その120 ~崩れる城壁~
◇◇◇◇◇◇◇◇
女王クロコパトラが亜人の担ぐ輿に乗って、兵士達の前に進み出た。
ここまで砦の兵達のざわめきが聞こえて来る。
ざっと見渡しただけでも敵の兵は軽く千を超えている。
味方の兵は約四百。ざっと三倍の戦力差だ。
しかも、砦にもまだ数多くの兵が残っているのが分かる。
アントニオ・アモーゾは厳しい表情のまま女王の背中を見つめた。
彼は砦の規模から、敵の総数は約五千と踏んでいた。
こちらの約十倍の戦力だ。
これは圧倒的、いや、絶望的な差と言えた。
彼はまだ幼い指揮官に振り返った。
「ラリエール様。もし女王の魔法の戦果が不完全なものであると思われた場合、私は自身の判断で兵士を撤退させますので」
「アントニオ! お前!」
まだ幼くてもルベリオはラリエール男爵家の当主だ。更に現在の彼は第三王子イサロから直々に部隊の指揮を任されている。
アントニオの言葉は軍規の上でも、爵位制度の上でも許されるものではなかった。
青ざめるベルナルドに対し、アントニオは冷ややかな視線を向けた。
「俺の首ひとつでアモーゾ家の兵が無駄に命を落とさずに済むのなら、俺は自分の命など惜しまない。最後までラリエール様に従いたいのであれば、ベルナルド。お前のクワッタハッホ家の兵だけでやってくれ」
「バカを言うな! お前の首だけで済むはずがないだろう! 最悪生き延びた部下も道連れだぞ!」
「ここで死ぬのと何が違う? 俺は兵が生き残る可能性が僅かでもある道を選ぶだけだ」
二人の口論はルベリオが上げた手で遮られた。
「分かりました。認めましょう」
「ラリエール様!」
「いいのです、ベルナルドさん。その時は私の見る目がなかったという事なのですから」
ベルナルドはルベリオがアントニオを見限ったと思った。そう取れる状況だったのだ。彼がそう考えたのも無理はないだろう。
しかし、ルベリオが「その時には見る目が無かった」と言ったのはアントニオに対してではなかった。
クロコパトラ女王に対しての話だったのだ。
(この程度の戦力差を補えないのであれば、厳しいようですが女王の魔法もそれまでという事。この国の新しい力として使うには力不足でしょう)
大陸の三大国家に囲まれた小国サンキーニ。
ルベリオはこの国が生き残るためには、他国の軍を圧倒する新たな軍事力が必要だと考えていた。
その全く新しい力を彼は亜人に――亜人の守護者を標榜する女王クロコパトラの魔法に――期待していたのだ。
当たり前の戦力は要らない。必要なのは兵力差をひっくり返す圧倒的な力。
三大大国の軍事力に匹敵するデタラメな力。
厳しい条件かもしれない。だが、三倍の戦力に負けるようなら、今後、大国の軍に対抗する事など到底出来はしない。
大国との国力比は十倍に近いものがあるのだから。
ザワッ。
兵士達のざわめきにルベリオはハッと顔を上げた。
いつの間にか自分の考えに沈み込んでいたようである。
彼らの見つめる先でクロコパトラ女王は両手を上げていた。
遂に女王の魔法が行使されるのだ。
女王からはどんな魔法を使うのか聞かされていなかった。
ルベリオは息を飲んでその瞬間を待った。
「EX最大打撃」
何だ? 一体何が起きる?
しかし、いくら懸命に目を凝らしても、女王の周囲には何の変化も無かった。
そして敵兵が倒れる様子もない。
もしや攻撃の魔法では無かったのだろうか?
