その1
世に人を食う鬼の話は数あれど、鬼を食った人の話は珍しい。
しかしそうした物語もないではない。最初のひとつは北欧のある農夫の話。
野良仕事を終え、帰路につく若い農夫の前に、何やらうずくまっているものがあった。
薄汚れた灰色の外套をまとい、苦しげな声をもらしているその顔は老人のものである。若者はすぐさま駆け寄って声をかけた。
「もし、どこか体の具合でも悪いのですか?」
老人は答えない。ただうめいて枯れ木のような手をブルブルと差し出すばかりである。若者は小さな体をかつぎ家へと急いだ。
家につくと老人をベッドへ寝かせ、丁寧に介抱し、自分は床の上で寝た。
甲斐あってか翌日になると老人はすっかり元気になっていた。
「この親切に何とか報いたいと思う」
無欲な若者は気にする必要はないといったが、老人は腰に下げた袋に手を入れると何かを取り出した。それは細い紐にきつく巻かれたひと塊の肉であった。
老人は人差し指を立て、
「これをよく火にあぶってから食うがいい。きっと力になる」という。
そして再び袋をゴソゴソやると、今度は古い頭巾を取り出し、肉と一緒にテーブルの上へ置いた。
若者はそれらを不思議そうに見比べて、礼をいおうと顔を上げたが、すでに老人の姿は消えていた。肉はその日の夕飯で処理された。
次の日若者が畑へ行くと、仕事がいつもよりずっと早くはかどることに驚いた。今まで十鍬入れていたところが、たったの二、三鍬で済んでしまうのである。おまけにいくら動いても疲れない。以前から邪魔に感じていた切り株つかみ、力を込めてえいやと引くと、難なく取り除くこともできた。彼は面白くなっていつもの三倍も四倍も働いた。
その日の帰り道、橋を渡っている際何気なく視線を川へ落したとき、
「おや!」
と彼は声をあげた。
あわてて額にやった手がチクリとした。もう一遍水面を覗くと、左右の眉の上に、奇怪なできものが出ているのが見えた。悪い虫にでも刺されたかと思い、帰ってから薬を塗り、食事を済ませその日は早々に寝床へ着いた。
翌朝眼を覚まし、昨日の事を思い出した若者は額へそっと手をやる。やはり昨日と同じにチクリときた。
「角だ。俺の額から角が生えてきたのだ」
悟った若者は思わず青ざめたが、どうしようもない。仕方なしに老人の置いていった頭巾を手に取って被り、人目に注意しながら畑へと向った。
仕事は相変わらず素晴らしくはかどる。浮かない顔をしながらも見る見る作業をこなしていく姿に、仲間は皆一様に眼を丸くした。
「ありゃあ、いったいどんな魔法だ?」
仕事を終えると仲間が寄ってきた。皆彼の秘密を知りたがったのだ。
しかし若者は何も言わず、気まずそうな顔でそそくさと家へ帰ってしまった。
日を追うごとに若者の表情は沈んでいったが、仕事はだれよりも早く終え、ときには他人の分まで手伝うほどだったので大分重宝された。
あるとき土手の上に腰を掛け休んでいたところを、後ろから娘がそっと近寄り、ふざけて頭巾をさっと取り上げた。
「わあ!」と叫び若者は額を手で覆うと、早馬のように駆け出して行く。後には頭巾を手にした娘がキョトンとした顔で立ち尽くしていた。
それからしばらくして、彼は姿を見せなくなった。
すっかり放り出された畑が荒れていくのを心配した仲間が家を訪ねたが、返事があるばかりで姿を現そうとしない。病気になったので外へ出ることはできないという。ならば医者を呼ぼうかというと、その必要はないと返って来た。
幾日経っても姿を見せようとしない若者は村の噂となった。彼には深くいい交わした相手がおり(あの頭巾を取り上げた娘である)、だれよりも心を痛めていた。訪ねて行っても、大丈夫だ、心配するなという声があるばかりで、娘は次第にさびしさと不安の思いで一杯になっていった。
ある日とうとう辛抱できなくなった娘は、自分の父親を連れて行くと、強引に戸を破ってもらい若者の家へと押し入った。娘は迷わず寝床へと駆け寄ったが、しかしそこで苦しげに身を横たえているであろう男の姿は見えず、ただ、奇怪なほど盛り上がった毛布の山が出来ているのみである。まるで寝所に牛か馬でも寝かせて覆っているかのようだ。気丈な娘は思い切って毛布をめくった。
この世のものとは思えない声が響き、それがわが子の悲鳴と知るや、外で待っていた父親はあわてて家の中へ飛び込もうとした。そこへ内から飛び出してきた娘がぶつかり、親子はそろって庭を転げる。恐怖に顔を歪ませた娘はそれきり動けなくなったようで、父親は彼女をかつぐと急いでその場を離れた。
村の人間は娘の話に半信半疑だったが、界隈の有力者である父親はすぐに人を集め、日の落ちないうちに再度若者の家へと向かった。
手に手に農具などの即席武器を携え、家の前で皆が若干の緊張と、馬鹿馬鹿しさとをないまぜにした表情で待っていると、先に様子を見に入った二人が入口から顔を出し、気の抜けた顔を横に振った。
「どうした?」
「だれもいないようで」
それきり、若者は姿を消してしまったのだった。
娘は今でもその日のことを夢に見るという。寝床でうなされ、跳ねるように起きると、「悪魔が……巨大で、全身赤く毛むくじゃらの、額から杭のような角を突き出した恐ろしい怪物が……あの黄色く光る眼でじっと私を見詰めているのよ――」
といって震えるのだった。
若者は怪物に食べられたということになり、憐れに思った娘の父によって墓が建てられた。だれもが悲惨な犠牲者に同情したが、しかし、それから少し経つと、独自の説を持ち出すものも現れ始めた。
「あいつは怪物に食べられたんじゃない。あいつ自身が怪物になっちまったんだよ。現に、奴が姿を消す前の働きぶりを思い出してみるといい。ありゃあまったく人間技じゃなかったぜ」
酒場でこの説を聞いた大抵の者は「馬鹿げている」といって取り合わなかったが、
「深く斟酌します」
といって応える者も中にはいた。異説を掲げた男はいようと声をかけ、沈うつな面持ちの同意者に麦酒をおごろうとしたが、老人は黙ってその場を立ち去った。
北欧のとある森の奥に、人から変化した者が集って住む所があるという。もし男の説が正しいとすれば、きっとそこへ向ったのだろうと、人々は思い出すたびに語り合った。
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