桜の木の向こうから君の着替えを覗く(下)
「さて、図にでもしてみようか。まずは君の部屋と柏葉さんの部屋との位置関係だ」
そう言って、悟は、公園の敷地をぐるぐると歩き回ると、やがて一本の比較的大きな木の枝を見つけ、それを拾い上げた。
それから、ベンチに座ると、公園で子どもたちがそうするように、その枝先を使って、地面に何かを書き始めた。
すでにブランコから降りていた僕は、悟の隣に座り、彼が「図」を書き終わるのを待つ。
「こんな感じかな。寮の建物が2つあって、その中間に桜の木がある。建物にはバルコニーはなく、窓しかない。そして、君の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓は向かい合わせになってる、と」
「そのとおり。僕の部屋の部屋番号は504で、柏葉さんの部屋は506なんだけど、それぞれの建物の構造上の違いか、完全に向かい合わせなんだよね」
「じゃあ、次は肝心の『中身』の話に入ろう」
「中身?」
「もちろん、柏葉さんの部屋の中身だよ。部屋のどこに何があるのか。ここで光の出番だ。もちろん君は知ってるよね?」
密室の謎を解く「鍵」は僕、というのは、そういうことか。柏木さんの着替えを窓から見ていた僕は、当然、柏木さんの部屋の中の様子も付随して見ている。
「僕の父親は、警察関係者かもしれないけれども、実際に事件を捜査してるわけじゃない。だから、そういう細かいところは分からないんだ。だから、光、頼む」
僕は間違いなく渋い顔をしていた。
なんだか「ある種」の犯行を自供するようで嫌だったのである。
とはいえ、あとのまつりだ。すでに悟には正直に話している以上、今更柏葉さんの着替えを見ていた事実を揉み消すことはできない。
僕は、悟から木の枝を受け取ると、先ほど光が書いた図に、僕の記憶するところを書き足した。
「よく書けてるね。よほど真剣に観察してたんだな」
「放っといてくれ」
「ただ一点、『タンス?』となっているのは何だい? 記憶が曖昧なのかい?」
「いや、そうじゃなくて、僕の部屋からだと死角になってて見えにくいんだ。ただ、少しだけは見える。あれは、胸の高さくらいの小さなタンスだと思う」
「じゃあ、『?』は消しておこう。タンスの上に何か置かれてた物があるかは分かる?」
「うーん、全てが見えてるわけじゃないけど、たしか何か置かれてたと思う。あれは目覚まし時計……かな?」
「……なるほどね。実はね、そのタンスが今回は重要なんだ」
「どうして?」
「その小さなタンスの上に、柏葉さんの玄関ドアのキーが置かれていたからだ」
そのことの何が重要なのか、僕にはよく分からなかった。もしかすると、普段から推理小説を読んでいたのであれば、すぐにピンとくる類のことかもしれないが、生憎、僕は基本的にはファンタジーしか読まない。
「……つまり、どういうこと?」
「今回、柏葉さんの部屋がどうして密室なのかといえば、玄関ドアの鍵がかかってたからだ。玄関ドアの鍵のかけ方は、大きく分けて2通りある。1つ目はキーを使わないで内側から閉めること、2つ目はキーを使って外側から閉めること。もしも、柏葉さんが自殺したのだしたら、どっちのパターンになる?」
「……自殺ならば、部屋の中にいる柏葉さんの自身が鍵を閉めたということだよね。だから、1つ目の、キーを使わないで内側から閉めるパターンになる」
「正解。逆に、他殺だったらどうなる?」
「……えーっと、柏葉さんじゃなくて犯人が鍵を閉めたということになるけど、犯人は部屋の中から外に出てるわけだから、2つ目の、キーを使って外側から閉めるパターンになるのかな?」
「まあ、そう考えるのが自然だよな。だとすると、その2つ目のパターンの場合、キーは普通どこにあるべきなんだ?」
ここまで説明されて、僕はようやく悟の言わんとするところを理解した。
「そうか! 犯人が外側から鍵を閉めた場合、キーは外にあるはずなのか! それなのに、キーが部屋のタンスの上にあるというのは矛盾してる!」
「別の言い方をすれば、キーが部屋の中にさえなければ、柏葉さんの部屋は密室でもなんでもないわけだ。なぜ部屋の中にキーがあるのか。その理由さえ分かれば、密室の謎は解けるんだよ」
それはそうかもしれないが、何かが引っかかる。
悟の話は、ある重要な前提を欠いていないか。
「悟、さっき犯人は前山田先輩って言ってたよね?」
「ああ。そう思ってる」
「だとすると、前山田先輩が柏葉さんの部屋の合鍵を持ってる可能性もあるんじゃないかな? 2人は恋人だったわけだし」
部屋の中にキーがあることで密室となるのは、そのキー以外に別のキーが存在していない場合である。キーが2つ以上存在しているのであれば、タンスの上のキーとは別のキーで玄関ドアを閉めた可能性があるため、密室は成立しないのではないか。
「光、持ってるキーを見せて」
「え?」
「自分の部屋のキーだよ。もちろん持ってるだろ?」
僕は意味も分からないまま、ブレザーの内ポケットからキーを取り出し、それを悟に提示する。
持ち手の部分は黒いプラスチック製で、僕は何も付けていないが、キーホルダーを通すための穴が開いている。
