その219 メス豚、特訓する
シンプルなテーブルに腰掛ける黒髪の美女。
愁いを帯びた表情に長いまつ毛。
黒いナイトドレスに包まれた体は、世の女性が望んで止まない魅惑的な曲線を描いている。
ホクロ一つない白磁のような腕が伸びると、たおやかな細い指が質素なカップの取っ手を摘まんだ。
美女は優美な仕草でカップを持ち上げると、濡れたように光る赤い唇へと運んだ。
カップが僅かに傾くと、白い喉がコクリと動く。
美女は琥珀の液体を少しだけ飲むと、カップを静かに受け皿に戻した。
いよっしゃあ! どうよ今の! 完璧だったんじゃね?!
黒髪の美女の――亜人の女王クロコパトラの頭がグリンと動き、空中を漂うピンククラゲへと向いた。
「水母! 採点!」
ピンククラゲ水母の触手が二本、ニュルリと動くと――
体の上で大きな丸を作った。
『合格』
「よっしゃ、よっしゃ! やってやったぜコンチクショー!」
バリッ!
美女の背中が音を立てて割れると、中から可愛い子豚ちゃんが飛び出した。
『自画自賛』
水母が呆れているようだが、今の私は気にならない。ああ、全く気にならないね。
なぜなら今の私は今までの私とは違う。
そう。私はついに成し遂げたのだ。
”クロコ美女ボディーで優雅にお茶を飲む”という、超高難度ミッションを!
『長かった。長かったよ、ここまでの道のりは』
お茶の入ったカップを持ち上げて、口まで運んで飲む。
前世では――人間だった頃には――当たり前に出来ていた行動が、これ程テクニカルなものだったとは。
こんな難しい事が簡単に出来るなんて、スゲエな人間って。
『スゲエな人間って!』
大事な事なので口に出して言っておきました。
いや、本当に大変なんだってばよ。
まず、こぼさないように持ち上げるのが難しいし、飲む時は飲む時で、カップを傾け過ぎないようにしないといけない。
最初は勢い良く傾けて顔面でお茶を受け止めたからね。
作り物の体――義体だったから良かったものの、生身の体だったら顔面大やけどになっていた所だ。
適量を上手く口に含んでもそれで終わりとはならない。慎重に飲み込まないと、今度はお茶が口の端から垂れたりする。
朝からずっとガチで取り組んでようやく成功したからね。いや、マジで。
私は喜びを噛みしめながら、床の上をブヒブヒと転がり回った。
ブヒーッ! ブヒーッ! たまらんブヒーッ!
褒めて! 誰か私を褒めておくれ!
水母はそんな私を完全無視。お茶(という設定の謎水)の入ったカップを片付けると、どこからともなくスープの入った平皿を持って来た。
『次の課題』
『鬼教官!』
なぜ私が鬼教官の指導の下、クロコ美女ボディーを使いこなすための特訓をしているのか?
それは来るべき人間達との――この国を攻め落とした大モルト軍との――交渉に向けての準備である。
先日の戦いで我々は三千の討伐軍を退けてみせた。
つまりは”こちらには抗えるだけの武力がある”という事実を証明してみせたのだ。
――まあ、実際は最大限に地形を利用した初見殺しだったのだが。
実情はともかく、戦いに勝ったのは確かだ。
相手の指揮官にも、「亜人は侮れない」「敵に回すのは割が合わない」と思わせる事には成功しただろう。多分。
さて。ここで大モルト軍の指揮官はどんな選択肢を選ぶだろうか?
