スマートキ(ラ)ー【出題編②】
「まずは最初の調査事項。『1 被害者が車に轢かれたとされる時刻』です。瀬身さんの弁護人として検察官から聴取してきました。そうしたところ、轢き逃げ事件の時刻は、19時頃から23時頃とまでは特定できるとのことでした」
「特定の方法は?」
「19時1分に、被害者は、友人に対してLINEを送っているとのことです。ゆえにこの時間までは生存が確認できるとのことでした。そして、夜遅くなっても帰ってこなかったことを心配した被害者の妻が警察に通報し、通報を受けた警察が死体を見つけたのが23時5分のことでした」
「なるほどね。それでここに書かれてる時系列になるわけだ」
瀬身は、アクリル板越しに、衛藤の書き込みを指差した。
…………
・9時
愛車「プレミアム・レスト」で喜多原宅を出発。瀬身が運転。喜多原夫妻が同乗
・9時35分
釣り場に到着。釣り場から徒歩2分弱の駐車場に「プレミアム・レスト」を停め、夫妻は釣り場へ、瀬身は喫茶店「バイ・ザ・リバー」に向かう。
・16時
喜多原夫妻が釣りを終え、徒歩でレストラン「山犬」へ移動
・16時20分
「山犬」へ到着。喜多原夫妻はアルコールを含めた飲食をする
・19時1分
被害者が友人にLINEを送る(生存が確認できる最後の時点)
・20時
範子から瀬身へLINEでお迎えの要請。瀬身は「プレミアム・レスト」を運転して出発
・20時10分
瀬身が「山犬」に到着
・20時30分
瀬身が運転する「プレミアム・レスト」が「山犬」を出発。喜多原夫妻が同乗。
・21時5分
喜多原宅に到着。この時間以降「プレミアム・レスト」の車庫出入りなし
・23時5分
被害者の死体が発見される
…………
「この時系列表によれば、瀬身さんが被害者を轢くチャンスは2回あります。1回目は20時に『山犬』に1人で向かう際、2回目は20時半に喜多原宅に夫妻を乗せて向かう際です」
「衛藤君、ちょっと待ってくれ。色々と論理が飛躍し過ぎている。そもそも、被害者が轢かれた場所は分かってるんだよな? それはちゃんと私が車で通った場所なのか? まさか大阪とかハワイとかではないだろうな?」
さすがにそれで瀬身を誤認逮捕するほど、警察は無能ではない。
「それに関しては【調査事項】の2ですね。『2 被害者が轢かれた場所その他被害者に関する情報』です。まず被害者が轢かれた場所については、時系列表の隣の図を見てください」
「被害者である椎村の死体が見つかったのは、もちろんあきる野市内です。『山犬』から約1kmほど離れた路上です」
衛藤が実際に現場に行ってみたところ、車2台がギリギリすれ違えるくらいの狭い山道で、近くに電灯もなく、日が落ちた後は真っ暗であった。
「現場の様子は大体分かるよ。何回か通ってるからね。……なるほどな。仮に私が犯人だとすると、椎村を轢くチャンスは先ほど君が言ったとおりだな。『山犬』へ向かう時と、『山犬』から出発して喜多原宅に向かう時とで2回ある。仮に私が犯人だとするとな」
瀬身は最後の部分を強調した。
「ちなみに、警察はその2回のチャンスのうち、実際に椎村を轢いたのは前者の方だと考えています」
「……それはそうだろうな。だって後者の方だとすると、私が運転する車の助手席に範子氏が、後部座席にひろひこ氏が乗っていたから、私が人を轢いたことに夫妻も気付かなかったか、もしくは、夫妻も犯人隠避の『共犯』ということになってしまう」
「そのとおりです。ですから警察は、瀬身さんが『山犬』に夫婦を迎えに行く際に、椎村を轢き、轢いた事実を『隠蔽』したものと考えています」
「隠蔽?」
元探偵はその言葉を聞き漏らさなかった。
「ええ。椎村の死体は道端の茂みの中で見つかっているのですが、轢かれた後に、人為的に移動させられているんです。2m程度ですが、死体を引き摺ったような血痕が見つかってまして」
「つまり、警察は私が事件の発覚を遅らせるために、一旦車を降りて死体を移動させたと見立てているということかい?」
「そういうことです」
車通りは少ないとはいえ、路上に死体が落ちていたのであれば、すぐに発見されてしまうだろう。
