その435 メス豚、文句を言われる
◇◇◇◇◇◇◇◇
【手妻の陽炎】は槍聖サステナの無防備な背中に向かって走り出した。
「ば、バカ野郎! く、来るんじゃねえ!」
サステナは崖の途中。地面からまだ2メートルほどしか登っていない。
慌てて振り返って叫ぶが、【手妻の陽炎】に敵の言葉を聞いてやる義理は無い。
サステナの目が死の恐怖に見開かれる。
その時だった。
【手妻の陽炎】は背筋が凍り付くような殺気にハッと息を呑んだ。
(この殺気! あの化け物もこの場にいたのか?!)
この恐怖。忘れるはずもない。あの化け物が――クロ子が――こちらを狙っている。
【手妻の陽炎】は咄嗟に固有魔法を発動。と同時に大きくサイドステップ。
素早く敵の攻撃の回避に移った。
【手妻の陽炎】の固有魔法は、打ち出しや点火等と同じく、現象を起こす系統の魔法に分類される。
その内容は、自分を中心に半径二十メートル程の対象の神経細胞に干渉。そこに微弱な電気信号を流す、というものである。
それによって対象の筋肉は収縮する。
つまり彼の魔法は、相手の筋肉を収縮させる魔法、と言い換えてもいいのかもしれない。
筋肉を収縮させる、とは言ったものの、【手妻の陽炎】の魔力量で干渉出来るのはほんの微々たるサイズでしかない。
腕や足を動かすような大きな筋肉は勿論のこと、指の筋肉ですら彼の手には余る。
しかも効果時間は、一秒にも満たないほんのわずかな時間。
こんな能力が一体、何の役に立つのだろうか?
いや。彼が必要とする筋肉に対しては――眼球の筋肉に対しては、これでも十分なのである。
目で物を見る仕組みはカメラに似ている。
目に届いた光は、先ずは虹彩という”絞り”でその量を調節される。その後、水晶体という”レンズ”を通り、網膜という”フィルム面”に像を結ぶ。その電気信号が脳に伝達される事で我々は物を見る事が出来るのである。
【手妻の陽炎】の固有魔法は、この水晶体の厚みを変えるための筋肉――毛様体筋という――に対して作用する。
敵が攻撃を仕掛けようとするその瞬間。【手妻の陽炎】が魔法を発動すると、敵の眼球内の毛様体筋は電気信号を受け、筋収縮する。収縮した筋肉は水晶体の厚みを増し、その結果、敵は不意に至近距離にピントが合わされたような形となる。
このタイミングで【手妻の陽炎】が素早く動けば、敵の目が再びピントを合わせた時、敵の目からは、まるで【手妻の陽炎】が瞬間移動でもしたかのように感じられるのである。
これが【手妻の陽炎】の術の正体。彼が得意とする手品のトリックであった。
規格外の固有魔法を持つ深淵の妖人達。その中で一番魔力に劣るのは、間違いなく【手妻の陽炎】だろう。
しかし、剣の達人である彼にとって、敵との駆け引きの場において絶大な効果を誇るこの魔法は、願ってもない力。正にチートそのものと言っても良かった。
【手妻の陽炎】は、最小にして最強のこの力を手に入れた事によって、”達人殺し”の名で呼ばれるまでになったのであった。
【手妻の陽炎】は固有魔法を発動すると大きくサイドステップ。
これで化け物が――クロ子が――どんな攻撃を仕掛けていたとしても、完全にその間合いを外した事になる。
とはいえ、彼の固有魔法の原理上、敵の攻撃自体を無かった事に出来る訳ではない。たまたま避けた方向に敵の攻撃が飛んで来た。そういう可能性は十分に考えられる。
しかし、そんな死に体の攻撃にやられる程、【手妻の陽炎】はヤワではない。
咄嗟に躱すなり受けるなり、いくらでもやりようはあるのである。
【手妻の陽炎】は、化け物の攻撃に備えて、サッと辺りを見回した。
(どこだ? どこから攻撃してくる?)
その直後だった。
彼は頭頂部に大きな衝撃を受けた。
ゴツンという鈍い音と共に目の奥で真っ白な火花が散った。
不意の一撃に、【手妻の陽炎】は瞬時に意識を刈り取られた。
そして永遠に目覚める事はなかった。
剣の達人。チート魔法の使い手。達人殺し。
【手妻の陽炎】のあまりにあっけない最後であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ズドドドン!
