第百八話 危険な檻
グロスモントの城に到着したベルブが真っ先に向かったのはエリスの部屋だった。
服装を整え、近くに置いてあった鏡で髪型をチェックする。
そして準備を終えるとベルブは部屋の扉をノックした。
「――どうぞ」
鈴の音のような綺麗な声に聞き惚れつつ、ベルブは失礼しますと言って扉を開けた。
部屋に入ると椅子に座るエリスの姿があった。
相変わらず美しい。見る度に美しさが増しているような気さえしてくる。
だらしのない笑みを浮かべながら、ベルブはエリスに頭を下げた。
「ごきげんよう。姫殿下」
「ごきげんよう。ラッセル公爵。なにかありましたか? この前は出陣の挨拶に来たはず?」
「いやぁ、お恥ずかしい。このベルブ。姫殿下にお会いしたく帰ってまいりました」
「それは本当に恥ずかしい話ですわね」
冷ややかな視線をエリスはベルブに向ける。
レスターとベルブ。どちらもエリスを罠に嵌めた男たちだが、エリスの両者への評価は天と地ほど離れていた。
レスターは領民たちの評判もよく、多くの者がエリスの夫に相応しいと判断していた男だ。対してベルブは家柄以外ではレスターに勝るモノがない。そのくせ、プライドだけは高い困った男というのがエリスの印象であった。
さらにいえばエリスはベルブの視線が苦手だった。
ねっとりと絡みつくようないやらしい視線で、いつもエリスを見てくるからだ。それも初めて会ったときからその視線は変わらない。
各地で気に入った娘を見つけては屋敷に連れ帰り、飽きては奴隷として売っているという噂も聞いており、エリスにとってベルブというのは嫌悪の対象でしかなかった。
しかし、そんなことにベルブは一向に気づかない。
「どうでしょうか? ここでの暮らしは」
「自由がないこと以外は完璧ですわ」
「それは素晴らしい」
皮肉のつもりで言ったのだが、ベルブは満面の笑みで頷く。
あえて皮肉を笑顔で受け止めたようにも見えず、エリスは内心ため息を吐く。
「しかしこの城ばかりではいささか退屈でしょう? 我が城に来られてはいかがです?」
その言葉にエリスの表情が強張る。
エリスにとって御しやすいのはレスターよりも圧倒的にベルブだ。
しかし、ベルブの下に行くというのは猛獣の住処に足を踏み入れるようなものであった。
レスターは理性的であり、エリスの価値を最大限に理解しているがベルブは違う。
レスターの下を離れ、ベルブの下に行った場合、何をされるかわかったものではないとエリスは危機感を覚えたのだ。
「随分と余裕ですわね? 城から城へ移動させる最中に襲撃されるとは考えないのですか?」
「十分に警護をつけます。問題はありませんよ」
そう言ってベルブはエリスに近寄るとその手を軽く握る。
まるで虫が手を這いまわる気分を味わいながら、エリスはグッと堪えた。ここでベルブの機嫌を損ねるのはエリスにとって益がないからだ。
レスターもベルブも目的は一緒。共通の敵がいるからこそ協力しているが、その団結は脆い。エリスが欲しいと思えば思うほど対抗する者が邪魔になってくる。
囚われの身であるエリスにできることは、二人にとってより魅力的でありつづけ、二人の協力関係に亀裂を入れることくらいだった。
だからこそエリスはベルブの無礼な行為を我慢して、柔らかく笑って見せた。
「ふふ、ラッセル公爵。あまりここにいるとレスター様に怒られてしまいますわよ?」
あえてグロスモント侯爵ではなく、レスターとファーストネームで呼んで見せた。さらに上位者であるベルブが怒られるという表現を使うことで、エリスの認識を正確にベルブに伝える。
レスターのほうが上であるという認識を、だ。
「あのような若造に私が怒られると!? とんでもない! 姫殿下、あの若造に何を吹き込まれたのですか! 私は西部諸侯同盟の盟主ですぞ!?」
「別に他意はありませんわ。ただなんとなくそう感じたまです。お気になさらずに」
「いえ、気にします! それに奴をレスターと呼びましたな!? あやつにそう呼べと言われたのですな!」
怒りを露わにするベルブを見て、エリスは自分の試みが成功したことを察する。