しかし、道端の茂みであれば、通行する車も気付かない可能性が高い。
実際に、椎村の死体は、警察の捜索によって初めて見つけられたのである。
「他に被害者についての情報はないのか? 年齢や身長や好きなアイドルとか」
「もちろん調べてありますよ。被害者は、椎村和之介。56歳。身長は170cm。体重は82kg。あきる野市内に妻と子2人と住んでます。仕事は自営業で、教育関係の商材を扱っていたようです。好きなアイドルは……その情報必要ですか?」
「今回は不要だろうな」
「あと、死体の写真も入手しましたが、見ますか?」
「……やめておくよ。あまり趣味ではないんだ」
この男には死体を引き摺って移動させることなどできないことは、この反応だけからも証明ができる。
瀬身は根っからの小心者で、死体を見るのが苦手なのだ。
衛藤は仕方なく、写真を裏返しにしてテーブルに置く。
「他に情報は要りますか? たとえば椎村の贔屓のサッカーチームとか。椎村は浦和レッズの熱狂的なサポーターでした」
「生憎、私は球投げにも球蹴りにも興味がないんだ。次の調査事項に移ってくれ」
瀬身は大衆的な娯楽に一切興味がないのである。
瀬身が言った「球投げ」とは一体何だろうかと思ったが、おそらくは野球のことで、喜多原がカープファンであることを指しているのだろう。
「分かりました。次は『3 範子氏が川で無くした指輪について』です。この件について、喜多原宅を訪れて、喜多原夫婦と直接面会しました」
「どういう名目で面会したんだ? まさか私の弁護人を名乗ったわけじゃないだろ?」
「もちろん違います。そう名乗ってたら、喜多原夫婦は間違いなく面会を拒否してたでしょう」
瀬身が事前に忠告したとおり、喜多原夫妻は瀬身のことを毛嫌いしていた。
「彼らは私のことを何て言ってたかい?」
「人殺し」
「……それだけかい?」
「喜多原ひろひこは、瀬身さんのことを、『ロクに挨拶もできない』『コミュ障』『偉そうな態度がハナにつく』『人を小馬鹿にしてる』などと散々言ってました」
「さすが『パワハラひろひこ』だけあるな」
実際に会ってみたところ、たしかに喜多原は威圧的で、パワハラ気質であった。
ただし、喜多原の瀬身への評価は全て的を得ていると思う。
「話を戻しますと、僕は正直に自分の身分を明かすことによって、喜多原夫妻との面会に漕ぎ着けました」
「は? どういうことだ?」
「瀬身が探偵をやっていた時代の助手だ、と伝えたんです」
「……よくそれで追い出されなかったな」
「ええ。むしろ瀬身さんを『目の敵』にしている喜多原ひろひこは、僕にシンパシーを覚えてくれました。『あんな奇天烈野郎の下で働いていて大丈夫だったか? パワハラには遭わなかったか?』って心配されました」
「『パワハラひろひこ』が自分のことを棚上げしてよく言うよ。……それで、君はそれに対して何て答えたんだ?」
「こき使われて辛い目に遭ってました、と嘘をつきました」
こき使われていたのは本当だが、辛い目に遭っていたというのは嘘である。
衛藤は、今でも、瀬身には早く探偵に戻って欲しいと心から思っている。探偵助手をやっている時が人生で一番楽しいのである。
そうでなければ、目の前の「疫病神」とはとっくに縁を切っている。
衛藤が「哀れな瀬身被害者」だと認識した喜多原は、まるで捨て猫を保護するかのような丁寧な対応で、衛藤を邸宅に招いてくれた。
居間に招かれた衛藤は、瀬身の言っていたことに激しく同意する。
たしかにこの家では一切くつろげない。
家中のものが全て赤色か、そうでなければ金色か銀色なのだ。
家具はおそらくすべて高級品なのだが、衛藤の第一印象は「下品な家」だった。
ちなみに、喜多原ひろひこはちゃっかり赤いセーターを着ていた。
「それで、指輪の件についてはちゃんと聞けたのか?」
「バッチリです」
衛藤は、人差し指と親指とで輪っかを作る。
「範子氏が無くしたのは、結婚指輪でした。純金製で三桁万円するやつです」
「もちろん私も見覚えがあるよ」
