ワトスン君の苦悩〜名探偵菱川あいずVS狂人四十面相〜【前編】
メタ探偵シリーズの第2弾になります。前編後編に分けました。
「みなさん、ご参集いただきありがとうございます」
「我が探偵」である菱川あいずは、立ち上がって、恭しくお辞儀をした。
そして、また地べたに胡座をかいた。
ここは、洞穴の中である。昼間であっても明かりは差し込まない。ゆらゆらと揺れるロウソクの灯りだけが光源である。
そのロウソクに照らされてほのかに見える顔は、3つ。夏目海次、冬倉雪夫、そして、菱川である。
私ーー渡戸俊史を含めると、今、洞穴にいるのは4人ということにある。
こじんまりとした空間に男ばかりで気が滅入るが、最初にこの島に訪れたときには、さらに男がもう2人いた。
春田桜介、秋山巳月である。
しかし、現在では彼らの消息は掴めていない。
「みなさん、これから何が始まるかはもちろん分かりますよね? 名探偵菱川あいずによる、華麗なる推理ショーです」
名探偵である菱川の助手ーーワトスン役である私が、菱川が関係者を集め、推理を披露する場面に立ち会うのは一体何度目だろうか。数えきれないほどである。
しかし、こんな複雑な心境で、この場面に出会すことは、今回が初めてである。
なぜなら、今回、私は偶然、ワトスン役が決して知ってはいけないものを知ってしまっているからだ。
「無人島というクローズドサークルですから、言うまでもありませんが、犯人は、今、この洞穴の中にいます」
これから菱川は犯人を指摘する。
いつもは、私も探偵小説の読者さながらに心躍るシーンである。一体誰がこんな凶悪事件を起こしたのだろうか。いかにも怪しげなあの人だろうか、それとも一見するとか弱い乙女なあの人だろうか、とワクワクしながら想像する場面である。
しかし、今回は少しも胸がときめかない。
私が偶然知ってしまっていること。
それは、今回の事件の犯人なのだから。
――私は、たまたま目撃してしまったのだ。
無人島の中にひっそりとそびえる山小屋の中で、私はそれを目撃してしまった。
悲運だった。そう。ワトスン役である私にとって、それは悲運以外の何ものでもない。
事件の犯人を指摘するのは、名探偵である菱川の役目である。ワトスン役である私がその役目を奪ってはならないことは言うまでもない。
それだけじゃない。私は、むしろトンチンカンなことを言って、事件を撹乱させなければならないのである。
犯人じゃない人を「犯人だ!」と言って糾弾し、真犯人の色香に騙されて「この人は犯人じゃない!」と擁護しなければならないのである。
それこそがワトスン役——引き立て役である私の役目だからだ。
ゆえに、犯人を知ってしまったワトスン役というのは、ほとんど欠陥品のようなものである。職責が果たせない。
私は、一人で山小屋に立ち入ったことを激しく後悔する。鬱蒼とした森の中に身を隠すように、一軒だけポツンと立つ古いログハウス。
いかにも事件と密接な関係がありそうじゃないか。
なぜ不用意にも立ち入ってしまったのか。
もしかするとそこに真実があるかもしれない、となぜ気付けなかったのか。
下手なことを喋って事件の核心を突いてしまったら台無しになる、と思った私は、犯人を知って以降、最低限の会話を除いては黙っていた。そうやってやり過ごした。
普段のそそかっしいキャラとのギャップは不審に思われた可能性はあるが、それでも、なんとか無難にクライマックスにまで漕ぎ着けられた。
ホッと一息である。
この場面に至るまでに、私が、菱川に対して、必要以上のヒントを与えてしまったということはおそらくない。菱川は、いつもどおり、自分自身の才覚によって、この事件の犯人を見抜いたのだ。
惚れ惚れするような推理力によって、論理則・経験則から、見事犯人を特定したのである。
私に残された役目は、菱川が犯人を指摘すると同時に、目を丸くして、「まさかその人が犯人だっただなんて!」とヤラセをすれば良いだけである。
演技をするのはあまり得意ではないが、最低限それくらいは頑張ろう。
菱川がゴホンと咳払いをする。
「それでは、犯人を指摘します。今回の事件を引き起こした犯人はーー」
私は心の中でリハーサルをする。
「まさかその人が犯人だっただなんて! 菱川さん一体どういうことなんですか!? 私に分かるように説明してください!」。
よし、完璧だ。さあ、来い。
菱川が、ビシッと指差す。
「今回の事件を引き起こした犯人は、冬倉雪夫さん、あなたです!」
よし来た!
