第三章
ミューオン触媒核融合プロジェクトは実証炉のコンセプトを調整する段階に入っていた。このうち出力側は純水のタンクを設置し、高エネルギー中性子の受け皿とすることでほぼ解決済みと考えられている。問題は入力側の燃料ペレットのフェーザーによる制御とマイナス・ミューオンの供給方法だった。前者は現在スパコンを使ってシュミレーションの最中であり、年内には計算が終了する予定である。マイナス・ミューオンの生成方法は未だにブラック・ボックスとしてしか提示されておらず、これが明らかにされなければ、このプロジェクト自体が机上の空論という千明の指摘そのままになるしかなかった。
「この段階になっても、マイナス・ミューオン・ジェネレーター本体をブラック・ボックスで提供すると言われるんですか、先生?」
実証炉の構造体を製作するHHI(日乃丸重工)エネルギー・プラント事業部の技術者が英輔に詰め寄る。
「いかんかね?」
「し、しかし、万が一その性能が不十分なものであった場合、実証炉自体がモック・アップ化してしまいます」
「わかった、では事前にジェネレーターだけで稼働実験を実施しよう。マイナス・ミューオンの発生値と稼働時間が期待値に達することを確認してから他の部分を組み上げればいい。設計自体は完了しているのだから、これなら問題あるまい」
ミューオン触媒核融合炉はケルビン温度で七百度程度という、核反応炉としては比較的低温で運転されることになっている。従って反応炉に要求される熱耐久性も従来技術で十分対応可能であるとはいえ、高温高圧を考慮した設計にしなければならなかった。原子炉格納容器や原子炉圧力容器を数多く扱ってきたHHIが関わる炉心の設計では、最も問題となっている触媒ジェネレーターの部分について、形状や材質、耐熱耐久性の数値といった大雑把なデータしか与えられていないHHI側に不満は多かった。だがプロジェクトが国家的な規模で動き始め、他の大企業もこの計画にできるだけ深く関わろうと働きかけをしていることを考えれば、実証炉の構造体を受注したHHIがここで撤退するという可能性はありえなかった。
「触媒ジェネレーターの中味は機密事項だ、君たちは設計条件に従って外殻容器を作ってくれればいい」
そうは言っても、英輔のその言葉は技術者としてとうてい納得できるものではなかったのである。
「蒲生さんて、千明さんのどういう人なんです?」
鞘華がそう聞いたのは千明と二人で浴槽に浸かっているときだった。このペントハウスには五・六人は入れそうな大きな浴槽を備えた浴室があり、この浴槽はジャグジーとしても使えるようになっている。勿論この他に、来客用の寝室には個別に浴室が付属していた。
泡のジェットに包まれた千明の白い肌は薄っすらとしたピンクに色づき、髪をタオルで巻き上げてむき出しになったうなじが見えるところは、女同士の鞘華にも思わず見惚れるばかりだった。
「どういうって、あたしと蒲生は赤の他人よ」
「だから、他人って言っても……千明さんは蒲生さんと……」
「抱いてもらったことはあるわ」
「愛人、なんですか?」
「さあ、何かしら? 世間で言うそういうのとは違うと思うけど。あれはリハビリみたいなものよ。まともなセックスがしたくて抱いてもらったんだけど。あの人にとってはどうだったのかしらね?」
「そんな……だって、最初の人だったんでしょ。蒲生さんじゃなくてもよかったんですか? そんならもっと違った人と恋をして、その……」
「あたしが処女だったと言ったって表面的なものだけ。中味はずぶずぶに汚れてるの。中也の詩じゃないけど、愛した相手にそんな哀しみを背負わせたくはない。蒲生でよかったのよ。あの人はあたしの気持ちを丸ごと受け入れてくれたから」
鞘華は返すべき言葉が見つからずにうろたえてしまい、結局話題を変えるしかなかった。
「今日の会議でHHIの人が言っていた『触媒ジェネレーター』って、結局どうするんですか?」
何回か会議の場を覗いているうちに、その部分を作っているという企業の話が一度も出てこないのに鞘華も気付いていた。実証炉の主要部であるのに、どの企業も他のどこかが受注しているという前提で計画を進めている。通常ではありえないことだが、そこは英輔のあの能力が関わっているとしか考えられない。それぞれの企業が莫大な投資を行なっているにも関わらず、『極秘プロジェクト』の名の元に不明部分があって当然だと思い込んでいる。だがこのまま実証炉が稼働段階に進んだら、いったいどうなるのか? 鞘華がおこぼれに与かっているこの贅沢な生活も、ミューオン触媒核融合炉が実現可能だと皆が思い込んでいるからこそ成り立っているはずだ。もしこれが壮大な幻想だったということになれば、英輔と千明は詐欺犯として公衆の面前に引き出され裁かれることになるだろう。未成年である自分は訴追を免れるかもしれないが、下手をすると保護の名の元にあの父親の所へ戻される可能性だってある。鞘華にとって英輔と千明の運命は他人事で済まされる話ではなかった。
