第六章
「嬢ちゃん、あんた自分に人を殺せると思うかね?」
その日、権藤がそう聞いた。鞘華はまた例の訓練の一部だと思ってあまりよく考えずに返事をした。
「多分、自分の身を守るためなら」
「そうかい。それじゃ一人殺してもらおうかいな」
権藤はニマッと笑ってそう告げた。権藤が笑うと顔に深く皺が刻まれ、彫像の表情のように感じられる。鞘華はあまり権藤の笑い顔が好きではない。何だか鮫の微笑みのように見えるからだ。
「私に殺し屋になれってこと? 自分の身を守るためならと言ったはずよ」
「そうさな、嬢ちゃん。あんたが何かを盗まれないように見張っているとする。そこへそれを手に入れるためなら人を殺してもいいと思っている奴がやって来る。で、あんたはその時どうするね?」
「逃げるわ。権藤さん、そうしろって言ったじゃない」
権藤はまた笑った。水族館の硝子の向こうにいるのがふさわしい男だ、鞘華はそう考えた。だが権藤は、鞘華の考えなどお見通しだとでも言うように、顎を掻いて言葉をつなげた。
「逃げられなかったらどうする? それとも相手の狙っているものが、逃げるわけにはいかないほど大事なものだったら?」
鞘華は溜め息をついた。この男はどうでも鞘華を人殺しに仕立て上げたいらしい。考えてみれば権藤の施してくれた訓練は、結局それを目指していたのだ。
「ねえ、どうしても私を殺し屋にしたいわけ?」
「蒲生の旦那に頼まれたのがそれなんでね」
「護身術の訓練じゃないの?」
鞘華は千明と蒲生に騙されたのだろうかと考えながらそう尋ねた。
「それもある。でも一番の目的は、嬢ちゃんを冷酷に敵を殺せる人間に変えることだな」
「敵?」
その言葉が鞘華の心に突き刺さった。それが鞘華に連想させたのは、鞘華が家を出たときの父親の顔だったからだ。今では父親などちっとも怖くはない。権藤の訓練により、ほんの一捻りで殺すことができるとわかっている。拳銃やナイフなど必要ない。人間は急所を狙われると実に脆く、簡単に殺すことができる弱い存在だ。おまけに鞘華には今、ネフュスの力があり、大の男も素手で倒すことができる。だが自分は現実に人間を殺すことができるだろうか? 禁忌を冒し額に刻印を押された人間になることを、恐れていないだろうか? 今、権藤の突きつけた問いが鞘華を震撼させた。それは実際に人を殺したことこそ無くても、蒲生に父親を殺してくれるよう頼んだ時点で、自分はすでに殺人者であったことに思い当たったからだった。
「それで、誰を殺せばいいの?」
鞘華は権藤にそう尋ねた。
「金素妍という女だ」
「女なの?」
「K国の諜報員さ。手強いぞ。暗殺訓練も受けている。テコンドーの使い手だ」
「何で殺さなければならないの?」
「吉田だ」
「吉田って、HHIのあの吉田さん?」
「そうだ。あいつがハニートラップに引っかかった。もう情報も渡している」
鞘華は気弱そうなのにしきりに話しかけてきた吉田の顔を思い起こした。
「吉田さんも殺すの?」
「いや、HHIの連中の志気に関わる。あいつは単純に殺すわけにはいかんのさ」
「不公平ね」
「相手が相手だし、心中に見せかけて殺すなんて芸当は、まだ嬢ちゃんには無理だろう」
鞘華は不服そうに突き出した自分の唇を自分でつまんで引っ張り、それから権藤に聞いた。
「女は今どこ?」
「山麓のラブホで吉田の勤務が終わるのを待っているよ」
「心中ね、いいわやってやろうじゃないの」
鞘華はHHIの男たちが使っている更衣室に忍び込み、吉田のロッカーからネクタイを盗み出した。吉田がいつも締めているストライプの、しけたネクタイだった。
