第三十一章
日本には七十万のK国人が住んでいるのに、K国が彼らをテロと破壊活動に動員しないのには訳があった。K国は彼らを受け入れ保護することをしたくなかった。いやしたくともできなかったと言った方がいい。
彼らをK国の兵士として動員するとすれば、また彼らに対する責任も負わなくてはならない。もし彼らを使ってそのような作戦を実施した場合、K国は戦後に彼らの安全を図るため、彼ら七十万の身柄を引き受けざるを得ないだろう。人道的な理由からそれは避けられない結果だった。
いくら日本人がお人好しだとはいえ、そのような活動を行った彼らを、好意的に受け入れてくれるはずがないからだ。彼らは収監されていない殺人者または強盗としか扱われないだろう。そして世界もそれを理不尽とは見做さないだろうことは明白であった。従ってこれら七十万の同胞をK国は受け入れざるを得ないことになる。
K国にとってそれはどういう意味を持つか。彼らは日本語を話し、知的にも低くはない。だがK国人でありながら、ほとんどK国語を知らずK国語の読み書きもできない人間をどう扱えばいいのか。閉鎖地域を作り、そこに定住させるか。だが祖国のために戦った見返りとして、その祖国に自由を奪われた彼らは、どんな行動をとるだろう?
いずれにしても彼らは日本に全てを残して引き上げてくることになる。彼らに衣食住を与え、さらに働き口を与えなければならない。七十万の人口が一気に増え、失業者が増加する。彼ら以外のK国人はそれに耐えられるだろうか?
戦争中なら耐えられるかもしれない。だが戦争が終わった後ではどうだ?
当然のように国内に不和が広がり、下手をすると暴動が起こりかねない。いや間違いなく起こるだろう。その場合、K国という国家がそれを乗り越えられるという保障は無い。
日本から賠償を得てそれに当てるという案もあった。だがこれら七十万の同胞を受け入れた場合に生まれる不安定さは、金銭では解決できるはずがなかった。それに戦争に勝てるという保証がある訳でもなかった。
また仮にそのような動員が在日K国人に対して実施されたとしても、彼らが素直にその命令に従うとは限らなかった。生活の拠点や財産が日本にしかない彼らが、K国を真の祖国と考えているとばかりは言い切れなかったからである。むしろ将来を考え、日本国籍を取るためK国を裏切る人間が出る可能性さえあった。結局K国は、これらの同胞を棄民としか考えてこなかった過去のツケを清算できていなかったのである。
このためK国からの潜入工作員の作戦行動もC国のそれと連動させない訳にはいかなかった。K国独自の動きを取った場合、それが在日K国人の暴動と受け取られかねないという事情があったからである。またC国と秘密同盟を結んでいるK国としては、何もしない訳にもいかなかった。
一緒に行きたいという慶子(金泰希)の希望に同意したのは、単なるカモフラージュだと剛志は自分に言い聞かせていた。それでなくとも顔を整形したことを知る慶子を、Kタウンに残していく訳にはいかなかったし、かと言って剛志には彼女を殺してしまう度胸もなかった。いやそんなことを試みようとしたら、テコンドーの使い手である慶子に逆襲されるのがおちであったのだが。
慶子の見る限り彼は潤沢な資金を持ち、生活に困っている様子はなかった。それが彼女に剛志と一緒に行動しようという気にさせた理由の一つだった。姉を無くしてからの彼女はK国で経済的に楽な生活をしていた訳ではなかったし、日本に来てからも店主夫婦の娘代わりということでろくな賃金を貰ってはいなかった。だから彼女は金銭的なことに、ことさらシビアであった。
彼女は身の回りのものを取りに帰ろうともしなかった。日本人はパスポートや身分証など持たずに国内を歩き回っていることを、彼女はすでに知っていた。だから必要があれば剛志が何とかするだろうと考えたのだ。
