その115 メス豚と二日目の行軍
むっ・・・朝か。
まだ太陽は昇っていないが、周囲から夜の闇は消え、空も薄っすらと明るくなっている。
山頂に近いこの場所では、特に朝の冷え込みが激しいようだ。
私は冷たい地面の上でもぞもぞと体を動かした。
はあ~、戻りたくないわ~。
また一日、あの義体の中に入ってなきゃいかんのか。
嗚呼、このまま風のようにどこまでも山の中を駆けて行きたい。
私はブヒっとため息をついた。
気分はまるで休日明けの月曜日。
あ~、学校行きたくない。夜の間に地球の自転が逆転して、今日も日曜日になってたらいいのに。
そんな気分。
『くっそ。しゃーない。行くか』
ここで投げ出すわけにもいかんからな。この作戦には亜人の村のみんなの未来がかかっているんだ。
やってやるっての、コンチクショー。
私は「えいや」と気合を入れて立ち上がると、朝露に豚足を濡らしながらキャンプ地へと戻るのだった。
朝食を終えるとキャンプの片付けが始まった。
とはいえ、大きな荷物はせいぜいテントくらいだ。
テントと言っても、ホームセンターで売っているようなキャンプ用のテントじゃない。
真ん中に支柱を立てて三角形の布を二つ折りにした、簡易式の物だ。
とはいえ、こんなものでも雨風をしのぐ役にはたつらしい。
ショタ坊軍の好意で何張りか借してもらった亜人達は、その使い心地に随分と興奮していた。
「これは便利だな。折りたためば狩りの荷物にも入りそうだ」
「ああ、いいよな。仕組みは簡単だし、村に帰ったら俺達も作るか」
なる程。これはうっかりしていたな。
彼らも今後は私に付いて戦場を渡り歩く事になる。キャンプをする時の道具一式は必須だろう。
後で水母に相談してみるか。
ショタ坊が貴族コンビの兄ちゃん達を連れてやって来た。
「クロコパトラ女王。私共の準備は整いました」
「そうか。ならば参ろうぞ」
こうして私達の山越え二日目が始まった。
今日は基本的に尾根沿いを東に向かう事になっている。
アップダウンはあるものの、昨日のように険しい崖を登る場面は無い予定だ。
「とはいうものの、コイツは地味にキツイぜ」
「カルネ、足元に気を付けろ。滑りやすいぞ」
それでも部分的には難所と呼べる場所はある。
カルネ達は駕籠を落とさないように、慎重に斜面を下りている。
正直言って危なかしくて仕方ない。次からはこういった場所では、水母に頼んでこっそり駕籠を浮かせてもらおうかな?
まだ問題というほどの問題にはなっていないが、今日になって、ショタ坊軍では小休止の度にケガ人の姿が目に付くようになっていた。
一晩テントで寝た程度では、昨日の疲労が抜け切れていなかったのか、あるいは二日目になって気が緩んでしまったのか。
転倒して足をくじいたり、不用意にはじいた木の枝で負傷したりと、つまらない理由によるケガが増えているようだ。
多分、原因は気の緩みの方かな。
ショタ坊の所の貴族コンビも同じように感じたのだろう。
上司であるショタ坊に相談に向かった。
彼ら的にはコッソリ相談しているつもりかもしれないが、豚の聴覚を侮るでないぞ。
このくらいの距離なら、集中さえすればバッチリ聞き取れるのだよ。
「兵達の気の引き締めが必要かと思います」
これは優男君の声だ。ショタ坊は小さく頷いた。
「確かに。今のままでは大きなケガに繋がりかねませんからね。分かりました。次の休憩の時に私がみなさんに言って聞かせ――」
「いえ、ここはアントニオに任せるのがよろしいかと。コイツの得意分野ですから」
優男君の言葉に今度はガッチリ君が頷いた。
「お任せを。なあに、何人かコイツで張り倒せば少しは気合が入るでしょう」
朗らかな笑みを浮かべながら拳を握りしめるガッチリ君。
いやいや、コイツって、あんた思いっきりゲンコツを握っているじゃん。
それだと”張り倒す”じゃなくて、”殴り飛ばす”になるじゃん。
これにはショタ坊もギョッとしている。
「あ、あの。まだ行軍は続きますので、お手柔らかに・・・」
「お手柔らかでは効果が無いでしょう。なあに大丈夫。多少顔面が腫れたところで行軍に支障はありませんよ。別に手足を折る訳じゃありませんからね」
「ついでにウチのも何人かやっておいてくれ。流石にケガ人の発生が目に余る」
当たり前のように交わされるバイオレンスな会話に、すっかり鼻白むショタ坊。
てか、私もドン引きだわ。騎士団怖っ。
「あの、叩いてケガをさせては本末転倒ではないでしょうか?」
「大きなケガをさせないためには、多少のケガや痛い思いをするのもやむを得ないでしょう」
「そういう事です。むしろ叩かれる者は、これですんだと感謝するべきなんですよ」
うぉい! 叩かれて感謝ってどんなドMよ?!