「『山犬』で飲食をしている最中、範子氏は指輪がないことにハッと気付きました。釣りをしている間に指輪を落としたに違いないと考えた範子氏は、まずは自分一人で探すために『山犬』から釣り場に徒歩で移動しました」
「歩くと20分ほど距離があるはずだが」
「指輪を無くしてそれほどまでに焦ってたということでしょう」
「おそらく旦那にすぐに探すように命じられたんだろうな」
そのあたりの事情は聞いていなかった。ただ、瀬身もその点を掘り下げるつもりはないようだったので、衛藤は話を先に進めた。
「指輪を探すために範子氏が『山犬』を出たのが18時半頃で、釣り場に着いたのが18時50分頃になります。範子氏は、心当たりがある場所を中心に、スマホのライトを翳しながら指輪を探したのですが、なかなか見つかりませんでした」
季節は春に入っていたが、日没時間は早いままだった。19時前には日は完全に沈んでいる。電灯もない自然の環境では、ライトで照らさない限りは一歩先ですら闇である。
「そこで夫である喜多原に応援を頼みます。『山犬』にいた夫に電話をかけ、釣り場に来て一緒に指輪を探して欲しい、とお願いしたんです」
「それで旦那は助けに来たのか?」
「電話口では『すぐ釣り場に向かう』と答えたそうです。ただ、実際には行きませんでした」
「さすがコメディアン。口八丁だな」
先ほどから、瀬身の喜多原に対する発言は敵意が剥き出しである。
「コミュ障」等罵られたことが相当頭に来ているのだ。
「喜多原ひろひこ曰く、『指輪捜索に行こうとは思ってたんだが、ついつい常連客と話し込んでしまってね』ということでした。範子氏が『山犬』に不在の間、喜多原は別に来ていた常連客と飲み交わしてたみたいです」
「眉唾だな。おそらく最初から釣り場に行くつもりなんてなかったんだ。喜多原ひろひこという男はそういう男だよ」
「瀬身さんは、喜多原ひろひこと範子氏との関係をどう見ているんですか?」
「外見上は仲良く見せてるが、実際は範子氏が相当我慢してると見ているね。『パワハラひろひこ』の一番の被害者は範子氏さ。家では妻に対する暴言のオンパレードだよ」
「でも、夫婦して釣りに出掛けてるんですよね?」
「共通の趣味がある=仲が良いってわけではないだろ?」
それはそうかもしれない。衛藤が実際に会った印象だけでいえば、喜多原夫妻はおしどり夫婦に見えたが、そのあたりの観察力は元探偵である瀬身の方がはるかに上である。
「それで、指輪は見つからないまま、範子氏は『山犬』に戻ったということか?」
「そういうことになります。釣り場を出発したのが19時55分くらいということでした。ですので、『山犬』に戻ったのは、その20分後で、20時15分頃ということになります」
そして、と衛藤は続ける。
「瀬身さんが『山犬』に迎えに行ったのが20時5分頃ですから、瀬身さんが『山犬』に到着したタイミングでは範子氏は『山犬』にはいませんでした。そうですよね?」
「そのとおりだ。私が『山犬』に着き、店の前の小さな駐車スペースに車を停め、店内に入った時には、客は喜多原ひろひこと、彼と談笑している常連客の2人しかいなかったよ」
「喜多原の様子はどうでした?」
「酒が入って上機嫌という感じだったね。野外で指輪を探してる範子氏のことなんて完全に忘れてる様子だったね」
「なるほど……それじゃあ4つ目の調査事項に移りますね」
「待ってくれ」
瀬身が衛藤を制止する。
「今の話、矛盾してると思わないか?」
「矛盾? 何がですか?」
「大きな矛盾が2つもある。1つ目は、なぜ範子氏はわざわざ『山犬』に戻ったのか、だ」
「……どういう意味ですか?」
「先ほどの図を見てくれ」
「範子氏は、19時55分の段階で釣り場にいて、20時に私に迎えを要請したんだったな。だとすれば、わざわざ徒歩20分かけて『山犬』に戻るより、直接『バイ・ザ・リバー』にいる私に会いに来ればいいじゃないか。せいぜい徒歩4分ほどで着く」
たしかに瀬身の言うとおりである。そうすれば、瀬身にLINEを打つ手間も省ける。
「2つ目の矛盾は、なぜ私は道を歩いている範子氏に気付かなかったのか、だ。範子氏が19時55分に釣り場を出発して、『山犬』への道を歩いていたのであれば、同じ道を私も車で通るのだから、必ず気付いてたはずなんだ。ほとんど人通りのない山道だからね」
