表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/35

第四章

 三人で話し合いそれを『ネヒュス』と呼ぶことにした。『ネヒュスタン』では長いと千明が言ったからである。

「要するに正体を誤魔化すためだと言うなら短い方がいいのよね」

 千明はそう説明した。それならまったく関わりの無い文字の羅列でもいいように思うがそうではないらしい。他人にはわからなくても仲間うちではすぐにわかるような呼び名であることが大事だと蒲生が言うのである。


 鞘華が『ネヒュス』との共存に慣れ、落ち着きを取り戻した頃、『マイナス・ミューオン触媒ジェネレーター』の稼働実験が始まった。

 研究者以外の者にはあまり知られていないことだが、第二世代の荷電レプトンであるミュー粒子は現在でも世界に数ヶ所ある『中間子工場』と呼ばれる巨大実験施設によって作り出されている。粒子加速器を使用して陽子を五億電子ボルト近くまで加速し、金属の生成標的に照射する。照射された陽子は金属原子の原子核に核反応を起こし、この時陽子が持ち込んだ運動エネルギーの一部が原子核からパイ中間子として放出される。このパイ中間子を『閉じ込め磁場』の中に通すと平均二十六ナノ秒で崩壊し、正と負の電荷を持ったミュー粒子オンがビームとして得られるのである。

 ただこの稼働には巨大な施設と大規模な電力が必要であり、今までのマイナス・ミューオンの生成装置は蒲生が提供したような長さ一メートル、直径三十センチほどしかない容器におさまるようなものではありえなかった。しかもこのジェネレーターでは正のミューオンは生成されず、負のミューオンだけが放出されるので、明らかに従来の素粒子理論に反している。技術者たちが不審を抱くことは避けられないはずだが、蒲生は例の能力でそれを押さえ込んでしまった。そういう状況のもとで稼働実験が行なわれたのである。


「マイナス三十秒からのカウントです」

 遮蔽室の中では六枚のシンチレーターがジェネレーターの正面に設置されている。ミューオンが発生すればシンチレーター内部に蛍光が発生するはずだ。

「オペレーター準備はいいですか?」

「いいわ」

 千明がタッチパネルに触れながら答えた。カウントが始まる。

「マイナス三十、二十九、二十八、二十七、……十五、十四、十三、十二、十一」

「ネフュス・コンタクト」

 低い声で千明が告げた。

「十、九、八、七、六」

「ビーム・プレフロー」

「五、四、三、二、一、ゼロ」

「ビーム照射」

「一、二、三」

「シンチレーターに反応あり」

 モニター役の技術者の声。シンチレーターを映し出すディスプレイにも発光する点が見える。

「四、五、六」

「発光増大中」

 光る点が次第に増え、遮蔽室の中が光に満たされていくのがわかった。

「七、八、九」

「シンチレーター破損!」

「実験中止! 緊急停止!」

 HHI(日乃丸重工)の技術者があわてて緊急停止ボタンを押した。ディスプレイを見ると、さっきまで透明だった直径一メートル厚さ五十センチのシリンダ六個が完全に白濁している。たった十秒でこれだけの損傷を生じたのだ。明らかに実験室レベルの出力ではなかった。稼働実験の行なわれた建屋の中は騒然としていた。

「本当にマイナス・ミューオンなんだろうな?」

「それは解析してみないと……」

「しかしカウンタの値は疑いなく……センサの記録を見ても」

「だとしたら実用化に向かってゴーサインが出るぞ」

「DTターゲットの供給モデルはどうなっているんだ?」

「それはKⅢで計算中ですが割り当てられた時間が……」

「α付着率を下げるためのモデリングも……」


 技術者というものは現金なもので、結果が出れば今まで抱いていた疑問などなかったように動き出す。『ミューオン触媒核融合炉』の実証実験に向けてのゴーサインが出た。だが外部へのアナウンスは一切無い。主たる理由は日本の隣国であるいくつかの国それに同盟国であるA国との国際関係であった。

