その438 ~一筋の涙~
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クロ子が怪力の戦鎚使い、【三十貫】に止めを刺し、【百足】との戦いに参加した丁度その時。
深淵の妖人の紅一点、【言の葉】は、彼らの後方で必死に自分の身を守っていた。
【さ、下がりなさい! どこかに行って!】
彼女の固有魔法は強制暗示。魔力を乗せた言葉を発し、それを聞いた全ての人間を意のままに操れるというものである。
声さえ届けば、どれだけ人数がいようと関係ない。
十人に届けば十人が。百人に届けば百人が。千人に届けば千人が。それぞれ彼女の言葉に従い、「後ろを向け」と言われれば後ろを向き、「眠れ」と言われれば、その場で眠りにつくのである。
これがどれだけ規格外の能力であるかは言うまでもないだろう。
いくつかの問題点としては、消費する魔力量が大きい事と、自分では能力のオンオフが出来ない。そして声の届く位置にいれば味方も影響を受けてしまうという事くらいだろうか?
深淵の妖人達の中でも、ずば抜けた力。
こと人間に対しては、ほぼ出来ない事がない、無類の力。
それが【言の葉】の固有魔法、強制暗示なのである。
繰り返すが、彼女の強制暗示は自分の言葉に従わせるという能力である。
その性質上、当然ながら、声の届かない離れた位置にいる相手や、耳が聞こえない相手には効果がない。
そう、それは、耳は聞こえるが言葉が理解出来ない相手に対しても、同様に効果を発生しないという意味でもあったのである。
「ウワンワン! ワンワン!」
【どこかに行って! どこかに行って!】
【言の葉】は護身用の細身の剣を振り回し、迫り来る犬達を追い払おうと必死になっている。
彼女を襲っているのは、黒い猟犬隊の犬達。
水母の手術を受け、額に魔力増幅器を埋め込まれた彼らは、亜人達と会話が出来るようになっている。
しかし、それはお互いに翻訳の魔法を使っているためであり、犬達が人間の喋る言葉を理解出来るようになったという訳ではないのである。
【言の葉】の固有魔法が通じるのは、言葉の通じる人間相手だけ。
犬にはその能力が通用しないのだ。
そしてこの中で唯一、黒い猟犬隊の指揮を任されたウンタだけは、さっきから【言の葉】の命令を受けては遠くに去り、我に返ってはまた戻って来るという行動を繰り返していた。
『ウンタ。ここはアッシらに任せて、アンタは離れていた方がいいんじゃないですかい?』
「いや、俺はクロ子から黒い猟犬隊を指揮するように言われている。途中で任務を投げ出す事は出来ない」
黒い猟犬隊の実質的なリーダー、ブチ犬マサさんは、ウンタに気遣いの言葉を掛けたが、真面目なウンタは頑として聞き入れなかった。
マサさんは『単に黒豚の姐さんは、ウンタが人間で敵の女の魔法に従ってしまうのを忘れてただけなんじゃないかな』と思ったが、ウンタの真剣な表情に言い出す事が出来ずにいた。
「なんだ? マササン」
『・・・何でもありやせん』
マサさんはウンタを説得するのを諦めると、仲間の攻撃に加わった。
黒い猟犬隊がクロ子から命じられていたのは、【言の葉】を戦いの場に近づけない事。
だが、マサさんはこのまま始末してしまおうと考えていた。
(どうやらこの人間の女は、ウンタ達や黒豚の姐さんにとって、かなり厄介な相手らしい。だが、我々黒い猟犬隊にとっては、全く脅威ではない。一応は武器を持っているから、ウサギや鹿を狩るみたいに簡単にはいかないが、熊を相手にするよりは全然容易い。黒豚の姐さんが他の敵を殺してこちらに来る前に、我々で始末してしまえばいい)
そうすればクロ子も自分達を認め、褒めてくれるだろう。
群れのリーダーに認められる。それは犬の本能を十分に満たす非常に魅力的な想像だった。