「言われてみるとそうですが、ただ瀬身さんは人を轢いたことすら気付かなかったわけですから、道を歩いてる範子氏に気付かなくてもおかしくない……と警察は考えていると思います」
最後の部分は、瀬身に睨まれているのに気付き、慌てて付け加えた。
「間違いなくこれは矛盾だよ」
「そうかもしれませんが、その矛盾と轢き逃げは関係があるんですか?」
「……それはまだ分からない。ただ、この矛盾は必ず今回の不可解な事件を解く鍵になるはずだ」
イマイチ腑に落ちなかったが、今までの経験上、瀬身のこのような「予言」は大抵当たる。現在は職を転々としているが、瀬身には生来の探偵の素質があるのである。
「それじゃあ話を先に進めます。『4 車のボディについていた血痕、凹みに不自然な点はなかったか』です」
「これは極めて重要な点だ。実は『プレミアム・レスト』は人を轢いておらず、犯人が『プレミアム・レスト』に何らかの偽装工作を施しただけ、という可能性もあるからな」
「僕もその可能性があるかな、と思ったのですが、結果は残念なものでした。つまり、『プレミアム・レスト』に付着していた血痕は、拭かれていて目視はできませんでしたが、化学検査の結果、被害者である椎村のものと完全に一致しており、ボディの凹みも、人を轢いたときにつく凹み方でした。もっと言うと、椎村の死体からは『プレミアム・レスト』の塗装の付着が認められます」
「そうすると、椎村が『プレミアム・レスト』に轢かれて死んだ、という線は崩せそうもないな。警察が証拠を捏造していない限りは」
何度も誤認逮捕されてやむをえない部分もあるが、警察不信甚だしい。
ともかく、今回の件もそう簡単にはいかなそうだ。
「次に行きましょう。『5 車のキーの偽造・複製可能性』についてです」
この点を調査するために、衛藤は、喜多原が『プレミアム・レスト』を購入した銀座のショールームに行き、ディーラーから事情を聴取したのだ。
「衛藤君、すまんな。この点は、本来ならば私がちゃんと把握していても良いところなんだが、最近の技術にイマイチ追いつけていなくてね」
瀬身が「最近の技術」と称したもの、それは「スマートキー」である。
スマートキーとは、従来の車に差し込むタイプのキーとは違い、微弱な電波のやりとりをすることによって、非接触でドア鍵の開け閉めをし、また、エンジンの制御を解除するものである。
一昔前は一部の外国車にのみに装備されていたのであるが、今では国産車でも標準装備となっている。
「まず訊きたいこととして、【調査事項】にもあるんだが、スマートキーというものは容易に複製できたり、偽造できたりするのかい?」
仮にこの答えが『YES』だとすると、今回の事件の謎は一気に解けることとなる。なぜなら、瀬身が「バイ・ザ・リバー」で電子書籍を読んでる間、喜多原の「プレミアム・レスト」は、誰の目にも触れない駐車スペースに停まっていて、いわば「フリー」な状態だからだ。
もしも合鍵が何らかの方法で作成されていたのであれば、瀬身以外の誰かが『プレミアム・レスト』を運転し、椎村を轢いてしまうことも可能なのである。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「端的に言うと、偽造も複製もできません。スマートキーと車が交換する電波は高度に暗号化されており、それを真似ることはできないんです。スマートキーが普及した背景には、こうしたセキュリティにおける優位性があるんです」
「なるほどな……。でも、真似ることはできないと言っても、製造元は当然にその暗号とやらを把握してるんだろ? だったら、購入したディーラーにお願いすれば、キーの複製はできるんじゃないか?」
さすが瀬身である。鋭い指摘だ。
「実はそのとおりなんです。ただ、喜多原が『プレミアム・レスト』を購入したディーラーに確認したところ、喜多原の『プレミアム・レスト』のキーが複製されたことはないそうです。複製履歴は厳格に管理しているそうで」