ドアに差す金属部分は平坦をベースに丸い凸凹がいくつか付いている。
「そういう形状のキーをディンプルキーというんだ。そして、見る限り、キーには管理番号が書かれてないから、シリアル登録制なんだろう」
「……つまり、どういうこと?」
「つまり、合鍵を作れないタイプのキーということさ。柏葉さんが住んでいたのも、建物は違うものの、管理主体の同じ寮だから、光のキーと同じ形状だろう」
「じゃあ、柏葉さんの部屋のキーに合鍵は存在しないと考えて良いんだね?」
「そういうことだ。加えて言うと、合鍵を作ることは寮で禁止されてるだろ? バレたら退寮になりかねない。もしかしたら退学かもしれない。柏葉さんがそんな危ない橋を渡るとも思えないね」
なるほど。柏葉さんの部屋のキーは一つしか存在しないのか。そのことが明らかになることによって、事態はシンプルになったが、決して簡単にはなっていない。
密室の謎がより強固になったのである。
「とすると、前山田先輩はどのようにして『密室殺人』を成し遂げたんだ?」
「それを今考えてるんだ。難しい問題だが、突破口はどこかにあるはずなんだ。そこでまた、光に質問したい」
「え? 僕に質問? 何を?」
「柏葉さんが殺された直後、柏葉さんの部屋の窓はどうなっていたのか、をだ。このことも、おそらく警察を除けば君が一番詳しい」
要するに、改めて悟は僕が窓から柏葉さんの着替えを見ていた点を指摘しているのだ。
回答することに気が進まないが、密室の謎を解くためのには、羞恥心は押しとどめて協力しなければならないだろう。
「柏葉さんが『自殺した』とされるのは、深夜3時頃だとされているよね。他殺のシナリオでも、このことは前提だよね」
「もちろん。死亡推定時刻は胃の内容物等から判断されるから、自殺だろうが他殺だろうが関係ない」
「それから、柏葉さんの遺体が発見されたのは、翌日の昼頃だったよね。学校を無断欠席し、かつ、友人も連絡が取れないことから、親族が警察に相談し、警官が、大家の同行の下で部屋に入ったと聞いてるけど」
「そのとおり。ゆえに僕が知りたいのは、その間の柏葉さんの部屋の窓の状態なんだ。開いていたのか閉まっていたのか」
答えを出すのに、記憶を辿る必要はなかった。それは、僕にとってとても印象深い光景だったから。
「柏葉さんの遺体が見つかった日の朝、つまり、柏木さんが殺された翌朝、学校に行く前に窓の様子を見たけど、その時は窓は少しだけ開いてた。風でカーテンがはためいてたんだ」
「おお」
「僕が知る限り、朝に柏葉さんの部屋の窓が開いてることは珍しいから、よく覚えているよ。……不用意にカーテンが開いてることはよくあったんだけど」
もちろん、その光景が印象的だったのは、珍しく窓が開いていたから、だけではない。
柏葉さんの「自殺」を知った後、僕は何度もその光景を思い出したのである。
あのカーテンの向こうにあったはずの柏葉さんの変わり果てた姿を、何度も何度も繰り返し想像して。
親友は「柏葉さんがパジャマから制服に着替えるのを見るのが、毎朝の習慣だったんだな」とイヤミを言うのを忘れなかったが、「光、でかしたぞ!」と僕の肩をポンと叩いた。
「とすると、『密室』には少なくとも『隙間』があった、ということだな。事件発生直後の窓には鍵はかかってなかったんだ。おそらく、その後立ち入った警察が閉めたのだろうけど。とにかく、前山田先輩が、密室トリックにその窓を使ったことは間違いないだろう」
「要するに、前山田先輩は、柏葉さんを殺害した後、その窓から外に出たということ?」
「そうだとすれば一気に事件解決なんだけど」
ただ、と悟は続ける
「実際のところ、それは考えにくいな。標準サイズよりも小さな腰高窓だ。前山田先輩の体格を考えれば、窓ガラスを割らずに外に出ることは不可能だろう。万が一可能だっとしても、柏葉さんの部屋は5階で、建物にはつたえるようなバルコニーもない。どうやって地上に降りるんだ? さらに言うと、仮に何らかの方法で壁をつたって降りたのだとすれば、必ず消せない痕跡が残るはずだ。警察が自殺を基本線とすることはない」
たしかにそうだろう。柏葉さんの部屋の窓と同じ規格である僕の部屋の窓でイメージしてみても、そこから人が出入りするというようなイメージは湧かない。
「じゃあ、前山田先輩は、どういうトリックを使ったんだ?」
「そこは、別のヒントも使って少し考える必要があるだろう」
「別のヒント?」
「桜の木だよ」
桜の木ーー2つの寮の間に立つ大きな桜の木。僕の部屋の窓から柏木さんの部屋の窓を見るとき、わずかに視界を遮るあの桜の木。
「桜の木……あ、そういえば、悟、前山田先輩の部屋に行く時、こう言ってたよね? 『花盗人に会いに行く』って。 あれはどういう意味だったんだ?」
「そのままの意味さ。花盗人ーー桜の木の枝を切った犯人は、前山田先輩という意味だ」
「え!?」
鎌倉時代の逸話によれば、藤原定家は、桜の花の美しさに心奪われたあまりに、桜の木の枝を切り取り、持ち帰ったという。
