ワトスン君の苦悩〜名探偵菱川あいずVS狂人四十面相〜【後編】
ーーそんなまさか。
私は自分の目を疑う。しかし、何度瞬きをしようとも、ゴシゴシ目を擦ろうとも、ツルツルの脛はツルツルのままだった。
念のため、夏目に逆の脚も見せてもらったが、やはり歯型は残っていなかった。
なぜだ? 一体どうしてーー
「ね? ワトスン君、言ったとおりだろ? 冬倉さんの言うことは信用してはいけないんだ。犯人は平気で嘘をつくからね」
菱川が悦に浸った声で言う。
本当に菱川の言うとおり冬倉が犯人であり、彼が崖で秋山に襲われたという話は虚構なのだろうか。たしかにそう考えれば、夏目の脚に歯型が残っていないという矛盾は説明できる。
しかしーー
もっと大きな矛盾が生じる。私が山小屋で見た夏目の生首は一体何だったのか。
「いみじくもこれで証明されましたね。冬倉さんが犯人だということが。犯人は嘘をつく。冬倉さんは嘘をついた。ゆえに、冬倉さんが犯人なのです」
到底説得的とは言えない三段論法であるが、私は反論の手段を失っていた。
夏目の右脚に歯型が残っていなかったことは、冬倉も想定外だったのだろう。彼も悔しそうに唇を噛んでいる。
「それではこれで菱川の華麗なる推理ショーはおしまいです」
菱川が高らかに宣言する。
「クルーズの到着時間まではまだ少しありますので、とりあえずそれまでの間は犯人である冬倉さんは縄で縛っておき……」
「ちょっと待ってください!!」
洞穴に響く大声。
洞穴にいた4人が、声のした方を振り返る。
洞穴の入り口に立っていたのは、「我が探偵」の菱川あいずであった。
いつものハンチング帽も被っていないし、トレンチコートも羽織っていない。それに、何だかふらついていて、足を引きずっている。
しかし、その見慣れた顔、見慣れた声は、菱川あいずのものに他ならなかった。
私は混乱する。私の目の前に菱川あいずが2人いる。
これから先は、便宜上、先ほどまで推理を披露していた菱川あいずを「菱川A」とし、今新たに洞穴に現れた菱川あいずを「菱川B」と表記する。
「みなさん、騙されないでください。そこに座っている菱川は偽物です。狂人四十面相の変装なのです」
菱川Bが、菱川Aを指差す。
「何を言ってるんですか。先ほどまでの華麗な推理をみなさん聞いてましたよね? 僕が本物の菱川あいずです」
菱川Aが胸を張る。
「華麗な推理? 笑わせないでください。興味本位で洞穴の入り口で聞き耳を立てていましたが、論理の「ロ」の字もない、お粗末なものでしたよ」
菱川Bが鼻で笑う。
これには僕も同調する。菱川Aの推理はお粗末この上ないものだった。
「今さらノコノコやってきて、よくそんな偉そうな口がきけますね? あなたは私が狂人四十面相だと言いましたよね?」
「ええ。そうです」
「神に誓えますか」
「もちろんです」
「あなたはキリスト教徒ですか?」
「いいえ。キリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。でも、日本には八百万の神がいます。たとえ『無宗教』であっても、神社、しきたり、自然環境を通じ、いわば神に囲まれて生活しているのです。真実を誓うべき神なんて腐るほどいます」
菱川B、なかなかやるじゃないか。いかにも菱川あいずらしい屁理屈である。
菱川Aの額には冷や汗が浮かんでいる。
「……証拠は? 私が狂人四十面相だという証拠でもあるんですか?」
「ええ。もちろん」
ただ、と菱川Bは続ける。
「いきなり証拠を明かすのは、探偵の流儀に反します。まずは推理を披露すべきです。首無し死体はどのようにして作られたのか、なぜ全員にアリバイが成立したのか、なぜ冬倉さんは秋山さんに襲われたものの命までは奪われなかったのか、なぜ秋山さんは失踪してしまったのか、これらを論理的に説明した上で、それを裏付けるために証拠を用いるべきなんです」