「とすると、喜多原の『プレミアム・レスト』のスマートキーは世界中でたった1つしか存在していないということか」
「そういうことです」
「そして、事件の日、それはずっと私のズボンのポケットの中にあったということか……」
はあ、と大きなため息をついて、瀬身が目の前の机に突っ伏した。
スマートキーが瀬身のポケットに入り続けていたのであれば、当然、その間、喜多原の「プレミアム・レスト」を運転できたのは瀬身だけということになる。
瀬身の知らぬ間に誰かが「プレミアム・レスト」を運転したということはありえない。
「スマートキーは本当にずっと瀬身さんのズボンのポケットの中にあったんですか?」
「ああ。少なくとも外出中はね。喜多原宅の玄関に、キーを掛けるフックがあるんだ。喜多原宅を出発するときにはそこからキーを取ってポケットの中に入れる。そして、帰ってきたらポケットの中からキーを取り出して、またフックにかける。だから、外にいる間はずっとポケットの中だ」
「それは間違いないんですか?」
「ああ。『バイ・ザ・リバー』にいる間も不安になってポケットの中身を何度か確認してるからな。スマートキーはたしかに持っていたよ」
「じゃあ、外出中、瀬身さんのズボンのポケットの中にずっとキーがあったというのは信頼できる情報ですね」
「ああ。信頼してくれ」
考えてみると、それは自らにとって不利益な事実なのだから、瀬身が嘘をつくはずもない。
「そもそも、スマートキーは、基本的にズボンのポケットの中に入れっぱなしで良いものだ。衛藤君、そうだろう?」
「その点に関しては、最後の調査事項とも深く関わってきそうですね。『6 車のキーの特徴について』です。これはスマートキーというものの一般的な説明も含むのですが」
「一般的な説明も、基本的な説明も、すべて教えてくれ」
「はい。まず一般的にスマートキーにはスイッチが付いています。『プレミアム・レスト』のスマートキーにも付いてましたよね?」
「ああ。付いてたよ。『PREMIUM REST』という金色のロゴの下に2つ、南京錠のマークが描かれたものがね」
衛藤もショールームで「プレミアム・レスト」のスマートキーを見せてもらったが、高級車のキーだけあって華美なデザインだった。
「それは遠隔操作でドアの開け閉めを行うリモコン機能のためのスイッチです。ただ、スマートキーというものは別にこのスイッチを使わなくても十分に利用できます。つまり、リモコン機能以外にもドアの開け閉めの方法があるんです」
「分かるよ。車のドアに付いてるスイッチを押すんだろ?」
「そのとおりです。車のドアのスイッチは、近くにスマートキーがある場合にのみ反応します」
要するに、スマートキーには2つの異なる機能が付いているのである。1つはリモコン機能であり、もう1つはキーを持っているだけでドアの開け閉めができるという「スマートエントリー機能」である。
「だから私はスマートキーをズボンのポケットに入れていたんだ。ポケットに入れていれば、車がスマートキーに反応して、ドアのスイッチを押すことができるからね」
つまり、瀬身は、スマートエントリー機能を使い、ドアの開け閉めを行っていたのである。
「それから、車のエンジンを入れる方法ですが、これも似たような仕組みで、近くにスマートキーがある場合には、運転席のボタンを押すことでエンジンがかかる、ということになります。逆にスマートキーが近くになければ、エンジンボタンを押してもエンジンはかかりません」
これもスマートエントリー機能ということになる。
「ずっと気になっていたんだが、それぞれの有効距離というのはどうなんだ?」
「有効距離、というと、スマートキーの電波が届く距離のことですかね」
「そうだ」
もちろんそれも調べてある。
「まずリモコン機能については、車の中心から30m離れていても操作できます。30m先からスイッチを押せば鍵の開け閉めができるんです」
「スマートエントリー機能の方はどうなんだ?」
「こちらは有効距離としては1.5mということです。ただ、リモコン機能と比較していくつか複雑な制約がつきます」
