その271 ~女王からの返事~
◇◇◇◇◇◇◇◇
大モルトで勇名をはせる”七将”。
その一人。百勝ステラーノことロドリゴ・ステラーノは、キズだらけの老いた顔に呆れた表情を浮かべた。
「それで、お姫様はお化粧をされただけで、みすみす女王クロコパトラを帰してしまったと? 亜人の諜者の情報どころか、女王の魔法に関しても何も得る物はなかったと? そうおっしゃるのですか? お姫様」
「――だから、何度もお姫様と呼ぶのはお止めなさい。今の私は新家の当主夫人。ここは執権の屋敷ではないのですよ」
新家アレサンドロ当主夫人アンナベラは、毅然とした態度で老人を叱責した。
しかしそれが、自らの失敗を誤魔化すための虚勢である事は明らかだった。
彼女の顔は、今日もクロコパトラ女王に教えて貰った”ナチュラルメイク”で輝いていた。
女王クロコパトラとの対談を終えた翌日。
アンナベラは朝から上機嫌だった。
(お化粧を変えただけで、こんなにも我が殿が優しくしてくれるなんて)
ナチュラルメイクに変えた妻に、彼女の夫――ジェルマン・”新家”アレサンドロは目を見張った。
ジェルマンはアンナベラの新鮮な姿に、新たな魅力を感じたらしい。
昨日は仕事や面会を調整して、妻と一緒に過ごす時間を増やしてくれた。
二人の夫婦仲は決して悪くはない。
しかし、夫に大事にされて嬉しくないはずもない。
昨夜からのジェルマンの態度は、アンナベラの女としての矜持を満足させていた。
(こんな素晴らしいお化粧を教えてくれたクロコパトラ女王には、感謝しないといけないわね)
アンナベラはクロコパトラ女王に、手紙を添えてお礼の品を送った。
そこには純粋な感謝の気持ちもあったが、実利的な側面もあった。
(手元の”びいびいクリーム”が無くなる前に、是非、追加分を確保しておかないと)
ナチュラルメイクの要、なんちゃってBBクリームは、お土産として貰った分しかない。
勿論、いずれは似た物を商人に命じて作らせるつもりでいるが、その製品がいつ完成するかは分からない。
もしも材料の中に、亜人しか知らない素材が使われていた場合、開発が難航するであろう事は間違いなかった。
(女王が他の夫人へのお土産としてまだびいびいクリームを用意しているのなら、先に声をかけてその分も譲って貰わないと。女ならこのナチュラルメイクの噂を知れば、誰もが求めるに決まっているもの)
今後、必ずなんちゃってBBクリームを求めて激しい争奪戦が行われる。
アンナベラにとって、それは太陽が沈めば暗くなるのと同じくらい、決定された未来にしか思えなかった。
アンナベラはソワソワながら女王に送った手紙の返事を待った。
丁度そんなタイミングで、百勝ステラーノことロドリゴ・ステラーノが彼女の元を訪れたのであった。
ロドリゴは肩をガックリと落とすと、これ見よがしに大きなため息をついた。
「奥方様・・・」
「あ、あの場で出来る事は全て致しました。あのまま続けていても、やはり情報は得られなかったに違いありません」
いささか言い訳じみて聞こえるかもしれないが、これはアンナベラの偽らざる本心でもある。
それを察したロドリゴは、驚きに軽く目を見張った。
「よもや奥方様が心を読めない相手だったとは・・・」
「私にとっても想定外でした。あれ程、表情が動かない人は、私は”執権”当主、アンブロード・アレサンドロしか知りません」
アンブロード・アレサンドロはアンナベラの祖父である。
アンナベラも祖父に直接会ったのは数える程だが、齢90歳の深い皺だらけの顔からは、喜怒哀楽、一切の感情が読み取れなかった。
「あるいはアンブロードの場合、歳をとって感情そのものが摩耗しているのかもしれません。その点、女王は表情に出ないだけで、言葉の端々からちゃんと感情の起伏は感じられました」
