その311 メス豚、参戦する
私はボンヤリと木の上で佇んでいた。
日はとっくに西の尾根の向こうに消え、空には星が瞬いている。
予定通りであれば、ウンタ達は――クロコパトラ歩兵中隊の隊員達と、マサさん達黒い猟犬隊の犬達は――敵の偵察員に追いつき、さらわれたプルナを助け出しているはずである。
あるいは、敵の足が思っていたよりも早く、追いつけずに取り逃がしているか。
『・・・・・・』
遠くに目を凝らしてみても誰の姿も見つからない。
『敵に牛トカゲさえいなければ』
探知の魔法を使う竜、牛トカゲ。
相手に牛トカゲがいる以上、私の接近は事前に察知されてしまう。
そして彼らは決して私と戦おうとはしない。私が近付こうとしただけで逃げ出してしまうのである。
・・・はあ。
私は「ブヒッ」とため息をこぼした。
その時である。
オンオン、アオーン、と群れの野犬の遠吠えが聞こえた。
それは 短く、短く、長く、短く、短く。そして短く、短く、短く。
・・―・・ ・・・。・・―・・ ・・・。・・―・・ ・・・。
『トラ、トラ、トラ』
その意味は『ワレ奇襲ニ成功セリ』。
マサさんと事前に決めていた合図だ。
来た!
彼らが――黒い猟犬隊がやってくれたのだ!
私は勢い良く立ち上がった。
『水母、行くわよ! 風の鎧!』
『了解』
私は身体強化の魔法を発動。一陣の漆黒の疾風と化して、暗い森の中を駆け抜けたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
法王国の傭兵団、ヤマネコ団とクロコパトラ歩兵中隊の亜人達の戦いは、予想外の様相を呈していた。
「ワンワン! ワンワン!」
「くそっ! 邪魔だ犬ッコロ!」
「今だ!」
足元で吠える犬に思わず気を取られた傭兵に、クロカンの隊員が切りかかる。
「バカ野郎! テメエ何やってやがる!」
そこにヤマネコ団の幹部クラス、二刀流の湾刀使い、二丁剣のルッティが援護に入った。
クロカンの隊員は慌てて引きさがる。
そんな彼にバディの隊員から声がかかった。
「気を付けろ! その両手に剣を持っているヤツは手強い! まともに相手をしようとするな!」
「わ、分かってる!」
ルッティは「ちっ」と舌打ちをした。
彼は湾刀を構えて前に出ようとしたが、その背に仲間からの救援要請が入った。
「ルッティ、頼む! こっちに手を貸してくれ! も、もうもたねえ!」
「くそが! 確かに俺は二本の手で剣を操るが、だからって二つの場所で同時に戦える訳じゃねえんだよ!」
ルッティは泣き言を言う仲間を腹立たしげに怒鳴り付けた。
とはいえ、流石に見殺しにする事も出来ない。
彼は三匹の野犬に取り囲まれている仲間の下へと走ったのだった。
一時は完全にヤマネコ団の勢いに押されていたクロカンの隊員達。
しかし、マサさん達、黒い猟犬隊が縦横無尽に戦場を駆け巡るようになってからは、状況が変化していた。
「グルウウウ! グウウウ!」
「こ、このワン公め! 寄るな! ギャッ!」
「何をやっている! しっかりしろ!」
ズボンの裾を犬に噛みつかれていた男が、木の根につまづいて倒れそうになった。
紅い手槍の傭兵が――朱槍のマンツォが、男の腕を掴んで強引に立たせる。
「こんな場所で倒れたらやられるぞ!」
「痛てて、す、済まねえマンツォ。亜人のヤツらめ、どうやればただの犬ッコロをこんな風に訓練出来るんだ?」
それこそがヤマネコ団の傭兵達が苦戦している最大の理由。
犬達はまるで亜人達の言葉が分かるかのように、彼らの指示に的確に従い、傭兵達に襲い掛かって来るのだ。
傭兵達は知らない。彼らがただの犬の群れだと思っているのは、クロ子によって新設された魔法犬部隊、黒い猟犬隊。
黒い猟犬隊の犬達は、翻訳の魔法によって、亜人達と意思の疎通が――会話が出来る。
そう。まるで言葉が分かるかのように、ではない。彼らは実際にクロカンの亜人達と会話を交わしながら、敵と戦っているのである。
