その146 ~イサロ王子の誤算~
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空がうっすらと夕日に赤く染まる頃。最後の敵軍が後退を始めた。
「・・・やれやれ。今日もどうにか生き延びたか」
ホッと一息ついて額の汗を拭ったのは、まだ若い騎士。
クロ子が内心で”若手貴族コンビの優男君”と呼んでいる、ベルナルドである。
いつもなら清潔感のある形に整えられている髭は、今は見る影もなく無精ひげにまみれている。
それどころか、頭の上からつま先まで全身煤だらけに泥まみれ。日頃の瀟洒な伊達男ぶりからは想像も付かない惨めな姿となっていた。
「なんだベルナルド! そこにいたのか!」
槍を手にベルナルドに近付いて来た全身鎧の青年は、クロ子が”ガッチリ君”と呼ぶ貴族。
ベルナルドの親友、アントニオである。
「そんな姿をしているから、そこらの騎士と見分けが付かなかったぞ」
「そうなるようにしているんだよ」
ベルナルドはいつものように芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。
「おいおい、”俺達外様は目立ってなんぼ”。戦いの前にそう言っていたのはお前じゃないか」
「・・・俺をお前みたいな規格外と一緒にしないでくれ。命あっての物種だっての」
そう言うと、ベルナルドは陣地の外に目を向けた。
ここからでは見えないが、彼の視線の先には後退中の敵の大軍がいるはずである。
イサロ王子軍がこの丘に立てこもり、防衛戦を始めてからもう五日が経つ。
押し寄せる敵の大軍を辛うじて防げてはいるものの、いつ戦線が崩壊してもおかしくない状態が続いていた。
そんな中、敵兵の中には手柄を立てようと、積極的に有力武将を狙う者も多い。
剣に関しては並みの腕しか持たないベルナルドは、そういった輩に目を付けられないように、自分から鎧を汚す事で指揮官である事を隠していた。
ちなみに腕に覚えのあるアントニオは、自分を狙う敵のことごとくを返り討ちにしている。
目立ちまくった彼の首には、今では相当な額の懸賞金がかけられている事だろう。
「だが、そんな姿をしていては、お前の部下だって士気が下がるんじゃないか?」
「俺が死ぬよりマシだ。部下だってそれは分かっているさ」
仏頂面で答える親友に、アントニオは「確かに・・・」と頷いた。
指揮官を失った軍は、一時的に総司令官であるイサロ王子直轄の軍に吸収される。
それ自体は特に問題はないが、その後、適当な貴族家の部隊に配備されてしまった場合は最悪である。
配備先の部隊にとってみれば、何の縁もゆかりも無い他家の軍であり他領の兵士だ。
当然、最も危険な戦場で便利に使い潰すに決まっている。
実際、そうやって消滅した部隊もある。
命のかかった戦場ではキレイ事だけでは通らない。貴族家にとって――いや、誰にとっても、自分と自分の部下の身が一番大切なのである。
ベルナルドはチラリと周りを見回して声を潜めた。
「・・・オイ。俺の所はそう長くはもちそうにないぞ」
「・・・俺の受け持ちもそうだ。今日も危ない場面が何度もあった」
連日繰り返される敵の猛攻に、既に防衛線はほころびが生じている。
今のイサロ王子の軍は、平均台の上で辛うじてバランスを取っているようなものだ。どこか一点でも敵に突き崩されれば、連鎖的に全軍崩壊するのが目に見えていた。
「使いものにならない兵が多すぎる。せめて数だけでも今の倍はいれば・・・」
「そうなったらそうなっていたで、水や食料がもたんだろうな」
苦々しい表情で答えるベルナルド。
明日にでも全軍崩壊をしてもおかしくない。
口にこそ出さないものの、それが二人の共通の認識だった。
その時、全軍に戦闘終了を告げる角笛が鳴り響いた。
どうやら他の場所での戦闘も終わっていたらしい。