吉田に限らず制御室の男たちは勤務中ネクタイを外し、HHIの縫い取りが胸に入った作業ジャンパーをワイシャツの上に羽織っている。制御室でも杓子定規にネクタイを外さないのは責任者の城野くらいなもので、他の者はロッカーに着てきた上着と一緒にしまうか、最初からしてこない。作業着で通勤してくる者がいないのは、更衣室で着替えるのが始業前の儀式になっているからだろう。自分たちはあくまで技術職だという矜持のようなものが、そこからは感じられた。
盗み出した吉田のネクタイを携えた鞘華は、権藤の車でソオンの待つラブホテルに向った。
こういうホテルに車で入る二人連れをあれこれ詮索するのは野暮というもので、営業上も得になることは何もない。ここはカーポートから直接客室に入ることのできる仕組みになっていて、会計もインターホンとエアシューターで済ませるため、客は従業員と一切顔を合わせる必要がなかった。
鞘華はカーポートの監視カメラから顔を背けて客室に入り、吉田がやって来るのを待った。従業員が画像に注意を払っていたとしても、ジーパンに革ジャンの若い女が体格のいい男と一緒に入ったという以上の情報は得られなかっただろう。
ソオンのいる部屋は、鞘華たちが入った部屋とドアを接していた。勤務時間が過ぎしばらくすると、吉田がタクシーでやって来る。吉田が部屋のドアをノックし声を掛けた瞬間、権藤が跳び出し吉田の首に腕を廻した。ソオンがドアを開けたところに鞘華が相手を押し込むように部屋の中に入っていった。
一瞬眼を見張ったソオンは鞘華に向けて回し蹴りを放ってきた。だが、吉田を迎えるため着飾ったスカートが絡まり、鞘華に容易にかわされてしまう。振り上げられた脚をかいくぐるようにしてソオンの背後に廻った鞘華を、ソオンは見失った。その間に鞘華はネクタイをソオンの首に廻すと、背中に担ぎ上げるようにして絞めた。「クケッ」というような声がソオンの口から洩れる。指で首を掻きむしるが、頸動脈を絞められて程なく意識を失う。しばらく空を蹴るようにして痙攣をしていたが、やがて動かなくなった。
「やー、この人おしっこもらしたわ」
鞘華が権藤にそう言った。
「もう人じゃなくただの死体さ。脱糞もしてるかもしれん」
鞘華は作業用手袋をはめた手で、思わず鼻をふさいだ。
「嫌ね。吉田さんは?」
権藤はまだ吉田のぐったりした身体を抱えたまま立っている。
「気を失っているだけだ」
「さすがね。私じゃそんな手加減はできない」
「何がさすがだ! 最初の殺しを嬢ちゃんみたいにやってのける方が人間離れしている」
そう言いながら権藤は吉田の両手にネクタイを巻き付け、力一杯引かせた。これで吉田の手に、ネクタイでソオンの首を絞めた跡が残る。
その後、ソオンの首から解いたネクタイを使って、権藤と鞘華はバスルームで吉田に首を吊らせた。
「もう絞殺はこりごりだわ」
鞘華が鼻をつまみながらそう言うと、権藤はあきれたように答える。
「殺しってのは汚れ仕事だ、嬢ちゃん。五尺の糞袋、ぶった切ればどこからでも糞が出る」
「だからって、絞り出さなくっても……」
「贅沢言っちゃいけないよ。死人を作るのは穢れなんだ、綺麗な殺しなんて反吐がでらぁ」
それが権藤なりの哲学なのかもしれなかった。
「吉田さんとソオンという女は殺したわ。これで蒲生さんが何をしようとしているか話してくれるんでしょうね」
La plus haute Tourに戻って、鞘華が最初に口にしたのがその言葉だった。蒲生が鞘華に『殺し』をやらせたのは、彼女が『引き返せない』ところまで蒲生の『計画』に関わらせるためだろう。『殺し』をやることで蒲生との関係において千明と『対等』な立場に立つことができる。そう考えたからこそ鞘華はこの汚れ仕事を引き受けたのだった。
「聞きたいかね?」
