*96 深淵ヲ染メル者
「何だ……!? 今のは……!?」
「この悍ましい気配……魔王城からか……!」
〝深淵〟が顕現した時
無数に湧いてくる魔物を粗方片付けていたヴィクター達は形容しがたい感覚に襲われていた。
魔王城から感じられた体の底から浸食してくるような悍ましく不快な感覚に兵士達は疎か魔物さえも魔王城の方に意識を向けていた。理性がある魔物はその目に僅かな恐怖を宿しながら魔王城……ひいてはジン達がいる地点を見つめていた。
「魔物どもも、この得体の知れない感覚を味わっているのか……?」
「何だ……あれは、何だこれは、何なんだ一体……!!」
「ヒュドール! 大丈夫か!?」
ヒュドールが何かをブツブツと呟きながらわなわなと震えていた。心配したカルメンがヒュドールに問いかけるが、ヒュドールの眼は恐れの色に染まっており、顔面は蒼白になっていた。
「不味い……このままだとボクが、ボクでなくなってしまう……!!」
「一体どういうことだ!?」
「カルメン様! ヒュドールの様の《青の世界》に……謎のシミのような物がッ!!」
「なんだと!?」
カルメンが魔王城を見上げると、城から伸びた黒く淀んだ煙のような物が《青の世界》を濁らせていたのが見えた。
カルメンはあの煙から途轍もない邪悪な気配を感じ、このままではヒュドールの精神が崩壊することを察知し、術式を強制解除させるためにヒュドールに近づいた。
「許せ!」
「グゥッ……あ……りがとう」
首元に打撃を加え強制的に昏倒させ、《青の世界》を解除させたカルメンは部下に救護班の下へ急ぐ旨の命令を下し、ヒュドールを戦場から離脱させた。
「何が起こっておる……ッ!! 何だあれは!?」
ヴィクターが事態を把握しようと魔王城を観察していると、突如魔王城からこの世の物とは思えない色合いをした泥が現れ、周辺にいた魔物たちを飲み込んでしまった。
そしてヴィクターの下に一人の伝令が駆け寄った。
「報告! 魔王城から謎の黒い泥が出現! 魔物が次々と為すすべなく飲み込まれていきます!」
「皆の者! 泥に触れるでない! 総員、魔法で障壁を築き、少しでもあの泥の侵食を食い止めよ! そして然る後に高台に避難せよ!!」
「「「「了解!」」」」
騒然とした現場だったが、ヴィクターの鶴の一言で各々の陣形を立て直し、泥の侵食を食い止めるために次々と障壁が築かれていったのである。
そしてその知らせは他の部隊にも行き渡り、総員撤退を強いられたのだった。
「《赤の弾丸》」
フラムから放たれた炎塊が泥に直撃するも、炎塊は泥に飲み込まれ、吸収された。
「チッ! どうなってんだこの泥は!」
「フラム様! ご撤退を! このままでは危険です!」
「しゃあねぇ……総員撤退! 魔王城から離れろぉ!!」
(何だ……この肌をピリつかせるこの感覚は……)
「グォオオオオオオ!?」
「オ……《オブシディアンレオ》が……為すすべなく……!?」
「総員! 即座に撤退! あの泥に決して触れるな!」
黒曜石のごとき硬さの皮膚と牙を持つ獅子の魔物が為すすべなく飲み込まれていくのを目の当たりにした雷電は、その泥の危険性にいち早く気づき、部下に撤退を命令した。
命令に従い、迅雷衆は即座に魔王城を見渡せる高台に避難した。
「な……何だこれは……この世の終わりなのか……?」
部下の一人がこの世の終わりを見たかのような感情を露にした。
「……ッ! おい! あそこに逃げ遅れた奴が!」
その声に釣られて戦場を見渡すと、そこには足を引きずった兵士の姿がそこにあった。背後には徐々に泥が迫っており、飲み込まれるのも時間の問題だった。
「足をやられていたのか! 私が行く!」
「雷電様!!」
雷電は即座に部下の救出に向かう為に高台から飛び降り、最高速で向かった。
そして数秒も立たない内に部下の下にたどり着くとすぐさま抱え込んだ。
「大丈夫か!?」
「も、申し訳ありません……」
「今は良い! あの高台に避難する……なッ!」
「雷電様!!」
部下を担ぎ高台に向かおうとした矢先のことだった。
泥の中で足掻いていた魔物が必死に身をよじらせており、その結果として泥が雷電の袴に向かって飛び散った。
「クッ……!」
咄嗟に雷電は袴を脱ぎ捨て、泥から距離を取った。
地面に落ち、泥を被った袴はほんのわずかな染みから即座に袴全体に広がり、やがてドロドロに溶かしてしまった。
「危なかった……とにかく急ぐぞ」
「教皇陛下! 《聖光》があの泥に通じません!」
「何よ……あの気持ち悪い泥は! 全員撤退よ! あの泥に飲み込まれたら生きて帰れないと思いなさい!!」
「「「了解!」」」
ビアンカ率いる白騎士団は浄化の力を持つ《聖光》を泥に浴びせていたが、効果がないことを悟りこちらも撤退命令を下した。
ビアンカが部下の撤退をサポートするために《白の障壁》を張っていたが、泥に飲み込まれるや否や障壁がかき消されるのを見て事の重大さをさらに認識させられた。
「これも駄目!?」
「教皇陛下! 撤退の準備は完了いたしました!」
「行くわよ……《聖域への順路》!」