剛志は直ぐに彼女に、旅行鞄と下着や新しい服などを買い与え、彼女の希望を満たしてくれた。慶子は代わりに彼女の身体を剛志に与え、彼はそれを何かに追われているように貪ったのであった。
周中尉は『中佐』に会った時、何だこんな奴だったのかと気が抜ける思いであった。額がかなり後退して頭頂部でも髪は薄くなっており、銀縁眼鏡の老眼鏡を掛けている。着ているスーツは高価そうな仕立てであるが、貧弱な体躯と突き出した腹を隠しきれてはいない。手足が妙に細長く、少しがに股で歩いてきた。約束の時間に原宿の駅に現れたのはそんな男だった。
中佐は周中尉の風体を一目見ると顔をしかめ、近くの店に吊るしのスーツとワイシャツそれにネクタイを買いに行かせた。
「それでBBは何時現れるのかね?」
現金が入っているという重い鞄を周中尉に持たせ、セカセカと歩きだしながら中佐が尋ねる。
「この前は約束の時間に数分遅れて来ました」
周中尉は中佐の速さに歩調を合わせて少し後ろを歩きながら答える。
「遅れてきただと! いや早めに来て様子を伺っていたに違いない。誰かバックアップがいたはずだ。気がつかなかったのか?」
「何人か客がいましたし、店の主人がそうだったかもしれません。何分初めての店で、気が廻りませんでした」
「今度からは下見をしておけ」
中佐は偉そうにそう言うと、袖をめくって金縁の腕時計を見た。
「今日はもう間に合いませんが、次回からはきっと」
周中尉がそう答えると中佐は馬鹿にしたように鼻で笑い、目の前の店に入った。そこは北欧の名前の付いたパン屋で、注文したパンや豆のスープなどをその中で食べることもできた。ドアを開けると奥の席にこの前の女が、今度は遅刻せずに座っているのが見えた。
周の反応からそれと目星を付けた中佐がズカズカと歩み寄り声を掛ける。
「あんたがBBか?」
「あなたがこちらの上司の方?」
女は今日、膝までの長いブーツに茶のミニスカート、ベージュのセーターの上に革のコートを羽織っていた。
「ああ」
「商談はできる?」
「資料を見せてもらおう」
「お金は?」
「この男が持っている」
女は周中尉の持つ鞄の大きさを見積もるように眺め、それから足元に置いていたトート・バックを中佐の方に押しやった。中佐が跳びつくようにそれに手を掛ける。分厚い冊子を取り出し、開いて中身を確かめる。
「全部ハード・コピーか?」
「中身を確かめたいでしょう」
「古めかしいな」
女は馬鹿にするような目で中佐を見下ろした。
「お金を頂くわ」
「嫌だと言ったら?」
トート・バックを抱えるようにして中佐がそう言うと、女は鼻で笑ってそれから答えた。
「もう一千万上乗せしようかしら」
「何だと!」
「その資料には大事なページが抜けているのよ。報酬と交換に渡すつもりだったけど、気が変わったわ」
「クソッ! 騙したな」
そこで周中尉が割って入った。
「まあ、待ってくれ。中佐の冗談を真に受けないでほしい。四千万は渡すから、資料の残りを渡してほしい」
「取引に冗談は禁物よ。まあ、今回はあなたの顔を立ててあげましょう」
周中尉が中佐の方を見ると渋々頷いたので、金の鞄を渡す。女はそれを受け取り中身をチラリと確かめると、高く右手を挙げた。見知らぬ男が店の奥から出てきて、今度は薄い冊子を女に渡した。
女はその冊子をテーブルの周中尉の前に置き、それから立ち上がった。
「終わりよければ全てよし、今回はそういうことにしておくわ。ではまた中尉」
そう言って女は店の奥に姿を消す。恐らくそちらに逃走経路を用意してあるのだろう。やはりあのBBという女はプロだ、周中尉はそう考えた。それから渋い顔をして書類を確かめている中佐を見る。
「中佐」
「ああ、中尉。どうやらこれは本物だ。お前の失態は見逃してやるから、その辺でタクシーをつかまえてくれ。急いでこれを本国に送らなければ」
