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第三十章

 そこは飲み屋と言うには少し小洒落たたたずまいで、煉瓦タイルを貼った壁や柱だけでなくカウンターにも古色がついている。テーブルには硝子の筒に入った蝋燭が配置されていた。ビールやカクテルも注文できるがメニューにはずらりとワインの名前が並んでいる。カウンターに座った周中尉は、A国空軍払い下げのカーキ色のジャンパーにカーゴパンツという自分の服装が気になって、何を注文しようかと迷った。

 結局「とりあえず生ビール」と言ってしまってから、カウンターの向こうの主人が眉をひそめた気がして、あわててメニューに視線を落す。それから訳もわからずに彼が頼んだ「イタリヤ野菜のバーニャカウダー」というのは、要するに茹でた野菜をニンニクとアンチョビをオリーブオイルで炒め酢を混ぜたソースにつけて食べるというだけの料理だった。

 日本に潜入しているC国の工作員には、月当たり二十万ほどの生活費が支給されている。それで当面の衣食住を賄うのだ。任務の性格上不法滞在者というあやふやな身分を明らかにして定職につくわけにもいかない。だがどんな人間でも雑踏に紛れてしまうことのできる都市圏で暮らすのには、それで十分ということはなかった。周中尉の今の服装というのも、金銭的余裕のなさと、いざという時の活動に支障をきたさないという条件の妥協の産物なのである。八卦掌の使い手である周中尉は足回りを重視し、足首までのトレッキング・シューズを履いていたが、それとの違和感がない点でも普段は納得していた。

 だが一度今回のような任務についてみると、それでは十分ではないことがわかった。こういう任務は彼のような末端の工作員ではなく、もっと色々手当てをもらっていて服装や日頃の飲食にも余裕のある彼の上司のような人間が当たるべきなのである。与えられた任務に不満はなかったが、いざこの場に来てみると周中尉はそんなことを考えずにはいられなかった。

 茹でたカリフラワや何だかわからない蕪のようなものをソースにつけて齧りながら、周中尉は辺りを物色した。店の中は薄暗く、最初はよく分からなかったが、やがて数人の客が食事をしながらワインを酌み交わしている様子を見て取ることができた。だがその中には女一人で書類鞄を持った姿など見当たらない。

 やがて指定時刻を少し過ぎた頃、店の扉についているベルの音が響き、ダークブラウンのコートを羽織った一人の女が店に入って来た。年回りは三十前後という落ち着いた感じで、ハイヒールは履いていないのに身長は百七十センチ近くありそうだ。書類鞄を手にし、そこから緑色の何かがはみ出している。

 女は店内を見回し、一人だけでカウンターについている周中尉に目を留めた。他に該当する人物がいないのを確かめると、女はおもむろに周中尉の方へ歩み寄る。その歩みを見て周中尉の背筋が怖気立った。かなりな使い手、恐らく自分より強い。周中尉は今まで女に対してそんな感覚を持ったことがなかった。だが力の差は明らかだった。そこにいるのは女の姿をした虎のような猛獣だった。


「あら、ご一緒してよろしいかしら?」

 少し目を見張るような眼差しをして女は尋ねた。カウンターの向こうの主人は表情を変えなかったが、こんないい女がよりによって何でこんなパッとしない男に声をかけるのか、疑問に思っているのは明らかだった。

「あなたが?」

 周中尉の声が掠れていたのは恐怖の為だけではなかっった。明らかな雌の匂いをさせながら、コートを脱いだ女は彼の左側の席に滑り込んだ。少し広めの肩幅にフィットした濃紺のジャケットを着こなし、袖口にはブランド物の時計が覗いている。

