その399 ~貧民区画のとある一室~
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ランツィの町の一角。
粗末な作りの古びた建物が立ち並ぶ、最も古く作られたこの一帯は、今では主に町の低所得者が住む区画となっている。
通称、貧民区画と呼ばれているこの場所に足を踏み入れた者は、通りのあちこちに佇む女性達の姿を――売春婦達の姿を目にする事になるだろう。
また、通りに面した店に並んでいる雑多な商品の数々。これらは、出所も定かではない盗品や禁輸品の類と言われている。
売春、そして盗品の売買とくれば、当然、犯罪組織が放っておく訳もない。
今ではこの狭い一角だけで、いくつもの犯罪組織が入り乱れる、町の危険地帯となっていた。
そんな貧民区画の通りを一人の中年男性が歩いていた。
キッチリと整えられた髪。決して高価ではないものの、清潔感のある服装。
ひと目で裕福な生活を送っている者――この区画に住んでいる人間ではないと分かる姿である。
実際、男は町の中心部に住んでいる一般市民だった。
とはいえ、彼のような者はこの区画ではさほど珍しくはない。
町の危険地帯とはいえ、中には一夜の快楽のために女を(中には男を)買いに来る者もいれば、盗品の中から掘り出し物を探しに来るような、山師崩れの商人の姿もある。
この中年男性は、一体何を目的にこの区画に足を踏み入れたのだろうか?
男はあちこちの店に並べられた商品には目を向けず、声を掛けて来る売春婦も振り切り、ただひたすらにどこかに向かって歩いている。
やがて周囲から人通りも途切れた頃。男の前に目的となる建物が現れた。
何の変哲もない古びた建物だ。窓は全て締め切られていて、中の様子をうかがい知る事は出来ない。
男はサッと周囲を見回すと、人目がない事を確認した。
「ん?」
その時、男の顔に怪訝な表情が浮かんだ。
何かの異変に気付いたのだろうか? その目はジッと背後の建物の屋根の上を見つめている。
やがて屋根の向こうから、大きなハトが一羽現れると、羽根をはばたかせながら男の頭上を通り過ぎて行った。
「・・・気にし過ぎか」
貧民区画という事で、不必要に気を張り詰めていたようだ。
男は自嘲気味の苦笑を浮かべると、素早く建物の中に足を踏み入れたのだった。
「お前か。俺達が捜しているヤツらの居場所の情報を持って来たってヤツは」
そこは建物の外観からは想像もつかないような豪華な部屋だった。
目もくらむような高価な調度品の数々は、貴族の屋敷もかくやと思われる。
中でも目を引くのは、部屋の真ん中に据えられた、樹齢数百年の大樹から削り出された大きなテーブルである。
そのテーブルで左右に女を侍らせながら、昼間から酒を飲んでいるこの男。
明らかに堅気ではない。
広い肩幅に太い手足。潰れた顔には大きな刀キズが走っている。
この顔に睨まれただけで、町のチンピラなら十分に威圧されそうだが、特に異質なのは男の醸し出す独特の”凄み”である。
例えて言うならば、達人クラスの武人にも通じる威圧感。
「もしもそいつがガセだったら・・・分かってるよな?」
「も、勿論ですよ、ヴァロミットさん」
そう。それは人殺しの持つ気配であった。
ヴァロミットのひと睨みで、中年男性の顔は青ざめ、舌は恐怖で引きつった。
震える男の姿に納得したのか、ヴァロミットは話を促すように酒のカップを傾けた。
「ファミリーが捜していた例の亜人の兄弟。それらしい者達が私の神殿に現れたのです」
「! ――詳しく話せ」
男はヴァロミットの左右の女達に目を向けた。彼女達に話を聞かせてもいいのか? そう言いたいのだろう。しかし、ヴァロミットが何も動かないのを見て、諦めたように話し始めた。
「つい先ほどの事です。メラサニ山に住む亜人達が二十人程、タイロソス神殿に現れました。彼らを案内して来たのは、南門の通りで店を構えているザボという商人です。その商人が言うには、亜人達の中にタイロソスの信徒になる事を望む者達がいたので、連れて来たとの事でして。その中に例の亜人の兄弟と思わしき二人もいたのでございます」
「・・・・・・」
ヴァロミットが黙ってドアを指差すと、女の一人が席を立ってその外に消えた。
おそらく外にいる部下に今の話を確認させるために向かったものと思われる。
「それで? 亜人の兄弟は今、どこにいる?」
「あ、はい。それでしたら、ウチで働いている教導者と一緒に、先程言ったザボの店におります。これから打ち合わせをするとの事でしたので、おそらく今夜はそのままザボの店で一泊するのではないでしょうか? いくら亜人村がこの国に認められたとはいえ、町に亜人を泊めるような宿があるとは思えませんので」
「ほう。タイロソスの教導者――傭兵か」
大モルト軍から監督官として派遣されたマルツォ・ステラーノは、亜人達の村がこの国の国民として認められたと町の者達に告知した。
しかし、それだけで亜人に対する偏見や差別が直ぐに消えてなくなる訳ではない。
他の客とトラブルになるのが分かっていて、亜人達を、それも二十人以上もの亜人を泊めてくれる宿がこの町にあるとは思えなかった。
「二十人以上となるとちと厄介だが――その教導者以外は素人の集まりって訳だな。おい」
ヴァロミットが再びドアを指し示すと、残っていた女が立ち上がり、その外に消えた。
今度は一体何の指示が出されたのか。タイロソス神殿の事務長は、怯えた目で女の後姿を見送った。
「そんな顔をするな。そっちの神殿には迷惑はかけんさ。いや、入信したばかりの信徒が二十人程と、そいつらを担当している教導者は今夜不幸な事故に遭うかもしれんか。だが、無駄に抵抗しなければ誰もケガをする事はない。そもそもお前には何の関係もない話だ。違うか?」
「それは――あ、はい、左様で」
その言葉だけで、タイロソス神殿の事務長は、ヴァロミットの意図を察した。
彼が捜している亜人の兄弟。二人の身柄を確保するために、今夜、ザボの店を襲うつもりなのだろう。
事務長は、彼らファミリーが情けも容赦もない、危険な集団である事を良く知っていた。
ヴァロミットは、抵抗をしなければケガをする事はないと言ったが本当だろうか?