失態を犯したのはあんただろう、思わず周中尉はそう叫びたくなった。しかし黙って店の外に出て、車を拾った。
中佐の乗った車が走り去ると周中尉は元来た原宿駅の方に歩きだした。すると灰色のリムジンが近寄ってきて彼の前に停まる。窓が開くとあの女の顔が見えた。
「お乗りになって、周中尉。あなたに紹介したい人がいるの」
「何の真似だ?」
「あなたはまだ報酬を受け取っていない。そうでしょう?」
周は女が約束した五百万円のことを思い出した。先程の騒ぎであの話はなくなったものと思っていたのだが、随分律儀な女だと彼は考えた。金は欲しいがここで今受けとるのは危険な気がした。
「金なんていらない。元々もらう気は無かった」
「あら、お金は大事よ」
その時リムジンの奥の方に座っていた男が周中尉の方を見た。頭髪や髭に白いものの混じる六十代くらいの男で、視線が鋭かった。
「中尉、まあ乗りたまえ」
男の声は不思議な響きを帯びていて、周中尉は逆らうことができなかった。
「それでいい。では聞くのだ」
周中尉が男と向かい合ったリムジンンの座席につくと、男が話しだした。車はいつの間にか動き出していた。
「君の上司の『中佐』はすでに日本の当局によって追跡されている。彼はもうお仕舞いだ。彼の指揮していた師団もこれで壊滅する」
「それじゃあ、やっぱり『罠』だったのか?」
「そうだ。あの情報は彼をあぶり出す『エサ』だった」
「自分も拘束されるのですか?」
「そのつもりはない。君に頼みたいことがあるからな」
「自分は捕虜ではないのですか?」
「中尉、君は制服を着ていない。捕虜の待遇に関する一九四九年のジュネーブ条約による兵士の定義には当てはまらんよ。それを言えば君の仲間たちは全員そうだ。どこかに制服を隠しているのかもしれんが、そんなものは無効だ。君たちは不正規兵だ。条約の保護の対象にはならん」
「しかし……」
「君たちはそれを覚悟して我が国に侵入して来たのではないかね?」
「では何故自分を中尉と呼ぶのですか?」
「君の祖国が君たちを使い捨てにするつもりで送り込んできたとしても、君には部下に対して責任があるだろう。違うかね?」
否定することは簡単だったが周中尉にはそれができなかった。彼の配下にはほぼ下士官ばかりで構成された二百人近くの部下がいた。彼らはこれからどうなるのか、経済的支援を絶たれ困窮すればこの国で潜伏し続けることができるとは思えない。部隊としての連携を失い、一人一人あぶり出されて拘束され処刑される姿が眼に浮かんだ。
「君にやってほしいのは彼らに投降を促すことだ。そうすれば条約での捕虜に準じた待遇を保証しよう」
周中尉は自分の精神が英輔の『能力』の影響下にあることに気づいていなかった。でなければこんな難題を引き受け、対処しようなどとは考えもしなかっただろう。彼の前にはまさに艱難辛苦の路が延びていたのである。
中佐は自分のオフィスに戻り幹部に招集を掛けているところを公安と自衛隊の襲撃部隊に踏み込まれ、銃撃戦の結果射殺された。オフィスからは中佐が資金源として麻薬や覚醒剤などの取引に関わっていたことを示す証拠が見つかり、日本政府は非人道的な行為であるとC国を非難した。だがC国はこれらの取引に本国は一切関知していないという声明を発しただけであった。
周中尉の部下二百人の投降がモデルケースとなって、C国の潜入部隊は次々と投降し収容所で暮らすことになる。だがそれは日本に潜入した一万人の九割まででしかなかった。残りの千名近くは拘束されることを望まず、地下に潜った。その多くがC国マフィアとして犯罪に手を染め、摘発されては射殺されていった。日本政府はこれらの犯罪についてもC国を非難したが、C国政府は沈黙で応えたのみであった。