たしかにそうである。これまでの事件も、菱川はそのように解決してきたのだ。
先ほどの菱川Aは、全ての謎を放置したまま、とにかく冬倉が犯人だと宣言し、そのことだけを無理やり裏付けようとしていた。
言い換えれば、菱川Aの説明には、推論から生まれる一連の「ストーリー」が欠けていたのである。
「本物の名探偵である私が、これから推理のお手本を見せてあげますよ」
私はすでに菱川Aは偽物であり、菱川Bが本物の菱川あいずであると確信していた。
ゆえに、ここから先は、菱川Aを「狂人四十面相」、菱川Bを「菱川あいず」と表記する。
ここからようやく名探偵菱川あいずによる「真の推理ショー」が始まるのだ。
菱川は、いつものように滔々と語り出す。
「まず、首無し死体についてです。これに関して解き明かさなければならない謎は主に2つです。1つ目の謎は、なぜ犯人は、死体をバラバラにし、首だけを取った上で、わざわざ『元通り』縫い合わせたのか。そして、2つ目の謎は、なぜ生存者全員にアリバイが成立したのか、です」
いずれも大きな謎である。しかし、狂人四十面相による「推理」では、これらは「気にしなくて良い」とされ、微塵も明かされることはなかった。
「前提として、今回の事件には挑戦状がありました。これは狂人四十面相が作成したものであり、著名な名探偵である私と対決し、私を負かすことが狂人四十面相の目的だったんです」
今回の事件のスタートは、その挑戦状なのだ。
「言い換えると、狂人四十面相の目的は、私の推理を誤らせ、私が犯人を取り違え、自分は無事逃げおおせる、という点にありました。そうやって優越感に浸りたかったわけです。悪趣味この上ないことですが、狂人四十面相がそうした悪趣味の持ち主であることは、顕著な事実かと思います」
狂人四十面相は、これまで自らの享楽のために何人もの人を殺めてきたのだ。菱川を「打ち負かす」ために何の罪もない人を殺すというのは、いかにも狂人四十面相が考えそうなことである。
「話を今回のバラバラ殺人に戻しますと、狂人四十面相の目的はこういうものです。自分だけアリバイがある状況を作り上げ、アリバイのない他の者に罪をなすりつけること。そうやって僕を騙そうとしたのです」
なるほど。要するに、狂人四十面相は、アリバイトリックを仕掛けようとしたということか。
「そのために、狂人四十面相はまず春田さんに化けてこの島に上陸しました。そして、おそらく正午頃に、秋山さんを殺害したのです」
そうすると、バラバラ死体の正体は秋山ということになる。それは私の知っている事実と矛盾するが、とりあえず、一旦菱川の推理を最後まで聞くことにしよう。
「そして、春田さんに化けた狂人四十面相は、たっぷり時間をかけて、あの首無し死体を作り上げました」
あの死体を作り上げるには、少なくとも1時間以上はかかると思う。ただ、正午のうちに殺しておけば、時間は十分にある。
「そして、あの操り人形みたいな死体を完成させ、それを浜辺に捨てた後、春田さんに化けた狂人四十面相は、洞穴に戻りました。それが16時のことでした。この時間に春田さんがまだ生存しているとアピールするためです」
洞穴には私と菱川が常駐していた。ゆえに洞穴に戻れば、私と菱川に姿を目撃してもらえることになる。
「春田さんに化けた狂人四十面相は、生存証明の後、ただちに洞穴を出て、マスクを被り、秋山さんに変装したのです」
このツアーは狂人四十面相が仕組んだものだ。当然、参加者のアレンジも彼が行なっている。
すると、参加者の顔も全て事前に分かっていたはずだ。
予めマスクを用意しておくことも容易かったに違いない。