「ビールを」

 周中尉の前に置かれているグラスを見ながら、女はそう注文した。周知中尉もグラスを空けお代わりを注文する。急に喉が渇いたように彼には感じられた。

周作人ゾウ・ズーレンです」

 周中尉は思わず本名を名乗ってしまう。すると女は笑いながらグラスを合わせて答える。

「そう。私のことはBBと呼んでね」

「Bって、蜂のビーですか?」

「いいえ黒蝶ブラック・バタフライのBBなの」

 女が微笑んで答える。

「日本人にしては珍しい名前だ」

「誰が日本人だと?」

「違うんですか?」

「さあ……」

「失礼、取引には関係のない話だ」

「そうね」

 女は少し残念そうにそう言うと緑色の封筒に手をかけた。

「それが?」

「資料の見本よ。ここで目を通してもらいます。あとは報酬と引き換えね」

 封筒の中には数枚の資料が入っていた。

「最高速度が水中で二十五ノット、運用深度五〇〇メートルだって!」

「シーッ、無人艦だからこそできる性能なの」

「これは、本当なのか?」

 潜水艦には素人の周中尉でも、それが通常型の潜水艦として飛び抜けた性能であることがわかった。この情報の詳細はぜひとも本国に知らせねばならなかった。

「いくら出せばいい?」

 周中尉は口の中が渇くのを感じた。この取引で失敗をする訳にはいかない。

「三千万」

 情報の重要度からすればそれは不当な金額ではなかった。だが残念ながら彼の出せる額の権限を越えていた。

「すまないが自分の一存ではその金額は出せない」

「いくらなら出せるの?」

「一千万」

「話にならないわ」

 女の自分に対する評価が一気に下がったのを感じて、周中尉の背中に冷や汗が流れた。ここで情報の糸を切ってしまうことは避けなければならなかった。

「いや待ってくれ。その金額は上に掛け合って必ず出さす。だからもう一度チャンスをくれ」

「危険なことはできるだけ避けたいの。わかるでしょう」

「……」

「それじゃあ、こうしましょう。あなたの上司を次は連れて来て。それから金額は四千万と伝えて」

「それは……」

 さっきの話と違うと言い掛けた周中尉を女は手で制し言葉を続けた。

「その代わり後で五百万のペイバックをあなたにあげるわ。悪くない話でしょう」

 周中尉は少し考え、四千万でも上司はこの情報を欲しがるだろうという結論を出した。

 女は周中尉の携帯番号を尋ね、それから微かな麝香の匂いを残して姿を消す。

 その後、女が自分の分も支払いを済ませていったことを知り、周中尉は赤面の思いだった。


 女に小物扱いされた周中尉の恨みは上司へと向った。上司が中佐であることしか彼は知らなかったが、母国であれば何階級も上の佐官に中尉が楯突くなど思いもよらないことである。

 彼は再びあのアニメ商品を売っているビルに向かい、五階に昇った。黒板に記入されたソフトの売値から新しい連絡先を確かめ、上司に電話を掛ける。


「周です」

「情報は手に入ったか?」

「値段が折り合いませんでした」

「何だと!」

 そこで周中尉は記憶している限りの情報を上司に伝えた。

「四百メートル以上潜れて、二十五ノットも出せるというのか!」

「運用深度が五百メートルとなっていました」

「どうしたらそんなことが可能なのだ?」

「それについては報酬が折り合わないと……」

「うぅむ……それでいくらだと言うのだ」

「四千万です」

 周中尉は女の言葉をそのまま伝える。

「何だと! ……それでその情報は信頼できるのか?」

「わかりません。それから相手の女はBB、ブラック・バタフライと名乗っていました」

「BBと言ったのか」

 携帯から流れる上司の声が上擦ったように高くなる。

「ご存じですか?」

「大分前にマカオで聞いた名前だ」

「三十くらいの女でしたが」

「当時は極若い女という噂だったから話は合う」

「どんな人物ですか?」

「何でも地元のマフィアを何人も撃ち殺したとか……日本の大物と繋がりがあるとか……」

「一筋縄ではいかない相手のようですね」

 周中尉は女と会った時の感覚を思い出し、再び背筋が寒くなった。

「四千万用意すればいいのか?」

「今度は中佐も来てくれと……」

「何だと! 何故だ?」

 上司の声に怯えの色を感じ取って、周中尉は胸のすく思いだった。

「取引が長引くなら、この話は無かった事にすると言っていました」

 権限の無い者を相手にする気はないということなのだ。本来であれば屈辱的な話なのだが、それが上司を追い詰めることになるとあって、周中尉は気にしないことに決めた。

「それで次の連絡は」

「向こうから自分の携帯に入ることになっています」

「わかった。連絡があったら知らせろ」

「そのようにいたします」


 携帯をジャンパーのポケットに押し込むと周中尉は街角のカレー屋に向って歩きだした。先程の酒場で女が支払いを済ませてくれたのだから、今晩の食事は少し贅沢をしようと彼は考えていた。


 金泰希キム タヒには一人の姉がいた。その姉が七年前に死んだとき、彼女は信じられない思いだった。よりにもよって日本人の男に無理心中の形で殺されるとは。泰希タヒにとっては自慢の姉だった。テコンドーの使い手で、男に殺されるようなひとではないはずだった。

 泰希タヒがテコンドーという競技の練習に力を注いだのも、自分は男になど殺されてたまるものかという思いがそうさせたと言ってよい。その結果地域の大会では良い成績を何度も取った。

 その泰希タヒのところにK国情報部から勧誘があったのは、一年前のことである。そこで彼女は、姉の金素妍キム ソオンが日本の核融合炉の秘密を探ろうとして、おそらくは日本の官憲の犬の手で、暗殺されたことを知った。

 復讐の念にかられて泰希タヒはK国情報部の訓練を受け、日本に潜入してきた。それはさして難しいことではなかった。日本には七十万とも言われる同胞が暮らしていた。一年間の訓練で日本語と日本の習慣を完全に身につけた泰希タヒは、その同胞の中に身を潜めるだけでよかったのである。そのはずであった。

 彼女がまず戸惑ったのは、日本に暮らす同胞の緊張感の無さだった。K国と日本は停戦状態にあるとはいえ、戦争の最中なのである。彼らは日本に取られた人質同然の身であり迫害される身であるはずであった。