一方のベルブはベルブで、自分が密かに感じていた不安が実際に起きていたことに衝撃を受けていた。
自分が前線にいる間に後方でレスターはエリスとの仲を深めようと工作していた。それはベルブには許せない裏切りだった。
やはり油断ならない最大の敵は奴だったとベルブは顔を真っ赤にしながらそう再確認する。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
「失礼いたします。姫殿下」
完璧な礼儀作法で入ってきたレスターは顔を上げると一瞬、硬直する。
ベルブが自分を怒りの眼差しで見ていたから、ではない。
ベルブの手がエリスの手を握っていたからだ。
あまりにも不快な光景にさすがのレスターも固まってしまったのだ。
「グロスモント侯爵! 何の用だ!」
「……こちらにラッセル公爵が向かったと聞いたのでな。西部諸侯同盟の一員として盟主を出迎えないといけないのでな」
「ふん! そんなものは不要だ! ワシはしばらく姫殿下と話す! 貴様は下がっておれ!」
「わかりましたと言いたいところだが、緊急の案件がいくつかある。それを片付けてからにしてもらいたい」
「断る! ワシは盟主だぞ! 貴様はワシの下についたのだ! 言うことを聞け!」
「ほう? ではその緊急案件を私が処理してよいと?」
「勝手にしろ!」
「では勝手にさせてもらおう。彼との連絡は以後、私がする」
その言葉でベルブの顔から血の気が引く。
パッとエリスの手から手を放し、ベルブはすぐにレスターを引き留める。
「ま、待て! ワシがやる!」
「勝手にしろと仰ったはずだが? まさか西部諸侯同盟の盟主が姫殿下の前で発した言葉をすぐに撤回すると?」
「そ、そう言うな……。戦場から帰ってきたばかりで気が立っておったのだ。緊急案件はワシが処理しよう。貴様は姫殿下のお相手をしておれ」
そう言ってベルブはそそくさと部屋から出ていく。
その姿を見てレスターはため息を吐く。
「ささやかな反撃といったところですかな?」
「わたくしはほとんど何もしていませんわ」
「でしょうな。思い込みの激しい男ゆえ、勝手にいろいろと想像したのでしょう」
レスターはため息を吐くとハンカチを取り出してエリスの手をぬぐう。
別に汚れているわけではないが、レスターにとって完璧な女性であるエリスの手を、まったくもって相応しくないベルブが握ったことが許せなかったのだ。
「あなたも大変ですわね」
「ええ、大変です。聖騎士たちもなかなか言うことを聞かずに困っています」
「聖騎士とはそういうものですわ」
「困ったものです。まぁ彼らが時間を稼ごうとするのはこちらとしても好都合ですが」
そういうとレスターはエリスの手を拭くのをやめて立ち上がる。
そして椅子に座るエリスを真っすぐと見据えながら告げる。
「もしもラッセル公爵を操ろうとお考えならやめたほうがよいでしょう。あなたはあなた自身の魅力を過小評価しすぎだ」
「それは忠告ですか?」
「ええ、忠告です。この城には私の兵士たちのほかに腕の立つ傭兵などもいます。私は彼らに三人一組で行動するように命じてあります。どうしてだかわかりますか?」
「統制がしやすいようにでは?」
「見せしめがしやすいからです。これまで三組を処刑しました。いずれもその組の一人があなたの部屋に忍び込もうとしたという理由です。あらかじめそういう行動に出たら、組ごと処刑すると言ってあるのに、そういう行動に出る者がいる。それがあなたの魅力なのです。ラッセル公爵もそういう類の人間だ。あまりその気にさせると何をされるかわかりませんよ?」
そう言ってレスターはその場を後にする。
残されたエリスは目を閉じて自分の身を抱きしめる。
改めて危険な檻の中に自分がいることを自覚したせいか、抑え込んでいた恐怖心が少しだけ溢れてきてしまう。
「トウマ様……」
助けには来てほしくはない。
しかし助けてほしい。
相反する思いを抱きながら、エリスは斗真やリーシャとの幸せな記憶を思い出しながら溢れてくる恐怖を忘れようとするのだった。