その114 メス豚と初日の終了
ほぼ垂直に切り立った断崖絶壁。目もくらむような崖の上に、二人の亜人の青年がへばりついている。
彼らは崖に作られた30㎝ほどの細い道の上を、横ばいになりながらジリジリと移動して行く。
先頭を行く小柄な亜人――ウンタが、後ろの男カルネに手を伸ばした。
「この辺に一つ打ち込もう。杭をかせ」
「ちょ、ちょっと待て。・・・よし、ほらよ」
「よっと・・・むっ」
カルネは腰に下げた袋から鉄の杭を取り出すと、ウンタに手渡した。
ウンタは頭の少し上の位置に杭を押し当てると、手にした木槌で杭を叩いた。
カツーン、カツーン
崖に杭を打ち込む音が響いた。
衝撃で剥がれた小石が複数、カラカラと音を立ててながら遥か崖下に転がり落ちていく。
ここから転落すればひとたまりもないだろう。
高所恐怖症の人間でなくとも肝が冷える光景だ。
二人の作業を息をのんで見守る亜人の男達。
ショタ坊達、人間の兵士達も不安げな表情でウンタ達の作業を見つめている。
彼らの気持ちは良く分かる。良く分かるが・・・ぶっちゃけ、見た目ほどは危険な作業ではないんだがなあ。
なぜなら――
「水母。二人が落ちそうになったら頼むわよ」
ウンタの背中でピンククラゲ――水母がフルリと震えた。
そう。ウンタ達は水母を背負って作業をしているのである。
水母にとってみれば、二人が崖から落ちそうになった時に支えるなど朝飯前。
フルハーネス型の安全帯を着用して作業をしているようなものなのだ。
「よし。これで十分だろう。次に行くぞ」
「おう」
しかし、二人は水母の魔法が信用出来ないのか、あくまでも自分達の力で作業を続けるようだ。
慎重の上に慎重を重ねて、少しずつ先に進んでいる。
私としては若干のもどかしさを感じる遅さだ。
てか、こんな事になるなら、最初から手を抜かずにもっと広い道を作っておけば良かったわい。
私にとっては退屈な、周囲にとっては神経をすり減らす作業は、約三十分程で終わった。
ウンタ達は打ち込まれた杭にロープを渡しながら、崖の向こうから帰って来た。
「ここから見えているあの辺りで、大体六~七割くらいの道のりだ」
「思っていたより先は短かったな。少し進めばすぐに向こう岸が見えて来ると思うぜ」
二人の報告にホッと弛緩した空気が流れた。
ウンタは水母を背中から下ろすと、私の膝の上に乗せた。
「ご苦労様。どう? 水母は役に立った?」
「いや。見た目より意外と道がしっかりしていたんで、危ない場面は全然無かったな」
そうだろう、そうだろう。私が苦労して作った道だからな。
あまりにみんながビビるもんだから、「倍くらいの幅で作っておけば良かったかも」とか、ちょっと不安になってしまったわい。
なかなかやるじゃないか、私。
私は自分の仕事に密かに悦に入った。
「出来れば今の倍広ければもっと助かったが」
「そうだな。強風が吹きつける度に、体が持っていかれるんじゃないかとハラハラしたぞ」
おおう。早速、二人からダメ出しを食らってしまったわい。
どうやらいつものように調子にのってしまったようだ。反省。
「水母もお疲れ様」
『・・・若干の不満』
私の膝の上でピンククラゲがフルリと震えた。
どうやら自分の出番が無かったのと、ウンタ達が自分の能力を信用せずに作業をしていたのが不満だったようだ。
そんなに気を落とさなくても。
そのうちみんなにも、アンタの良さが分かってもらえる日が来るって。
私が水母を慰めている間にも、亜人の男達が次々と崖の道を伝って行った。
みんなスゴイな。私だったら足がすくんで動けないんじゃないか?
お前がこの道を作ったんだろうって? さっきも言ったけど、私には水母が付いていたから。
それでもかなりおっかなかったよ。私って高所恐怖症だからな。
「私達も先に進みましょう。行くよ、コマ!」
「ワンワン!」
私に呼ばれて、アホ毛犬が尻尾を振りながら走って来た。
コマはピョンと駕籠に飛び込むと、ご機嫌な様子で私の膝の上の水母をペロペロと舐め回した。
相変わらず君らは仲良しさんだな。
「水母。行って頂戴」
『承りました』
水母の魔力操作で駕籠がフワリと浮かぶと、空中を突っ切って崖の向こう側へと向かった。
あ、やべっ。ウッドブラインドを下げてもらうのを忘れてたわ。
途端に眼下に広がる大パノラマ。
うひょーっ! 高っっ! 怖っっ!