またしても『悪魔の誘惑』だ。『お前が望んだのだ』という狡い言葉を、蒲生は必ず用意している。だが鞘華は何も知らずに騙されるのはもう嫌だった。
「教えるつもりで私にあの仕事をさせたんでしょう」
「その結果、他の人間すべてを敵にまわすことになってもいいのかな?」
「どういう意味?」
「人間の欲は際限がない。『奴ら』がネフュスの秘密を知ったらどんなことが起こるかわかるか?」
「だから、『奴ら』って誰のこと?」
「人類全体さ」
善良であろうとそうでなかろうと、人間として生きるからには『欲』からは逃れられない。いや、善良であればあるほど強烈な『博愛』という欲の持ち主であるということもありうるのだ。そう蒲生は言った。
もしマイナス・ミューオン核融合炉の秘密がネフュスにあると知ったら、『善良な人間』であればあるほど、蒲生たちがネフュスを独占していることをよしとしないだろう。それこそどんな手段を使っても、蒲生たちの手からネフュスを取り上げ『全人類の幸福』のため活用するべきだと考えるに違いない。
「それのどこがいけないの?」
「そんなことは不可能だからだ」
蒲生に言わせれば、ネフュスによって無尽蔵なエネルギーが得られたとしても、『公平な配分』は期待できない。よしんば人類の活用できるエネルギーの総量が増加することで、最も恵まれない人間の使えるエネルギーが増えるとしても、それは人類全体の『欲望』を暴走させる結果しか生み出さない。
「何でそんなことがわかるの?」
「砂を大量に積み上げれば、必ず山の形になるようなものさ。底辺というものは必ず存在する。いや全体の存続のためには、ぜひとも必要なんだ」
「全体が豊かになれば底辺にいる人も豊かになるんじゃないの?」
「そんな歪な構造を可能にしようとすれば、そのつけは人類以外のものに廻っていくことになるだろう」
「それって……?」
「人類以外の、地球という生態系全体さ」
「何でそんなことわかるの? 蒲生さんは神様だとでも言うの?」
「神でなくとも、人間の今までの歴史を考えればわかるだろう? 不幸な人間がいなければ、人間は己を律してなどいけない。苦しみの例が身近にあるからこそ、それを避けるための努力をする。そしてもし、全人類が幸福な世界などというものが誕生するとすれば、それは人類以外の生き物にとっては地獄だろう。すべての環境を人間の手によって支配される世界……無尽蔵なエネルギーを手にした人類は、必ずそれを追求しようとするだろう」
蒲生にそう言われるまで、鞘華は『地球は人類のもの』だとばかり思っていた。『この世界は人類が支配するべきもの』とも考えていた。だからそれが『間違った』ことだと言わんばかりの蒲生の話を、穏やかな気持ちで聞くことがとうていできなかった。
「それのどこがいけないの?」
「おや、鞘華はもう少し賢いと思っていたが……鞘華はネフュスの存在自体が『そのこと』を否定していることに気付かないのかな? この地球は、人類だけのものではないのだよ」
ペントハウスの中は暗くなりかけ、外を見ると眼下にH市の夜景が薄青く沈んだ闇に浮かび上がって煌めきだしていた。千明が吹き抜けの上に吊るされた照明を点け、蒲生と鞘華の二人を宥めるように口を開いた。
「もう夕食の時間よ、お腹が空いた。話は食事の後にしない?」
照明の光りに眩しそうに瞬きしながら、蒲生が頷いた。鞘華も急に空腹を感じ、それに反対するタイミングを見失ってしまった。
千明がキッチンの大きな冷蔵庫から和牛のコールドビーフを取り出し、薄切りにしてオープンサンドを作った。マスタードをたっぷり塗りそれにかぶりつく蒲生を見て、鞘華は少し腹を立てる。権藤と共に肉体労働をこなしてきたのは鞘華の方なのである。その間蒲生は、空腹になるような何をしていたというのだろう?