とはいえ、仮に傭兵側がこの事実を知ったとしても、月明かりの暗い森の中、目の前の敵と戦いながら、足元を犬に襲われているという状況に変わりはない。
こんな状態でまともに戦えるのは、一握りの強者達だけ――幹部クラスの男達だけである。
自然、傭兵達は防戦一方となり、幹部クラスの男達も仲間の手助けに奔走させられる事となった。
思うに任せない状況に、ヤマネコ団の団長ログツォは、イライラと顎ヒゲを弄んだ。
「ちっ、どいつもこいつも情けねえ。亜人と犬コロごときに右往左往しやがって」
鷲鼻の副団長ニードルが振り返った。
「どうします? 団長。負けるとは思いませんが、今のままだとウチの被害もバカになりません。一度引きましょうか?」
「バカ野郎!」
ログツォは副団長を怒鳴り付けた。
「ンな事してたまるか! 俺達は亜人と小競り合いをするためにこんな場所まで来たんじゃねえ! ヤツらの村を襲って丸ごと奴隷にするために来たんだ! 被害がバカにならないから一度引く? 冗談じゃねえ! ンな事すればヤツらを調子づかせちまうだろうが! 俺達に必要なのは力の差を示す事だ! 相手を弱らせて、ビビらせて、コイツらにはもうどうやっても敵わねえ、そう思わせる事だ! 俺達はな、野蛮な野人共の野蛮な頭でも理解出来るように、圧倒的な暴力で人間様の力を思い知らせてやらなきゃいけねえんだよ!」
ログツォは剣を抜くと大股で歩き始めた。
「団長! どこに行くんですか?!」
「知れた事よ! この俺直々に亜人のヤツらに思い知らせてやる! おう、テメエら気合入れて行け! これ以上、ふやけた戦いをしているようなら、亜人に切られる前に俺が叩っ切ってやる!」
団長のログツォが副団長を引き連れて前に出た事で、本陣はすっかり空っぽになってしまった。
残されているのは、後ろ手に縛られた少女だけ。
さらわれた亜人の少女、プルナである。
「今のうちに何とかしてここから逃げ出さないと・・・」
彼女は後ろ手に縛られた上、太いロープで木に結び付けられていた。
プルナは手を縛る紐を木の幹にこすり付け始めた。
「んっ・・・んっ・・・んっ」
丈夫な紐は、木にこすり付けただけでは切れるどころかほつれすらしない。
逆にすれた紐で皮膚がむけて痛い思いをするだけだった。しかし、他に方法は思い付かない。
プルナは痛みを堪えながら絶望的な作業を続けた。
「はっ!」
その時、彼女の目に、こちらに近付いて来る少年の姿が映った。彼女をさらった人間の偵察員の一人。少年傭兵のベネである。
タイムオーバーだ。
プルナは唇を噛むと、少年から顔を反らした。悔しそうな顔を見せても相手を喜ばせるだけ。これが今の彼女に許される唯一の抵抗であった。
ベネはプルナに足早に近付くと、腰に挿した大型ナイフを抜き放った。
薄明りに白く輝く白刃に、プルナの目が恐怖で見開かれる。
少年は手を伸ばすとプルナの肩を掴んだ。
「イヤッ! や、止めて!」
「しっ! 騒ぐな!」
プルナは必死にベネの手を振りほどこうとするが、少年は意外に力が強く、逃げられない。
恐怖に怯える中、硬く冷たい凶器が彼女の背中に押し当てられると――
ブツリッ
手を縛っていた紐が切れ、プルナの両腕が自由になった。
「えっ・・・」
「今、自由にしてやる。だからこれ以上騒ぐんじゃないぞ」
ベネはプルナを木に縛り付けているロープをほどこうとしたが、結び目が固かったらしく、すぐに諦めてこちらもナイフで切断した。
「この騒ぎは聞こえているよな。すぐそこまでお前の仲間が助けに来ている。これ以上は俺も手を貸す事は出来ない。だから自分でどうにか頑張って仲間と合流するんだ。分かったな?」
ベネはそう言うと「さあ行け」と道を空けた。
プルナは痛む両手をさすりながら、激しく混乱していた。
この人間は自分達を捕まえた憎い相手だ。なのになぜ、今になって急に逃がすような事をしているのだろうか?