 もし日本がこの『ミューオン触媒核融合炉』の開発に成功し、エネルギー供給の大きな部分を自国でまかなうことができるようになった場合、国際関係の力学が大きく変動する可能性がある。ヒエラルキーの頂点にいるA国は必ずしもそれを望まない。おまけに先の世界大戦後の秩序と称するものを大義名分として自国の統一を図ってきた隣国のC国やK国は、日本に『敗戦国』のレッテルを張ることで、彼らの称する『秩序』をも越えた理不尽な譲歩を求め続けて来た。この無理な要求の歯止めとなっていたのは、残念なことに日本とA国との『安全保障条約』と呼ばれる軍事同盟だけであった。当面A国の機嫌を損ねるわけにはいかない日本としては、『ミューオン触媒核融合炉』が日本国内の技術で実現可能になりつつあることを、おおぴらにはできなかったのである。へたをすると『共同開発』の名の元に、A国に成果だけをかっさらわれてしまう虞れさえあった。

「まあ、『ミューオン触媒核融合炉』は『ネフュス』無しでは稼働できないから、今のところA国が手を出せる可能性は薄いんだがな」

 蒲生がトワイニングのガンパウダーという茶葉で淹れたカップを口に運びながらそう言った。帆船時代の大砲の炸薬のように小さく丸められたこの茶葉は緑茶系で、日本にはあまり出回っていないが蒲生のお気に入りのひとつだ。

「今のところ、ですか?」

 千明にもカップを渡しながら鞘華が言った。

「A国が、いいえどこの国でも、『ネフュス』の正体を突き止めたら、何としてでも手に入れようとするはずよ」

「うーん、そうですね」

「何納得しているの! それってあなたの身に危険が及ぶかもしれないってことなのよ」

「あっ、そうなんだ」

「そうだな。『ネフュス』を手に入れるためには千明か鞘華の身柄を手に入れなければならんからな」

 薄く切った羊羹を口に入れながら蒲生が付け加える。

「でも、それなら身の危険は無いんじゃ……」

「あなたを支配するために何をするかわからないのよ! 脅迫されるかもしれないし、薬漬けにされるかもしれない。それに自分たちのものにできない場合、あなたを殺せば日本も『ネフュス』を失うと考えるかもしれないわ」

「怖いですね」

「鞘華も護身術くらい身につけなければだめね」

 千明が首を振りながらそう言った。


 千明が鞘華に『護身術』を身につけさせると言い出したのは気まぐれではなかった。専門のトレーナーであるという男をどこからか連れてきて鞘華に訓練を受けさせたのである。それは権藤という名前の、かなり年取った男だった。

「俺の仕事はあんたに『護身』の考え方を理解させることだ」

 鞘華に出会って権藤が最初に口にした言葉はそれだった。

「考え方?」

「そうだ。幸いにしてあんたは十代後半の女性にしては、見かけ以上の俊敏性や体力を持っているようだ。だから必要な『技』を身につけるのにはそれほど苦労しないだろう」

「そんなことわかるんですか?」

「ああ、俺はプロだからな。だがあんたの相手もプロである可能性が高いという。だとすると何より大切なのは『護身』とは何かを知るということだ」

 権藤によるとそれはまず相手が何をしようとして自分に近づいて来るかをいち早く察知することから始まるという。単に殺すことが目的なのか、痛めつけて脅迫するためか、誘拐するためか。同じ殺すにしても単純に命を奪うだけか、むごたらしく苦しめて殺そうとしているのか、何か目的を持っているのか、あるいは享楽のためか。

「享楽って!」

「ああ、実際にそういう殺人者が、男も女もだが、いるということは心に留めておかなくてはならない。そういう相手に出会う可能性はあんたが考えているより高いのだ。その時に怯まないことが大切だ」


 享楽的な殺人者は被害者の『怯え』を求めてことに及ぶことが多いので、そこに隙を見つけやすい。これに対して『業務的な』殺人者は被害者を人間として扱いたがらない。プロの狙撃者などに多いタイプで、これが『護身』という面からは、一番始末に悪い相手だと言う。