とはいえ、仮に女王クロコパトラがポーカーフェイスではなかったとしても、やはりアンナベラは彼女を苦手としていただろう。
それはクロコパトラの正体がクロ子――異世界からの転生者だからである。
クロ子の前世は一般的な高校生だが、それでもこの世界の者達とは比べ物にならない程、高度な教育を受けている。
そして、いくらアンナベラが才能に優れているとはいえ、中世さながらのこの世界では、受けられる教育にも限界がある。
環境の違いは教育だけに留まらない。現代人のクロ子は、物心ついた時から数多くの情報に触れ、古今東西、多種多様な価値観、数多の思想に影響を受けている。
そんなクロ子を、大モルトの貴族社会しか知らないアンナベラがコントロールしようとしても、それは無理があるというものだ。
本人の資質や能力の問題ではない。環境によって作られた下地が違い過ぎるのである。
「黒マントの亜人の諜者については、一度、マルツォの口から直接話を聞いた方がいいかもしれませんね」
「孫ならさっき出て行く所を見ましたぞ。サンキーニ王国軍の捕虜の中にあヤツの興味を引いた者がいるらしく、最近では時間が出来るといつも出掛けております」
「それは知りませんでした。相手が誰か知っているんですか?」
「ラリエール男爵家の当主、ルベリオと申す者です。領地を持たない小貴族で、この国の王子と歳が近い事もあってか、近くに侍っておったようです」
この説明で、アンナベラのルベリオに対する興味はやや薄れた。
王子のお気に入り――つまりは稚児の類だと思ったのである。男色も珍しくない世界なのだ。
一瞬、アンナベラはロドリゴに注意を促すべきかどうか迷った。
マルツォは王子の稚児の下に足しげく通っている――ロドリゴの孫は男とそういう関係になっているのではないか?――と、邪推したのである。
しかし、結局、彼女は何も言わなかった。
この老人がその考えに思い至らなかった訳はなく、それでいながら、今も孫を好きにさせている以上、何も問題は無いと判断しているのだろう。
アンナベラは、一見、豪快で粗野に見えるこの老人が、実は細かな点にまで気が回り、政治的な駆け引きにも長けている事を知っていた。
(つまり、ラリエール男爵は見るべき点がある人物、ロドリゴはそう考えているという訳ね)
アンナベラは、ルベリオ・ラリエール男爵の名を忘れないように、心の片隅に留めておく事にした。
「ただいま戻りました」
ここでアンナベラの侍女、サンドラが部屋に入って来た。
彼女はアンナベラの命令で、女王クロコパトラの宿舎まで手紙とお礼の品を届けに行っていたのである。
待ち人の到着に、アンナベラは思わずイスから身を乗り出した。
「首尾はどうでしたか?!」
サンドラは主人からの問いかけに、小さな笑みを浮かべた。
「奥方様の予想されていた通りでした。女王は他のご婦人方への贈答用にびいびいクリームを残しておりました。
私が、『奥方様は大変にナチュラルメイクをお気に召されたご様子でした』とお伝えすると、女王は快く残り全ての化粧水とクリームを譲って下さいました」
「――っ!!」
アンナベラはまるで祈りを捧げるように両手を組むと、感極まった顔で天を仰いだ。
機を見るに敏なり。巧遅は拙速に如かず。
もし、クロコパトラ女王が、他の貴族への贈答用としてBBクリームを残していると予想していなければ。そしてもし、サンドラを遣わすのが後一日遅れていたら。
この成果は成し遂げられなかったに違いない。
彼女は今日ほど、両親が自分を賢く産んでくれた事を感謝した事はなかった。
サンドラは、そんな主人の姿に、『さもありなん』といった納得顔で頷いた。
女王に最初にメイクを施された彼女は、その効果を身をもって良く知っているからである。
「奥方様・・・」
そんな主従をロドリゴが呆れ顔で見つめている。
アンナベラは緩みっぱなしの顔に苦労しながら、サンドラに尋ねた。