「あれの部品はね、いくつもの部分に分けて関西の小さな企業に発注してあるのよ。それを集めて組み立てれば『触媒ジェネレーター』が完成するというわけ」
「そんな小さな会社に『触媒ジェネレーター』みたいなすごいものが作れるんですか?」
「日本の中小企業を舐めない方がいいわ。世界のどこにも作れないものを作る職人業を持っている企業が沢山あるのよ。まあでもね、今回作ってもらうのは『触媒ジェネレーター』の容器に過ぎないんだけど」
「ただの容器ですか?」
「容器と言ったって、一度組み立てたら壊さない限り絶対開けられない、外部からは光ケーブルで信号を入力できるだけ、出力はマイナス・ミューオンが出るだけ。そういう容器なのよ」
千明によるとその『容器』は直径三十センチ、長さ一メートルほどののっぺりした金属製の円柱だった。一方の端には光ケーブルの端子が、他方の端にはマイナス・ミューオンの生成面がある。光ケーブルを通してレーザーで光信号を送ることでジェネレーターはコントロールされるという仕組みだった。
「それで、そのジェネレーターが働かなかったらどうなるんですか?」
「どうして働かないなんて思うの?」
「だって……ああ、蒲生さんの『力』で働いたように見せるんですね。でもそれって、その場しのぎじゃあないですか」
「勘違いしているね、鞘華。あたしたちは確かに沢山の人を騙しているんだけど、嘘をついているのはそこじゃないのよ。これには鬼嶋のところに出入りしていた寒月という人が関係しているんだけど……」
寒月という俳号みたいな呼び名のその男の外見は、ひょろっとした上背にごま塩の頭、顎が少ししゃくれていて前歯が一本欠けている。無精髭にも白い物が混じり、片目がやや斜視気味で、何かものを言う時に首を傾げる癖があった。
薄汚れた作務衣を着て、古ぼけた自転車に跨ってやって来る姿を見て、これがその道の者たちから『飯綱使いの寒月』として恐れられている人物だと気付く者がどれだけいるだろうか。蒲生が大和誠心会の鬼嶋に会って半月もしない頃、寒月の方から面会を求めてきて、蒲生は寒月と会うことになった。
寒月は多くの修験道の者たちがよりどころとする仏神系の通力ではなく、外法と言われる怪しい法力の使い手として同業者たちに知られていた。
飯綱は別名管狐とも呼ばれる憑き物である。飯綱使いはこの管狐を操って、人の将来や自然現象を予知したり、他人を狐憑きにして病気などの不幸をもたらしたりすると信じられていた。
管狐は細い竹の一節の中に納まるほどの大きさで、人ではなく家に憑くというのが定説である。また使役するだけの力の無い者が扱おうとするといつの間にか何十匹にも増え、その家を食い潰してしまうとも言われている。
寒月はこの憑き物を使役して占いを行い、敵対するものに様々な災いをもたらすことができると言われていた。実際、寒月によって手ひどい目にあったという話も数多くあり、その内容も常人の業とは思えなかったので、同業者からは一目も二目も置かれる存在であ
った。
その寒月が蒲生に興味を持ったのは、鬼嶋が寒月の金蔓だったからである。寒月に限らず、大和誠心会には怪しげな修験者や霊能力者を自称する人物が出入りしていて、これは鬼嶋の信じやすさをよいことに色々な名目で金銭をたかる者たちであった。その中でも寒月は『本物』の異能の持ち主であったわけだが、それほど物欲が無いのか飲み代に困ると小遣い銭をせびる程度であった。
寒月が蒲生に強い関心を示したのは、出入りの同業者から噂を聞きつけ、蒲生が己と同様に『本物』ではないかと感じて、それを確かめたいと思ったからであったらしい。鬼嶋を通じて声を掛けられた蒲生は、これまた寒月の『異能』に興味を持ち、寒月の知人が住職を勤めるある寺での会合に同意した。
寒月が山門の前で自転車を降り、それを押して境内に入って来たのを見て、千明は何だか影の薄い人間だと感じた。鬼嶋のところに出入りしている霊能者とか修験者とかいう連中は、おおむね押しつけがましく他人の言葉にかぶせる様な物言いをする者が多い。何かで弱気になっている人間を『折伏』と称して詭弁を弄し屈伏させるようなことを日頃生業としていると、ああいう人格が出来上がるのだろうと千明は考えていた。寒月はそれに較べ押し出しは貧相で、少し猫背に歩く姿には迫力がない。これでは例え相手が幼児だとしても『折伏』することなど無理だろうと感じられた。