「まさかその人が……」
!?
「……って、ええ!?」
私は唖然とする。
なぜなら、菱川の推理は間違っている。
今回の事件の犯人は、冬倉雪夫ではない。
ええ!? 嘘でしょ!!?? 菱川さんが犯人を間違えるだなんて! 菱川さん一体どういうことなんですか!? 私に分かるように説明してください!
…………
「それでは、まずは今回の事件の概要をおさらいしましょう」
私の混乱をよそに、菱川はいつものように、淡々と語り出す。
「我々は無人島に招待されました。しかし、それは犯人によって仕組まれたツアーだったのです」
ーーそう。これは仕組まれたツアーだった。
「懸賞に当たった」として招待されたのは、春田、夏目、秋山、冬倉、そして菱川と私である。
クルーズ船で初めて顔合わせした時にはあまり意識しなかったのだが、参加者は、いずれも男性で、同じような年齢で、同じような体型、背丈をしていた。
このことも犯人によって仕組まれたことであることに気付いたのは、残忍な殺人事件の後であった。
「ツアーの行き先は、もう何十年も人が寄りついていない無人島です。なんと物好きなツアーでしょうか」
たしかに物好きなツアーである。とはいえ、菱川は名探偵であり、私はその助手だ。要するに、私たちは屈指の物好きなのである。
「事前に予想していたことではありましたが、予想以上に何もない無人島でした。現に人が住んでいる集落はもちろんのこと、廃墟すらありません。もはや旧石器時代以下の文明レベルなのです」
裏を返せば、自然豊かということにはなる。
物好きな私は、島に到着した時、「悪くないな」と感想をこぼした。この後待ち構えている「悲劇」を少したりとも予感していなかったのである。
「ツアーの内容は、この何もない無人島で、二泊三日を過ごすというものでした。翌々日の昼頃に迎えに来てもらうことを船長と約束して、我々は、浜辺を去るクルーズ船を見送りました」
そのようにして、いわゆる「クローズドサークル」が完成したのである。今となれば、それは犯人の思惑どおりであった。
「浜辺から無人島の中心に向かい、凸凹の山を登っていくと、ポッカリと大きな口を広げた洞穴がありました。一見すると、雨風を防げる場所はこの洞穴くらいでしたので、我々は、ここを『アジト』にすることに決めました」
その洞穴こそ、私たちが今いる場所である。
「今回の事件のファンファーレとなったのが、洞穴の一番奥に置かれていた、この置き手紙です」
菱川が、紙片を摘み上げる。犯人が作成した手紙だ。
そこには、ワープロで打たれたゴシック体によって、こう書かれていた。
…………
名探偵君へ
無人島へようこそ。これからこの島に一体の首無し死体が現れる。君の名推理を楽しみにしてる
…………
「言うまでもなく、これは殺害予告です。そして、名探偵である私に対する挑戦状です」
その手紙を見た当時、小心者の私は戦慄した。
しかし、菱川は、こんなの慣れっこといった様子で、手紙をトレンチコートのポケットに突っ込んだのだった。
他の4人も、さほど気にする様子はなく、「悪質なイタズラだな」と鼻で笑っていた。
無人島にツアーで来ようというような連中なので、常人よりも度胸が座っているということだろう、と私は理解した。
「この手紙を見て、ワトスン君は洞穴に引きこもることを決めたみたいですが、春田さん、夏目さん、秋山さん、冬倉さんの4人は、気にしない様子で無人島探索に出掛けました」
そのとおりである。
私が「危険だからやめた方が良い」と忠告したものの、4人は「なんのためにこの無人島に来たんだい? 洞穴に引きこもるためかい?」などと正論を言って、聞く耳を持たなかったのである。