「秋山さんに化けた狂人四十面相は、16時10分には洞穴に戻り、その後、ずっと私とワトスン君のいる洞穴に居続けました。もちろん、アリバイ作りのためです。16時に春田さんの生存が確認されていますから、春田さんが殺されたのは16時以降ということになります。あんな風に死体を加工する時間を考えれば、16時10分以降のアリバイを有していれば完璧でしょう。それが狂人四十面相が弄したアリバイトリックなのです」
そうだったのか。
要するに、首無し死体にしたのは、秋山の死体を春田の死体に見せかけるためであり、死体をパペットのように加工したのは、作成に時間がかかる死体によって、アリバイトリックを成立させるためだったのだ。
単なる首無し死体であれば、わずか10分間といえども、狂人四十面相にアリバイが成立しないことになってしまう。
「しかし、狂人四十面相には、大きな誤算がありました。それは、偶然、夏目さんと冬倉さんとが意気投合してしまったがために、14時以降、2人が共同行動をとってしまったことです。ゆえに、夏目さんと冬倉さんにもアリバイが成立してしまい、彼らを犯人に見せかけるという狂人四十面相の思惑は失敗したのです」
それだけではありません、と菱川は続ける。
「狂人四十面相は、やり過ぎたのです。洞穴に残した挑戦状は、いかにも『それっぽい』ものでした。そして、バラバラ死体もそこまでする必要はなかったはずです。縫い合わされた死体からは、明らかに『異常性』が感じられました。そして、秋山さんのアリバイも、あまりにも『完璧』過ぎるのです。そこで、私は、今回の事件が、巷を賑わせている異常犯罪者である狂人四十面相による仕業だと確信しました」
ゆえに菱川は1日目の夜に、「今回の事件の犯人は、狂人四十面相に間違いないでしょう」と宣言したというわけだ。
「私は、狂人四十面相の犯行だと見抜くと同時に、すべてを見抜いてました。今話したようなアリバイトリックの内容も、犯人は秋山さんに化けた狂人四十面相だということも。しかし、それを明らかにするには時期尚早でした。二泊三日の滞在のうちの1日目でしたからね」
最終日まで推理をもったいぶったということか。
犯人が分かったのであればすぐに指摘をしてもらいたいところである。
そうすれば、次の犯行は防げるわけだから。
しかし、菱川にはそういうところがあった。推理を披露するのは必ず最後の最後なのである。悪い癖だ。
「私が『犯人は、狂人四十面相』と指摘したことで、当の狂人四十面相は焦りました。変装を用いたことがバレてしまえば、自分のアリバイトリックが見破られてしまいますからね。そこで、翌日、次の殺人を起こすことに決めたんです」
言わんこっちゃない。
菱川が推理を引き延ばしたせいで、次の犯罪が起きてしまったのである。
「第2の殺人計画は、このようなものです。冬倉さんを崖から突き落として殺害し、自分が冬倉さんに化けて成り代わる」
最初の殺人に比べると、極めてシンプルに感じる。
「ハッキリ言って、僕はこの犯行にちっとも知性を感じていません。秋山さんが犯人であると僕が疑っているだろうから、自分が秋山さんをやめて、冬倉さんに乗り替わるというだけですからね。あまりにも幼稚です。まあ、狂人四十面相がこれまで起こしてきた犯罪はいずれも稚拙なものなんですけども」
この口の悪さこそ、まさしく僕の知っている菱川あいずである。
「しかし、この企ても失敗に終わります。2日目の18時30分頃、秋山さんに化けている狂人四十面相は、崖の付近で単独行動をとっている冬倉さんを見つけ、襲いかかりました。そして、必死の抵抗に遭います」
やはり冬倉の証言は虚言ではなかったようだ。
「狂人四十面相は、右脚を噛まれたものの、木の棒で冬倉さんを殴ることにより、気絶させることに成功しました。あとは気絶した冬倉さんから洋服を拝借したのち、持ち上げて崖から落とすだけだったのですが、ここで想定外の邪魔が入ります」
想定外の邪魔? なんだそれは?