「複雑な制約?」
「セキュリティのためのより高度な機能ということなのですが、スマートエントリー機能に関してはスマートキーが車内にあるのか車外にあるのかが識別されているんです」
車に付いている複数のセンサーのおかげらしいが、衛藤には技術的なところまではよく分からなかった。
「それによって、エンジンをかけられるのはスマートキーが車内にあるときだけです」
「車の盗難防止のためだな。泥棒がキーの所有者を運転席から引きずり出して、乗り逃げすることを防ぐため、ということだな」
「そういうことです。他方、スマートエントリー機能でドアを開け閉めできるのは、キーが車外にあるときだけです」
「ドアの開錠に関しては、キーを車内に忘れてしまった場合の盗難防止、ドアの施錠に関しては、キーを車内に忘れてしまった場合の閉じ込めの防止のためだね」
「御名答です」
さすがの頭の回転の速さである。
「ちなみにエンジンがかかっている最中に、何らかの理由でスマートキーが車外に移動してしまった場合にはどうなるんだ。エンジンはストップするのか?」
「その心配はありません。一度エンジンがかかれば、仮にスマートキーがなくともエンジンはかかり続けます。ただし、一旦エンジンを切ってしまうと、その後またエンジンをかけるためにはスマートキーが必要です」
「なるほどな。それから、先ほどキーを車内に忘れることがないように、ドアの開錠や施錠はキーが車外にないとできないと言っていたが、これは確実に機能するんだろうね?」
「100%確実に機能します。他社のスマートキーでは、それでも誤って車内に鍵を忘れてしまう、つまり『インロック』がされた場合には警告音が鳴る仕組みをとってるものもありますが、『プレミアム・レスト』に関しては、『インロック』の可能性は文字通りゼロなので、警告音機能すら付けていないとのことでした」
「なるほど。仕組みはよく分かったよ」
普段は瀬身から高弁を垂れられる立場なので、その瀬身に対して色々と教えるというのは爽快だった。
「ちなみに、瀬身さん、車に乗り降りするときは、スマートエントリー機能を使って、確実にドアの施錠をしている、ということで間違いないんですよね?」
「ああ、そこは信頼してくれ。ドアのボタンに触れて、『ガチャ』と鍵が掛かる音を確認してから車を離れるようにしてるよ。仮に『プレミアム・レスト』が盗難されたら、喜多原は発狂して、私に何をするか分からないからな」
とすると、セキュリティ面では万全である。スマートキーを持っていない者が喜多原の『プレミアム・レスト』に勝手に乗り込むことなど、不可能なのだ。
「【調査事項】の報告は以上ですが、瀬身さん、轢き逃げ事件の真相は分かりましたか?」
瀬身は、うーんと唸った後、「分からない」と素直に答えた。
衛藤も右に同じで、事件の真相は少しも見えていなかった。
「じゃあ、犯行を自白するんですか?」
「まさか。やってもないことを自白することはありえないよ」
「瀬身さんが気付かなかっただけで実際に椎村を轢いているかもしれませんよ」
「それもありえない。大体、死体は人為的に移動させられてるんだろ?」
「瀬身さんが轢いた後、第三者が移動させたかもしれませんよ」
「くだらない」
瀬身はそう唾棄したが、ありえる見解だと思う。瀬身がこのまま黙秘を続けていれば、警察はそのような見解をとって、そのまま瀬身は有罪となるかもしれない。
衛藤は、瀬身に最後の「助け舟」を出すことにした。
「瀬身さん、【調査事項】とは関係ないのですが、偶然、とっておきの情報を仕入れてしまったんです」
「何だそれは? 早く言ってくれ」
「ディーラーから聞いたのですが、1ヶ月前に範子氏は新車を買っていたみたいなんです」
「新車? しかもひろひこ氏じゃなくて、妻の範子氏がか?」
「しかも、それは『プレミアム・レスト』なんです」
「2台目の『プレミアム・レスト』か。実に興味深いな」
ただ、と瀬身は続ける。
「そんな車、喜多原邸には納入されてないぞ。車庫で見たことがない」
「ディーラーの話によると、範子氏は、埼玉県内の駐車場を納車場所に指定したそうなんです。その駐車場はまだ見に行けてませんが」