「私は、友人を一人きりにするわけにはいきませんでしたので、基本的には洞穴にいて、ワトスン君の話し相手になってあげました」
なんだか恩着せがましいが、正直なところ、菱川の優しさには感謝していた。
「我々が、予告どおりに首無し死体を発見したのは、初日の夜のことでした。日が落ち、外が真っ暗闇になっても春田さんが帰って来なかったため、残りのメンバーで捜索に行ったところ、それを見つけたのです」
この時は、さすがに私もついて行った。
ワトスン役として、菱川と別行動をとるわけには行かなかったからである。……洞穴に一人きりで残されるのが怖かったから、ということでもある。
「我々が浜辺で見つけたのは、単なる首無し死体ではありませんでした。それはまるで操り人形のように『加工』されていたのです」
それは、四肢が一度バラバラに切断されたのち、それを再度「元通りに」糸で縫い合わせた、異様としか言えない代物であった。
職業柄、これまで何度も死体を目撃していたが、このようなイかれた死体を見たのは初めてだった。
なお、死体は一切衣服を身に纏っていなかった。
「それはそれは奇妙な死体でしたが、奇妙なことはそれだけではありませんでした。残された5人全員にアリバイがあったのです」
すなわち、と菱川が続ける。
「春田さんが『あのような姿』にさせられたと考えられる時間において、私とワトスン君と秋山さんは、洞穴の中にいました。そして、夏目さんと冬倉さんは洞穴の外で一緒に行動していました」
5人ともが相互監視下にあったため、全員に犯行可能性がなかったのである。
「この難局を前にして、私は宣言しました。『今回の事件の犯人は、狂人四十面相に間違いありません』と」
狂人四十面相とは、近年この国の警察を翻弄する凶悪犯である。
快楽殺人を30件以上繰り返しつつも、その尻尾すら掴ませないまま、逃げおおせている厄介者だ。
狂人四十面相は、40、いや、それ以上の顔を持つと呼ばれる変装の達人であるとされている。
特製マスクによって、完全に他人の顔になりすますことができるとのことだ。しかも、その特製マスクは、狂人四十面相のみが持つ特殊な薬品を使わなければ剥がすこともできないとのことである。
さらに声帯模写の達人でもあり、対象人物に完璧になりきることができる。
この特殊技能によって、狂人四十面相は、大胆な犯行を繰り返しながら、警察に指名手配写真さえ与えていないのである。
菱川は、今回の殺人事件は、その狂人四十面相の企てだと言ったのだ。たしかに件の挑戦状はいかにもそれっぽいし、几帳面に縫い合わされたバラバラ死体もそれっぽい。
「つまり、この無人島において、繰り広げられているのは、名探偵菱川あいずVS狂人四十面相の世紀の対決なのです」
菱川が狂人四十面相の犯行であると宣言した時、恐怖心もあったものの、それ以上に私は興奮した。なんて胸熱な展開なのだろうと。
「首無し死体が見つかった翌日、つまりこの島に来て2日目、ワトスン君と私は洞穴にいたものの、春田さん、夏目さん、冬倉さんはやはり平気で無人島を探索していました」
彼らの主張はこうだった。
「挑戦状には、『一体の首無し死体』と書いてあったから、これ以上犠牲者が出ることはない」と。それも正論かもしれないが、恐ろしいほどの度胸である。
「しかし、2日目の夕方になり、日が落ちかけてきていたにも関わらず、3人はなかなか帰ってきませんでした。そこで、気になった私は、様子を見に、洞穴の外に出ました」
その時、菱川は「すぐに戻る」と言っていた。ゆえに、私は一人きりは心細かったものの、洞穴に残った。
しかし、菱川は1時間以上戻って来なかった。