前山田先輩が、定家と同じ動機で桜の枝を切った、ということはあり得ないだろう。当たり前だが、棚のコレクションの中にも、桜の木の枝などはなかった。
ーーいや、待てよ。動機以前にーー
「悟、どうして花盗人が前山田先輩だと特定できるんだ?」
もちろん、悟は犯行の瞬間を目撃しているわけではない。では、他にどのような方法で花盗人の正体を明かすことができるというのか。
「僕が、前山田先輩を花盗人と判断したは、僕が、光が花盗人ではない、と判断したのと同じ理由だよ」
「どういう意味?」
「切り取られた枝の位置さ。君が犯人ならば、間違いなく、君の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓とを直線で結んだ位置にある枝を切るだろう。なぜか聞きたい?」
「……その話はもういい」
そもそも、思い返してみると、最初に悟が「花盗人」の話を持ち出したのも、窓から柏木さんの着替えを見るのに枝が邪魔だ、という文脈からだった。僕が柏木さんの着替えを見ていたことを悟にイジられるのはもう飽き飽きだ。
「まあ、そういじけるな。じゃあ、なぜ前山田先輩が花盗人なのかという理由を答えよう。それは、切られていたのが、前山田先輩の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓を直線で結んだ位置にある枝だったから、だ」
悟は、先ほどの図に、前山田先輩の部屋の窓を書き加えた。前山田先輩の部屋は、僕の部屋の同じ建物の702号室である。
たったそれだけの理由で花盗人の正体を特定するのは、僕には、悟のこれまでの精緻な推理に比べると、かなり稚拙なこじつけに思えた。
「何か文句のありそうな顔だね」
「ああ。だって、前山田先輩は、僕と違って、窓から柏木さんの着替えを見たいわけじゃないだろ? 彼氏なんだから、そんな陰湿なことをしなくたって、柏木さんの下着姿だって、裸だって好きなだけいくらだって見れるんだから」
「後半は光の妄想も若干入っている気がするが、まあ、普通に考えたらそうだ。でも、僕が前山田先輩の部屋の窓から外を見たところ、僕の事前の目算通り、枝が切り取られた『空白部分』から、柏葉さんの部屋の窓がバッチリ見えたんだ」
たしかに昨日、前山田先輩の部屋に迎え入れられた悟は、案内された座布団にはすぐには座らず、窓の向こうの景色を見ていた。その上で、「正解だ」と呟いていたのである。あれは、切られた桜の枝が、前山田先輩の部屋の窓から柏葉さんの部屋の窓を見たときに遮る位置にあったものなのかを確認していたのか。
「もしかして、悟は、前山田先輩が実は『覗き魔』だったとでも言いたいのか? 交際相手の着替えを覗くことで性的な興奮を覚えるような、そんな変な性癖を持っていると」
「そうは言ってないよ。仮にその線で攻めるのであれば、むしろ、交際相手の日常を監視したかった、の方がありえるだろうな」
なるほど。それはありえるかもしれない。いわゆる「束縛」の一種として、彼女のプライベートを監視する男というのは時折見聞する。
前山田先輩の爽やかなルックスと「束縛男」とはなかなか結びつかないが、人は見かけによらぬものだ。
「ただ、もちろん違う目的があったのかもしれない。前山田先輩が桜の木の枝を切らなければならない、何かのっぴきならない事情が」
「柏葉さんを監視する、以外の目的がありえるのかい?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも、花盗人の正体が前山田先輩だと断言するのは早計かもしれない」
ただ、と悟は続ける。
「柏葉さんが殺されたことと、それと同じタイミングで桜の木の枝が切られたことは、僕には無関係には思えないんだ。花盗人の真の目的さえ分かれば、密室の謎も解けるような、そんな気がするんだ」
悟が書いた図を眺めていると、不意に甲高い声が聞こえた。
子どもの声である。
顔を上げて確認すると、先ほどまで誰もいなかった公園に、下校した7〜8人の小学生の集団が訪れていた。
子どもたちに見つかって興味を持たれて色々訊かれたらマズイ、と思った僕は、靴で地面の図を消す。
悟が何か文句を言ってくるかもしれないと思ったが、そもそも彼は図があった方を見てさえおらず、遊具がある方をじっと見つめていた。
やがて、小学生が遊具を使って遊び始める。先ほど僕と悟が座っていたブランコはあっという間に占領された。すべり台にも順々と子どもたちが登っていく。
さらに、公園の隅の方にあった遊具に、子どもが一人近付いていく。あの遊具の名前は何といっただろうか。あの、ワイヤーに吊らされた太いロープにぶら下がり、滑車によって進んでいく遊具。えーっと……あ、思い出した。「ターザンロープ」だ。
1人の子どもがターザンロープのロープに捕まり、「あーああー」と例の叫び声を上げながら、重力の作用によって空を切っていく。
ふと隣の悟の方に目を遣ると、彼も僕同様にターザンロープで遊ぶ子どもを眺めている。
突然、悟の目が、パッと大きく見開かれた。
「分かったぞ」
「え? 何が?」