「私です。菱川あいずです」
菱川が誇らしげに自分自身を指差す。
「私は、冬倉さんたちがずっと洞穴から戻らないことを心配して、彼らを探すために外に出ていたのです。そして、秋山さんに化けた狂人四十面相と冬倉さんが揉み合っているところを目撃しました。そこで、冬倉さんを助けるために、勇敢にも飛び出し、戦ったのです」
そんな。まさか私の知らないところで、「名探偵菱川あいずVS狂人四十面相」の肉弾戦が繰り広げられていただなんて。
「知力ではともかく、体力では狂人四十面相に分がありました。それは認めます。私は、狂人四十面相によって、崖から突き落とされてしまったのです」
「ええ!? 大丈夫ですか!?」
「ワトスン君、心配ありがとう。大丈夫だよ。『主役』はそう簡単に死なないんだ。落ちる途中で木の枝に引っかかり、急死に一生を得たよ。まあ、怪我を負って、朝まで気を失ってはいたんだけども」
たしかに菱川は、傷だらけでボロボロである。それは狂人四十面相との戦いの跡だったということらしい。
「とにかく、突然僕が現れたことで狂人四十面相の計画は狂います。反射的に応戦し、僕を崖から突き落とした狂人四十面相は、その『後処理』に困ることとなります。挑戦状によって僕に知力戦を持ちかけたにも関わらず、場外乱闘で僕を『殺して』しまうだなんて、なんともみっともないことです。『反則負け』と言っても良いでしょう」
話を聞く限り狂人四十面相はプライドが高そうだから、そういうことはやけに気にしそうである。
「ゆえに、狂人四十面相は、僕を『殺した』事実を隠蔽したかったんです。幸いにも、僕を崖から突き落とす前の揉み合いの際に、僕のトレードマークであるハンチング帽とトレンチコートは脱げてしまっており、崖の上に残されていました。そこで、狂人四十面相は、僕に化けることにしました」
なるほど。そうして菱川が2人いる状況が作られたということだ。
「それから、狂人四十面相は、気絶している冬倉さんの扱いにも困りました。当初は殺してしまうつもりでしたが、仮にここで冬倉さんも崖から突き落としてしまうと、残されるのは、夏目さん、ワトスン君、僕に化けた狂人四十面相の3人だけとなってしまいます。最後の推理の場面で、犯人候補が夏目さん1人だけとなってしまうのです。それはあまりにもみっともないです」
たしかにそうである。犯人候補が1人しかいない探偵モノなど見たことがない。
「また、そんな露骨な状況で、僕になりすまして夏目さんを犯人と指摘したら、さすがのワトスン君も怪しむでしょう。僕に化けていることがバレてしまうことでしょう」
それもたしかにそう……であるはずだ。
さすがの鈍臭い僕でも、狂人四十面相は、夏目ではなく菱川に化けていることに気付いた……はずである。
「そのため、狂人四十面相は冬倉さんを生かす判断をしたのです。そして、今日のあのとんでもない『推理』の場面に至った、というわけです」
これで菱川の推理は以上、ということになるのだろう。
しかし、私には一点、腑に落ちないことがあった。
山小屋で見た夏目の生首である。
菱川の話によれば、今回の事件で殺害されたのは秋山のみということになる。今目の前にいる夏目は、正真正銘本物の夏目というわけだ。
すると、なぜ山小屋には夏目の生首があったのだろうか。私が山小屋で見たものは一体何だったのか。
「ワトスン君、なんか腑に落ちない顔をしているね」
無意識のうちに顔に出ていたようだ。菱川はそういうのにも目ざとい。
「ワトスン君、もしかして僕に隠し事があるのかい? それはイケナイことだよ。ノックスの十戒にもあるだろう? 第9項に『ワトスン役は、自分の判断を全て読者に知らせねばらない』って。読者に知らせるということは、もちろん、探偵役である僕にも知らせるということだ。だから、僕には何でも正直に話しなさい」