大きな音を立てて巨大な岩の数々が地面に落下した。
極み化した最大打撃の魔法で、ここから――崖の上から落っことした岩である。
その数全部で五つ。そのうち一つが【手妻の陽炎】の頭に命中。そのままヤツを地面に押しつぶした。
改造生物、【手妻の陽炎】の固有魔法が何であれ、こうなってしまえば流石に無事では済まないはずだ。
ご愁傷様。
『それにしても、一時はどうなるかと思ったわい』
私はブヒっとため息をついた。
ゴッドの娘の命を狙って来た、深淵の妖人達。
私は彼らの中で最も手強い敵、【手妻の陽炎】を、真っ先に始末する事に決めた。
なんでって? ヤツがいる限り、こっちの攻撃が当たらないからだよ。
実際、さっきも私は攻撃の瞬間、【手妻の陽炎】の姿を見失っていた。
だが、いかに私が姿を見失っていようが、複数の大岩による範囲攻撃からは逃れられない。
面制圧は砲撃の基本。なまじ狙ったりするから外されるのだ。
哀れ【手妻の陽炎】は大岩の下敷きとなり、この世を去ったのであった。
そう。結局私は【手妻の陽炎】の固有魔法の正体を――ヤツの使う手妻の種を――見破る事は出来なかった。
分かっているのは、こちらが攻撃を仕掛けたり、防御や回避をしようとすると、ヤツは魔法を発動する。するとこちらは相手を見失ってしまう。攻撃は当たらないし、防御や回避は失敗してしまう。
これがどれだけ厄介か。
例えて言うなら、こちらだけクソラグいオンラインゲームを戦わされているようなものだ。
命中判定はガバガバ。敵キャラはあちこちにワープする。こんなもんクソゲー待ったなし。ストレスマッハで禿げ上がるってもんだ。
私が真っ先に【手妻の陽炎】を始末しようと考えた理由である。
『それで言うなら、自分の言葉に相手を強制的に従わせる【言の葉】も大概厄介なんだけど・・・あっちは【手妻の陽炎】程自由に能力を使える訳じゃないみたいだし』
強力な魔法はその分だけ魔力の消費も大きくなる。
それに【言の葉】の魔法には対抗策がある。やはり優先的に狙うべきは【手妻の陽炎】の方だろう。
私は【手妻の陽炎】に不意打ちを食らわすべく、この場に罠を張った。
罠を張る、と言っても、下から見えないように、崖の上に大岩を準備しただけなんだけどな。
後は敵をここまで引っ張って来るだけ。その役目は槍聖サステナにお願いした。
サステナなら上手くやれそうだし、最悪、やられたとしても私達は別に困らな――ゲフンゲフン。
実際、彼はちゃんとここまで誘導して来てくれた訳だし、全ては計画通り。私の目に狂いはなかったという訳だ。
唯一、予想外だったのは、いきなりサステナが【手妻の陽炎】と戦い始めた事ぐらいか。
打ち合わせだと、すぐに崖を登って私と合流するはずだったのだが・・・どうやら強敵を前にしてたぎる血が抑えきれなかった模様。
このバトルジャンキーめ。
一瞬、マジで【手妻の陽炎】共々、大岩の下敷きにしてやろうかと思ったわ。
まあそれでも最初の攻防で即座に不利を悟ったらしく、その後は計画に従う事にしたようだが。
ところがどっこい。ここで想定外の事態が起きた。
どうやら私の見立てよりも傾斜が険しかったみたいで、サステナは中々崖を登って来れなかったのだ。
この件に関しては完全に私のミスなので、上手い具合にサステナを避けて岩が落ちるよう、調整してやった。
あっさり勝ったので楽勝のように見えたかもしれないが、色々な所で、結構、ギリギリの勝利だったのである。
その時、山の中に犬の遠吠えが響き渡った。
おっと、いかん。のんびり戦いの回顧なんぞをしている場合じゃなかった。
今宵の戦闘はまだまだ続いている。深淵の妖人は残り三人。別動隊の中から犠牲者が出る前に急いで駆け付けないと。
私は『風の鎧!』。身体強化の魔法をかけると、崖の上からヒラリと飛び降りた。
サステナは未だに目を丸くして背後の岩を見つめている。
彼は私の姿にようやく我に返ったらしく、血相を変えるとこちらに詰め寄った。
「おい、クロ子! 確かに岩を落とすとは言われていたが、こんな馬鹿デカい岩だとは聞いてねえぞ! 危ねえだろうが! 潰されたらどうしてくれんだ!」
だから、当たらないように落としたんじゃん。
大体、掠ってすらいないのに、そんな風に文句を言われても知らんし。
私はサステナを引き連れて山の中を走った。
サステナはさっきの大岩の件が余程腹に据えかねているのか、さっきからずっとブツブツ文句を言っている。
弟子もいっぱいいる達人のくせに、案外、ケツの穴の小さい男だな。
『ケツの穴の小さい男だな』
「いくら謝ったってダメだ。絶対許さねえ。いくら俺が槍の天才でも、あんな大岩に潰されたら死んじまってた訳だからな」
『ケツの穴の小さい男。ケツの穴の小さい男』
「だから謝ったって無駄だって言ってんだろうが」
人間であるサステナには私の言葉が分からない。だから私はせいぜい反省しているように聞こえるよう、声のトーンだけ気にしながら、適当に受け答えをしていた。
私の背中でピンククラゲがフルリと震えた。
『前方確認』
『おっと、あれは胡蝶蘭館へ続く山道か。ここまで来たら、サステナも迷子になったりしないでしょ。それじゃ、先に行ってるから』
「お、おい、待て! 待てってクロ子!」
ケツの穴の小さい男が何やら慌てているけどスルーで。
私は加速すると、戦いの現場へと急行したのであった。
次回「メス豚、参戦する」