二人はどちらからともなく背を向けると、疲れた体を引きずりながら、それぞれの部下の下へと戻って行くのだった。
早ければ明日にでも全軍崩壊。
しかし、二人の予想は外れる事になる。
それからも毎日、敵の猛攻は続いたものの、倍の五日経ってもイサロ王子の軍は持ちこたえたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
イサロ王子は本陣の天幕で戦闘終了の角笛を聞いていた。
「どうにか今日も持ちこたえる事が出来たか」
この丘で戦闘が始まって今日で十日。連日の激しい戦闘で、王子の顔にも疲労の色が濃くにじみ出ていた。
開かれた天幕の入り口から、カイゼル髭の男が入って来た。
王子の副将であり、この軍の実質的な大将である”目利きの”カサリーニ伯爵である。
王子はイスから立ち上がり、伯爵の労をねぎらった。
「良くやってくれた、伯爵」
「いえ。今日はいつもより敵の動きが鈍くて助かりました。どうやら敵も物資が不足しているようです」
ルベリオがイサロ王子軍を離れ、クロコパトラ女王の住む亜人の村へと向かった翌日。
イサロ王子は初戦で敗退した自軍の再編を続けていた。
とはいえ、イサロ王子の軍は、その半数が戦う気もろくに無い弱兵である。
彼らは戦いでは味方の足を引っ張り、物資を食いつぶすだけの足手まといでしかなかった。
王子とカサリーニ伯爵は、彼らの使い道に頭を悩ませていた。
そんな彼らの下に敵軍が襲来した。
幸い敵の発見が早かった事と、戦ってもどうせ敵わないと分かっていた事もあり、王子軍はろくに戦いもせずに軍を退いた。
イサロ王子としては、敵に背を向ける事に対し、内心かなり忸怩たるものがあったのだが、相手の数はこちらの四倍。
そしてこちらの軍は、数だけ立派な見掛け倒しの張子の虎でしかない。
戦えば絶対に負けると分かっている以上、野戦を行うという選択肢だけは無かった。
「こう考えてはいかがでしょうか? そもそも陛下が殿下にお与えになった役目は、敵のせん滅ではございません。我々の目的は敵の迂回部隊と本隊の合流を遅らせる事にあります。こうして敵の軍を引きつけた事で、殿下は見事、役割を果たしているものと思われます」
元々、イサロ王子の役目は、ブラマニ川の上流を渡河した敵の迂回部隊が、国王軍の側面なり背後なりを突くのを阻止する事にあった。
カサリーニ伯爵が言うように、敵の作戦を遅延させた時点で、王子は最低限必要とされた仕事を果たした、と言っても間違いではないだろう。
伯爵の説明にイサロ王子はひとまずは納得し、留飲を下げた。
「では伯爵。これから我が軍はどうすれば良いと思う?」
「敵迂回部隊は我々を押し返したと考えているでしょう。であれば、すぐにでも当初の作戦に立ち戻り、陛下の軍の側面を突くべくブラマニ川の下流を目指すものと思われます。我々のなすべきは隙を見て前進。敵の背後を突き、敵の作戦行動の遅延を図るべきかと存じます」
「・・・厳しいが、やらねば父上の本隊が危ないか。分かった。兵には今日はゆっくり休むように伝えろ。明日は強行軍となるやもしれん」
しかし、このイサロ王子達の思惑は外れる事となる。
翌朝、王子の軍は再び敵の部隊の襲撃を受けたのである。
王子の軍は昨日に引き続いて後退を開始した。
「どういう事だ?! まさか敵は俺達の狙いを察して、先に後方の憂いを断つ事にしたのか?!」
「そんな事は・・・! 仮にそう考えたとしても、その場合は部隊の一部を割いてあたらせるはずです!」
伯爵の言う通り、この二日間の戦いで、こちらが弱兵である事は、当然敵も見抜いているはずである。
敵の指揮官が余程の無能でない限り、わざわざ本隊の作戦を遅延させてまで、王子の軍に全軍で当たる意味は無かった。
こうして敵迂回軍は王子軍に引きずられる形で、本隊同士の主戦場であるブラマニ川下流を離れていった。