「それは範子氏の所有地なのか? それとも借りてる場所なのか?」
「それは後者みたいです。登記簿を確認したら、土地の所有者は別人でした」
「うーん、いずれにせよ不審極まりないな。あんな趣味の悪い真っ赤な高級車を2台揃える合理的な理由はないからな」
範子が購入した2台目の「プレミアム・レスト」。探偵ではない衛藤でも、これが今回の事件と何かしら関係しているであろうことは、容易に見当がつく。
ただーー
「瀬身さん、範子氏が購入した『プレミアム・レスト』のボディは黒色です」
「……はあ」
最初に話を聞いた時には、衛藤もてっきり赤色かと思い込んでいた。赤色の『プレミアム・レスト』を2台用いることで、何らかのトリックを用いたのかと。
しかし、ディーラーの話によると、範子が注文したのは、黒いボディの「プレミアム・レスト」だという。すると、これは範子が私用で乗るために購入したに過ぎず、事件と関係あるというのは単なる幻想なのだろうか。
果たして、「ボディの色が違う。むしろこれは相当大きなヒントじゃないか」というのが瀬身の見解であった。
その言葉の趣旨は衛藤にはよく分からなかった。
「瀬身さん、お互い疲れているでしょうから、結論を出すのは別の機会としませんか。また明日面会に来ますよ」
「……そうだな。衛藤君、今日はありがとう」
瀬身がお礼を言うなんて珍しい。おそらく留置所生活でよほど弱っているのだろう。
衛藤は、テーブルの上に置いた【調査事項】の書かれたルーズリーフと、裏向きに伏せてあった写真をクリアファイルにしまおうと摘み上げる。
その時ーー
「衛藤君! それだよ! それが答えじゃないか!」
突然、瀬身が声を上げる。
「……え?」
「被害者の写真だよ。今、チラリと表面が見えたんだが、そこに『事件の核心』が写り込んでるじゃないか! もっと早く見せてくれば良かったのに!」
事件の核心ーー衛藤には何のことかサッパリ分からなかった。
というか、死体を見たくないという理由で写真を見ることを拒否したのは瀬身じゃないか!!
「瀬身さん、この写真の一体どこが『事件の核心』なんですか?」
「分からないのかい? 衛藤君、それはーー」
その時、面会室の扉がバタンと開かれた。
アクリル板を挟んで瀬身側にある扉ではない。
衛藤の背後の扉だ。
弁護士の接見には秘密交通権が認められている。警官が接見を邪魔することはできないはずだ。
ゆえに、振り向いた衛藤は、扉を開けた警官に抗議をしようと思ったのだが、その警官が、
「水嶋先生、先ほど見せてもらった身分証明書をもう一度見せてもらって良いですか? 実は、同じく瀬身の弁護人の水嶋を名乗る弁護士が五日市警察署に来ていて……」
と言ったので、事情が変わった。
瀬身曰く、「形式上やむなく弁護士を頼んだが、仕事はしなくて良いと伝えてある」とのことだったので、まさか「本物の水嶋先生」が接見に来るなんて思ってもみなかった。
衛藤は、クリアファイルに写真をしまい、それをビジネスバッグに入れる。
そして、低い姿勢で立ち上がると、警官の脇をすり抜けて駆け出し、面会室から逃走した。
【読者への挑戦状】
これから瀬身が推理(供述)を披露するのだが、その前に、読者の皆様にも、この奇怪な轢き逃げ事件の真相について考えてもらいたい。
犯人が誰かについてはすでに明らかかと思うが、ここで筆者がそれを明かすのも興醒めである。
ゆえに読者の皆様には、
1 犯人は誰か(WHO DONE IT)
2 どのような方法で椎村を殺害したのか(HOW DONE IT)
の両方を考えていただきたい。
ヒントはすでに作品中に明示してある以下の4点である。
すなわち、
①指輪捜索を諦めた範子が、直接「バイ・ザ・リバー」にいる瀬身に会いに行かず、わざわざ「山犬」に戻ったという矛盾
②「山犬」に向かう途中、瀬身が範子を見かけなかったという矛盾
③事件の1ヶ月前、範子が2台目の「プレミアム・レスト」を購入していること(ただし、ボディの色は異なる)
④被害者の写真に「事件の核心」が写り込んでいること