コマは腰が抜けたのか、ガクガクと震えながら、必死に水母を舐めている。
不安と恐怖で何かに縋り付かずにはいられないようだ。
水母もこれには迷惑そうにしている。
ちょっとコマ。アンタがビビるのは別にいいけど、駕籠の中でオシッコをちびんないでよ?
私が粗相したとか思われたら、許さないんだからね。
結局、全員が崖を渡り切るのに一時間以上もかかった。
大した距離は無いとは言っても、四百人からの人数が一列になって横ばいで進んだからな。
むしろこれでも早かった方なんじゃない?
帰りの事も考えて、杭はそのまま残しておく事になった。
ただしロープは回収させてもらう。今後も使うだろうからな。
崖からしばらく歩いた先には湧き水があって、小さな沢が出来ていた。
今夜のキャンプ地は、沢からほど近い場所にある開けた広場に決まった。
早速、立てられた天幕の中で、私達はショタ坊達と明日の打ち合わせをする事になった。
打ち合わせ、と言っても、報告会のようなものだ。
初日は特に大きな問題は発生しなかったし、この後は食事の支度とか色々と忙しいからな。
「今日一日でかなり山の上の方まで登って来ましたね」
まあそうだな。明日からはすぐそこに見える尾根を伝って、隣国を目指す事になる。
つまり今日みたいな崖登りは、もうしなくてもいいという事だ。
「そ、それは助かります!」
私の言葉に思わず表情が緩むショタ坊。
ショタ坊軍の二人の青年貴族の顔にも、安堵の笑みが浮かんでいた。
やはり彼らも今日の行軍はキツかったようだ。
けど、君達ちょっと気が緩みすぎなんじゃない? 一応釘を刺しておくか。
「全く無いと言う訳ではないぞ。そこは勘違いしない事じゃ」
「あっ――そ、そうですね。それに私達の気の緩みが部下に伝われば、思わぬ事故を生むかもしれませんし」
「ごもっとも。クロコパトラ女王のご諫言、このベルナルド、汗顔の至りにございます」
「確かに。山越えはまだ初日が終わったばかり。山を見て登ったような気になっていては部下に示しがつきませんしな」
まあ、危険な山越えで、ここまで大きなケガ人も無く来られたんだから、ショタ坊達の気が緩みそうになったのも仕方がないか。
しかし、百里を行く者は九十を半ばとす、とも言う。
カードゲームだって、初手が良い時ほど、得てしてその後の引きが悪かったりするものだ。
上手くいっているからといって油断は禁物なのである。
その後、我々は少しだけ報告会を続けた後、ショタ坊達の天幕を後にした。
こちらはこちらでキャンプの準備があるからな。
――というのは実は口実だ。
・・・もういいんじゃない? いいよね?
私はソワソワしながらウンタに尋ねた。
「ねえ、そろそろいいんじゃないかなあ。兵士達もテントの用意に食事の準備にと、私達に構っている場合じゃないみたいだしさ」
「・・・分かった」
渋々頷くウンタ。
いよっしゃあ! そうと決まれば、もう待ちきれないぜ!
早く、ほら早く。 じらしプレーか? そういう趣味なのか? ああん、このいけずぅ。
「変な声を出すんじゃねえよ。誰がそういう趣味だ。ほら、ここなら人間のヤツらから死角になるだろう」
カルネが指示を出すと、茂みのすぐ横に駕籠が下ろされた。
いよっしゃあ! 待ちかねたぜぃ! ソイヤッ!
バリッとクロコパトラ女王の背中が割れると、中から黒い子豚ちゃんが誕生!
ああっ! 生き返るわあああ! この解放感たるや! た、たまらん!
やっぱ、一日中入ってるもんじゃねえな! この義体はよお!
「一日中って、昼間に一度抜け出しているだろうが」
あんなの数のうちに入るかよ。とうっ!
私は地面にダイブ。そのままゴロゴロと転がり回った。
これこれ、この感触。じっとり湿った土に青臭い草の匂い。癒されるわあ。
はっ。私、理解した。生き物は大地から離れては生きられないのだ。
生きとし生ける者はみな全てこの惑星の一部。命はこの星で生まれた兄弟なのだ。
分かって頂けるかな? 十勇士の諸君。
「だから何だよその十勇士って。おい、カルネ」
「分かってる。せーの」
ウンタが手早く中身の抜けた女王の姿勢を整えると、カルネ達が駕籠を担ぎ上げた。
「女王不在は俺達が適当に誤魔化しておくから。けど、調子に乗って人間に見付かるなよ? それと朝までには戻って来るんだぞ」
分かっておるわい。心配ご無用。ほら、行った行った。
ウンタは「どこまで信じていいんだか」といった表情で、小さく肩をすくめた。
さあ、待ちに待った自由時間だ。今夜は眠らせないぜ!
次回「メス豚と二日目の行軍」




