ウサギのリベンジレース
あの屈辱の日から1年後、ようやく汚名返上のチャンスが俺に回ってきた。
1年前、俺はレースに負けた。
あろうことか、この村で1番ノロマな亀に。
俺が負けることを、村の動物たちは誰1人として予想していなかった。
無謀な戦いに挑むこととなった亀を心配し、不戦敗を勧める者もいた。
俺だって、俺が負ける可能性なんて1ミリも考えやしなかった。
俺がブッチギリで勝ってしまっては村の動物たちも興醒めだろうと思い、ハンデとして石を背負うことを提案したほどだ。
その提案を断った亀の愚直さを、俺は心の中で嘲った。
しかし、結果として、俺は負けた。
下馬評通り、俺と亀とでは、走力において、あまりにも差があった。俺が、ゴール前の最後の丘の頂上に着いたときには、亀はまだ遥か後方にいて、米粒程度にしか見えなかった。
それが、俺の油断を誘った。
俺は、余裕をぶっこき、なんと最後の丘の頂上で昼寝をしてしまったのである。
ほんの一眠りのつもりだった。
しかし、春の陽気が想像以上に心地よく、なかなか目が覚めなかった。
ようやく目を覚ましたときには、俺の後方にいたはずの亀は、俺を追い抜き、ゴールテープ目前にいた。
俺の走力をもってしても、追いつくことは不可能だった。
俺は、亀に負けたのである。
あの日をきっかけに、俺はこの村で恥晒しとなった。
村の子どもたちまでもが、俺の姿を見ると指を指して笑った。
おとなたちは、「自意識過剰」「寝坊助」「怠け者」「愚か者」と陰口を言った。
他方で、亀は、真面目でひたむきな努力家として株を上げ、今度の村長選挙に推されて立候補するらしい。
それはまさしく地獄のような1年だった。
俺に残された唯一の希望。
それは、1年後のリベンジレースの約束である。
あのレースの直後、俺は、村の動物たちに胴上げの祝福を受けていた亀に詰め寄り、「こんなレース、イカサマだ!! やり直せ!!」と叫んだ。
そんな俺のみっともない態度を、村の動物たちは笑い、「負け犬の遠吠えだ」と非難した。
亀は、「イカサマなんてしてないよ。君が寝てただけだ」と、真面目に応答した。
プライドなど気にしている場合ではなかった。俺は、その場で土下座をし、再戦を乞うた。
それに対して、亀は、うーんと考えた後に、
「勝ち逃げというのもなんだかカッコ悪いよね」
とぼやき、
「よし。今からちょうど1年後、同じコースでやろう」
と、俺の提案を呑んでくれたのである。
あの日以降、俺は今日のためだけに生きてきた。
俺を馬鹿にしてくる村の動物たちからこっそり身を隠して隠居しつつ、毎日朝晩の走り込み、それから、規則正しい生活を習慣とするようにし、1年後のリベンジに全てを懸けたのである。
辛く、そして長い1年間だった。
途中、思いがけぬトラブルに何度も見舞われ、この日が迎えられるかどうか不安になることもあった。
しかし、ようやく辿り着くことができた。
今日が、あのレースからちょうど1年後。
今日が、リベンジレースの日。
待ちに待った名誉挽回の機会なのだ。
スタート地点で久しぶりに出会った亀は、相変わらず、トロンとした目をしていて、やる気がなさそうである。
思い返せば、去年も、スタート地点で亀のこの表情を見て、俺は慢心してしまったのだった。
「ウサギさん、1年前よりだいぶ細くなったんじゃないか」
「走り込みで、余分な脂肪を筋肉に変えたのさ」
「ちゃんと食べてるのかい?」
「もちろん。今朝も水とプロテインをたっぷり」
「それだとエネルギーが持たないよ。レースにはエネルギーが必要なんだから」
亀の助言には、敵ながらも理があるように思えた。
たしかに今日に関して言えば、プロテインと水のみは正しい選択ではなかったかもしれない。
「はい。ウサギさん、これを食べると良いよ。さっき、村の動物たちからもらったんだ」
亀が俺に手渡したのは、塩むすびだった。
たしかにこれは良いエネルギー源になりそうである。