「もちろん。密室の謎だよ。なるほど。だから前山田先輩は桜の木の枝を切らなきゃいけなかったのか」
…………
(作者注:これより先は解決編となります。密室トリックについての推理がまだ済んでいない方は、答えを出すか、諦めてから先に進んでください)
前山田先輩が殺人の容疑で逮捕されたのは、悟が密室の謎を攻略した翌々日だった。
おそらく、法医学者の父親を介して、彼が警察に「進言」をしたのだろう。
悟が解き明かした密室の謎の正体は、以下のとおりである。
前山田先輩は、柏葉さんの部屋にて、事前にホームセンターで購入した麻紐によって柏葉さんの首を締め、殺害。
時間は深夜3時であり、寮の生徒が寝静まっている頃だった。おそらく柏葉さんも同様にベッドで眠っているところを襲われたのだと思われる。
防御創からは抵抗の跡が伺えるものの、悲鳴を上げる間はなかったようだ。
その後、その麻紐を柏葉さんの首に強く巻きつけ、もう一方をクローゼットに固定し、首吊り自殺を偽装した。
その上で、さらなる偽造工作として、密室を作り出した。
そのための準備として、柏葉さん殺害の直前、山田先輩は、桜の木によじ登った。そして、同じくホームセンターで購入した剪定バサミを使って、桜の木の枝を切った。前山田先輩の部屋の窓と柏葉さんの部屋の窓を直線で結んだ間にある枝である。
その作業は、前山田先輩の密室トリックを成立させる上で必要不可欠なものだったのである。
なお、切った枝は持ち帰ったのち、燃えるゴミに混ぜて廃棄した。
首を絞めて柏葉さんを殺害した際、前山田先輩が彼女の部屋に持ち込んだ道具は、凶器となった麻紐以外に3つある。
それは、これもまたホームセンターで購入したタコ糸と粘着テープ、そして、野球ボールである。
前山田先輩は、野球ボールに粘着テープでタコ糸を貼り付けた。衝撃によってタコ糸が取れないようにそれなりにしっかりと。
その野球ボールを持って窓際に立つと、前山田先輩は、サイドスローのような投法で、野球ボールを自分の部屋の窓に向かって投げたのである。
前山田先輩の部屋の窓は予め全開にしており、暗闇でも目立つように部屋の明かりも点けていた。
さらに、事前に「障害」となる桜の木の枝は切ってあったため、超高校級ピッチャーの前山田先輩からすれば、それは容易い作業だったのかもしれない。
いずれにせよ、前山田先輩が狙ったとおり、タコ糸のついた野球ボールは、窓を通過し、前山田先輩の部屋の中へと入った。
このことにより、柏葉さんの部屋から前山田先輩の部屋を繋ぐように、タコ糸が渡されたこととなる。
その後、前山田先輩は、柏葉さんの部屋において、タコ糸の一方をタンスの上に固定した。おそらくは目覚まし時計などの、元々部屋にあった「重り」を使ったのだと思う。
すなわち、前山田先輩は、胸の高さほどのタンスの上に、目覚まし時計を置き、タコ糸の端をその下敷きにした。
加えて、柏葉さんの窓のカーテンを閉め、窓は少しだけ開けた状態にする(無論、タコ糸が通っているので、完全に閉めた状態にはできない)。
そうしないと、自殺の状況として不自然だからである。おそらく、カーテンも窓も全開の状態で首吊り自殺をする人などあまりいない。
そこまで準備ができたところで、前山田先輩は、柏葉さんの部屋のキーを持って、玄関から柏葉さんの部屋を出る。
そして、そのキーを使って、玄関ドアの鍵を閉めた。
前山田先輩は、エレベーターを使わずに階段を上り下りし、自分の部屋へと帰る。この学生寮においては、エレベーター内にだけ監視カメラが設置されている、ということを彼は把握していたからである。
自分の部屋に戻った前山田先輩は、野球ボールに貼られていた粘着テープを剥がし、タコ糸からボールを分離した。
そして、ボールに貼られていたタコ糸の端の部分を、今度は、柏葉さんの部屋のキーに通した。
僕の持っているキーもそうだが、柏葉さんのキーにも、キーホルダーを通す用の穴がある。そこにタコ糸を通したのである。
その上で、前山田先輩は窓際に移動して、糸を引っ張る。
すると、糸の一方は柏葉さんの部屋のタンスの上の目覚まし時計に固定されているから、糸がピンと張られることになる。
タコ糸は、柏葉さんの部屋の窓と前山田先輩の部屋の窓との間を、直線で結ぶことになる。
前山田先輩の部屋は7階で、柏葉さんの部屋は5階だから、糸は地面から見て平行ではなく、上下に斜めになる。
仮に、桜の木の枝がそのままであれば、糸は枝に引っかかってしまい、このような状態は作り出すことはできないはずだ。
前山田先輩は、このために枝を切ったのである。
さて、ここまで説明すれば十分だろう。これが前山田先輩が密室を作った方法なのである。すなわち、前山田先輩は、ピンと張られた糸を使って、柏葉さんの部屋のキーを、自分の部屋から、柏葉さんの部屋へと移動させたのである。
悟がこの方法に気付いたのは、公園のターザンロープを見たからであるが、イメージ的にはどちらかというとロープウェイに近い。
キーにかかる重力を推進力として、タコ糸に通されたキーは、部屋から部屋へと移動したのだ。
