その33 メス豚と倉庫の火事
農作業の手を休めて村外れを見つめるパイセン。
その視線の先には今にもひと雨来そうな曇天に立ち昇る一筋の黒い煙があった。
「あっちは倉庫がある場所か。ちょっと様子を見て来るよ」
「私も行くわ」
パイセンとモーナは急いで道具を片付け始めた。
「いや、クロ子も来いよ」
パイセンは鼻面であぜ道の雑草を掘り返していた私をヒョイと抱え上げると速足で歩き出した。
おー、楽ちん楽ちん。
運転手さんそこを右にお願いします。
「あんな所で何を食べてたの?」
モーナが私の顔の土を拭いながら不思議そうに聞いて来た。サーセン。
う~ん。何って、草とかダンゴムシとか?
「うげっ。マジかよ」
私の返事を聞いて思わず想像してしまったのだろう。パイセンが顔をしかめた。
パイセンはここは小声で「てか、そんなの食って平気なのか?」と尋ねて来た。
彼は私が転生者だと知っているからな。
自分と同じ元現代人がそんなのを食べているのが信じられないんだろう。
とはいえ、今の私はメス豚だしなあ。
『まあ何となく? 土ごと食べてれば気にならないし』
「ぐはっ! お前ワイルド過ぎるだろ」
ショックを受けるパイセンだが、そんなの気にしてたら豚としてやっていけない。
パイセンも一回豚に転生してみればいいよ。生きるためには食事のえり好みは出来ないって分かると思うから。
そんな会話をしている間に、私達は今も燃えている倉庫に到着したのだった。
倉庫は思っていたよりも大きな建物だった。
まあこの世界は熊とか雄鹿とか結構な大きさだからなあ。
中で色々と作業をすると考えると、このくらいの大きさは必要なのかもしれない。
木で作られた倉庫はもうもうと黒煙を上げながら今も焼け続けている。
五~六人の亜人の男達が懸命に土をかけて火を消そうとしているが、焼け石に水。火の勢いは一向に収まる気配がない。
ていうかスゴイ煙の量だな。火事の現場なんて初めて見たけど、こんなに煙が出るものなんだ。
熱気と煙でこの距離でも息苦しいくらいだ。
狩りの獲物を保存しておく倉庫って聞いていたから、もっと焼き肉屋のような匂いがしているのかと思ってたけど、そうでもないようだ。
「ククト! お前達の他には誰も来ていないのか?!」
「いや、俺とモーナだけだ」
「くそっ! 二人とも手を貸せ! 中に子供が取り残されているんだ!」
「?! 分かった!」
パイセンは私を地面に置くと急いで消火作業に加わった。
「子供って誰だ?! 何でこんな所に?! まさかその子が倉庫に火を付けたのか?!」
「俺にも分からん! さっきまで声がしていたが、少し前から聞こえなくなった。この煙にやられたのかもしれん」
「そんな!」
モーナが悲鳴のような声を上げた。
彼らはさっきから土をかけて火を消そうとしているけど、それじゃ効率が悪いだろうに。この辺には水源はないんだろうか?
私は荒れ狂う炎の迫力にビビってしまって、彼らに近付く事すら出来なかった。
それにしても子供か。
何かイタズラでもしていて誤って火が付いたのかもしれない。
――お母さん・・・
それは消え入りそうな小さな声だった。
何故私の耳に届いたのかは謎だ。
消火作業の喧噪と炎の燃え盛る音に潰されて、本来であれば聞こえない程の極かすかな声だったのだ。
そして私はその声に聞き覚えがあった。
『ピットか?!』
「どうしたのクロ子ちゃん?」
突然叫んだ私の声に驚いて、モーナが振り返った。
けど私はそれどころじゃない。
豚の聴覚は敏感だ。私が聞き間違えるはずがない。今の声は散々聞いた覚えがある。
あれは私を見つける度にやって来ては私を構って離さない少女――ピットの声だった。
私はいても立ってもいられずに走り出した。
「クロ子どうした?!」
突然足元を駆け抜けた私に、パイセンが驚いて声を上げた。
パイセン達は煙に巻かれないように風上から消火作業をしている。
さっきの声がしたのはこっちじゃない。あっちか?!
私は自分の直感を信じて風下の方へと走った。
物凄い熱気と煙だ。
特に煙がヤバい。地面ギリギリまで立ち込めて私の視界を遮って来る。
焦げ臭い匂いで既に嗅覚はとっくにバカになっている。
もうどこをどう走っているのかすら分からなくなって来た。
このままだと生きながら燻製肉になってしまいそうだ。
『ピット! ピットどこ?! ゲホッゲホッ!』
大声で呼びかけたせいで煙が喉に入ってしまった。
私は喉の苦しみにのたうち回った。
くそっ! 何をしているんだ! バカか私は!
――お母さん・・・
! そこか?!
苦しい思いをした甲斐があったのか。私の言葉に反応して小さな返事があった。
やっぱりピットの声だ。間違いない。
周囲は煙が充満して視界は完全に塞がれている。
煙で鼻は利かないし、こうなれば頼りになるのは聴覚だけだ。
私は咳き込みながらピットの声がした方に進んだ。
ここは・・・何だ?