王子側としてはある意味願っても無い展開なのだが、敵の意図が不明なのが不気味ではあった。
そして、王子としてもいつまでも敵から逃げ続ける訳にはいかなかった。
まさかこのまま王都まで下がり続ける訳にはいかないからだ。
そこでカサリーニ伯爵が戦場に選んだのが、現在、王子軍が戦っているこの丘だったのである。
「ここはかつて砦の建設が計画されましたが、建設途中で放棄された場所となります。途中までとはいえ、部分的には堀も切られており、おそらく井戸も掘られていたはずです」
先行させた物見の報告は伯爵の記憶と一致した。
イサロ王子はこの場所に立てこもって敵を迎え撃つ事を決めた。
王子は急いで軍を丘に登らせた。
「お前達はこれから工兵として陣地を建設せよ!」
戦いの役には立たない兵士達だが、それでも健康な成人男性である。
王子は彼らを使って丘の木を切り倒し、突貫工事で陣地を作らせた。
「来た! 敵が来たぞ!」
そして二日後。敵の軍が到着した。
敵はすぐさま丘を取り囲むように兵を配置した。
「せめて後三日あれば・・・」
「ないものねだりをしても仕方があるまい。それよりも敵が来るぞ」
不完全な陣地だったが、王子軍はどうにか敵の攻撃を退ける事に成功した。
思えば、大モルトとの戦争が始まって以来、初めてイサロ王子軍が負けなかった戦いであった。
王子軍は夜遅くまで、敵の攻撃で壊された陣地の修理と、補強の工事を行った。
翌日も夜明けと共に敵が現れ、波状攻撃が繰り返された。
そして、どうにかこの日も王子軍は敵を撃退する事に成功したのだった。
こうして連日、王子にとって胃の痛みを覚える綱渡りのような戦いが続いた。
この戦いは王子にとっていくつかの誤算があった。
まず一つ目は、なぜか敵がいつまでも攻撃を諦めないという事。
敵は本隊を無視して、今も執拗にイサロ王子の軍を攻め続けている。
それ自体は、敵を引き付ける、と言うこちらの作戦目的に叶うものなのだが、さすがに四倍もの敵に粘着された状態でいつまでも耐えられるものではない。
イサロ王子の軍は次第にすりつぶされつつあった。
二つ目は水の不足。
どうやらこの砦跡地は、一万もの兵を養うようには設計されていなかったようである。
王子の軍は早々に井戸の水だけでは不足するようになっていた。
とはいえ、幸い、飲み水に不自由するまでにはなっていない。
ただし、体を拭う水や負傷した兵士の傷口を洗う水までは確保出来ない。
このまま戦いが長引けば、衛生状態の悪化から部隊に疫病が蔓延するおそれがあった。
三つ目はベルナルドとアントニオの活躍である。
こちらは良い話となる。
意外な、と言っては本人達に失礼だが、彼らの活躍は目を見張るものであった。
王子は二人を自分直属の部隊に加え、重要と見られる防衛箇所に配置した。
全くと言っていいほどタイプの違う二人だが、彼らは王子の期待に応える良い働きをした。
最後となる四つ目は、兵士達の意外な粘り強さである。
彼らは初戦の逃亡がウソのように、敵の猛攻を良く耐え凌いだ。
今回は丘の周りをぐるりと敵に囲まれて、逃亡するような場所が無いのも大きかった。
敵に囲まれ、逃げられず、襲って来る敵を、陣地に籠って、守る。
選択肢のほとんど無いシンプルな状況が、彼らの心を一つにした。
そして、実際に幾度も守り切った事が自信にもつながった。
瓢箪から駒が出る、と言うが、彼らの動きは次第に防衛戦に最適化されていき、最初にあった危なげが無くなっていった。
とはいえ、圧倒的に不利な戦力、そして逃げ場なく敵に取り囲まれている事には変わりは無い。
戦況は安定しているようで、その実、いつ天秤が破滅に大きく傾いてもおかしくない状況にあった。
このままではイサロ王子の軍に勝ち目はない。
そう。王子の軍はまだ負けていないだけに過ぎない。
彼らは血と泥にまみれながら、必死に敗北の先送りを続けていたのである。
次回「メス豚と新たな魔法」