体育会系だからか? 体育会系はみんなこうなのか? インドア派の私には一生理解出来ない世界だわ。
「ワンワン!」
そんなアレな会話に耳を澄ませていると、ピンククラゲを頭に乗せたアホ毛犬が戻って来た。
ピンククラゲ水母はフルリと体を震わせると、こっそり私に告げた。
『この先要注意。風向きが悪い』
「マジか! カルネ、止まって! ウンタ! ショタ――じゃなかった、人間の軍のリーダーを呼んできて! 急いで!」
私達は慎重にその場所に近付いて行った。
人間には感じられない極僅かな異臭。確かにコイツはヤバイわ。
「あれがその危険地帯ですか」
「何ということもない場所に見えますな」
そう。私達の前方に広がるのは開かれた原っぱ。
特になんの変哲もない場所だが、ここには自然が作った目に見えない即死トラップが仕掛けられているのだ。
「・・・そういえば聞いた事がある」
ここで優男君が何かを思い出したようだ。
てか、「そういえば聞いた事がある」って漫画の便利解説キャラかよ。
リアルでその台詞初めて聞いたわ。
「山の中では、稀にどこにもケガのない動物や羊飼いの死体が見つかる事があるそうだ。大地神マディソスが魂を抜いたとか言われているらしい」
「それなら私も聞いた事があります。いつもと風向きが違う時には山に入ってはいけないって。大地神マディソスの怒りを買うからとか」
大地神ね。本当にこの世界に神様がいるなら、今の私の境遇に一言文句を言いたい所だわ。
そしてショタ坊達は神だの何だのと言っているが、そんな訳はない。これはただの自然災害だ。
日本でも昔、陸上自衛隊員のレンジャーが、八甲田山で死亡した事故がある。
もちろん神様の仕業なんかじゃない。彼らは山で発生していたガスで中毒死したのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇
1997年(平成9年)7月12日。青森県八甲田山で、レンジャー訓練中の陸上自衛隊員3人が死亡するという事故があった。
八甲田山には火山ガスの噴気孔が点在しており、彼らは訓練中にあやまって窪地に落ち、溜まっていたガスで中毒死してしまったのである。
事故の翌日、東京工業大学草津白根火山観測所が現地のガス成分を調べた所によると、窪地でのCO2濃度は大気中の約500倍の濃度があった事を確認している。
◇◇◇◇◇◇◇◇
大気よりも重いガスは低地に溜まりやすい。
そう。ちょうど我々の目の前の土地のように、周囲よりもへこんだ場所に溜まるのだ。
ここからでは見えないが、あの辺にはうっかり足を踏み入れてしまった野生動物の骨がゴロゴロ転がっているはずだ。
私ら四つ足の動物は、二本足の人間よりも頭の位置が低いからな。酸欠でコロリとやられてしまうのである。
私は水母に頼んで右腕を上にあげてもらった。
「あの辺りからガスが噴き出しておる。それほどの量ではないが、風向きが悪いとそこな窪地に溜まって、立ち入る者の命を奪うのじゃ」
「まさか、毒ガスですか?!」
ショタ坊がギョッと目を剥いた。
毒かどうかで言えば毒だが、多分、君が考えているような、吸い込んだらすぐに死ぬような猛毒じゃないと思うぞ。
「しかし、だとすれば、我々は一体どうすれば・・・ 毒を相手に槍で戦う訳にはいきませんし」
「クロコパトラ女王には何かお考えがあられるのですよね?」
ガッチリ君は脳みそまで筋肉だな。槍で戦うって。
そして優男君は私の方へと向き直った。おいよせ、ウインクをするんじゃない。たまたま目が合っただけで、他意は無いからな。
「さっきも言ったであろう。風向きが悪い――とな」
「風向き・・・そうか! 風が今と逆向きになったのを見計らって、一気に抜ければいいんですね?!」
ショタ坊がペチリと手を打った。
そういう事。
「午後になれば風の向きも変わろう。それまで離れた位置で体を休めておけば良い」
「分かりました」
私達は後方に残した兵士達の所に引き上げる事にした。
「それにしても、もしクロコパトラ女王がおられなければ、我々は何も気付かずにあの場所に入り、毒にやられて全滅していた所です。女王は地上に降り立った美の女神アローラの如き美しさをお持ちだ。しかし、その美貌にもまして知恵の神ルサリソスの叡智を授かっておられる。このベルナルド、先程の女王の言葉に、今までの人生で自分がいかに暗闇の中を手探りで歩いて来たか、その恐ろしさを思い知らされた思いが致しました。例えるならば、闇夜に月光が迷える旅人の足元を照らすように、女王の叡智は迷える私共を導いて下さる。そして旅人が月の美しさと神々しさに魅了されるように、我々もまた女王の美しさの前に魂を震わせるのです。私の心は親を求めるひな鳥のように女王の――」
長っ! そのポエムまだ続くのかよ!
ここぞとばかりに妙なスイッチが入る優男君。
ちょっと、みんな見てないで助けて欲しいんだけど。誰かこの人何とかして欲しいんだけど。
次回「メス豚と千尋の谷」