そこで、菱川の身を案じた私は、菱川を探すために洞穴を出た。
菱川は「森の方に行ってくる」とも言っていたので、私は、無人島の北側にある森林地帯へと足を踏み入れた。
延々と同じような景色が続く中で、私は、案の定迷子になってしまった。そして、例の山小屋を見つけてしまったのである。
入らなければ良かった。しかし、もしかしたら菱川がいるかもしれない、と淡い期待を抱いてしまった。
それが間違いだった。
山小屋の扉を押し開けた私は、見てしまったのである。
床に落ちている人間の首を。
苦悶の表情を浮かべるそれは、夏目のものだった。
それを見た瞬間、恐怖心が一気に込み上げてきた。人間の生首が怖かったわけではない。犯人が分かってしまったことが怖かったのである。
私は回れ右をすると、全速力で森を駆けた。
心の中で繰り返した。私は何も見ていない。私は何も見ていない。私は何も見ていないーー
「結果、外に出た私は夏目さんにも秋山さんにも冬倉さんにも会うことはできませんでした。その代わり、泣きじゃくるワトスン君と出会ったのです」
森の中を走っていると、見慣れたトレンチコートが私の目に入ったのである。
「菱川さん!!」
私は、思わず菱川に抱きついた。それくらいに心細かったのである。一人で行動するというのは、なん恐ろしいことなのだろうか。
菱川は、優しく私の背中を抱き返してくれた。
「……ワトスン君、どうしてこんなところにいるんだい?」
「菱川さんを探してたんです」
「そして、どうして泣いてるんだい?」
「菱川さんを探してたら、迷子になって、それで……」
それから先は、決して言えなかった。山小屋で見たものは、心の中にしまっておかなければならない。もしも口走ってしまったのならば、「ワトスン失格」である
「私は、ベタベタしてくるワトスン君とともに、洞穴に戻りました」
なんだか語弊のある表現だが、間違ってはいない。私は、もう菱川と離れたくなかった。単独行動をとるとロクなことにはならないと学んだのだから。
「すると、果たして、洞穴に戻っていたのは夏目さんと冬倉さんだけで、秋山さんは翌朝になっても戻って来なかったのです」
まとめると、春田は殺されて無惨な姿とされ、秋山は行方不明となった、ということになる。
ただ、私にとって何より問題だったのは、洞穴の中に夏目が平然と存在していたことであった。
私は、山小屋で夏目の生首を見ている。
つまり、浜辺に捨てられた首無し死体の正体は、春田ではなく、夏目だったのだ。
すると、死んでいるはずの夏目が生き残っているというのは明らかに矛盾している。
これが何を意味するのかというと、目の前で生きている夏目は、本物の夏目ではなく、狂人四十面相の変装だということである。
菱川は、完全に騙されているのだ。
「これが今回の事件の概要です。さて、これからはみなさんお楽しみのショータイムです」
言わずもがな私の心境は「お楽しみ」からはほど遠いものだった。
…………
菱川が、改めて冬倉を指差す。
「最初に指摘したとおり、犯人は冬倉さんあなたです」
案の定、冬倉は、菱川の推理を否定する。
「ハッハッハ。名探偵と聞いて期待してたが、大したことないんだな。神に誓って、俺は犯人じゃない」
「神に誓って? 冬倉さんはキリスト教徒なんですか?」
「いや、無宗教だが」
「じゃあ、神に誓っても意味ないですね。神に誓おうが、あなたの発言の信用性は少しも担保されません」
菱川はドヤ顔をしているが、小学生レベルの揚げ足取りである。
当然、冬倉は反論するだろうと思っていたが、黙ってしまった。論破されたと感じたというよりも、呆れて言葉も出ないというところかもしれない。
