エーファ視点 子供達の成長
第537話の頃です。
「ただいま。母さん、カミル」
「お邪魔します」
トゥーリとルッツが帰ってきたのは春の洗礼式を間近に控えた日の夕方だった。夕食の支度をしている時の突然の帰宅に、わたしもカミルも目を丸くする。
「今日はルッツもこっちで夕食にしたいんだけど、平気?」
「それはいいけど、二人とも冬が終わると忙しくなるから、滅多に顔を出せなくなるって言ってたじゃない。何かあったの?」
冬が終わると、たくさんやってくる商人達に対応するためにギルベルタ商会もプランタン商会もとても忙しくなる。春の終わりから秋の半ばにかけては、よほどの用がなければ家に戻ることもできないほどだ。「また一年頑張るよ」と言っていたトゥーリが戻ってくるなんて、何かあったに違いない。
「今日は母さんに仕事の話があるの。……父さんは?」
「昼勤だから、そろそろ帰ってくるわ」
「じゃあ、詳しい話は父さんが帰ってからにするよ。何度も同じ話をするのは面倒だもん。ねぇ、ルッツ?」
トゥーリはルッツを振り返って含み笑いでそう言いながら手早くエプロンを身に着ける。夕飯の支度を手伝ってくれるようだ。
「どうせギュンターおじさんには何度も同じことを聞かれるからな。まとめて話した方が良いさ」
ルッツはそう言ってトゥーリの言葉に頷きつつ、一度家に帰ってカルラに今夜泊まることを知らせてくると出て行った。
「トゥーリが戻ってくる時は婚約者のルッツが一緒だから安心よね」
この界隈では一番の出世をしているトゥーリは自慢の娘だ。一人でうろうろしていて、誰かに狙われる可能性がないわけではない。
「……そういう言い方するってことは、ルッツとの婚約の話、決まったんだよね?」
トゥーリが野菜を洗いながらそう尋ねる。その声は何となく不安そうに揺れていた。
「えぇ。ルッツはトゥーリより年が一つ下だけど、結婚資金は問題ないって言ってたし、ウチの色々な事情も知ってるし、こうしてトゥーリがウチに帰る時には付き添ってくれるし、家族同士のお付き合いを考えればこれ以上の相手はいないでしょ?」
トゥーリは夏で成人する。そろそろ本格的に結婚相手を探さなければならない年だ。けれど、頑張り屋のトゥーリは今を時めくギルベルタ商会のダプラ見習いである。貧民が多いこの辺りの者と結婚するのも、トゥーリの仕事場に合わせて結婚相手を探すのも難しい。
正直なところ、ルッツ以外の相手がいないのだ。プランタン商会のダプラ見習いをしているルッツだって相手を探すのが難しいのは同じで、つい最近、わたし達はルッツの両親と話をして、二人の婚約はひとまず調った。
「結婚はルッツが成人してすぐでも、二人が納得できる準備期間を空けても良いのよ。二人の仕事状況に任せるわ」
ルッツは毎年春から秋にかけて遠くの町へ出かけているし、トゥーリも余所からたくさんの商人達が訪れる時期は忙しい。二人とも、成人してからどんなふうに仕事が変わるのか経験した上で結婚した方が良いと思う。
「……成人とか結婚って言われても、あんまり実感がわかないね」
「髪型が変わって、仕事内容が見習いとは違うものになって、結婚のために新居の準備をしていれば、星祭りを終える頃には多少の実感が芽生えるものよ」
わたしの言葉にトゥーリは乗り気でもなさそうな顔で「……うん」と生返事をする。その横顔に、あら? と目を瞬いた。
「トゥーリ、好きな人でもいるの?」
「あ、えーと……正確には、いた、かな? わたしじゃ相手にならないよ」
相手にならないと口では言っているけれど、割り切るのも難しいのだろう。トゥーリの哀しそうな笑みにわたしは申し訳ない気持ちになった。領主の養女の専属であるトゥーリ自身に不足があるはずがない。足りないのは家格だ。
「トゥーリに悪いところなんてあるわけないでしょ? 自慢の娘だもの。仕事場の人が相手なら、不足してるのはわたし達家族の方よ」
「そういう意味じゃなくて、相手の人に好きな人がいたんだけど……。うん。でも、確かに結婚は無理だろうね。全然釣り合わないもん。結婚生活なんて想像もできないよ」
トゥーリは吹っ切ったような表情でそう言いながらわたしを見た。
「結婚は父親同士が決めることだし、ルッツならよく知ってる相手だから不満はないよ」
マインの髪飾りを作る仕事にしか目が向かっていなかったトゥーリは結婚についてもまだあまり考えていないようだ。年頃の娘らしい外見になったけれど、その顔には成人や結婚に対する戸惑いしか見られない。
……わたしはどうだったかしら?