たしかに菱川の言うとおりだ。
今回だって、私は犯人が分かっていたつもりだったのだが、実際にはそれは見当違いだったのだ。
胸の内に情報をしまっていても、ワトスン役の私にはそれを正しく処理する能力などないのだ。
探偵役の菱川にすべて包み隠さず開示し、判断を仰ぐことこそワトスン役に求められていることだろう。
私は、菱川にすべてを正直に告白した。
菱川を追って洞穴を出たこと、森の中で迷子になったこと、そこで山小屋を見つけたこと、山小屋の床に夏目の首が落ちていたこと、そのあとに森の中で菱川(に化けた狂人四十面相)に会ったこと。
私の話を聞いた菱川は、しばらく考えたあとで、「なるほど」と腑に落ちた顔をした。
「ワトスン君、その生首は、夏目さんのものじゃないよ。秋山さんのものだ」
「……そうすると、私は顔を見間違えたということですか?」
菱川は大きく首を振る。
「違うよ。別に君はド近眼なわけじゃないだろ。その生首は見た目は夏目さんのものだったんだ。なぜなら、狂人四十面相によって夏目さんのマスクを被せられていたからね」
ーーそういうことか。たしかにそれは可能なことである。
狂人四十面相は、特製のマスクを使って変装をする。そのマスクは無論、生首にだって被せることはできる。
そうやって、狂人四十面相は、秋山の生首を夏目の生首に見せかけたのだ。
でも、どうしてーー
どうしてそんなことをする必要があったのか。
第一、山小屋にあった生首は、私しか見ていないのである。私を騙すためというわけでもないだろうし、そもそも、私がそれを目撃したのも偶然なのだ。
狂人四十面相の狙いが少しも分からない。
なぜだ。なぜそんなことをしたのか。
「なぜそんなことをしたのか、という顔をしてるね。ワトスン君」
菱川はあまりにも目ざとかった。
「もちろん、理由はあるよ。その生首は夏目さんを犯人に見せかけるために作成されたものだ。夏目さんが死んでいると見せかければ、それにも関わらず生きている夏目さんは狂人四十面相の変装だと思わせられるからね」
まさに私が勘違いしたとおりである
「仮に僕の邪魔が入らず、無事冬倉さんを殺して、自分が冬倉さんになりきれた場合には、残った生存者は、夏目さん、冬倉さんに化けた狂人四十面相、ワトスン君、そして僕になる。名探偵である僕を欺くためには、夏目さんを犯人に見せかける必要があるんだ。そのために練った策が、夏目さんの生首を作成することだったんだ」
ただ、と菱川は続ける。
「狂人四十面相は、結果としてその生首は使わなかったんだ」
「……結果として使わなかった?」
「ああ。狂人四十面相は、途中で作戦を変更したんだよ。狂人四十面相は、夏目さんではなく、冬倉さんを犯人することに変えたんだ」
「……どうして?」
「歯型だよ」
「歯型?」
理解がすぐに追いつかなかった。しかし、菱川は、まるで子どもに説明するように、丁寧に私に解説してくれた。
「もちろん、冬倉さんが狂人四十面相の右脚につけた歯型さ。それは犯人を特定する決定的な証拠であることは、ワトスン君も理解していたとおりだ。しかし、夏目さんの右脚には歯型がない。これは夏目犯人説の決定的な『矛盾』なんだ」
本物の菱川が現れるまで、私は夏目が犯人であると確信していた。しかし、右脚に歯型がなかったことで、混乱に陥ってしまったのだ。
「ゆえに、狂人四十面相は、夏目犯人説に無理を感じたんだ。そして、代わりに冬倉さんを犯人に仕立て上げることにした。狂人四十面相は僕に化けているから、どちらを犯人にするかは彼の意のままだったわけだ」
「でも、冬倉犯人説はもっと無理があるんじゃないですか? だって、冬倉さんは秋山さんに化けた狂人四十面相に襲われてるわけですよね」
「だからこそ、狂人四十面相は、冬倉さんを犯人にしなければならなかったんだ。冬倉さんを犯人にすることで、冬倉さんの証言を潰さないといけないからね」