「なんで?」
少女の呟きに、少年はバツが悪そうに頭の後ろを掻いた。
「お前が、可愛いかったから」
「えっ?」
少年の顔は夜目にも分かる程ハッキリと真っ赤になっていた。ベネは「ああ、もう!」と声を荒げた。
「今はそんな事言ってる場合じゃねえだろ! お前、仲間の所に戻りたくないのかよ! ホラ、急げよ!」
プルナは警戒しながら、恐る恐る足を踏み出した。少年は「いいから」と彼女を促した。
彼女は急いでこの場から逃げ出そうとしたが、その背に少年の声が届いた。
「あっ! ま、待ってくれ! 最後に名前! お前の名前を教えてくれ!」
少女は立ち止まると、背後を振り返った。
「・・・プルナ」
「そうか、プルナか。プルナ、気を付けてな。もう二度と人間に見付かるなよ」
プルナは何も言わず闇の中へと消えた。
ベネはにやけ顔で何度も少女の名前を呟いた。
「プルナ・・・へへっ。プルナか」
プルナが無事に仲間と合流できるかは分からない。だが、このままここに残っていれば少女が悲惨な目に遭う事だけは間違いない。
ベネはプルナを見つめる団長の好色な目を思い出していた。
おそらく団長は彼女を強引に手籠めにするだろう。それだけならまだいい。きっと彼女は他の幹部連中の性の相手もさせられるに違いない。
ヤマネコ団はもう一週間以上も厳しい冬山で野営を続けている。団員達はストレス発散のはけ口を求めていた。
あの健康的で美しい少女が、仲間の獣欲に汚される。
ベネはその光景を想像するだけで、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「あっ! しまった! 彼女の名前は聞いたのに、俺の名前を言うのを忘れてた! あ~あ、まあ、仕方がないか」
ベネは残念そうに顔をしかめていたが、不意に何かに気付いて駆け出した。
「待て! この野郎!」
「キャイン!」
ベネは慌てて逃げようとしていた犬を蹴り飛ばした。
黒い猟犬隊の野犬だ。どうやら仲間とはぐれて、こんな敵陣深くまで迷い込んでしまったらしい。
ベネは倒れた犬を踏みつけると、その首にナイフを突き立てた。
犬は頸骨を断ち切られて息絶えた。
「こんな所まで入り込んでいやがったのか。ん? 何だコイツ。犬のくせに額から角が生えているぞ?」
犬は額から黒い角のような物が生えていた。
ベネは不思議そうに指先で角を摘まむと、グリグリと動かした。
「固いな。抜けそうにもない。何か棘のような物が刺さっている・・・感じじゃないな。大体、こんなに深く脳天に刺さってたらとっくに死んでるだろうし。ふうん。珍しい物みたいだし、一応取っておくか」
ベネは角を切り落とそうと、血に濡れたナイフを押し当てた。
その時だった。
突然、黒い小さな塊が疾風を纏ってこの場に現れたのである。
それは頭部に禍々しい四本の角を生やした黒い子豚だった。
ベネは驚きに目を見張った。
「えっ? なんだコイツ。なんでこんな所に豚が?」
それがベネの最後の言葉になった。
黒い子豚は、彼を――部下の死体を弄ぶ人間を――睨み付けた。
『最も危険な銃弾』
次の瞬間、渦巻く高密度の空気の弾丸が彼の眉間に突き立った。
パンッ!
乾いた音が響くと、ドサリ。少年の死体が一つ。冷たい地面の上に転がった。
黒い子豚は結果を確認する事なく、この場から姿を消していた。
こうしてヤマネコ団最年少の少年傭兵は、戦場の混乱の外で、あっけなくその命を散らしたのであった。
次回「メス豚、仲間と合流する」