可能性その一。少数の亜人ごとき放置した所で問題無いわい、とばかりに無視を決め込む。
そうなってくれれば万々歳。我々にとっては最も嬉しい選択だ。
実のところ、そこそこ期待出来るんじゃないかな? とも思っている。
可能性その二。メンツを潰されたと怒り狂って大軍で攻めて来る。
我々にとっては最悪の選択だ。
先日の戦いは、たまたま相手に”分からん殺し”が上手くハマったから勝てたのである。
圧倒的な戦力差の前には多少の小細工など意味をなさない。数はそれだけで十分に力なのだ。
しかし、この選択肢が選ばれる可能性は、あまり高くないんじゃないかと思う。
大軍を動かすという事は、それだけコストがかかるという事でもある。
メンツを守った結果が、山に隠れ住む少数の亜人の全滅では採算が合わない。
それに今はもう秋。
山の頂上には、既に雪が白く降り積もっている。
大軍で山に攻め込むには厳しい季節になりつつあるのだ。
仮に敵がこの選択肢を選んだ場合。我々は村を放棄して水母の研究施設に逃げ込むだけでいい。
一万年もの間、誰にも見つからなかった施設だ。土地勘のない他国の兵士が見つけられるとは思えない。
我々は彼らが撤退したのを見届けてから、元の生活に戻ればいいのである。
可能性その三。何かしらの条件で和睦を持ちかけて来る。
元々、侵攻されたから防衛しただけ。こちらから戦いを挑むつもりはサラサラないのだ。戦っても負けるに決まってるしな。
このメラサニ山に手を出さなければ戦わない。我々の武力を必要とするなら応相談。
我々からの提案はそんな所だろうか。
先の戦いでの賠償金だのなんだのの話も出るかもしれないが、その辺は出たとこ勝負のぶっつけ本番。
全ては私の交渉力にかかっている。
ううっ。気が重いのう。
そして可能性その四。和睦をエサに私をおびき出して殺してしまう。
ハッキリ言おう。私が敵の指揮官なら確実にこの方法を選ぶ。
下衆だって? 甘い甘い。戦いは勝ってナンボ。卑怯上等。勝てばよかろうなのだよ。
指揮官のいない軍なんて烏合の衆だからな。
大モルト軍としても大軍を動かす必要もなくなるので、お財布にも優しいってもんだ。
さて。可能性として高い(と、私が見ているのは)その三かその四。
相手の指揮官がどちらを選んだとしても、女王クロコパトラは――つまり私は――敵地におもむく事になるだろう。
交渉ともなれば、当然、パーティーや会食の場にも出なければならなくなる。
そんな時、偉い人から酒を注がれて、「私、飲めませんから」では済まされない。
「頂戴します」と頂いて、相手に返杯するまでがマナーというものだ。
お前、それは会社の宴会だろうって?
いや、知らんがな。
前世の私は享年十五歳。
社会人になる前の高校一年生で死んでるからな。
はあ。どうせ異世界転生するなら、豚に生まれて戦う世界なんかじゃなくて、スローライフ系の世界に転生したかった。
知識チートで一山当てて、その資金で大商会を立ち上げ、イケメン王子に甘やかされる。そんな優しい世界に生まれ変わりたかった。
・・・愚痴っていても仕方がない。特訓を再開するか。
『それで鬼教官。次はスプーンでスープを飲む訓練な訳ね』
ピンククラゲは不満そうにフルフルと震えた。
違うのか?
『鬼教官、否定。水母』
そっちかい。
水母は鬼教官と呼ばれる事がご不満の様子。
そう? なんなら鬼軍曹でもいいけど?