自分の成人前を思い出してみる。ギュンターが足繁く通ってきて求婚を繰り返して、父親が苦い顔で対応をわたしに丸投げしてきたことを思い出した。
……戸惑いしかなかったわね。
自分が今のトゥーリの年頃だった時を思い出して小さく笑った時、ギュンターが帰ってきた。ルッツも一緒のようだ。あの頃はギュンターを自分が迎える姿なんて想像できなかったのに、今はギュンターとの間に生まれた娘が成人間近なのだ。
「ねぇ、トゥーリ。わたしもギュンターに求婚され始めた頃は全く結婚に対する実感がなかったのよ」
「……父さんにそれを言ったら泣くよ」
「秘密にしておいて」
「それで、エーファに仕事の話っていうのは一体何だ?」
夕食に手を付けながら、ギュンターがそう切り出した。トゥーリがルッツと視線を合わせた後、クスッと笑う。
「この間ね、神殿に呼ばれて話し合いがあったんだけど、春の洗礼式が終わったら、ギルベルタ商会はローゼマイン様の衣装や髪飾りの注文を受けるために神殿へ行くことになってるの」
トゥーリはその話し合いの時に見たマインの成長した姿について教えてくれる。急に背が伸びて、雰囲気が大人びてきたらしい。
「それなら、先日、西門でちょっとした騒動があった時に見かけたギュンターから話を聴いたわ。どこから見ても年頃の娘に見えるようになっているんでしょ?」
「えぇ? ちょっと小さめの十歳って感じで、まだお年頃って感じじゃないよ」
「脛丈のスカートに違和感がなくなってきたかって感じだよな?」
トゥーリとルッツの反論から察するに、どうやらギュンターの報告はかなり大袈裟だったらしい。
「ずっと洗礼式くらいの子供みたいな見た目だったのが、やっと脛丈のスカートに違和感がなくなってきたんだぞ。十分に年頃に見えるじゃないか」
ギュンターが必死に反論しているけれど、マインの見た目についてはトゥーリ達の意見を採用しておいた方が良さそうだ。ギュンターはマイン贔屓が過ぎる。
「父さんにはお年頃に見えるってことでもう良いよ。とりあえず、ローゼマイン様がすごく成長しているから、布の雰囲気も変えた方が良いんじゃないかってコリンナ様から提案があってね。ルネッサンスの母さんも同行させたいって願い出てくれたの。それで神殿の許可が下りたから、明後日は一緒に神殿へ行ってほしいんだけど」
「え!?」
思わぬ言葉にわたしは目を丸くした。ルネッサンスという称号をもらったとはいえ、平民の職人が領主の養女に目通りすることは簡単ではない。ハッセで年に二回会えるギュンターや髪飾りの注文を受けるトゥーリやルッツから話を聴くだけで、わたしはずいぶんと長いことマインの姿を見ていない。声を聞いていない。
……マインに会えるの?
「お城に職人を入れるのは立ち居振る舞いや言葉遣いが心配だからダメなんだけど、神殿に出入りする分には目溢ししてくれるんだって。……その、ギルベルタ商会の人が間に立って話を通すことになるから、直接話ができるわけじゃないんだけど」
マインの周囲を守る貴族の側近達に妙な言いがかりをつけられないように少し離れたところから姿を見るだけになるそうだ。それでも、成長したマインの姿を久しぶりに自分の目で見られるということに心が沸き立つ。
「良かったじゃないか、エーファ」
自分のことのように嬉しそうにギュンターが喜んでくれた。自分だけ年に二回間近で接して話をしていることに後ろめたい気持ちを持っていたことを知っている。
「コリンナ様にお礼を言ってくれる?」
「もちろん。当日は晴れ着で来てね。それから、これ、リンシャンだよ」
明日は工房へ行って工房長に休みの連絡をする。ルネッサンスとして神殿に向かうと言えば、すんなりと休みをもらえるだろう。それから、晴れ着を見直して、リンシャンで髪を洗わなければならない。神殿に行くのは準備も大変である。
神殿に行くための準備について考えていると、ルッツがカミルを手招きした。
「オレはカミルに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「何?」
薄い茶色の瞳を輝かせてルッツに駆け寄るカミルの姿がマインの姿に似ていた。微笑ましくて、同時に、寂しい心地を覚えながら二人の姿を見つめる。
「工房見学の話、ダメになった。神殿から却下の連絡がきたんだ」
「そんな! オレ、楽しみにしてたのに!」
カミルの鋭い声が上がった。
「洗礼前の子供を神殿に入れるのはダメだし、この春から貴族の出入りが増えるから極力プランタン商会を危険から遠ざけたいって言われたんだ」
ルッツは困った顔で首を横に振っている。悔しそうに俯いているカミルの姿が見えて、胸は痛むけれど、正直な気持ちを言えば、わたしはホッとした。