ちなみに、クロ子がマサさん達に【言の葉】を引き留めるように命じた――殺してしまうように命じなかった――のには理由がある。
クロ子は黒い猟犬隊の犬達が人間を殺すのをあまり好まない。
それは犬達にとっては、戦いとはイコール、狩りの事であり、狩った獲物は全員で食べるのが当たり前なためである。
クロ子は自分の目の届かない所で、黒い猟犬隊の犬達が人間を殺し、その肉を食べてしまう――人間の肉の味を覚えてしまう――のを危惧したのである。
【いい加減――あっ!】
一匹の犬が【言の葉】の足に噛みつくと、彼女は痛みに膝をついた。
犬達はチャンスと見て、一斉に彼女の足や服に噛みついた。
「グルルルル・・・ウウウウ」
「ガウッ! ガルルルル!」
【キャアアアアア! イヤ! 誰か助けて!】
「分かった」
助けろという命令にウンタが駆け付け、【言の葉】を守ろうとする。
しかし狩りに興奮している犬達はその程度ではひるまない。
彼らはウンタの攻撃を掻い潜り、【言の葉】の手足に噛みついた。
生きながら獣に食い殺される恐怖に、【言の葉】は悲鳴を上げた。
【痛い! 痛い! イヤアアアアア!】
「おいおい、何だよコレ。もう全部終わっちまいそうな感じじゃねえか」
その時、殺伐とした場面に不似合いな呑気な声が響いた。
興奮していた犬達ですら、思わずその場を飛び退いてしまう程の濃厚な殺しの気配。
そこに立っているのは槍を担いだ隻眼の男。【今サッカーニ】こと槍聖サステナであった。
サステナはここまで走って来たのだろう。荒い呼吸を整えながら辺りを見回した。
彼の視線の先。巨大な戦鎚のすぐ横で冷たい躯を晒しているのは【三十貫】か。
刺又を持った傭兵団に取り押さえられながら暴れているのは【百足】。
彼らの足元には角の生えた黒い子豚、クロ子がいる。
あちらもそろそろ決着が付きそうな雰囲気だ。
サステナの視線は、膝をついた少女――【言の葉】の上に戻って来た。
【言の葉】が黙り込んだ事で、ウンタはハッと我に返った。
「しまった。俺はまたコイツの言葉に従わされていたのか」
ウンタは慌てて【言の葉】の側から逃げ出した。
だが、【言の葉】はそんなウンタに見向きもしなかった。彼女は痛みも忘れた様子で、サステナの姿を――彼の槍の穂先に括り付けている物を、一心に見つめていた。
それは切り落とされた人の頭だった。
長い髪を紐代わりにして槍に括り付けられている。
ここからは角度が悪く、顔は見えないが、頭頂部から後頭部にかけて大きくへこんでいるのが分かる。おそらくその怪我が死因だったのだろう。
ひょっとしてあれは・・・いや、そんなまさか。
最悪の予感に【言の葉】は眉間に皺を寄せた。
「おう、ウンタ。せっかくはるばるここまで走って来たんだ。そっちの手柄は俺に譲っちゃくれねえか?」
「構わないが・・・お前も【言の葉】の能力は知っているだろう? 十分に気を付けろよ」
サステナは、「はんっ。分かってるって」と返事を返すと、無造作に槍から頭部を引き抜いた。
地面に落ちた頭が、その拍子にゴロリと転がり、血の気の失せた青白い顔が露わになる。
【いやあああああああああああああ!】
その瞬間、【言の葉】の絶叫が辺りに響いた。
生首は深淵の妖人、【手妻の陽炎】のものだったのである。
ウンタは【言の葉】の反応を見て、初めて、転がっているのが人間の頭だと気が付いたようだ。
ここでは月明かりだけで戦っていたため、槍に括り付けられた物をただの荷物だと思っていたのである。
「サステナ、この頭は?」
「おうよ。俺とクロ子が殺した【手妻の陽炎】のモンだ。体の方は岩に押し潰されてぐちゃぐちゃになっちまったが、頭だけはホレこの通り。見ての通り原形をとどめてたんで、討伐の証拠として切り落として持って来たって訳だ」