「あの、菱川さん、冬倉さんが犯人だとすると、冬倉さんはどうやってあの首なし死体を作り上げたんですか?」
私は、おそるおそる菱川に質問する。
「菱川さん、冬倉さんにそんなことができたんですか?」
「ワトスン君が気にしていることは分かるよ。冬倉さんにはアリバイがあったからね」
そうなのだ。冬倉にはアリバイがある。
無人島に着いた日(つまり、1日目)、挑戦状を見つけた私と菱川はずっと洞穴で過ごしていたのだが、残りの4人は、出入りを繰り返していた。
「被害者とされる」春田は、ちょうど16時に洞穴に戻ってきて、またすぐに外に出掛けた。つまり、16時における生存が確認されている。
そして、春田が出掛けてから、10分くらい経った後に、今度は秋山が洞穴に戻ってきた。
秋山は「今日の探索はもう終わった」と言い、それからずっと洞穴の中にいた。
そして、そこから2時間ほど経った18時に、夏目と冬倉が洞穴に帰ってきた。日が落ち始め、気温も下がってきたため、2人は探索を終了したのである。
しかし、19時になり、完全に日が落ち切っても、春田は帰って来なかった。
そこで春田を探しにみんなで洞穴から出掛けたところ、浜辺であの死体を見つけたのである。
夏目も冬倉は、双方の一致した証言によると、14時以降に丘でバッタリ会って以降は、ずっと共同行動をとっていたとのことである。
2人は初対面であったが、話していると、地元が近かったり、共通の趣味があったりということで、意気投合したとのことだった。
ずっと一緒にいたといえども、さすがに連れションまではしないだろうから、用を足すときなど、互いに目を離していたタイミングはあるだろう。
しかし、あの死体を作り上げるためには、殺害し、バラバラにし、縫い合わせなければならない。少なく見積もっても、1時間以上かかる。
少し目を離していた隙に行えるような犯行ではないことは明白である。
首無し死体の正体が春田ではなく夏目だったことで、果たしてどのようにパズルが組み変わるのかはよく分からなかったが、その点も含めて、菱川には何か考えがあるはずだ。
「菱川さん、冬倉さんは何かアリバイトリックを弄したのですか?」
「それは分からないよ」
……は?
「冬倉さんがどうやって首無し死体を作り上げたのか、そんなことは僕には分からない」
それにも関わらず、冬倉を犯人として名指ししたというのか。あまりにも無責任じゃないか。
「でも、ワトスン君、忘れていないかい? アリバイは、16時10分以降ずっと僕らと一緒に洞穴にいた秋山さんにもあるし、14時以降冬倉さんと共同行動をとっていた夏目さんにもあるんだ。つまり、みんなイーブンなんだ」
だから、と菱川は続ける。
「今回の事件の謎を解く上では、春田さん殺害のアリバイについては考えなくて良いんだ」
ーー間違ってはいないかもしれない。
ただ、かといって、アリバイの点は考えなくて良いというのは違うのではないか。全ての謎を明らかにすることこそ、名探偵である菱川の役割ではないのか。
「ワトスン君、首無し死体のことは一旦忘れよう。大事なのは、その後の秋山さん失踪事件だ」
容易には首肯し難い。
もしこれが探偵小説だとしたら、読者の興味は、圧倒的に首無し死体の方にあるはずだ。一旦忘れることなんて決してできない。
とはいえ、菱川がそう言う以上、話題を失踪事件の方に移すしかなかった。
ワトスン役が進行に口出しするのは御法度である。
「大事なのは、このことです。秋山さんの失踪事件に関して、冬倉さんにはアリバイがないのです」
洞穴を静寂が包む。
菱川が堂々と、わざわざ傍点まで付して発言したため、私はその言葉の意味をしっかり噛み締めようとした。