蒲生は千明に水割りのワインを要求した。高価そうなラベルの瓶から注がれた薔薇色の液体にミネラル・ウオーターがドバドバ注がれ、大きなカップで蒲生に渡される。ワインを飲むなら水なんて入れずに飲めばいいのに! こういうのを悪趣味と言うんだよね、声を出さずにそう呟く鞘華に、千明はウインクを送ってきた。まったく千明さんも千明さんよね、蒲生さんを甘やかすようなことばかりして……鞘華の腹立ちは納まらなかった。
次に千明が出したサラダは、海老と鱈、ポテトと人参、セロリと種を抜いたオリーブが入っていて、特製のドレッシングがかけてあった。
最後は珈琲とホイップ・クリームをトッピングしたパンケーキである。
カロリー摂り過ぎよね、鞘華はそう呟く……ネフュスのせいで太らないからいいけど。鞘華は、摂り過ぎたカロリーのお蔭で自分の腹立ちが納まっていることに気づかなかった。いやそれを言えば鞘華は、昼間人を殺した自分をぜんぜん気にしていない自分の異常さにだって気づいていなかった。
「それで、私を本物の人殺しに仕立て上げた蒲生さんの腹積もりを聞こうじゃないの」
「鞘華を、『人類の敵』にしたかったのよ」
千明がそこで口をはさんだ。蒲生の目的は千明の目的でもあるようだ。千明は今日、紫色の生地に総絞りを施したワンピースを着て、金のネックレスをしている。革ジャンを脱いで、白いTシャツにジーパンの鞘華とは大違いだ。私だってお洒落な服を着て化粧をすれば捨てたものでもないわ……そう思いつつ、鞘華は引け目を感じずにはいられなかった。
今まで鞘華は洒落た服装とか化粧などというものにほとんど縁が無かった。そんなものに掛けるお金は無かったし、する気持ちにもなれなかったのだ。
「『人類の敵』って何よ?」
「まあ言ってみれば『究極の社会の敵』みたいなものね。自分たちの目的のためなら、人類全体を敵に廻すことも厭わない人間ってこと」
人間でありながら人類全体を否定するなどということは完全な自己矛盾であり、人格のあり方として脆弱過ぎる。何者かがそんな鞘華を説得しようとすれば、彼女は簡単に論破され、転向してしまうだろう。だが蒲生たちにしてみれば、ネフュスを与えた鞘華の裏切りを許容するわけにはいかない。そのための歯止めとして鞘華に負わせられたのが『殺人者』の汚名である。人として人を殺したこの事実がある限り、鞘華には寝返ることを自分に許すことが倫理的にできなくなる……蒲生はそう考えたのだ。
「何でそう簡単に私の心を縛りつけられるなんて考えるわけ? 私、お金のために簡単に裏切るかもしれないよ! 地球のためだとか、考えるわけないじゃん」
「その点は心配していないわ。お金だったらあたしたちの仲間でいる方が確実にあなたの手元に残るもの。現にあなた、ネフュスのオペレーターとして破格の報酬をもらっているのよ。ただ、あなたが未成年で身分をはっきりさせられないから、口座を持つことができないのが難点だけどね」
家出人の身分では銀行口座を持つことができない。名寄せなどのため下手に身元を調べられ、実家に問い合わせがいくことを鞘華は恐れていた。もっともネフュスの力がある今、かってのように父親を恐れているわけではなかった。いざとなれば自分の手で簡単に殺すことができるとわかっているからだ。
「それにあなたが裏切ったら、蒲生はあなたからネフュスを取り上げるわ」
千明のその言葉に、鞘華は冷水を浴びせられたような恐怖を感じた。鞘華にとってネフュス無しの生き方はもう考えられなかったからだ。ネフュスと共生することによってマイナス・ミューオン・ジェネレーターを操作できるだけでなく、超人的な体力や敏捷性を身につけることができた。その優越性を失ったら、自分はどうなってしまうのか、その結果が恐ろしかった。
「う、裏切ったりしないわよ。何でも言うこと聞くから、ネフュスを私からとったりしないで」
鞘華には降参する以外の路は残されていなかった。