今日、会ったばかりの亜人達はともかく、教導者の男は彼の部下で、仕事の関係で何度か話をした事がある。
元王都騎士団員らしく、タイロソスの信者には割と珍しいタイプの、真面目で実直な男だった。
「そんなにシケたツラをするな。そうそう、コイツは今回の情報料だ」
ヴァロミットはそう言うと、テーブルの上の箱を開けて無造作に手を突っ込んだ。
箱から出て来た手には、光を放つ貴金属の品々――金銀細工のアクセサリーの数々が握られていた。
そちらの方面に詳しくなくとも、瀟洒デザインと作りで高価な品である事はひと目で分かったし、そこにはめ込まれた宝石もかなりの値打ち物である事は明らかだった。
ヴァロミットが大きな手を開くと、そんなお宝の数々がバラバラとテーブルの上に散らばった。
「女共に渡そうと思って用意させたが、今、手元にあるのがこんなモンでスマンな。嫁さんにでもプレゼントしてやってくれ。ああ、愛人がいるならその女に渡すのもいいかもしれんな」
「あ、愛人なんてそんな者はおりませんから。つ、妻も喜びます」
タイロソス神殿の事務長は、興奮に頬を染めながら慌てて高価な報酬を拾い集めた。
この瞬間、彼の心からは、先程感じていた罪悪感はきれいさっぱり消えてなくなっていた。
タイロソスの事務長が部屋から出て行くと、入れ替わりに黒服の男が入って来た。
まるで感情をどこかに置き忘れたような、冷たい雰囲気の男。
ヴァロミットが最も頼りにしている男で、その名は誰も知らない。その冷酷非道な仕事ぶりから、仲間内では【死神】の名で呼ばれていた。
死神は無表情に「手配を終えました」とだけ告げた。
「そうか。何人ぐらい行けそうだ?」
「腕の立つ配下だけで固めるなら三十人程。そこらのザコも入れて構わないのであればその五倍から六倍といった所でしょうか」
「ふむ・・・」
ヴァロミットは顎に拳をあてて思案顔になった。
「確か、例の大モルト軍の監督官。七将の孫とかいうヤツは、まだ王都から帰って来ていないんだったな?」
「はい。ですが、町に残った副監督官のベルデも中々厄介な男と聞きます」
「ならばあまり派手に動く訳にはいかねえか・・・。よし、その腕の立つヤツらだけ連れて行け。目的は亜人の兄弟。コイツらは絶対に生け捕りにしろ。上からの命令だ」
「分かっております。それで店にいる者達はどうしましょう」
ヴァロミットは、酒のお替りを注げと言う程度の軽い口調で告げた。
「全員殺せ。店に泊まっている亜人も店員も皆殺しにしろ。その上で証拠を残さないように店に火を点けて来い」
ヴァロミットの口から出たのは恐ろしい言葉だった。
先程、派手に動く訳にはいかないと言ったのは何だったのだろう? これで派手でないなら、派手に動けば一体どうなるのだろうか?
しかし死神は顔色一つ変える事なく、ボスの指示に小さく頷いた。
「やれやれ。これでようやくこの国からおさらば出来るってもんだ。亜人共め、余計な手間をかけさせやがって。アゴストファミリーを舐めた罪。あの世で思い知るがいいさ」
ヴァロミットはそう言うと機嫌よく酒のカップをあおった。
死神は黙って踵を返したが、ドアに手を掛けたその瞬間、不意に鋭く周囲を見回した。
「どうした? 死神」
「あ、いや。単なる気のせいだったようです。・・・誰かの視線を感じた気がしたんだが」
最後の言葉は死神の口の中で呟かれたため、ヴァロミットには届かなかった。
死神は小さくかぶりを振ると、今度こそ部屋を後にしたのであった。
次回「メス豚とアゴストファミリー」