一旦はキーはカーテンで引っかかるかもしれないが、そこさえ上手く越えれば、キーの終着点は、タコ糸を押さえつけている目覚まし時計である。そこにぶつかって、キーは止まる。つまり、柏葉さんのタンスの上でキーは止まるのである。
そこまでキーが移動したことを確認すると、前山田先輩はタコ糸を強く引っ張った。
すると、タンスの上の目覚まし時計が倒れ、タコ糸の固定が外れる。同時に、キーの穴からタコ糸も抜け、キーはタンスの上に落ちる。
あとはそのままタコ糸を手繰り寄せ、自分の部屋でそれを回収するだけで、「密室」は完成するのである。
僕は、悟からこの推理を披露されたとき、なんて巧妙なのだろうと度肝を抜かれたのだが、悟は「大胆で荒削りな、まさに高校生らしい青臭いトリックだ」と評した。
密室の謎は解け、柏葉さんの死は自殺ではなく他殺によるものであったということが証明された。
犯人である前山田先輩も逮捕された。
そのことで、我が高校創立以来の衝撃が、職員及び全校生徒、保護者に走ったことは、言わずもがなである。
一応これで事件は解決、ということになるかもしれないが、僕には未解決の「大きな疑問」があった。
「ねえ、悟、ちょっといいかい?」
「どうした?」
今日は日曜日。悟は、僕の部屋のカーペットに、ぐうたらと寝そべりながら、漫画本を読んでいた。事件が起こる前によく見た、いつもどおりの光景である。
「柏葉さんの話なんだけど」
僕がそう言っても、彼は座椅子の上の僕に一瞥もくれず、再度「どうした?」と言って漫画本のページをめくっただけだった。
前山田先輩が逮捕されたことによって、柏葉さんに対する彼の関心は、一気に失われてしまったのかもしれない。
そんな彼の様子を意に介することなく、僕は続ける。
「前山田先輩はどうして柏葉さんを殺したのかな?」
これこそが僕の「大きな疑問」なのである。
「どうやって=HOW」は解明されたものの、「どうして=WHY」は少しも明らかにされていない。
なぜ前山田先輩は、自らの恋人を殺めなければならなかったのか。しかも、学年、否、学校一の美少女を。
僕が前山田先輩の立場であれば、柏葉さんのことは「宝石」のように扱うだろう。ましてや殺してしまうだなんてありえない。
しかも、今回の犯罪は、衝動的なものではなく、計画的であることは明らかなのだ。前山田先輩は、密室トリックのために周到な準備をしているのだから。
「どうしてって、そりゃ……」
このあとに続いた悟の言葉に、僕は思わず自分の耳を疑う。
「光のせいだろ」
「……は?」
「光がいなければ、こんな『悲劇』は起きなかったんだ」
つまり、僕のせいで柏葉さんが死んだ、と悟は言いたいのか。どう考えたって、そんなのありえない。
たしかに僕は「覗き魔」だったかもしれない。しかし、柏葉さんはそのことには気付いていなかったはずだ。だって、死の前日まで、彼女は堂々とカーテンを開けて着替えていたのだから。
それに第一、僕に下着姿を覗かれたショックで柏葉さんが自殺した、というのだったらまだかろうじて道理は通るかもしれないが、真実は、柏葉さんは前山田先輩に殺されたのである。僕が「覗き魔」だったことと、彼女の死との間の因果関係が不明過ぎる。
「悟、頼むからそんな変な言いがかりはやめてくれよ」
「言いがかりじゃないよ。だってーー」
悟は飄々とした声で、僕の耳をさらに疑わせることを言い放った。
「柏葉さんは光のことが好きだったんだから」
「……え?」
冗談はやめてくれ。そんなこと絶対にありえない。
柏葉さんが僕のことを好きだっただなんて。
悟はついに漫画本をカーペットに置くと、その場であぐらをかき、僕と正対した。
「話を遡ること2ヶ月前、僕の下駄箱の中に手紙が入ってたんだ。手紙の差出人は柏葉さんだった」
「……それって、まさか悟へのラブレター?」
「違う。君は柏葉さんのことを全然分かっていない。彼女は、極めて臆病で奥手なんだ。それでいて平気で突拍子のないことをする。『迂遠にして大胆』それが彼女のパーソナリティなんだ。だから、彼女は、誰かに直接ラブレターを渡したりはしない」
「じゃあ、なんで悟に手紙を書いたんだ?」
「彼女の本命である光との間の恋のキューピット役を頼むためだよ。僕は光の親友だから」
あまりにも信じられない話に、僕はあんぐりと口を開けたまま硬直するほかなかった。
他方、これまで経験したことがないくらいに心臓はバクバクしている。
「その手紙で、僕は、放課後、柏葉さんのクラスの教室に呼び出されたんだ。そこで、柏葉さんから、光への秘めたる想いを縷々打ち明けられたんだ」
「……それで?」
「もちろん、僕は言ったよ。それを僕にではなく、直接光に言ってくれ、って。君の好みの異性のタイプは分からなかったけど、少なくとも君に彼女がいないことは知っていた。だから、光に大して直接「愛の告白」をすれば、光が交際に応じる可能性はあるんじゃないか、って」
「……それで?」
「でも、柏葉さんは臆病者だから、それはできない、って言ったんだ。そもそも、光とは面識がないから、まずは光との距離を詰めなければ、自分の告白は一顧だにされないだろう、と」
「……それで?」
「僕は、一般論としてはたしかにそのとおりだ、と答えた」