『鬼軍曹、否定。水母』
あまり水母をからかって、へそを曲げられても困る。
私は『そうね。水母、水母』と言って、義体の中に入った。
ミチミチと締め付けられるこの感触。なんだかすっかりお馴染みになったもんだ。
なんならちょっと気持ちいいまで――いや、流石にそれは無いか。無いよな? 私。
実はこのクロ子美女ボディーには大幅なアップデートが施されている。
全く同じに見えるって? そりゃそうだ。外見は変わらんからな。
変わったのは中身。中身と言っても私の事じゃないぞ。義体の中身だ。
この義体の主な材質は、ピンククラゲ水母の体と同じ物――前文明が生み出した謎物質である。
今までの義体は全身ミッチリ謎物質が詰まっていた。
水母はその構造を見直し、芯となる骨組みを作ったのである。
要はあれだ、今までは謎物質が詰まったハムみたいな体だったのが、骨付き肉に変わったようなもの・・・って、余計に分かり辛いか。
水母は軽くて硬い素材で人工的な骨格を作り、その骨を筋肉代わりの謎物質で動かす、という仕組みに変更したのである。
この新仕様導入により、二割程の軽量化に成功したばかりか、構造的にも強化された。
骨格には私の角と同じ材質が使われているので、魔法に対しての親和性も高く、中で魔法を使った時の負荷も、ずっと軽減されるようだ。
軽くなって操作もしやすくなったしで、今回の仕様変更は神アプデなのであった。・・・いやまあ、それでも生身の体のようにはいかないのだが。
おっと、今は訓練に集中しないと。慎重に、慎重に。
私はクロ子美女ボディーを操作して、テーブルのスプーンを手に取った。
スルリと抜け落ちそうになるのを、慌てて指に力を入れて押さえる。
「グリップ力が低いわね。ある程度重さがある物だったらいいけど、スプーンみたいな小さくて軽い物を摘まむのは難しいわ。ねえ水母、この辺、どうにかならない?」
『今、調整する』
水母の触手が、空中に浮かんだコンソールを叩くと、クロ子美女ボディーがピクリと反応した。
『義体の指、末節部のみ弾性を五パーセント下げた。確認求む』
「指先の腹が潰れやすくなったのね。オッケー。しばらくこれで試してみるわ」
義体は体の部位ごとに細かな調整が可能である。
つまりアレだ。ハリのあるロケットおぱーいでも、柔らかスライムおぱーいでも自由自在という事だ。
どうよ? 世の男性諸君。君達にとっては夢のような機能なのではないかね?
『姿勢に注意』
「おっと。いかん、いかん」
スプーンの動きに集中し過ぎて、つい前のめりになっていた。
一度落ち着いて仕切り直そう。スーハ―、スーハー。・・・よし。再チャレンジだ。
スプーンの先がスープの中に入った。その際にカチャリと小さな音がしたが、水母は何の反応もしなかった。
これくらいの音ならセーフという事か。
後は慎重に手前から奥に。水平を保ったまま動かして――
ピンポーン。ピンポーン。
突然のチャイムの音に、私は危うくスプーンを取り落としそうになってしまった。
スプーンが皿を叩き、ガチャンと大きな音が鳴る。
ああん! せっかく上手くいきかけていたのにぃ!
水母がコンソールを操作すると、空中に四角いモニターが現れた。
モニターに映っているのは細身の亜人の青年。
彼はクロコパトラ歩兵中隊の第八分隊の分隊長のハッシだ。
ハッシはもう一度、インターホンを鳴らそうと手を伸ばした。
「何? ハッシ」
「うわっ! ビックリした!」
ハッシは目を丸くしてインターホンを見つめている。
施設の入り口には、呼び出し用のインターホンが付いている。
結構、広い施設だからな。私に用事がある度に、施設の中を探し回らなくてもいいように、水母に頼んで付けて貰ったのだ。
「一体、どこから声が出てるんだ? これもクロ子の魔法なのか?」
ハッシは興奮した様子でインターホンを眺め回している。
向こうに届いているのは声だけで、こちらの姿は見えないようである。
しかしさすがはハッシ。村の職人、マニスお婆ちゃんの孫なだけはある。
知らない道具を前に好奇心が抑えきれないようだ。
「それより私に用があったんじゃないの?」
「あっ! そうだった! 砦から狼煙が上がってる! 人間達がやって来たんだ!」
来たか。
敵の部隊が撤退してから、そろそろ半月。
思っていたよりも、かなり動きが早かったな。
「分かった。すぐにそっちに行く。あんたは急いで隊員達に集合をかけといて」
「わ、分かった」
ハッシは慌てて振り返ると走り出した。
彼の姿は直ぐにモニターから見切れてしまった。
しかし、人間の軍隊か。
果たして敵の目的は交渉か、それとも新たな戦いの始まりか。
次回「メス豚とちょび髭男」