この倉庫には窓は無い(実際には高い位置に小さな天窓が開いていたのだが、私はその存在を知らなかった。どのみちこの煙では見えなかったと思う)。しかし目の前には地面ギリギリに小さなスリットが開いていた。
後で知った事だが、この倉庫の一部には半地下のようなスペースがあり、そこの空気穴としてこの僅かなスリットが開けられていたのだ。
ここから野生動物が入らないようにだろう。スリットは指の幅くらいしかない。
その向こうから煙と共に消え入りそうなピットの声が聞こえているのだ。
今から地面を掘る? 間に合うはずがない。
私は慎重に呼吸を整えた。
さっきの息苦しさが蘇って私の恐怖心を煽り立てる。
ビビっている時間は無い。私は無理やり自分の恐怖心をねじ伏せた。
『ピット! 壁から離れて! 今から壁を破壊する!』
慎重に声を出したせいだろうか。今回は何とか咳き込まずに済んだ。
その事に涙が出そうになるほど嬉しくなりながらも、私は一歩下がるとスリットの上部に狙いを定めた。
砕け! 最も危険な銃弾!
咳き込むので詠唱は無しで。
不可視の弾丸は狙い過たずスリットの上部に命中。
炸裂音を響かせて木の粉を舞い上がらせた。
『なっ・・・』
私はギョッと目を見開いた。
スリットの幅はほとんど広がっていなかったのである。
煙はもうもうと立ち込め、さっきから涙が止まらない。
呼吸をしているだけでも咳き込みそうだ。
火がこっちまで回って来ているのだろうか。皮膚があぶられて痛みを感じる程だ。
もうここも長くはもたないだろう。
だというのに私の魔法は倉庫の壁を破壊する事が出来なかった。
この壁の向こうにはピットがいる。
それは間違いない。
しかし、ここにはドアは無く、鼠でも通れない細いスリットがあるだけ。
くそっ! ここで諦めてたまるもんか!
最も危険な銃弾! 最も危険な銃弾!
私の魔法が連続で炸裂するものの、壁は小揺るぎもしない。
正確に言えば表面が削れているのだが、壁に子供が通れるほどの穴が空く頃には倉庫は完全に焼け落ちているだろう。
いや、その前に私の魔力が尽きるのが先か。
・・・破壊力が逃げているのか。
壁が分厚く固過ぎて、生成された空気の弾丸が壁の表面にしか届いていないのだ。
そのため爆発の威力が内部に伝わらず、ほとんどが空中に拡散しているのだろう。
もっと回転力を上げれば? いや、無理だ。
多少旋回力を上げた所でほとんど効果は無いだろう。
元々空気の塊なのだ。これ以上貫通力を上げようと思えば根本的な見直しが必要だ。そしてそんな時間は私には無い。
漫画じゃあるまいし、ぶっつけ本番で実戦レベルの新技を完成させられるほど世の中は都合よく出来てはいない。
くそっ! 最も危険な銃弾! 最も危険な銃弾!
だから私に出来るのは無駄と知りつつ魔法を撃ち続けるだけだ。
ひょっとしたら物凄い偶然か、十年に一度の奇跡が起こって壁に穴が空くかもしれない。
そんなか細い期待に全てを賭けるしかないのだ。
最も危険な銃弾! あっ・・・
既に何十発撃ち込んだか分からない。
恐竜ちゃんの息子、ボブに呆れられた私の魔力にも限界が来たようである。
私は吐き気を覚え、頭痛を覚え、嘔吐しながらも、ただひたすら魔法を撃ち続けていた。
当の昔に苦痛以外の感覚は無くなっていた。
死んだ方がマシと思えるような苦しみの中、私は意地だけで魔法を放ち続けていた。
壁には穴が空いている。そして壁の向こうにはぐったりとして動かないピットの姿も見える。
服や髪の毛に火が付いているのにピクリとも動いていない。
そういえばピットの声はいつからしなくなっていたのだろうか?
私は間に合わなかったのだ。
ちなみに穴の大きさは私がギリギリ通れる程度。
いくら小柄な子供でも流石にこの穴を通るのは無理だろう。
まあ全ては今更だが。
「馬鹿野郎! 何やってんだお前は! 死ぬつもりか?!」
不意に私は乱暴に抱きかかえられた。
この声はパイセンか?
パイセンは口元に洒落たハンカチーフを撒きつけてマスク代わりにしている。
女性向きの柄から見てあれはきっとモーナの物だな。
私はぐったりとしたままパイセンに運ばれつつも、安堵の喜びが胸に沸き上がるのを止める事が出来なかった。
死なずに済んでホッとした。もう魔法を使わなくても良くなって嬉しかった。そしてそんな自分のさもしい心が心底情けなかった。
この時、天から雨が降り注いだ。
かなりの豪雨だ。じきに倉庫の火も消えるだろう。
私の顔をしょっぱい水が伝った。
ごめんねピット。アンタを助けられなかったよ。