吉田の死が心中によるものらしいという話は、制御室のHHI技術者集団に瞬く間に広がった。何しろ相手がK国人の女で、それもかなり美人らしいとあってはいろいろな噂が飛び交わずにはいない。あのショボイ吉田がそんな美女にもてるわけがないというのもあったし、C国とK国の人間を相手にする時は技術情報の漏洩に注意というのは、大手企業の人間であれば耳にタコができるほど聞かせられていることだった。
結果として吉田に同情する声は少なく、話題はマイナス・ミューオン核融合炉の秘密がどの程度漏れたのかという面に集中することになった。
「核融合炉だということがばれてしまえば、従来の方法でこの規模の施設での運用など無理だと考えるのが当然だろうな」
城野が制御室の中でそう口にすると技術者たちの目が一斉に彼の方を向いた。これだけ大きなプロジェクトであり、関連する企業体は多岐に渡るため、どこから情報が漏れてもおかしくはない。ただ彼らにはこのプロジェクトの核心部分に携わっているという自負があり、それが外部に対しての防壁にもなっていた。今回自分たちの一員であった吉田が情報を漏らした可能性があるということで動揺が広がっていた。
「施設長、本当に吉田はK国に情報を漏らしたのでしょうか?」
城野の前の席に座っている色川という痩せた男が思い詰めた顔で城野に尋ねた。城野が席を外している時は代理を勤める、いわば副施設長のような役割を果たしている男だ。
「憶測でしか答えることはできないが、吉田が詳細な情報を渡したとすると心中する理由が見当たらん。金をもらって女と逃げればいいことだからな。吉田はそれがどうしてもできなくてあんな行動に走ったのじゃないかな」
「じゃあ、情報はもれていないと?」
「K国がここをただの地熱発電所だと考えているとしたら、諜報員を送り込んでくるわけがない。何らかの疑問を抱いているのだと思う」
「本当にその女はK国のエージェントなんでしょうか?」
「さあ、わからんな……」
「K国の女性はわが国に数多くいますからねぇ。その、ただの男女関係のもつれで、心中といったことになったのでは……」
「警察の話では、遺書のようなものは無かったそうだ。ただ、吉田がそんなことする男だとは、今も思えんのだ」
吉田さんヘタレだったものね。汗をかきながら見学者の案内をしていた吉田の顔を思い出し、鞘華はそう考えた。彼女は、自分が殺した男の話を聞きながらその程度の感想しか抱けない自分を、これも蒲生さんの思惑通りということかしらと無感動に眺めていた。
「施設長、我々はこれからどうしたらいいんですか?」
制御室の技術者たちを代表するような形で、色川が城野に尋ねる。運転状況を示しているディスプレイから眼を離した彼らの視線が、すがるように城野に集まった。
城野は一瞬後ろに佇んでいる蒲生の方を振り返り、それから宥めるような口調になった。
「今までと変わらんよ。表向きここは地熱発電所だ。誰に尋ねられても、それ以外のことは知らないとつっぱねろ。第一次計画の四百万キロワット運用が達成されたら、第二次計画であと八基のタービンとそれを納める建屋が増設される。公にここが核融合を利用した発電所だと認めるのは、それ以降の予定だ。誰にもこの計画を邪魔させるものか」
城野は相当洗脳されている、あの眼の光りは尋常ではない。自分も他人から見たらあんな様子なのだろうか、鞘華はそう考える。でも千明はそんなふうに見えない。いったい千明と蒲生のどちらがこの計画の主導権を握っているのだろうか? 鞘華はその問題を考えてみて、すぐには答えが出ないと結論づけた。
蒲生がここにいるのは、城野に一種のガス抜きのような役目をさせ、その上で技術者たちを洗脳するためだろう。情報は少しずつ洩れているが、それは計算ずくであるように感じられた。つまり情報操作ってやつね。日本が核融合発電の技術を確立したと世界が知った時、何が起こるのかしら……そう鞘華は考えた。何から何まで疑問ばかりだった。