「遠くから狙われたら『護身』も何もないものね」

 だが狙撃者がどこからどう狙うかを予想することである程度危険を避けることができるというのが権藤の考えだった。

「そんなことばかり毎日考えていたら気がおかしくなってしまうんじゃない?」

「まあ、その時は諦めるしかないな」

 権藤はそう言って皺の刻まれた顔でニマッと笑った。


 鞘華に課された『技』のトレーニングはけっこう過酷なものだったが、意外なことに鞘華には楽しみだった。『ネフュス』を受け入れてから、鞘華はいくら食べても太らない身体になっていたし、どれだけ動いても疲れを感じなかった。動けば動くほど身体が軽くなるように感じられた。対人訓練で権藤が叩き込んだのは、最小の手数でできるだけ大きなダメージを相手に与える技術だった。


「殺すのをためらってはいかん。あんたはそれほど強くない。殺すことを目的としてはダメだ。逃げられるときはまず逃げろ。相手の目論見をくじくことが『護身』の目的だ。相手に勝つことではない」

「あー、頭が混乱するから喋りながら攻撃するのやめて下さい」

「相手があんたの希望どおり攻撃してくれると思うのか?」


 鞘華が受けた訓練の中には、日常生活で目にしている品物、例えばボールペンとかペットボトルなど、それを暗器として使い相手を殺傷する技や、毒や爆発物についての基礎知識が含まれていた。La plus haute Tourの地下に設けられた即席の射撃訓練場で、いくつかの銃器の扱いまで練習させられた。


 最初に鞘華に与えられたのはマカロフPMという自動拳銃であった。この拳銃は密輸によって持ち込まれ、現在日本の裏社会で最も多く流通している。元来は旧S連製であるがC国やN国によるコピー製品も存在していた。ストレートブローバック方式で九×十八ミリの弾丸を使用。構造は比較的簡素化されており整備も容易である。


「拳銃って重いのね」

「重いと言っても七百グラムちょっとしかない。あまり軽いと射線が安定しないからな。拳銃としては標準的な重さだ」

 権藤が鞘華の後からそう言った。前方には砂袋が積まれ、その前に標的の厚紙が立てられている。距離は五メートルほどしかない。厚紙には直径三十センチほどの円と十字が印刷されていた。

「右手で持ったら左手を添えろ。安全装置のレバーが銃の後部の左側の面にある。それを親指で上げるんだ。それで引金を引けば弾丸が飛び出す。安全装置を解除したら絶対銃口を俺に向けるなよ。よし、標的を狙って撃て」

 ズギューン。防音用の耳当てを付けていたのに銃声は結構大きく耳に響いた。ただ鞘華はそれより、引金を引くのに意外と力が必要であると感じた。それから弾丸がどこへ飛んで行ったのかと探したが、標的の厚紙には当たらなかったらしいことがわかっただけだった。

「弾丸はどこへいったの」

「前に飛んで行った。壁に当てなかっただけ上出来だ」

 それから三十発ほど撃ったが標的の厚紙に当たった弾は一発もなかった。

「どうして的に当たらないの? これだけ撃ったら偶然当たってもいいはずなのに」

「ふん、嬢ちゃん、そりゃあ、あんたが狙って当てようとするからだろうな」

「狙ったらだめなんですか?」

 権藤の説明によると鞘華は狙った後、引金を引く過程で射線がぶれてしまうのだと言う。おまけに自動拳銃は排莢する度に微妙に重心が変化する。その辺の感覚も、鞘華にはつかめていないのだろうという話だった。

