その299 メス豚、避けられる
どうやら私達の留守中に、縄張りに入って来た者達がいるらしい。
私はアホ毛犬コマを従えて、山の中を駆け抜けた。
『一体どこの軍勢だ? 正直、心当たりがありすぎて困るんだけど』
心当たりの筆頭候補に挙げられるのは大モルト軍だ。
ああ、本隊の”新家”じゃない方な。”ハマス”オルエンドロだっけ? 私らと散々戦った因縁の相手の方だ。
彼らは現在、この国の西、占領中の辺境伯領で軍備の増強中と聞く。
ぶっちゃけ、こっちに構っているヒマなんてないはずだが、どこにだって理屈が通らないヤツや跳ねっ返りはいるものだ。
私達に対する恨みやら功名心やらで、出張って来たヤツらがいてもおかしくはないだろう。
二つ目の候補は東の隣国、ヒッテル王国の軍だ。
以前、ショタ坊と我々はメラサニ山を越えてヒッテル王国軍の背後、ロヴァッティ伯爵領へと攻め込んだ。
攻め込んだ、と言うにはショボい人数なのだが、相手に与えた衝撃は大きかったはずだ。
戦いの基本は相手にとって嫌な事をやるものだ。スポーツでも、私の得意なカードゲームでも、軍事行動でもそれは変わらない。
ならば敵が我々と同じ事をやり返そうと考えたって、ちっともおかしくはないだろう。
山越えが可能な事は、我々が実証してしまった訳だしな。
『もし、ヒッテル王国軍なら厄介ね』
私は思わず舌打ちをした。
今回の敵軍を撃退する事は出来ても、敵にルートを知られたという事実は――情報だけは消しようがない。
これからは何をするにしても、常に背後を警戒しなくてはならなくなるだろう。
余談だがこの時の私の心配は杞憂に終わる。
実はヒッテル王国では大きな内乱の真っ只中で、隣国にちょっかいを出すどころでは無かったのである。
この情報を私が知るのは少し先の事となる。
話が前後してしまってスマンね。
さて、話を戻して三つ目の候補はこの国。サンキーニ王国の軍隊だ。
つまり、大モルト軍に敗北した部隊が山に逃げ込み、迷いに迷った挙句、こんな所までたどり着いてしまった。というケースである。
この場合、相手は敵ではないので、ウッカリ戦ってしまうと後々面倒な事になるだろう。
声をかけようにも、こちらには亜人しかいないし、最悪、「野蛮な亜人に襲われる」とか思われて、襲い掛かられる可能性すらある。
『気付かなかった事にして見て見ぬふりをするか、面倒だけど山から降りられるようにコッソリ誘導するしかないわね』
ホンマ面倒やな。
まあ、具体的な方法はその時になってから考えるか。
さて、四つ目の候補。実はこの可能性が私にとって一番最悪だ。
それはメラサニ山の向こう側に広がる国家、アマディ・ロスディオ法王国から来た軍だった時である。
私は奥歯を噛みしめた。
パイセンを失った心の痛み。そして恨み。今も決して忘れてはいない。
私の感情を抜きにしても、法王国の軍が来る以上、再び亜人を奴隷として捕らえようとしに来たか、前回、私にやられた仲間の仇を取るために来たに決まっている。
『ヤツらには二度と何も奪わせない。絶対に、だ』
相手がどれほどの軍勢で攻めて来ようが関係ない。
この山は私の縄張りだ。
大モルト軍の仇討ち隊との激しい戦いで培った経験。その全てを使って返り討ちにしてやる。
「キャン! キャン!」
遠くから聞こえるコマの声で私はハッと我に返った。
どうやら考え込んでいたせいで、ペースが上がり過ぎていたようだ。
遥か後方に遅れていたコマが、必死になって私に追いすがろうとしている。
『ごめんごめん。ここらでちょっと休憩しようか』
私は適当な場所で足を止めると、その場にポテリと座り込んだ。
コマはゼエゼエと息を荒げながら追いつくと、クンクン鳴きながら私のお尻の匂いを嗅いだ。
『だから人のお尻の匂いを嗅ぐんじゃない! 打ち出し!』
「キャイン!」
私は打ち出しの魔法で小石を飛ばしてコマを追い払った。
コマはしばらくウロウロと辺りの匂いを嗅いでいたが、クルリとその場で回ると腹ばいになった。
『全くアンタは・・・。結構走ったと思うけど、どの辺まで来たのかな?』
その時、山の彼方から野犬の遠吠えが聞こえた。
『まだ上の方か。相手はどこから来たのよ。行くわよ、コマ』
「ワンワン!」
それからも私達は、時々休憩を入れつつ走り続けた。
かなり登った所で、ようやく私達は野犬の本隊と合流する事が出来たのだった。
そう。驚くべき事に、なんと敵は雪にスッポリと覆われたメラサニ山の険しい山脈。その山頂を越えて、ここまで来ていたのである。
山の日が落ちるのは早い。
あっという間に辺りは真っ暗になってしまった。