言うまでもなく、僕が柏葉さんの告白を受け入れないだなんてことはありえない。なんともどかしいやりとりなのだろうか。
柏葉さんは、自分の価値を正しく把握できていないし、我が親友は、どこまでも恋愛音痴なのである。
「すると、柏葉さんは、こう聞いてきたんだ。『どうすれば梶本君に好きになってもらえるかな?』と。僕は、とりあえずまずは柏葉さんから声をかけたら、と言ったんだが、そんなの恥ずかしくてできない、とむべもなく拒絶されたよ」
本当にもどかしい。柏葉さんから声をかけられたら、それがどんな些細な用事だったとしても、僕は舞い上がってスキップするのに。
「これで話は袋小路だ。柏葉さんは君に好きになってもらいたいのに、君に話しかけることすらできないのだ。僕は完全にお手上げだったよ」
「全然袋小路じゃないよ! その会話の内容をすぐに僕に伝えてくれるだけで良かったのに!」
そうすれば、僕から柏葉さんに声をかけられた。もちろんそれは僕にとっても勇気がいることなのだけど、両想いだと分かっていれば、それくらいの勇気は振り絞れたはずだ。
「手紙に書いてあったんだ。『私が梶本君のことを好きなことは梶本君には黙っててほしい』」
「そんなの律儀に守らなくてもいいのに!」
「それは結果論だろ。当時の僕は、君が柏葉さんのことを好きだったなんて知らなかったんだから」
そうかもしれないが、たとえば仄めかすとかして僕の気持ちを確かめる手段もあったはずなのだ。もちろん、目の前の朴訥な漢にはそんなことは期待できないのだが。
「とにかく、柏葉さんは悩んでいた。どうしたら光に振り向いてもらえるか、ということを健気にね。それで、彼女は僕に、こう言ったんだ。『色仕掛けはどうかな?』って」
「……はい?」
「そんな目をして見ないでくれよ。嘘じゃない。本当に彼女はそう言ったんだ。さっき言っただろ。柏葉さんは『迂遠にして大胆』だ、と」
とにかく、と悟は続ける。
「無邪気な目で『色仕掛けはどうかな?』と訊かれた僕は、こう答えるしかなかったんだ。『一般論としては、男性はそういうのは好きだろう』と」
それは間違っていないのだろうが、なんというか、全体的に上滑りしたやりとりである。僕に深く関わることが、僕の知らないところで、必ずしも僕の気持ちを汲み取れていない二人によって展開されているのである。
というか、待てよ。もしかして、その「色仕掛け」ってーー
「まさか、柏葉さんは、僕に好きになってもらうための『色仕掛け』として、僕にわざと着替える姿を見せつけていたのかい……?」
「そのまさかだ。僕も驚いたよ。柏葉さんがそんなこと思いつくなんて。少なくとも、彼女のおとなしそうな見た目からは想像し難いね」
僕は柏葉さんに気付かれないように、こっそりと彼女の着替えを覗いているつもりだった。
しかし、実際には、彼女は気付いていた、どころではなく、わざと見せていたということらしい。
なんと驚くべき話なのだろうか。
なんと「迂遠にして大胆」な手口なのだろうか。
「でも、仮に柏葉さんが僕のことを好きだったとして、僕に見せるためにカーテンを開けて着替えるって、そんなのおかしいじゃないか。だって、僕の寮の、別の男子から着替えを見られちゃう危険もあるわけだし……」
「その心配はない、と柏葉さんは考えていたようだ。なぜなら、柏葉さん曰く、以前より窓から柏葉さんの部屋を見ていたのは、君だけだったから」
……そうか。バレてたのか。
「光、君は窓から女の子の部屋を覗く癖があったみたいだね。柏葉さんが『色仕掛け』を開始する以前から」
「過度に一般化しないでくれ。僕は、ずっと前から柏葉さんに憧れてたんだ。……だから、真向かいにある柏葉さんの部屋が、前から気になってたんだ」
そう。僕が柏葉さんに恋心を抱いたのは、彼女の着替えを見てしまったことがきっかけではない。
その前から、具体的には、入学した直後に偶然廊下ですれ違った彼女の姿を見てから、僕は柏葉さんに片想いしていたのである。
柏葉さんに声をかけたことは、もちろんない。
その意味では、僕も柏葉さんのことを笑えないかもしれない。ただ、僕と柏葉さんとの「格の違い」を考えれば、僕の方には免罪符があるに違いない。
「決して実らない」片想いを、僕はじゅくじゅくと拗らせていただけであったのだが、去年の夏、僕は柏葉さんとの「唯一の接点」を見つけた。
僕が風通しを良くしようと窓を開けたところ、偶然同じタイミングで真向かいの窓を開けた柏葉さんを見かけたのである。
目は合っていない、と思う。
柏葉さんの姿を見つけた僕はすぐに目を逸らしたし、それに、間に桜の木もある。
多分、柏葉さんは僕が窓を開けたことにすら気付いていなかっただろう。
ただ、それは僕にとって大発見だった。
憧れの柏葉さんが、桜の木を挟んで、僕の真向かいの部屋に住んでいたのである。
それ以来、僕は、それがあまり良いことではないと知りつつも、柏葉さんの部屋のことを意識してしまっていた。
夜、窓から漏れる明かりが消えると、「柏葉さんが眠ったんだな」と思い、朝、カーテンが開くと、「柏葉さんが起きたのかな」と思った。