 確かに彼女が身を潜めるKタウンには、昔ほど日本人の姿は見られず、閑古鳥の鳴いている店舗も無くはなかった。だが彼女が予想していたような高い塀で囲まれた収容所も、身分証を要求されるような検問もなかった。それどころか一時期は盛んだったというヘイト・スピーチやデモは、騒動を恐れた日本政府による厳しい取り締まりにより、この頃は陰を潜めていたのである。

 そこで彼女は辺りを見回し、在日の同胞が日本の政策に融和的態度をとっていることに腹を立てるようになった。元々彼女には在日の同胞を見下すような意識下の刷り込みがなされていたのである。

 彼らは本国で生計を立てるのに失敗し、日本に密入国してきた流民であるか、あるいは先の世界大戦後、本国が日本から独立したにも関わらず帰国しないで日本に居すわった者たちか、その二世三世である。本来果たすべきK国での兵役を逃れ、本国に税金を納めることで貢献しようともしない。K国語を知らず読み書きもできない。K国の文化に関心を持たず、K国への愛国心も持たない。そんな思いが彼女の中で在日の同胞への蔑視に変わるのには、そう長い時間を必要とはしなかった。

 彼女には戦時下の敵国で肩を寄せ合うようにして生活している同胞への、同情も共感も持てなかった。ただその敵国で生き延びるためには、その軽蔑する同胞の力を借りねばならないことに対する腹立たしさが、募るばかりであった。


 泰希タヒは日本人の男と駆け落ちしたという娘の代わりに、その娘の両親だという夫婦が営むK国料理の店で働きながら、本国からの指示を待ち、暮らしていた。その夫婦は無論この若い娘が諜報員だなどとは知らず、遠縁から紹介された働き手としか見ていなかったのである。

 泰希タヒの任務は破壊工作であったが、そのタイミングはC国と連携を取ることになっていたので、当面暇であった。そこで彼女の毎日の仕事は、皿洗いと掃除、それにウエイトレスの真似事だった。調理の方はもっぱら夫婦がこなしていたので、たまに妻の方の手伝いでキムチを漬けるぐらいしか彼女にはすることがなかった。


 泰希タヒが剛志を最初に見かけたのは、彼が夫婦の店に食事をしに来た時であった。金回りは悪くなさそうな身なりをしていたが、何か追い詰められた表情をしていた。

 次に彼を見かけた時は、数日前とはすっかり目鼻立ちが変わっていた。泰希タヒが剛志を見分けられたのは、体つきと服装を最初に見たからだった。顔を何度も見直したので剛志の方も泰希タヒに気づいた。

「お客さん」

「ああ、君か。……直ぐわかったかな」

「整形をしたんだね。身なりを覚えていなければわからなかった」

 男が整形をすることに泰希タヒは抵抗を持たなかったが、これほど顔かたちを変えるのは珍しいと思った。

「そうか、服装も変えなければだめか」

 ああこの男は追われているのか、泰希タヒには剛志の切迫した思いが伝わってくる。それがどこか弛緩したKタウンの同胞の中で、快いもののように感じられた。

「お客さん、名前は?」

「大山だ」

「日本人?」

「……。いや」

「本当は何ていうの?」

金容和キム ヨンファ。君は?」

金泰希キム タヒ

「同じ姓か」

「私の本貫は慶州よ、あなたは?」

「知らない」

「知らないって……」

「三代前から在日なんだ。親にも聞いたことがない」

「そう」

 実際は剛志の本貫は慶州であり、彼自身知っていたが、何故かそのことを言う気になれなかった。一方泰希タヒの方は、この男のどこに自分が惹かれるのか、首を傾げるところがあった。

「君はあの店の、娘さん?」

「いえ、遠縁の者よ。あの店で手伝いをしているの」

 実際はいつ命令が来て、命懸けの任務につかなければならないかわからない、そんな思いが彼女の胸を押し潰しそうになった。

「悪いが剛志と呼んでくれないか。大山剛志だ」

「どうして?」

「君には言えない」

「じゃあ、私は何と呼んでもらおうかしら?」

「何て呼んでほしい?」

「慶子でどう?」

「慶子?」

「そう、大山慶子。いいでしょう?」

「大山?」

「そう、あなたと私は同姓でしょう」

 いきなりそんなことを言われた剛志は目を見張る。金泰希キム タヒは、いや大山慶子は、もうこの男についていくと決めていた。一年掛けて受けた諜報員の訓練も忘れて。そんなことをすればどんな結末になるか、考えるのもやめて。

 思えば日本へやってきてからの一ヶ月ほどで、彼女の心は少しずつ蝕まれてきたのかもしれない。Kタウンの不気味な静けさに。日本という国の、隣国であるK国への異様な無関心さに。

 若い彼女は、何時までも来ない命令に待ちくたびれ果てていたのかもしれない。待つということが諜報員の一番重要な資質であると、あれほど教え込まれたにも関わらず。

 剛志には抵抗のしようが無かった。

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