神殿に貴族の出入りが増えると聞けば、他所の貴族が入り込んだことでマインを突然失うことになったあの春を思い出してしまう。マインと同じように本を作りたいと宣言したカミルの希望を潰すようなことはしないけれど、親の心情としてはできるだけ貴族には近付いてほしくない。
「ディルクやコンラートも待っててくれるって言ったんだ。それなのに……」
「カミル、そこまで。これ以上ルッツに文句を言うのはダメ。ルッツはカミルを工房見学させてあげたいって張り切ってたんだから。それに、理由まで説明されてる貴族側の却下が呑み込めないなら、プランタン商会に入るのは諦めた方が良いよ」
トゥーリの制止にカミルが唇を引き結んで押し黙った。ルッツがカミルの頭を撫でながら「ごめんな」と謝る。
「オレ達は孤児院に色々と便宜を図ってるから、カミルなら神殿側も受け入れてくれるだろうと思ってたんだ。でも、あの神殿長に却下されたんだ。本当に危険なのかもしれない。お守りももらったからな」
マインは神殿長という役職に就いているけれど、神殿には平民出身ということを知っている神官達がいるし、領主の養女としてお飾りの神殿長をしているはずだ。何でもできるわけではない。トゥーリやルッツの言葉にギュンターも頷いた。
「平民を貴族達の横暴から守ることにローゼマイン様はお心を砕いてくれている。先日、西門で他領の貴族が騒いだ時もすぐに自分の騎士を遣わしてくれたんだ。危険から遠ざけるため、と判断しているならば行かない方が良い」
ギュンターはそこから西門でマインと会った時の話を始めた。わたしとカミルは何度も聞いたけれど、トゥーリとルッツは初めてなので楽しそうに聞いている。二人は西門で騒ぎがあった時、ちょうど商人と貴族の話し合いの真っ最中だったようで、騎士達がマインの命令で飛び出していく現場を見ていたらしい。
「命じるのに慣れた貴族の顔だ、と思ったな」
「テキパキしてて、ちょっと驚いたよね?」
「お貴族様の間で何かあった時にいつだって門へ飛んでくるのはダームエル様だから、彼の顔を見れば兵士達も安心するようになったんだ」
ギュンターはそんなことを言いながら二人の話を楽しそうに聞いているけれど、カミルはつまらなそうに唇を尖らせて自分の席に戻って、足をブラブラとさせ始めた。そして、わたしを睨んで頬を膨らませる。
「母さんは神殿に行けるなんてずるいじゃないか。オレは却下されたのに……。神殿長なんて嫌いだ」
楽しみが却下されて一人ふてくされているカミルには悪いけれど、わたしは久し振りにマインを間近で見られるのが楽しみで仕方がなかった。
「神殿長を嫌いだなんて言っていると、新しい本が届かなくなるかもしれないわよ。ウチに届く本は神殿側のご厚意なんだから」
そして、当日。ギルベルタ商会の人達と一緒に神殿へ向かったわたしは、言われた通りに少し離れたところからマインの姿を見ていた。
皆が話をしていたようにずいぶんとマインの背が伸びている。それに、面差しが変わった気がした。無邪気な子供らしい部分が減って、大人びた顔を見せるようになっている。不健康で寝込んでばかりいたので痩せて青白い顔をしていたけれど、頬がふっくらとして元気そうな顔になっている。
よく手入れされた艶のある髪、豪華な衣装、トゥーリの作った最高級の髪飾り、その隣で揺れている綺麗な石の飾り、それらが相応しい貴族らしい振る舞いを見れば、誰もマインをわたし達の子供だとは思わないだろう。
……でも、あの頃と変わらないところもあるわね。
「ローゼマイン様は少し顔立ちも変わったような気がいたします。夏の飾りはどのような形がよろしいですか? どのような花を使いましょう?」
「好みは特に変わっていないので、今のわたくしに合う花を選んでくださいませ。できれば、布の染めと合わせてほしいと思っています」
トゥーリの作った髪飾りはずっと豪華になっているけれど、髪飾りを飾られて嬉しそうに笑う顔も、二人で新しい髪飾りについて話をしている姿もあの頃を彷彿とさせる。マインの声があまり変わっていないので、尚更そう思うのだろう。ほぼ成人のトゥーリと並ぶと、五、六歳くらいは下に見える。あの頃よりずっと年が離れたように見えるけれど、自分の目には仲の良い姉妹に見えた。
わたしの動向を気にしているマインにくすぐったいものを感じながら、わたしはマインの動きをじっと見つめて、今のマインに似合う柄や色を考える。マインに一番似合う布を準備することが今のわたしにできる唯一のことだ。
……夏の衣装に間に合わせようと思えば、忙しくなりそうね。
遅くなりましたが、9万ポイント記念SSです。