかない。
ちなみに、とエミリアーノはブルーノに質問する。
「殺害予告状には、『すぐに審判をやめろ。さもなくば、お前を殺す』とあるが、ブルーノさんは、もちろん審判をやめる気はないんだよな?」
「もちろんです。審判業は私の『生きがい』ですから」
生きがいか。仕事が生きがいだと胸を張って言えるのは、羨ましいことである。エミリアーノも警察の仕事は気に入っているが、それが生きがいだとまでは言えない。
「それに、今年は『ロマリアさんの件』もありましたからね。それなりの覚悟をしてピッチに立っているつもりです」
「ロマリアさんの件」とは、ブルーノと同じセリアAの審判であるロマリアが、何者かに殺害された事件である。事件から3ヶ月経った今も、犯人はまだ捕まっていない。ただ、犯人は、ロマリアのレフェリングに不満を持ったサポーターであると考えられている。
ブルーノに宛てられた殺害予告は、ロマリアの件の「模倣犯」の一種かもしれない、とエミリアーノは読んでいる。
「真面目に審判をやった結果、私が命を落とすのは構わないと思っています」
ただ、とブルーノは声を落とす。
「そうした私の『わがまま』によって私が殺されるのは自業自得だと思いますが、家族を巻き込むわけにはいかないと思っています。私には、妻と、9歳の一人息子がいるんです。ですから、私は警察に被害届を出したんです」
「9歳か。それは可愛いだろうな」
エミリアーノにも、ちょうど同い年くらいの娘がいる。
「ええ。目に入れても痛くない存在です。本業の事務職に加えて審判業をしているので、一緒に過ごせる時間はなかなかないんですが、息子のカルロのことは常に想っています。去年の父の日にカルロから手紙をもらったんですが、肌身離さず持ってます。今だって持ってますよ」
ブルーノがカバンから手紙を出そうと屈む。ちょうどその時、「エミリアーノ刑事!」と呼ぶ声がした。
アンナの声である。
執務スペースから、エミリアーノとブルーノがいる部屋まで駆けてきたのだ。
「エミリアーノ刑事、電話です! 殺害予告をした犯人が自首してきました!」
…………
「エミリアーノ刑事、本件も無事解決しましたね!」
水色のワンピース姿のアンナがコーヒーカップを持ちあげる。
互いに午前が非番だったので、警察署の近くのカフェで待ち合わせをした。ミラノの洗練された街並みを見渡せるテラス席で、向かい合って座る。午後から仕事だからといって、制服で出歩くわけにもいないので、互いに私服姿だ。
「私が解決したわけではないのだが」と遠慮がちにエミリアーノは乾杯に応じる。カフェインが得意ではないので、カップに入っているコーヒーはデカフェである。
「またまたご謙遜を」
謙遜でもなんでもない。ブルーノに殺害予告状を送った犯人は、自首したのだから。エミリアーノが解決に貢献したわけではないので、アンナの発言はおそらく皮肉である。
自首してきたのは、カルローーブルーノの息子だった。
アンナから「犯人」と聞いて身構えていたのだが、電話口の声はあどけなく、拍子抜けした。カルロはわずか9歳の少年なのだ。
カルロが、実の父親に殺害予告状を出したのには、ちゃんとした理由がある。
それは、一言で言うと、「父親を守るため」ということになる。
3ヶ月前、セリアAで審判を務めていたロマリアが、ジャッジに不平を持ったと思われるサッカーファンに殺害される事件があった。
その事件の報道を見たカルロは、父親であるブルーノも殺されてしまうかもしれない、と恐れるようになったのである。
カルロの中で恐怖心を極限まで高めたのが、最終節のレノボ・ミラノVSサンプザラニア戦であった。
父親のジャッジが偏っていたのかどうかはカルロには分からなかった。しかし、結果として、それはレノボ・ミラノを負かせ、優勝を剥奪するものであった。
ブルーノの家族が住む家はミラノにある。
暴徒化したレノボ・ミラノのサポーターが父親に襲いかかってくるのではないかと気が気でなかった。
そこで、カルロは、父親であるブルーノに、一刻も早く審判業を辞めて欲しかったのである。
ゆえに「すぐに審判をやめろ。さもなくば、お前を殺す」という殺害予告状を書き、家の郵便受けに入れた。
カルロの本意は「すぐに審判をやめろ」という部分にあったということになる。
以上のことを、カルロは電話口で泣きながら話した。そして、何度も謝罪の言葉を口にした。
カルロの動機は納得できたし、自首するのにも勇気がいることだったと思う。
今後の処分については検察官が決めることだが、エミリアーノは「安心してくれ」とカルロを慰めた。
おそらくカルロの年齢を考えても、親族内のことであることを考えても、大ごとにはならないだろう。
エミリアーノは、カップの中身を啜る。味はコーヒーそのものである。
「ブルーノは立派だよ。立派な審判だ。最終節のジャッジも公平なものだったと、今なら断言できるよ」
「どうしてですか?」
「だって、ブルーノは、愛する息子すらもひいきしなかったんだ」
電話口で、カルロは、「殺害予告状の字には細工はしていない」と話した。利き手と逆の手を使ったこともなければ、わざと下手クソに字を書いたわけでもないということだ。カルロはいつもどおりに字を書いただけだという。
すると、ブルーノは、殺害予告状を見るやいなや、筆跡から、それを投函したのは実の息子だと分かったはずである。
なぜなら、彼は、父の日にカルロからもらった手紙を常に持ち歩いていたのだから。カルロの筆跡を確実に把握していたはずだ。
ゆえに、ブルーノは、「犯人」が息子だと知りつつも、事件を揉み消すことなく、あえて被害届を出したということになる。
それはブルーノの確固たる教育方針であるとともに、審判としての強い信念によるものだったと思う。
ブルーノは、肉親ですら特別扱いをすることがなかったのだ。
ましてやひいきのチームを優勝させるために「気心」を加えるはずがない。
そのあたりの事情はまだアンナには話していないので、アンナはエミリアーノの発言の真意を掴みかねているようだった。
キョトンとするアンナに対し、エミリアーノはコーヒーカップを突きつけ、再度の乾杯を求める。
「『君の軍』の勝利は正真正銘本物だよ。サンプラザニア、改めて残留おめでとう!」
(了)
軽い方を先に出しました。
人の殺し方について四六時中考えている筆者は、今回は苦手分野である「日常の謎」に取り組もうとしたのですが、結果、冒頭からロマリアさんを殺害してしまい、さらにメインの謎も「殺害予告状」とひたすら物騒なものになってしまいました。そのことを謝罪申し上げます。
サッカーフリークの方はお気付きかと思いますが、サンプラザニアの「疑惑」の勝ち越し点のシーンは、去年のネーションズリーグ決勝で、フランスがスペインを下した際のエムバペのゴールをモデルにしています。
なかなか理解しがたく、ルールを変えるべきなんじゃないかと考えて当然なシーンなのですが、個人的には、ひいきにしてるACミランのテオ・エルナンデスにアシストがついたので不問にしています。
おかげさまでブクマ数が68までいきました。ありがとうございます。残り32です。
冗談でなくアイデアが枯渇していますので、菱川を救うべく、ご支援のほどよろしくお願いします。