もちろん、彼女に気付かれるわけにはいかなかったから、堂々と見るわけにもいかなかったし、私生活を覗き見てるような罪悪感もあったから、部屋の中まではなるべく見ないようにしていた。
僕と同じ時間を、空間を、柏葉さんが生きている、という事実が知れるだけで、僕は十分満足だったのである。
「とにかく、柏葉さんは、自分の着替え姿を見てくれるのは光だけ、ということを分かっていたんだ」
「……なんだかすごく恥ずかしいよ。柏葉さんが、僕がずっと彼女の部屋を覗いていたことに気付いてただなんて」
「なぜだと思う?」
「なぜって……なんか理由があるの? まさか悟がチクったとか」
「そんなわけないだろう。僕が君の『覗き癖』を知ったのは、君にそれを打ち明けられてからだから、結構最近だ。そうじゃなくて、ニーチェの格言があるだろ?」
「ニーチェの格言?」
「『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』」
どこかで聞いたことある言葉ではある。ただ、悟が何を言いたいのかはよく分からない。
「『深淵』?」
「ここでは『柏葉さん』と言い換えてもらっていい。『柏葉さんを覗くとき、柏葉さんもまたこちらを覗いているのだ』」
「……え?」
意味は分かった。ただ、そんなまさかーー
「柏葉さんも、ずっと昔から、窓の向こうの光を見てたんだよ」
「……え? どうして?」
「だから、君のことが好きだからだろ」
「どうして? どうして柏葉さんは僕みたいな冴えない男のことが好きなんだ? 第一、柏葉さんは前山田先輩と付き合ってたんじゃないのか?」
全くもって理解できない。
前山田先輩は、この学校の全女子の憧れの存在だ。前山田先輩と比べれば、僕なんてあまりにも雑魚過ぎる。比べることすら憚られる。
それなのに、なぜ柏葉さんは僕のことが好きなのか。前山田先輩よりも、僕の方が好きだということなのだろうか。
「柏葉さん曰く、前山田先輩の方から強く言い寄られて付き合いこそしたものの、柏葉さんは、前山田先輩のことは最初からあまり好きじゃなかったらしい」
「将来有望な野球部のエースでイケメンなのに?」
「一般論からいえば、女子はそういうスポーツマンとかイケメンが好きだろう。ただ、柏葉さんは『普通』じゃないんだ。彼女がインドア派だということもあるのかもしれないが、彼女にとっては、光の方がタイプだったんだ」
柏葉さんが若干独特な子であることはこれまでの話からなんとなく伝わってきた。
ただ、僕がタイプというのは、なんと言うかーー
「あまりにもマニアック過ぎないかい? というか、そもそも、柏葉さんは僕の何を知ってるんだい?」
「色々と知ってるみたいだったよ。君の誕生日から、血液型から、実家で飼っている犬の名前まで。おそらく、彼女には、そういう『癖』があったんだと思う。加えて、彼女は、君の部屋をよく見ていた」
「僕の部屋?」
何ら特徴のない僕の部屋。前山田先輩の部屋のように、トロフィーや賞状や寄せ書きなど、そういった輝いているものは一つもない。質素で退屈な僕の部屋。
「僕の部屋って、何もない部屋だけど……」
「光は綺麗好きだからね。そこは女子ウケが良いポイントで、柏葉さん的にも好ましかったらしい」
たしかに綺麗好きではあるかもしれない。
今で言うと「ミニマリスト」とでもいうのか、身の回りのものは基本的に最低限にして、部屋は散らかさないようにしている。
朝起きると、布団は必ずしまうし、夜には座卓と座椅子は折り畳んで片付ける。床にはなるべく物を置かない。そういう几帳面なところが僕にはある。
「加えて、何もないと言うけど、君の部屋には立派な本棚があるじゃないか」
「立派というか、ほぼ漫画だけど……」
「柏葉さんは、君の部屋の本棚のラインナップを知ってたよ。そして、『私とすごく趣味が合ってる』と言ってた。趣味が合うというのは、恋愛においては大事なことなんじゃないのか?」
「柏葉さんの部屋の窓から本の背表紙まで見えるの……?」
「まあ、詳しくは聞いてないが、オペラグラスでも使ったんじゃないのか? 僕が知る限り、柏葉さんはおそらく『そういうタイプ』だ」
ここまで言われると僕も満更もないというか、柏葉さんが僕のことを好きだったという衝撃の事実も、半分くらいは信用する気になれた。
ところでーー
「そうすると、どうして柏葉さんは殺されたんだ? もしかして、僕のせい?」
「さっき言っただろ。完全に光のせいだ」
「柏葉さんが僕を好きなことに恋人である前山田先輩に気付かれて、前山田先輩が怒って柏葉さんを……ってこと?」
「概ね正しいが、正確に言うと、前山田先輩は『恋人』ではなく、『元恋人』だ」
「……え? どういうこと?」
「柏葉さんが殺される前日、柏葉さんは前山田先輩のことをフッてるんだよ。だから、僕と光に前山田先輩が話していたことは嘘なんだ。すでに前山田先輩と柏葉さんの関係は終わっていて、『良好な関係』なはずはないからね」
そういえば、悟は、公園で、前山田先輩を犯人と疑う主観的証拠として、彼が嘘をついていたことを挙げていたが、このことだったのか。