しかし、できなかった。
菱川の言葉は、どう考えてもペラッペラなのである。
「菱川さん、たしかに秋山さんの失踪事件に関して、もし秋山さんが殺害されたものだとすれば、冬倉さんにはアリバイはありません。それは間違いないです。しかし、アリバイがないのは、夏目さんもそうですよね?」
首無し死体が出現した翌日(つまり、2日目)、18時まで、夏目も秋山も冬倉も洞穴に寄りつかなかった。
そこで、菱川が様子を見に行き、その1時間後、私が菱川を追って洞穴を飛び出したのである。
私が、山小屋でアレを目撃し、森の中で菱川に会い、洞穴に戻ったのは、20時である。
その頃には、すでに夏目も冬倉も洞穴に戻っていた。
夏目と冬倉曰く、2日目はずっと別行動をとっていたとのことだ。
秋山が殺された時間もハッキリとは特定できず、ましてや関係者のアリバイなどというものは到底成立しないのである。
夏目にもアリバイがないという私の指摘に、菱川はどう反論してくるのだろうか。
私がしばらく待っていたところ、菱川は、「うーん、たしかにワトスン君の言うとおりだ」と認めた。拍子抜けにもほどがある。
「でも、ワトスン君、実は僕はとっておきの情報を掴んでいるんだ」
「とっておきの情報ですか?」
一体何だろうか。おそらく私の掴んでいる情報ほどは決定的ではないとは思うが、気になる。
「今朝、冬倉さんが僕に話してくれたんだ。昨日の18時半頃、崖の近くで冬倉さんは秋山さんと出会った、とね」
ーーそれは知らなかった。おそらく、冬倉は、名探偵である菱川のことを信用し、菱川にだけそれを話したのだろう。
「ワトスン君、明らかだろう? 秋山さんと最後に会ったのは冬倉さんなんだ。ゆえに、冬倉さんが秋山さんを殺した犯人なんだよ」
ーーいやいやいやいや。それはあまりにも短絡的過ぎる。論理として成り立っていない。
ツッコミどころが満載過ぎて、何から指摘すべきかを私が迷っていると、冬倉が口を開いた。
「探偵さん、待ってくれ。それはないだろう。俺は探偵さんにこう話したはずだ。『昨日の18時半頃、崖の近くで秋山に襲われた』と」
「たしかにそうでしたね」
なんということだ。そんな重要な事実に関して、あろうことか菱川はその一部のみを切り取ったのだ。昨日の18時半頃に崖の近くで冬倉は秋山とが出会ったという事実のみを取り出し、冬倉犯人説の論拠にしたのだ。
「探偵さん、俺が襲われた事実はどこに消えたんだ? あまりにも恣意的過ぎないか?」
私は冬倉に全力で同意する。
しかし、菱川は、
「冬倉さん、あなたはこの事件の犯人なんですよ? 犯人は、自分に都合の良い嘘をつくに決まってるじゃないですか」
と真顔で答えた。
--何たる暴論、そして暴挙なのだろうか。
冬倉が犯人かどうかが問われてる場面で、「犯人は嘘をつく」と言って冬倉の弁論を潰すだなんて。
単に冬倉を犯人と決めつけ、それに有利な証拠のみを採用しているだけじゃないか。
「探偵さん、それはないよ。俺は犯人じゃないぜ。俺が犯人だという証拠はあるのかい?」
「冬倉さん、あなたはこの事件の犯人なんです。ゆえに、あなたはこの事件の犯人なんです」
完全なるトートロジーである。よくも恥ずかしげもなく言えたものだ。
「探偵さん、待ってくれよ」
「待ちません」
「何でだよ?」
「犯人の言い訳を聞いてるほど僕は暇じゃないんです」
「言い訳じゃない。俺には、秋山に襲われたという証拠があるんだ。今朝、探偵さんにも伝えただろ?」
「犯人の提示する証拠なんて全て捏造です」
おいおいおいおい。
私はさすがに口出しをせざるを得なかった。