「ありがとよ」
俺は、亀の手から塩むすびをかっさらうと、そのまま口の中に放り込み、一飲みした。
これでレース途中にエネルギー切れとなってバテてしまう心配もないだろう。
敵に塩を送るなんて、やはり亀はどこまでも愚直である。
「それでは、位置に着いて、ヨーイ……ドン!!」
スターター役のキツネの合図で、レースはスタートした。
今回に関しては、俺は手加減をする気など一切ない。
最初から全速力で駆け出し、亀との差をどんどん広げていく。後ろを振り向くことすらしない。
このレースは、他でもない、自分自身との戦いなのである。
コースの全長は3キロメートル。
途中、8つの丘を登ったり下ったりしなければならないハードなコースである。
もっとも、普段の走り込みの成果で、俺の心肺機能は強化されており、1つ目の丘を超え、2つ目の丘を超え、3つ目の丘を超えてもなお、俺は少しもバテてはいなかった。
リベンジに向けて、視界は良好である。
おそらく亀の野郎は、まだ1つ目の丘すら登り切れていないことだろう。
とはいえ、油断してはならない。
レースは、最後まで何が起こるか分からないのだ。
不測の事態は、俺が6つ目の丘の頂上に辿り着いたときに起きた。
昨年のレース同様、強烈な睡魔が俺を襲ったのである。
――なぜだ。そんなはずはない。
昨年の「一眠り」によって、この村での地位と名誉を全て失った俺は、リベンジレースでは万が一にも同じ事態に陥らないように、毎朝決まった時間に起き、毎朝決まった時間に眠り、サーカディアンリズムを完璧に整えた。
昨夜だって、いつも通りの時間に床に入り、ぐっすり眠れている。眠気対策はバッチリだったはずだ。
――それなのになぜ。
俺を襲った睡魔は、抗うことができないほどで、走りながらも、俺の意思とは関係なく、両瞼は自然と閉じていた。
異様なまでに強い睡魔――
――まさか。
塩むすびだ。
亀が塩むすびに睡眠剤を混入したに違いない。
徐々に朦朧とする意識の中で、俺はある「重大なこと」に気が付く。
昨年もそうだったのだ。
昨年のレースの直前にも、俺は亀から何か食べ物を手渡され、それを口にしたのである。
全て、亀の仕業だったのだ。
俺がレース中に眠り込んでしまって、亀に負けてしまったのは、俺が「自意識過剰」だったわけでも、「怠け者」だったわけでもない。
全て、亀が仕組んだことだったのだ。
俺の心の中では、亀に負けるわけにはいかないという執念がさらに燃え上がっていたが、睡魔が脳髄まで侵食し、身体は思うように動かなくなってしまっていた。
もう歩くことすらできない。
俺は、ついに茂みの中に倒れ込んでしまった。
――ダメだ。このまま眠ってしまっては、また屈辱の日々を迎えることになってしまう。
俺は何とか意識を奮い立たせ、無理やり瞼を上げようとした。
開け。開け。開け。
俺は今日のために1年間頑張ってきたじゃないか。
なんとかして半分だけ目を開けることに成功する。
ぼやけた視界に映るのは、茂みの緑。
それから赤い粒。
――赤い粒? もしかして、これは……
俺は、身体を精一杯捩りながら、その赤い粒に食らいつく。
齧った瞬間、電流のような刺激が脳まで届き、俺の脳細胞を活性化させた。
捨てる神あれば拾う神あり、である。
俺が倒れ込んだ場所に、コーヒーが自生しており、赤い実を携えていたのだ。
コーヒーの実の覚醒効果で、俺は、なんとかして意識を取り戻すことに成功した。
先ほどまでのように走ることは難しいが、なんとか前進することはできる。
俺は、飛びそうになる意識をかろうじて捕まえたまま、這いつくばりながらも、「亀のように」ゆっくりと、しかし確実に、ゴールへと向かっていった。
おそらく後方の亀との差は縮まっただろうが、なんとかして7つ目の丘を下り切った。
後は「因縁の」最後の丘を攻略するだけ――と思いきや、想像だにしなかった難関が、俺の目前に現れた。