ビアンカと部下の周囲に白い魔法陣が展開され、聖書がまき散らされると、彼らはたちまち戦場から姿を消し、雷電達がいる山に転送された。
「ビアンカ殿! そちらは無事か!?」
「こっちは大丈夫! あんたこそどう!?」
「こちらも問題ないが……あれは何だ……?」
「……分からない。だけど、これだけは分かるわ、あれが碌でもない物だってこと」
「……ジン達は無事だろうか」
「……主よ、どうか彼らの無事を……」
「グ……ッ……」
「何て……悍ましいのでしょうか……!」
「怖い……怖い……けど、私は負けない!」
ジン達は〝深淵〟が顕現した衝撃で発生した泥と瘴気をまともに受けていたが、ジンの《色彩の加護》により泥への耐性を得ていた為、そこまで影響を受けていなかった。
しかしそれでもアイリとグレイは絶え間なく襲い掛かってくる負のエネルギーと生気を吸われるような感覚に消耗させられていた。
『我ニ……我ニ、身体ヲ、我ニ■■ヲ、我ガ■タチ……』
悍ましくも何処か悲哀に満ちたノイズ交じりの声を発する〝深淵〟にジンは軽口を以て返答した。
「途切れ途切れで……何言っているのか分からんな……!」
加護を得てもなお苦しむアイリとグレイと比べてジンはすっと立ち上がり、《完全なる色彩の光剣》を構えた。
そうジンは進化した《完全適応》により〝深淵〟への耐性を完全なまでに昇華させたのだ。
《完全なる色彩の光剣》は暗闇を裂き、ジン達を照らしていた。
「アイリ……グレイ……行くよ」
「えぇ! えぇ! 最後までお供致しますとも!」
「私達が、ここで負けたら……皆の明日が来なくなっちゃう!」
『オォオオオォオオオ!!』
本当の最終決戦が幕を上げた。
◆◆◆
『オォオオオォオオオ』
先手を打ったのは〝深淵〟だった。
かつてコウキ達に襲い掛かっていたあの縋りつく黒い手を足元の泥から出現させた。その手は四方八方からジン達に襲い掛かった。
「ぜやぁあああああ!」
アイリがジンの加護を得た『落桜』による乱撃を繰り出し、瞬く間に縋りつく手を斬り落ちした。
しかし斬られても斬られても無尽蔵に縋りつく手が現れる。
そしてグレイはおもむろに両手を広げ、これまでのとは毛色が異なる魔法を発動し始めた。
グレイの右には白色に渦巻く球体が、左には黒色に渦巻く球体が出現しそれらを集束させた後――解き放った。
「《虚無限》」
『グォオオオオォォオオ……!』
瞬間――〝深淵〟の一部と黒い手が消し飛ばされた。
グレイは全属性を組み合わせて生まれた無限の力と反対に全属性を取り除いて生まれた虚無の力を収束し、恐るべき質量と全てを削り取る相反する力を解き放った。
これはグレイの《魔力操作》と《魔力調和》によるものであり、本来なら消滅してしまうはずの〝有〟と〝無〟の矛盾した力を扱うことを可能にしたのだ。
その結果として〝深淵〟の胴体にはぽっかりと空いた穴が空き、周囲の黒い手は泥ごと何処かへ消し飛ばされたのだった。
〝深淵〟は苦しそうなうめき声を上げた。しかし空いた穴を埋めようと再び泥を発生させようとした。
――その時〝深淵〟を照らす光が暗闇の中に顕現した。
「――光よ!!」
ジンが膨大な光を放つ剣を頭上から振り下ろし、膨大な光の奔流を解き放った。
神々しい光が〝深淵〟の身体を包み込み、やがてその光は後方で巨大な光の柱を天に昇らせた。
体を再生させている最中の〝深淵〟は為すすべなく飲み込まれてゆき、光が纏わりついていた泥を吹き飛ばした。
〝深淵〟はたまらず叫び声を上げる。
『ア、ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』
光が晴れると、そこにはまるで人間のような腕の部位が見え、顔の穴からは嘆きとも取れる叫び声と僅かにノイズが取り除かれた声が漏れ出した。
泥が取れた部位から見える腕はまるで陶磁器のように綺麗で、女性の腕のようだとジン達は感じていた。
しかし僅かに見えた腕も即座に泥に覆われ隠れた。それと同時に僅かなうめき声を上げたかと思うと再びノイズ交じりの声に戻り、邪悪な魔力を集め始めた。
『ワ、我ハ不滅……! 我ハ、不滅デナケレバナラナイ……! 貴様ハ、邪魔ダ!』
そう言ってジンに向けて人差し指を向けた。指先には濃密な死の気配が纏わりついており、それはまるでジンの両親の死因となったあの魔法に似ていた。
「ジン様ーッ!」
「ジン!!」
「……」
アイリとグレイはジンに呼びかけるが、ジンはその場に立ち尽くしたままただ剣を握りしめ〝深淵〟だけだった。
やがて〝深淵〟の手に死の魔力が収束し……それは解き放たれようとした
『《死別ノ宣「《完全沈黙》」……!!?』
――しかし死の宣告は完全なる沈黙によって閉ざされ、不発に終わった。
〝深淵〟が慌てふためくようにして混乱しているが、ジンは徐々に距離を詰めていき、〝深淵〟に向かって跳びあがった。
『……ッ!!?』
〝深淵〟はジンが飛び掛かってくるその光景に嘗てのジンの父、コウキの面影を浮かべていた。
そしてジンはコウキと同じように〝深淵〟に剣を突き立て――告げた
「《一度きりの奇跡》」
――周囲、周囲は眩いばかりの光に包まれた。