ちなみにその場でクロ子にも見せたが、彼女は『うげっ』と顔を歪め、尻を向けてしまった。
サステナはクロ子の言葉は分からないが、『いらない』と言われたと判断して、自分が頂く事にしたのである。
ウンタは正直、これが【手妻の陽炎】の頭と言われても良く分からなかった。
彼の記憶力云々の話ではなく、死体の顔からは目玉が(頭部に受けた衝撃のせいで)失われ、生前とはかなり印象が変わっていたからである。
【あ・・・ああ・・・】
だが、いかに変わり果てた姿とはいえ、【言の葉】が【手妻の陽炎】の顔を見誤るはずはなかった。
彼女は傷の痛みも忘れ、震える足で立ち上がった。
【お前・・・お前が、【陽炎】をやったのか・・・彼の命を・・・】
「サステナ、様子が変だ。気を付けろ」
「関係ねえよ。イヤャオッ!」
サステナは一足飛びに距離を詰めると、裂ぱくの気合と共に槍を突き出した。
【言の葉】には口にするのを禁じている言葉がある。
それは相手に死を命じる言葉である。
強制暗示の能力の欠点。自分が気が付かない所で、どこかで仲間が自分の言葉を耳にしているかもしれない。それを考えると、直接的に死を命じる言葉は怖くて口に出来なかったのである。
言葉さえ届いてしまえば、確実に相手を殺してしまうという危険過ぎるその行為。日頃は固く自分に戒めているその行為を、この夜彼女は、愛する男の命を奪った憎悪すべき相手に向けて解き放った。
【死にな――グフッ!】
だが、彼女の言葉は一瞬の差で届かなかった。
銀閃が月明かりに閃き、神速の突きが【言の葉】の胸を貫いた。
ガツン!
「むっ?!」
サステナは眉をひそめた。
槍の柄から伝わる異様な手応え。それは肉を貫き、骨を断つ物ではない。まるで硬い金属の鎧を貫いた時のような異質な感覚だった。
その違和感に彼は驚き、一瞬とはいえ動きを止めてしまった。
【言の葉】はこのチャンスを逃さなかった。
激痛の中、彼女は口から血泡を吹きながら、絞り出すようにして禁忌の言葉を放った。
【・・・死に、なさい】
ついに禁断の言葉が解き放たれた。
サステナは黙って槍を引き抜いた。
その姿に【言の葉】は復讐がなされた事を確信した。
後は自分の命が尽きる前に、この憎き相手が――彼の仇が自らの命を絶つのを見届けるだけ。
【言の葉】は暗い笑みを浮かべた。
サステナは槍を構え直すと――
【言の葉】の喉を貫いた。
【ゴフッ・・・ブフッ】
口から大量の血が溢れ出し、スカーフを真っ赤に濡らす。
【言の葉】は信じられない思いに驚愕の表情を浮かべていた。
なぜ、コイツは私の言葉に従わない。なぜコイツは死のうとしなかった。
【言の葉】は気付いていなかった。サステナの後ろで同じ言葉を聞いていたはずのウンタも、青い顔をしているだけで自殺に動く気配がない事を。
サステナが放った先程の一撃。彼女の胸を刺し貫いたあの一撃が、彼女の魔力の発生源であり、強制暗示の効果の源である体内に埋め込まれたインプラントに突き刺さり、破壊していたのである。
インプラントの機能が止まった結果、彼女の言葉には魔力が乗らなくなり、ただの命令、普通の言葉になってしまったのであった。
(・・・【陽炎】、ごめんなさい。私、あなたの仇を討ってあげられなかった・・・)
薄れて行く意識の中、最後に彼女は愛した男の生首を見つめた。
【手妻の陽炎】の首は何も語らない。その表情が抜け落ちた虚ろな顔は、彼女がこれまで幾度となく仕事で見続けて来た死体と同じものであった。
(・・・こんなことになるなら・・・嫌われてもいいから・・・自分の気持ちを伝えておけば・・・よかった)
少女の頬に一筋の涙が伝った。
それは痛みによるものでもなければ、悲しみによるものでもない。
それは後悔の涙だった。
次回「メス豚とツンデレおじさん」