「おい……。これは一体どういうことだ……」
コース上に、昨年にはなかった川が突然出現したのである。
否、そうではない。
去年もたしかにコース上にこの川はあった。
もっとも、橋がかかっていたため、レースを進める上では支障にならなかったのである。
しかし、今、俺の目の前にある川には、橋がかかっていない。
一体どういうことなのか。
「ウサギさんはずっと隠居してたから知らないんだね」
信じられないことに、もうすでに亀は、俺に追いついてた。
亀は、俺と肩を並べると、偉そうに鼻を鳴らした。
「去年大きな台風があって、この川の橋が流されちゃったんだよ。村の動物はみんな知ってるよ。君以外はね」
「そんな……」
「まあ、君にとってはともかく、僕にとってはどうでもいい話さ。だって、僕は泳げるからね」
「そんなの卑怯だ!! こんなレースやり直しだ!!」
「卑怯?? 何言ってるんだ?? 1年前に約束しただろ、『1年後、同じコースで』って。約束通り『同じコース』でやってるんだから文句ないだろ?? それとも、また去年みたいに負け犬の遠吠えかい??」
悔しいが、俺は何も言い返すことができなかった。
神は俺を見放したのである。
「じゃあね。ウサギさん、僕は君と違って休んでる暇はないんだ」
そう言い残して、亀は、颯爽と川の中に飛び込んだ。
ザバンという飛沫の後、亀の姿は見えなくなった。
おそらく水中深くを優雅に泳いでいるのだろう。
唇を噛み締める以外、俺は何もできなかった。
このまま亀が川を渡り、ゴールテープを切る姿を、ずっとここで見ることしかできないのだろうか。
俺の1年間の努力は一体何だったのか。
俺は、一生、この村の恥晒しのままなのか。
――嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。
俺は、後ろ足で地面を強く踏みしめる。
諦めるのはまだ早い。
俺にだってこの川を渡ることはできる。
俺はウサギだ。泳げなくとも、俺には誰にも負けない跳躍力がある。
川幅は5メートル、いや、もっとあるだろうか。
ギリギリ届くか、届かないか、といったところか。
正直、不安である。
足もプルプルと震えている。
しかし、跳ぶしかない。
今は自分を信じるほかないのである。
――よし、跳ぶぞ。
俺は後ろ足に精一杯の力を込める。
そして、意を決して、川の向こう岸へとジャンプをした。
風の抵抗で、全身の毛がワッと逆立つ。
決して、下を見てはならない。
届く。絶対に届く。
そう信じて、ただ前だけを見る。
身体をいっぱいに伸ばし、向こう岸へと手を伸ばす。
――届け。届け――
身体はすでに落下を始めている。
ただ、あともう少しで向こう岸に手が届く。
あと少し。あと少し――
しかし、無情にも、前足のつま先は、向こう岸の雑草を捉え損ねた。
あと数センチのところで、俺は勝負に負けたのである。
身体はそのまま、川へと落下していく。
――終わった。
しかし、神は最後に俺に微笑んだ。
俺が川に落下しかけたタイミングで、ちょうど亀が水中から浮かび上がったのである。
ちょうど俺の足場となる位置に。
「よっしゃあ!」
俺は後ろ足で亀の甲羅を思いっきり踏みつけて、向こう岸へと飛び移ることに成功した。
他方、俺に踏みつけられた衝撃で、亀は水中へと沈んでいく。
「ざまあ見ろ!! 俺の勝ちだ!!」
川を渡ってさえしまえば、あとは「因縁の」最後の丘を越えるだけである。
しかし、勝利を確信したことによる気の緩みからか、再び睡魔が蘇ってきた。
眠気が徐々に俺の脳を腐蝕していく。
とはいえ、もう少し。あと少しなのだ。
俺は朦朧とする意識のままでレースを続け、丘の頂上にまで登り、下った。
沿道には村の動物たちが集まり、俺を出迎えてくれている。
ゴールテープはもうすぐ。
――勝てる。今度は勝てるぞ。眠い。
テープが身体に触れる。
――よし。眠い。眠い。
ゴール!!