もしかすると、悟は、窓の外の景色を確認するだけでなく、この嘘を引き出すために、わざわざ前山田先輩の部屋へと乗り込んだのかもしれない。
それはともかくーー
「……柏葉さんが前山田先輩をフッたのはなぜ?」
「だから、光のせいだって」
悟は、僕に対して、なんて物分かりが悪いんだろう、と言わんばかりに大きなため息をついた。
「さっきの話の続きだが、柏葉さんは1ヶ月以上君に対して『色仕掛け』の罠を張って待っていたけど、君からの反応は特になかった」
それはそうである。
「緊急事態」で僕の脳内は沸き立っていたが、たとえば僕が柏葉さんの部屋のインターホンを鳴らして、「セクシーで素敵ですね」などと感想を伝えに行けるわけがない。
柏葉さんは一体どんな「反応」を僕から期待していたというのか。
「ただ、柏葉さんが殺される3日前、君は、僕に対して、ついに柏葉さんの着替えの話をした」
「……ああ、そうだったね。僕の部屋でね」
「あのとき、光は柏葉さんのことを「好き」とも「可愛い」とも言わなかった。ただ、僕から見て、少なくとも、君は、柏葉さんの着替えが見られることを嬉しく思っているように感じられた。だから、僕は、柏葉さんにこう報告したんだ。『光に色仕掛けは効いています』と」
なんとも間抜けな報告である。
「そうしたら、柏葉さんはついに決心したんだ。光に告白することを。そのための前提として、その夜、柏葉さんは、前山田先輩に別れを告げたんだ」
柏葉さんが、僕に告白するために前山田先輩をフッた。それは身に余るほどの光栄なのだが、ただーー
「それで前山田先輩が怒って、柏葉さんのことを……」
「殺害を決意するくらいだから、『怒った』どころの騒ぎじゃなかったのだろう」
「きっと前山田先輩にとって、柏葉さんは『宝石』のように大事な存在だったから……」
悟は大きく首を横に振る。
「たしかに『宝石』とは言い得て妙だね。ただ、君の持ってるイメージはだいぶニュアンスが違う。前山田先輩は、柏葉さんを『アクセサリー感覚』で彼女にしてたんだと思う。自分のステータスとして、ルックスだけを基準に選んだんだ。そもそも性格が合ってないんだ。2人きりで会うことも、会話もほぼなかったらしい」
そうだったのか。
僕からすると、前山田先輩はなんてもったいないことをしてるんだろうと感じてしまうが、おそらく彼の人生は野球中心なのだ。野球によってほぼ全てが満たされている。
恋人に求めてることなど、悟の言うとおり、「見栄え」以外には何もなかったのかもしれない。
「率直に言って、前山田先輩は、柏葉さんのことを下に見ていたんだ。その柏葉さんから反旗を翻されたことで、彼のプライドは深く傷付けられたのだろう。だから、柏葉さんを殺したんだと思う。もちろん、本当のところは警察での自白を待たないと分からないんだけど」
「うーん……」
突然、冷たい風が頬を撫で、僕はビクリとする。
僕が考え込んでいる間に、いつのまにやら悟は立ち上がり、僕の部屋の窓を開けたのである。
「桜の季節も終わりだな」
「そうだな」
僕も悟の隣に立ち、彼と同じように窓の外の景色を見た。
大きな桜の木を埋め尽くしていた花びらは完全に散ってしまっている。
同じく、僕の初恋もーー
もし柏葉さんが生きていたのならば、僕はどれほど幸せだっただろうか。夢にまで見た夢に手が届く直前で、僕の青春は散り果てたのである。
柏葉さんの気持ちを考えても、やりきれなさは拭えない。
これは運命なのだろか。だとしたら、運命というものはなんて理不尽なものだろうか。
葉桜となった木の向こうに、柏葉さんの部屋の窓が見える。
否、おそらくもうそれは柏葉さんの部屋ではない。
カーテンが取り払われた窓の向こうに見えるのは、家具が片付けられた何もない部屋なのである。
全面フローリングの空っぽの部屋にはもう、柏葉さんの面影を重ねることもできない。
「ところで、光、あの宣言はどうするんだ?」
「宣言?」
「柏葉さんを忘れます、ってやつだよ。前山田先輩の部屋で言ってただろ?」
「ああ。あれか。……撤回するよ」
僕は、溢れる涙を手で拭う。
「柏葉さんのことは一生忘れない」
「……それがいいよ」
報われない恋だった。
でも、僕はこの恋をなしにしようとは思わない。
だって、柏葉さんは、僕にとって最初で最後の、大切な初恋の人なのだから。
(終)
気になって短編小説の定義をネットで調べてみたところ、「目安の上限は3万2000字」と書かれていました。この小説は4万字弱あるので、短編のスケールを超えた感はあります。反省はしています。書き疲れました。ただ、それなりに気に入っています。
冒頭にも書きましたが、去年の「桜の木ミステリー」企画のために着想した作品です。
なろう執筆陣の傾向として、おそらく同企画参加作品のほとんどが人の死なないミステリーか、もしくは変則的なミステリーだろうと踏んだ菱川は、あえてその裏を欠き、ゴリゴリの正統派で攻めよう、と思い、この作品を捻り出しました。
桜の木ミステリー企画の提出期限を大幅に過ぎてしまい、お蔵入り寸前だったのですが、なんとか世に出せて良かったです。