「菱川さん、とりあえず、冬倉さんの言う証拠を見てみたら良いんじゃないですか?」
「嫌だ」
「何でですか?」
「時間の無駄だから」
「でも、大事な証拠かもしれませんよ」
「捏造なのに?」
「捏造だと決めつけないでください」
私は大きくため息をつく。
菱川に任せていたら埒が開かない。
私は、不本意ながらも、進行役を買って出ることにした。
「冬倉さん、その証拠というのは何ですか?」
「これを見てくれ」
そう言って、冬倉は、シャツを捲って、鎖骨のあたりを露出させた。
そこには、赤く腫れた傷があった。
「これは秋山に襲われた時にできた傷だ。いわゆる防御創ってやつだ」
なるほど。これは冬倉の証言を十分に裏付ける。
「この傷のほかにも細かい傷はいくつもあるよ。それから、俺の頭も見てくれ」
「……腫れてますね」
冬倉の頭には、大きなタンコブがあったのである。
「秋山に思いっきり木の棒で殴られたんだ。それで俺は不覚にも気を失ってしまったんだ」
「それからどうなったんですか?」
「……それがどうにもならなかったんだ。約1時間後に俺はその場で目覚めて、洞穴に帰った。所持品が盗まれてるということもなかった」
冬倉を気絶させておきながら、秋山は何もしなかったというのか。それは大きな謎である。
ただ、ワトスン役に過ぎない私には、そのことについて考えるような知恵はない。
私は、続きを名探偵に任せる。
「菱川さん、どうですか? 冬倉さんの傷はちゃんと見えましたよね?」
「そんなの捏造だ。どうせ自分で傷をつけたんだろ」
--ダメだ。今日の菱川は少しも使えない。
「ワトスンさん、聞いてくれ。さらに決定的な証拠もあるんだ」
「決定的な証拠?」
冬倉が持つ決定的な証拠とはなんだろうか?
「俺は秋山に襲われた時に、気絶される直前、あいつの右脚に思いっきり噛みついたんだ」
だから、と冬倉は続ける。
「俺に襲いかかった時に、狂人四十面相が秋山に化けていて、今、もしも夏目に化けているんだとしたら、夏目の右脚には俺の歯型が残ってるはずなんだ」
なるほど。それは合理的な推論である。
秋山は現在失踪している。今朝、みんなで島中を捜索したものの、秋山を見つけることはできなかった(なお、例の山小屋に菱川を近付かせるわけにはいかなかったので、森の付近の捜索は私が担当した)。
もし秋山がすでに殺されていて、当時秋山に化けていた狂人四十面相が、別の生存者に化けているのだとすれば、それは消去法で夏目に化けているということになる。
その夏目の右脚に冬倉の歯型があれば、それは夏目(に化けている狂人四十面相)が犯人であるという動かぬ証拠である。
そして、狂人四十面相が現在夏目に化けていることは、私が山小屋で目撃した生首からして間違いがない。
今ここにいる夏目の右脚には、確実に冬倉の歯型が残っているはずである。
チェックメイトだ。
一時はどうなることかと思ったが、私が山小屋の生首に言及することなく、無事犯人にたどり着いたのである。
「ワトスン君、犯人の言うことに惑わされないように。夏目さんのジーンズの中身を確認する必要はない。歯型なんてどうせでっち上げなんだから」
この期に及んでもなお、菱川はこんな感じである。
重要な場面だが、ワトスン役の私が主導するしかない。
「夏目さん、そういうことなので、ジーンズを捲って右脚を見せてもらえませんか? 仮に何もなければ、あなたの無実が証明されますので」
当然、夏目(に化けた狂人四十面相)は抵抗するだろうと思った。
しかし、意外なことに、夏目は「どうぞ、見てください」と言って、自らジーンズを捲ってみせた。
果たして、現れたのは歯型などどこにもない、ムダ毛が処理された綺麗な右脚だった。