――やった。やったぞ。眠い。眠い。眠い。
村の動物たちの歓声が聞こえる。
俺の生涯で最高の瞬間。
――やった。ついに念願のリベンジを果たした!……はあ
全てを出し切った俺は、その場に倒れ込み、ついに眠気に身を任せることにした。
……………………
「……もう息を引き取ったみたいです」
この村の名医である山羊が、神妙な面持ちで、その場にいる者たちに、孤独な男の臨終を告げる。
他の動物たちの居住区域から離れた山奥にある暗い祠。
そこでひっそりと隠居していたウサギの容体が急変したことに気付いたのは、山菜採りのためにたまたま通りかかったタヌキだった。
彼がウサギの断末魔の叫びに気付き、慌てて村の動物たちに知らせたのである。
ウサギが孤独死を免れたのは、本当に偶然のことであった。
ウサギの臨終には、生前彼と関わりのあった動物たちが、それほど数は多くはなかったが、立ち会った。
その中には、今から約10ヶ月前に、下馬評を覆してレースでウサギに打ち勝った亀もいた。
山羊は、ウサギに黙祷を捧げた後、その亀に話しかけた。
「彼は生前、2ヶ月後のあなたとの再戦を楽しみにし、一生懸命トレーニングを積んでいたとか」
「そのようですね。僕も楽しみにしていたので、彼がレースの前に亡くなってしまい、とても残念です」
「彼は大層無念だったでしょうね。ただ、医師である私の口から言わせてもらえば、むしろ、今日までよく生き長らえたな、というのが正直な感想です」
実際に、ウサギは、負けたことのショックもあったのかもしれないが、あのレース以降、急に弱ってしまい、何度も山羊医者のお世話になっていた。
山羊は、これ以上身体に負荷をかけるべきではないと、彼の日夜のトレーニングに対してドクターストップをかけていた。
しかし、彼はトレーニングをやめなかった。
必ず亀にリベンジしてやる、という執念だけが、今日まで彼の生を支えていたのである。
「ウサギの平均寿命は7年程度です。ただ、彼はもう今年で9歳ですから、大往生です」
「そうだったんですね……」
亀は口ではそのように返したが、もちろん、ウサギの平均寿命と、彼の年齢については十分知悉していた。
その上で、昨年、ウサギからリベンジレースを申し込まれた際に、おそらく来年まで彼は生きていないだろうと踏んで、1年後の再戦を許可したのである。
結果、亀の思惑通り、レースを前にして、ウサギはこの世を去った。
これで亀のディフェンディングチャンピオンが無事に確定したのである。
「寿命じゃ誰も僕にも敵わないよ」
と、亀は、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
山羊は、動かなくなったウサギの表情を見て、言う。
「死ぬ間際、彼はとても苦しんでいましたが、今の彼の顔を見てください。とても幸せそうな表情をしています。きっと最期の最期で素敵な夢を見れたのでしょう。どうか安らかにお眠りあれ」
言うまでもなく、題材はイソップ童話です。
英語学習のためにと、イソップ童話の英書をずっと読んでいるのですが、「ウサギと亀」のような「努力は報われる」的な美しいメッセージの話はレアで、ほとんどが「弱肉強食」的な話で心が荒みます。
童話のミステリーアレンジは去年くらいからずっとやってみたいなと思っていました。もしかすると、この後もいくつか登場するかもしれません。
題材がポップだったので1話目に持ってきてみましたが、いきなり夢オチで恐縮です。
意見は分かれるかと思いますが、個人的に夢オチは結構好きです。だって、こんなにシンプルかつ大胆などんでん返しってないじゃないですか。