『くそっ。また空振りか』
月明かりに照らされた小さな林の広場で、私は腹立ち紛れにブヒッと鼻を鳴らした。
広場は大勢の人間によって踏み固められた跡がある。
あるいはここでキャンプをするつもりだったのかもしれない。
試しに匂いを嗅いでみると・・・うん。人間の匂いだ。間違いない。
それとあちこちでオシッコの匂い。
――全く、手間をかけさせおる。
とりあえず私達は手分けして、自分達のオシッコで匂いを上書きした。
そんな事をしている場合なのかって? いや、縄張りの主張は大事だからな。
『ん? 何だ、この匂いは?』
人間の匂いに混じって、何やら嗅ぎなれない匂いがした。
何だろう? 少なくともこの山に住む生き物の匂いではない。
けど、全く嗅いだ事のない匂いかと言えばそうでもないような気もする。
じゃあ、どっちなのかと言われると、知らないけれど知っている気がする。そんなどうにももどかしい匂いだ。
私が悩み込んでいると、いつの間にか野犬達が周りに集まっていた。
この広場まで案内してくれた、群れの野犬達だ。
彼らは申し訳なさそうに頭を下げると、情けない声で「クゥン」と鳴いた。
どうやら急に黙り込んだボスを見て、機嫌を損ねていると思ったようだ。
『いや、別にアンタ達に怒っている訳じゃないから』
人間達の集団はどうしたものか、野犬達の偵察には引っかかるものの、私が近付くと逃げてしまうのだ。
『まあ、たまたま偶然、私が後手を踏んでいるだけなんだろうけど。相手がこちらに気付いているはずが無いし』
私は魔獣として人間達に恐れられている。
だから謎の集団が私を避ける気持ちも、分からないでもない。
しかし、特定の相手だけをピンポイントに察知するレーダーなんて、地球にだってありはしなかった。
ましてやここは中世さながらに文明の遅れた世界だ。現代科学で不可能な物がこの世界にあるはずが・・・
『レーダー? あれっ? 何だろう。何かが記憶に引っかかるような・・・』
何だろう、こう、もう少しヒントがあれば思い出せそうなんだけど。
「ワンワン!」
辺りの匂いを嗅いでいたコマが、「追いかけないの?」とばかりに私に吠えた。
確かに、ここで悩んでいても相手が見つかる訳じゃない。
私は空を見上げた。
満天の星空には、銀色の月が煌々と輝いていた。
私はかぶりを振った。
『今日はここまでにしましょう』
追跡を始めた時間が遅すぎた。
既に辺りは暗くなっている。
夜の山は危険だ。
例えば足元に崖があっても気付かずに踏み外してしまう。
もっとも、そうなっても、私の場合は水母が守ってくれるだろうけど。
だが、群れの野犬達はそうはいかない。
群れのリーダーとして、みすみす仲間を危険に晒す訳にはいかなかった。
『人間の集団は縄張りの外に出てしまったみたいだし。これ以上は追っても意味はないでしょ』
彼らがこのまま立ち去るなら、危険を冒してまで無理に後を追う必要は無い。
匂いの数や踏み固められた広場の広さから、どうやら相手の人数は数十人。せいぜい五~六十人程度ではないだろうか。
軍隊と呼ぶにはあまりにもショボ過ぎる。
上手く不意さえつければ、私一人でも制圧可能な程度の人数だ。
『とはいえ、油断する気はないけど』
この世界には、某ゲームや某ゲームで例えれば、呂布や立花宗茂みたいなチートキャラ達が存在している。
大モルト軍の”五つ刃”しかり、”七将”しかり。
だからこの集団の中にそんな達人がいたとしても、ちっとも不思議じゃない。
『このまま去ってくれるならそれで良し。そうでないなら、またその時に考えればいいでしょ。ええと、水母。メラサニ村の方向はどっちだっけ?』
私の背中からピンククラゲが浮かび上がると、アホ毛犬の頭の上に着地した。
その軟質ボディーからヒョロリと触手が伸びると、村の方向を指し示した。
『直進』
「ブルブルブル」
コマがじゃまそうに頭を振るが、触手の先端はまるで空中に接着されているかのようにピクリとも動かない。
流石は前魔法科学文明が生み出した高性能インターフェイス。手振れ補正機能も超一流のようだ。
「キュウン・・・」
『はいはい、情けない声を出さないの。コマ、水母の指し示した方向に道案内よろしくね。みんなコマの後に付いて行くわよ』
「! ワンワン!」
コマは私に頼られたのが嬉しかったのか、しょぼくれた表情から一転。元気よく尻尾を振って歩き始めた。
現金なヤツめ。
この日、私が捕捉出来なかった人間の集団。
しかし、彼らはこの後も立ち去る事も無く、山に居座り続けたのであった。
次回「メス豚と不気味な敵」