ルベリオは、いや、周囲の兵士達も戸惑いを隠せなかった。
その時、急に敵兵が浮足立った。
ここからは分からないが、彼らの周囲に何かが起きているようである。
激しく狼狽して右往左往する兵士達。
彼らの立てる土煙が次第に大きくなって――いや、違う。
「バ・・・バカな。まさかあれが女王の魔法によるものなのか」
ようやく何が起こっているのか理解したのだろう。
味方の兵士達のどよめきが次第に大きくなっていった。
「城壁が・・・揺れている」
そう。あの土煙は兵士達の足元から上がったものではない。
その背後。彼らの出て来た砦。その城壁から上がっていたのだ。
「魔法で城壁を崩そうとしているのか? まさか。そんな事が出来るはずがない!」
それは恐るべき光景だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ
腹に響く低い音を立てながら、砦の城壁がその半ばからゆっくりと崩れ始めたのだ。
岩壁のように巨大な城壁が、まるで積み木細工のように崩れていく様は、どこか現実感が薄かった。
城壁から流れ落ちる大量の土砂が、土煙となって広がり、悲鳴を上げながら逃げ惑う兵士達を覆い隠していく。
土煙の中では落下した石が、建材が、彼らを押しつぶし、埋め尽くす。
おそらく相当数の被害が出ているのではないだろうか。
城壁の前に布陣したのがあだとなった形だ。
「これが・・・これが女王の魔法」
「そんなバカな。こんな事があっていいはずはない。これは何かの間違いだ」
ルベリオ達が驚愕に目を見張る先で、しかしまだクロコパトラの魔法は終わっていなかった。
むしろ始まりでしかなかったのだ。
城壁は周囲の兵士達を巻き込みながら、遂にその半ばから崩れ落ちた。
そして――
「なんだあれは?」
「石だ! 城壁の大きな石がいくつも宙に浮いているぞ!」
「なんだ?! 俺達は一体何を見ているんだ?!」
城壁の支えとなっていた何十トンもあろうかという巨石が、天高くフワフワと浮かび始めたのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
砦の城壁の上では兵士達が顔を見合わせていた。
「何だこの振動は?」
「地面が揺れているのか?」
違う。揺れているのは地面ではない。震源地は彼らの踏みしめている城壁そのものであった。
パラパラと細かな石が落ちる音が響き始めると、大きな土煙が立ち込め、城壁の下で右往左往する兵士達の姿を覆い隠していった。
「うろたえるな! 持ち場を守れ!」
「敵はすぐそこにいるんだぞ! 敵襲に備えろ!」
部隊長の現状維持の命令は、しかしこの場合、最悪の結果を招く事になる。
「足元が!」
「うわああああっ! 崩れる!」
城壁の揺れは収まるどころか益々大きくなり、遂には大きな音をたてて崩れ始めたのだ。
ドドドドドドド
「ギャアアアアア!」
「た、助けてくれ!」
城壁の建材となった巨石が雪崩を打って崩れ落ちる。
城壁の上から落下して骨を折る者、石に体を挟まれて体の部位を切断される者、崩れて来た石に押しつぶされて圧死する者。
視界を覆う土煙。兵士達の上げる悲鳴。
周囲は一瞬にして地獄絵図の様相となった。
しかし、彼らの不幸はまだ始まったばかりだった。
「おい、上を見ろ! なんだあれは!」
「石? なのか?」
土埃で全身真っ黄色になった兵士達が見上げる先には、巨大な石がプカプカと浮かんでいた。
その数十個。巨石が宙に浮かぶさまは非常識でどこか間が抜けて見えた。
彼らが見つめる中、巨石はゆっくりと砦の方へと移動すると・・・
突然糸が切れたように落下を始めた。
「なっ・・・!」
ドン! ズドン! ドン!
何十トンもある巨石が次々と砦内に落下した。
巨石は真下の建物を押しつぶし、たまたま真下にいた人間を押しつぶし、砦そのものにもぶつかってその一部を崩した。
だがこれは始まりに過ぎなかった。
崩れた城壁の中から新たな巨石が十個。
再び宙に浮かぶと、砦へと移動を開始したのである。
ここに至って兵士達はいやでも気付かされた。
これは攻撃なのだ。先程敵軍に現れた輿に乗った黒髪の女。
あの女が。あの魔女が。あの悪魔が殺意を持って、この巨石を操っているに違いない。
しかし、犯人を探り当てた所でどうする事も出来ない。
巨石は今も砦の上空から彼らを押しつぶそうと狙っているのである。
兵士達は算を乱して逃げ惑う事しか出来なかった。
仲間に突き飛ばされて倒れる者。倒れた者に足を取られて倒れる者。怒声。悲鳴。
倒れた者達は次々とのしかかる仲間達の下敷きになり、大けがを負った。
そしてそんな彼らの上に、巨石は無慈悲に落とされた。
非力な人間の力で、天から落下する巨石に対抗出来るはずもない。
彼らの体を守る鎧も、巨石の圧倒的な重量の前には何の役にも立たない。
人間の柔らかな肉体は、硬い大地と何十トンもある巨石との間に挟まれると、地面に赤黒い染みを広げた。
落とされた巨石が、崩れた建物が、悲鳴を上げながら逃げ惑う兵士の逃げ道を制限し、あちこちで大渋滞を引き起こした。
そしてそんな彼らの頭上から、次の巨石が落下する。
クロ子は特に狙いすまして落下させている訳では無い。
淡々と機械的に巨石を持ち上げては落としているだけなのだ。しかし被害者達は、まるで自分が狙い撃ちされているように感じていた。
悲鳴。混乱。絶望。絶叫。嘆き。嗚咽。
巨石が落下する音が、建物が崩れる音が、哀れな犠牲者の絶叫をかき消し、立ち昇る土煙が凄惨な光景を覆い隠した。
それは誰もが経験した事の無いこの世の地獄だった。
次回「メス豚と砦崩しの魔女」