H市の地熱発電所が実は核施設だという噂は、関連企業ばかりではなくマスメディアの間でもささやかれるようになっていた。だがあまりにも荒唐無稽な内容なので、表立って取り上げることには二の足を踏んでいる様子が見られた。
そもそもプルトニウム等の核物質については、その移動がIAEA(国際原子力機関)によって厳しく監視されており、実用の核分裂炉を新たに運用するに必要な量の核物質を秘密裏に確保することは極めて困難であると考えられたからだ。
他方、これらの核物質を必要としない核融合炉の実用化は未だ夢の技術と捉えられており、実験段階でしかないということも専門家の共通した認識だった。
実際ネフュスによるマイナス・ミューオン発生装置の実現という、反則技とも言える手立てによらなければ、実用核融合炉は未だ夢の段階でしかなかっただろう。
ネフュスの秘密に直接関わっているのは、蒲生、千明、鞘華の三人でしかない。間接的に関わっているHHIの技術者やH電力の経営陣に対しては、蒲生の能力による洗脳が行なわれ、現在のところ鉄壁の秘密保持が保たれている。従って核施設の疑いと言っても、それを裏付ける具体的な証拠を掴んでいる者はいないわけなのだが、K国あたりから意図的に流されたと思われる噂により、暗黙のうちに日本の秘密核施設であるという認識が広まりつつあった。
本来であればC国やK国は、その影響下にある日本のマスメディアや政党を利用し、この秘密の核施設の存在を暴くことにためらいを見せるはずがなかった。だが両国ともその方策を今のところとろうとしないのには理由があった。それは一度日本が『核融合』の実用化段階にあることを認めてしまった場合、世界的なパワーバランスがどのように変化するか読みきれるほどの情報を、どの国も得ていないという点である。これに関する情報の扱いでヘタを打つと、現在両国が占めている世界的な地位から二段も三段も滑り落ちてしまう恐れさえある。それは現在世界で覇権を握っているA国でさえ無視できない可能性であった。
「C国が圧力をかけなければK国は結果を考えずにことを暴露しようとしたかもしれん。なにしろあの国の外交と称するものは、一時的な衝動に突き動かされているとしか考えられないような代物であることが多いからな」
「外交が国内対策で左右されるのはどこの国でもあることでしょう」
蒲生の言葉に千明が宥めるようにそう言った。今日の千明はタイトなブルーのパンツにざっくりした茶色のセーターを着ている。
「それにしてもK国の場合はひどすぎる。国家としての意思決定を形成するのに仮想敵国を必要とする点ではC国も似たようなものだが……」
ペントハウスのリビングでの珈琲タイムである。スコーンにママレードとサワークリームをのせて口に押し込みながら鞘華が尋ねる。
「日本がその仮想敵国の役割を振られているっていうこと?」
「日本が一番手近で反撃してきそうもない相手だからな。A国を相手にするのはまだ手強すぎるというんだろう。だがいいかげんC国は、中華思想と多民族国家は共存できないことを認識すべきだな。でないと内からも外からも崩壊する未来しかC国には残らなくなる」
「みんな、自分の考え方が一番正しいと思っているのよ」
千明が蒲生をそうたしなめると、少し弱気になったような表情で蒲生は自分の顔をつるんと撫でて言った。
「ああ、確かにわしもそうだな」
「どうかな、英輔さんの考えはわざと作ったものでしょう。あんまり役にのめり込みすぎると、自分の本当のところがわからなくなってしまう。あたし心配してるのよ」
「ふん、ばれたか」
蒲生がぺろっと舌を出してからそう言った。千明が蒲生を『英輔さん』と呼ぶと鞘華はただでさえ難しくて入っていけない議論から置き去りになった気がする。だが今後のことを話し合っている今、いじけてばかりはいられない。声に出さずに咳払いして、改めて質問する。