「……というと」
「ワトスン君も見てただろ。狂人四十面相の見苦しい推理もどきを。あの中で、狂人四十面相は、『犯人は嘘をつく』というテーゼをゴリ押ししていたんだ。アレこそが冬倉を犯人にした真意なんだよ。冬倉の証言は、どうしても『嘘』にしないとマズかったんだ」
頭の悪い私でもようやく理解ができた。つまり、冬倉を犯人として糾弾することで、冬倉の口封じを図ったということなのだ。
「ワトスン君、さっき、君が山小屋を出た後、森の中で『僕』に会ったと言っていたよね」
「はい。そうです」
「それはもちろん僕に化けた狂人四十面相なんだけど、おそらく山小屋に行く途中で君に見つかったんだと思う。君に見つからなければ彼は山小屋に行っていただろう。そして、生首にもう一度細工をしていたはずだ」
「もう一度細工?」
「もちろん、夏目さんのマスクを剥がし、冬倉さんのマスクに変えようとしたんだよ。そして、それを分かりやすいところに捨てておくことで、生存者に冬倉さんの生首を目撃させようとしたんだよ。冬倉さんが犯人であることを決定づけるためにね」
仮にそれをやられてしまっていたら、私も、いくら「トンデモ推理」だったとしても、冬倉犯人説に乗ってしまっていただろう。
「しかし、ワトスン君に見つかってしまったことで、僕に化けていた狂人四十面相は、山小屋に入ることができなかったんだ。その後も君が『ベタベタ』してきたことで、山小屋に行く機会は最後までなかったんだ」
なんだか情けない話だが、知らないうちに私は犯人の思惑を阻止していたようである。
「これでワトスン君の疑問も解決したかな。最後の仕上げだ」
菱川が、狂人四十面相の方を振り向く。ハンチング帽とトレンチコートによって菱川になりきっている狂人四十面相は、冷や汗でびっしょりだ。
ハンチング帽とトレンチコートさえ着ていれば誰しもが名探偵になれるわけではないということを、この件で僕はよく学んだ。
「お待ちかねの証拠の提示です。犯人があなたであることを明らかにするためのね。マスクが剥がせれば良いのですが、特殊な薬品が必要なようですので、別の方法を採ります」
菱川が何をしようとしているのか、私も分かっていたし、夏目も冬倉も分かっていた。みんなで狂人四十面相を取り囲み、私と夏目と冬倉で協力して狂人四十面相の腕と脚を押さえつける。
「さあ、見せてください。ズボンの下を」
菱川が狂人四十面相のズボンを無理やり脱がすと、右脚にはハッキリと歯型が残っていた。
…………
こうして名探偵菱川あいずVS狂人四十面相の世紀の対決はフィナーレを迎えた。
なんてことない。
今回の事件は、探偵が犯人というパターンだったのだ。
え? ノックスの十戒には反しないかって?
その心配はない。だって、ノックスの十戒の第7項にはこう書かれている。
「変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない」
(了)
最後までお読みいただきありがとうございます。
難しかったですか? 少なくとも僕には難しかったです。混乱の中、脳内修正を重ねに重ねて書き上げました。
酔っ払った帰り道に「ワトスン君が探偵より先に犯人に気付いちゃったら面白くない?」と思ったのがきっかけでしたが、そこから思考地獄でした。首無し死体と変装を組み合わせちゃいけないというのも、ノックスの十戒に追加すべきじゃないかと本気で思っています。
おかげさまで現在、55ブクマをいただけていて、折り返し地点を突破しました。本当にありがとうございます。とても救われています。
カウントダウンをするにはまだ気が早過ぎますが、あと45ブクマもらえるように、(本作を読んでいただければ伝わってるとは思いますが、)手を抜かずに頑張ります!