「それで、女王から手紙の返事は貰えたのかしら?」
「はい。こちらに」
「! ・・・そう。やはりね」
アンナベラは今までのこぼれんばかりの笑みから一転、思案顔でサンドラから手紙を受け取った。
彼女はザッと目を通すと、急な変化に戸惑うロドリゴに手紙を突き出した。
「クロコパトラ女王からの返事です。読んでみますか?」
「――拝見します」
ロドリゴは手紙を受け取ると――怪訝な表情を浮かべた。
「ワシには読めませんな。これはカルトロウランナの文字でしょうか?」
アンナベラは黙ってうなずいた。
カルトロウランナ王朝は、大陸の三大国家の中で最も古くに建国された国である。
女王クロコパトラからの手紙は、現在、大陸で広く使われている新言語ではなく、カルトロウランナの知識層の間でのみ使用されている古い文字で書かれていた。
「なぜ、女王クロコパトラは、奥方様への返事に、わざわざカルトロウランナの文字などを使ったのでしょうか?」
「それは私が女王への手紙をカルトロウランナの文字で書いたからでしょう」
「?」
昨日、女王クロコパトラによるメイク実演の最中。
女王が車イスから身を乗り出した際、黒いドレスから白い背中が覗いた。
見慣れない意匠のドレスを興味深く観察していたアンナベラは、大胆に背中が開いているその奇抜なデザインに目を奪われた。
そしてカルトロウランナの古い本の中に、似たようなデザインのドレスが描かれていた事を思い出したのである。
その時、アンナベラの中で点と点とが一本の線に結び付いた気がした。
「女王クロコパトラはカルトロウランナの者。おそらくは貴族、あるいは王族関係者。そう考えれば様々な点で納得がいきます」
「まさか! いや、確かに・・・」
亜人の女王の正体は、カルトロウランナ王朝の貴族の子女かもしれない。
アンナベラの荒唐無稽とも思える予想に、ロドリゴは一瞬、ギョッと目を剥いたが、すぐに難しい顔をして考え込んだ。
確かに、一見、信じ難い話ではある。が、そうであれば理解出来る点も数多い。
女王の見目麗しい容姿。凛とした高貴な佇まい。アンナベラにも底を見通せない思慮深さ。そして人間の――しかも若い女の身でありながら、亜人達を従え、君臨するその器量。マルツォですら警戒する程の高い技量を持つ部下を抱えているという事実。魔法に対しての底知れぬ造詣。見慣れない意匠のドレス。洗練されたメイク技術。等々・・・。
女王クロコパトラからは、山野に生きる野蛮な亜人の首長とは思えない程の、高い文明の香りと、確固とした骨子が感じられた。
「それにしても王族関係者とはいくらなんでも・・・」
「可能性はあります。正風殿事件を知っているでしょう?」
「パルミーロ王子の忘れ形見?! ・・・いや・・・まさか。確かに昔からそのような噂はありますが」
正風殿事件。今から十五年程前、カルトロウランナの先代王が崩御した際に起きた跡目争いである。
跡目争い、とは言ったが実際はクーデターで、王の息子を王の弟が襲撃。王の座を簒奪したものである。
この時、逃げ延びた女官の中に、王子の忘れ形見を身ごもっていた者がいたとも、生まれたばかりの乳飲み子を連れていた者がいたとも噂されている。
アンナベラは女王クロコパトラが、大河を渡り、この国へと落ちのびた王子の血を継ぐ者である可能性を指摘したのである。
ロドリゴはすっかり感心した様子で何度も頷いた。
「それにしても、さすがは奥方様。その深い洞察力。感服致しました」
「・・・ほう? 私が女王クロコパトラに新しいお化粧を教わって浮かれているだけとでも思っていたのですか?」
「滅相も無い。年寄りをそのように虐めて下さるな。そのような事は決して考えておりませんでしたとも。いや、参りましたな」
ロドリゴはすっかり弱り切った顔で、薄くなった頭頂をペチペチと叩いた。
こうしてアンナベラは辛うじて面目を保ったのであった。