「それで、これからどうすればいいの?」
「どうって、あたしに聞かれてもね」
千明が蒲生の方に目配せする。蒲生は仕方ないという表情で口を開いた。
「あと半年で二期工事が終わって八百万キロワットの出力が達成できれば、H電力の需要のほとんどはここの核融合炉一基でまかなうことができるようになる。そうなれば老朽化した施設での発電を取りやめても、恒常的にH電力では電力が余り、その分を本州に送電できる。価格的にも本州で発電するより安価な電力だ」
その時点で、H電力では地熱ではなく核融合による発電を行なっていると発表するというのである。この地方だけでなく日本全体に利益が生まれる段階での発表であれば、反対勢力の動きを潰すことができるというのだった。
ただそのためには、いずれネフュスを増やさなければならないだろう。核融合炉を他にも建設するとなれば、オペレーターも千明と鞘華だけというわけにはいかなくなる。今のうちから候補者を探しておかなければならない。
「その候補者とかにも『人殺し』をさせるつもり?」
鞘華がそう尋ねたのは自分だけ殺人者の烙印を押されるのは理不尽だと思ったからだ。だが蒲生の返事は素っ気ないものだった。
「当然だ。オペレーターになる者は『持てる者』と『持たざる者』の争いに巻き込まれずにはいない。裏切りの余地を残すわけにはいかん」
どうやらその点で蒲生の考えは揺るぎないもののようだった。
自分では直接手を下したことが無いだけで蒲生だって殺人者だ、鞘華はそう考え口元を歪めた。そう思っても口に出すことはしない。すでに人殺しである自分だが、ネフュスが一緒である限りどんな追求からも逃げきれる自信がある。だが蒲生にネフュスを取り上げられたら、鞘華はただの弱い少女に過ぎなかった。
「あなたは特別よ」
鞘華の心を読んだように千明がそう言う。
「肝を据えて人を殺せる女なんてそうはいない。鞘華は他人と違うものを持っている、ネフュスにふさわしい人間よ」
「人非人ってこと?」
「そうね。他の人間より優れているなんて言わないわ。ただ違うのよ」
千明はそう言って声に出さずに笑った。千明が笑うと目が細くつり上がって狐のような顔になる。目元が艶っぽくしっとりしているのできつい感じは和らげられているが、それでも少し獣じみた風情になる。ああ、この人は肉食獣なのね、獲物を殺すことにためらいを見せない。私はどうなのかしらと鞘華は考えた。
「自分を超人だなんて考える奴は馬鹿だ。環境に高度に適応しているものほど、環境の変化に対しては脆弱なものだ」
蒲生の言葉は鞘華にとって何の助けにもならなかった。どっちにしろ自分は、ネフュスを手放す決心をしない限りこの卑怯な男から逃れられない。でも自分は人を殺してしまった。だからネフュスから離れるわけにはいかない。蜘蛛の糸に絡め捕られた蝶々みたいなものね。でもこの男は今のところ鞘華を殺す気は無いようだ。それどころか生かしたまま、鞘華を何かに作り替えようとしているように見える。いったい何に作り替えようと言うのだろう? 自分は殺人者という化け物に変えられてしまったが、この男はそれ以上の妖怪だ。鞘華はそう感じて身震いした。
猟奇的とも見える蒲生の要求を考えると、ネフュスと共生しオペレーターになれる人間がそう簡単に見つかるとは思えなかった。特に蒲生の求める資質はあくまで汚れ仕事をやり遂げる能力であり、嗜好または好奇心から殺人を犯すというのとは正反対であったから、なおさらだ。
日本という国は流血を忌みごととしてきた歴史を持っている。その点では、狩猟や屠殺を中心的文化の一部として抱えてきた他の先進国と、大きく異なっていると言えるだろう。つまり日本というこの国は、必要があってなされる殺人というものを認めていないのである。その中で蒲生の求める条件を満たす人材を発見するのは至難の技であると言えた。