 その部屋の後の方で様子を見ていた千明が、近寄って来てアドバイスした。

「拳銃はね、鞘華、相手に押し当てるようにして撃つものよ。遠くから当てるなんて曲芸は一部のプロの技よ」

「マカオのギャングを撃った時もそうやったんですか?」

 千明が一瞬ビクッとしたので鞘華はまずいことを尋ねてしまったことに気付いた。

「ええ、三歩も離れていなかったとおもうわ」

「それで……そのギャングはどうなったんですか?」

「死んだわ。出血多量で」

「そうなんですか。でも、撃たないわけにはいかなかったんでしょう?」

「相手も銃を持っていたし、鬼嶋を撃とうとしていたから、あたし……」

「それでマカオではBBの姐御という二つ名前が一時噂に上っていたというわけだな」

 権藤が話を断ち切るように口を差し挟んだ。

「BBって?」

「ブラック・バタフライ。鬼嶋が面白がって付けたのよ。身体に黒い蝶のタトゥーがあるって……」

「あるんですか? 千明さん?」

「あるわけないでしょ、鞘華。一緒にお風呂に入ったじゃない」

「じゃあ、なんで?」

「鬼嶋なりの思いやりじゃない? 人を殺した女はあたしじゃなく、BBだっていう」

「そうすれば気が楽になるっていうんですか? それって……」

「誤魔化しよね」

 その会話に口をへの字に曲げた権藤がまた口をはさむ。

「嬢ちゃん、武器を持つということは人を殺す可能性があるってことだ。他人ごとだと考えない方がいいぞ」

 鞘華は返す言葉を見つけることができなかった。


 距離を三メートルまで近づけると弾丸は時々標的に当たるようになった。さらに千明の助言に従って二メートルまで近づいたが、着弾が標的の中央付近に収束するようになるまで、六百発以上の弾を消費することになった。

「嬢ちゃん、よく音を上げないね。普通大の男でもこれだけ撃つと身体中が痛くなるもんだが……」

 権藤があきれたようにそう言った。実際、体重の軽い鞘華は銃の反動を筋力で押さえ込まなければならなかったから、昔なら筋肉痛で気絶していたかもしれない。二十発入りの箱を六箱空にする度に権藤が銃の点検をすることでインターバルがあったとはいえ、やはり今の鞘華の体力は並ではなかった。

 拳銃の次に鞘華に与えられたのは、Ithaca M37というショットガンである。フェザーライトという呼び名にも関わらず三キロ以上の重さがある。特徴はポンプ・アクション式で弾倉に四発装弾できること。一メートル以上の長さがある同種の銃の中では確かに軽い方であることだ。

 地下室でこの銃を撃つと銃声は半端ではなく、耳当てをしていても耳が痛くなった。ただ散弾ではなく単発のスラッグ弾を撃つと、銃身が長い分弾丸の直進性は拳銃の比ではなく、十メートル先の的にすぐ当てることができるようになった。それ以上の距離はこの地下室ではとれなかったが、ショットガンも比較的近距離で使用される銃であり、権藤に言わせればこれで十分だということだった。

「別に嬢ちゃんをスナイパーやヒット・マンにするつもりはないんだろう。一通りのことがわかっていればいいんじゃないか?」

「そうね。鞘華は『撃たれた』こともあるしね」

「そうか。やけに肝が据わってると思ったが、やっぱり人は見かけすによらないな」

 権藤が鞘華の顔をマジマジと見ながらそう言った。鞘華は千明の言葉をどう受け止めていいのかわからず、自分はそんな人間じゃないと思わず否定の言葉を口にしたくなった。だが一方『ネフュス』を受け入れてからの自分が普通の存在ではないことに思い当たり、喉元までせり上がった声を押し殺した。

 いったい千明はなぜ自分にこんな訓練を課しているんだろう? そういう疑問が胸の中に浮かんだ。銃や爆薬の扱いが身を守るのに本当に必要なのか? 護身の訓練と言われた内容は鞘華にとって興味深いことばかりであり、銃器を扱うという普通では体験できないことを通して、自分に自信のようなものが生まれた気がした。だが逆に考えれば、鞘華が受けた訓練はどれも『普通』ではない人間を作り出すためのものであり、千明たちが自分を何に変えようとしているのか、鞘華には行き着く先が見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