「やあ、あんたさんが蒲生さんで? 俺が少し遅れたようで、待たしてすんません」
「いや、こちらが早く来過ぎたということでしょう。巌流島ではないのだから、そんなこと気にかける必要はないでしょう」
蒲生が思わず武蔵小次郎を例えに挙げたのは、寒月の魂胆を深読みし過ぎた結果だ。てっきり金主の鬼嶋から手を引くように寒月が釘を刺しに来たと思っていたのだ。だが寒月は純粋に好奇心から蒲生に会いに来たのであり、その言葉を気にする様子もなく受け流した。
「じゃ、ま、奥へ」
寒月は案内も請わずに本殿の奥へ進んだ。本尊の釈迦如来像が据えられている裏側は二十畳ほどの畳敷きになっていて、横の欄間の格子戸からは斜めに光が差し込んできていた。
そこへどっかと腰を下ろすと、寒月が自分の前を指さして言った。
「ま、そこへお座りを」
蒲生が胡座をかいて座る。寒月は突然大声になって、本殿から裏に抜ける廊下らしい方へ向かって叫ぶ。
「おーい、日淵さん、お茶をくれんか」
しばらくして寒月と同年配の小太りの僧侶が盆を持って現れた。この人物がこの寺の住職で、会合の場を提供してくれたらしい。日淵は軽く会釈して畳の上に茶碗を置き、何も言わずにさがって行った。
「愛想のないこったが、いつものことなんで勘弁してやって下さい」
ずいぶんと偉そうに言うその態度に、蒲生は思わず苦笑いして口を開く。
「この寺は寒月さんと何か縁のある場所ですかな」
「日淵とは中学の同期なんですわい。縁と言えばそんだけです」
寒月はごま塩の頭を片手でゴシゴシやってから言葉を続けた。
「こんな姿をしとりますが俺は坊主でも修験者でもない、ただの『クダ屋』ですじゃ」
「『クダ屋』ですと?」
「『犬神持ち』とも言われてますな」
「『犬神』ですか?」
寒月は歯の欠けた口を開けてニヤリと笑うと、上目づかいに蒲生を見ながら頷いた。
「『犬神』というのは『犬神鼠』とも言われまして、巫蠱の本道ではなくて、憑き物ですじゃ。だから本道の連中からは嫌われとります」
「寒月さんが『本道』と言われるのはあの……」
「法体で鬼嶋の所に出入りしている連中です。あと霊能力があるとかいう婆さんもいましたな」
「いや、あの人たちは嫌うと言うより恐れているように見えるが」
寒月はまた上目づかいに笑うと肩をすくめ首を捻った。
「『クダ屋』は元々忌み者ですじゃ。あん者たちゃ貶んでおるけども恐れてもおります。自分たちの力じゃどうにも敵わんことを知っているけ」
寒月に言わせると『本道』の連中は『こと』に頼りすぎて『もの』を使えないのだという。つまり人の目をたばかることはできても、実のところ彼らの力では爪楊枝一本動かすことができない。対して寒月の操る『もの』は物質を動かすことができる点ですでに彼らに勝っている。それがどうにも妬ましいが故に、彼らは『クダ屋』をよく言わないのだという。
「ま、身内の恥を言ってしまえば、『クダ屋』はどうにもならん奴が多かったというのもありますがの、『本道』の連中だってそれは似たようなこってす」
つまるところ並の人間が持たないような力を持つと、たいていの人間は堕落して己を見失うということだろう。鬼嶋の所に出入りしている者たちがどれだけの力を本当に持っているのか疑わしいが、少しでも超常の能力を持っていたとして、仲間うちでの嫉み妬みが無いとは思われなかった。
「で、わしに声を掛けられたのはどういうわけですかな?」
おもむろに蒲生が尋ねた。声は穏やかだが警戒感は隠さない。どうせろくな話であるはずが無いという口ぶりだ。
「そう気を張らんで下さい。悪い話じゃないですて」
寒月がいかにもあけっぴろげだと言うように掌を差し出して振って見せた。
「ほお、わしにとって悪くない話とは?」
「そうそう、ちょっと買い取ってもらいたいものがあるんですさかい」
「買い取る?」
「さいです。値段はこれでよろしゅおます」
さっと、寒月は左手の人指し指を出して見せた。
「一本?」
「掛け値なし、ちょうど一千万。先月あんたが鬼嶋はんから紹介された客から受け取った金額です」
「これはまた、ふっかけましたな。得体の知れない代物に一千万とは」
蒲生がそう言うと寒月は心外だという表情を見せて言いつのった。
「得体の知れないと言えばあんたさんの占いかてそうでしょう。当たるか当たらんかわからんものに一千万。たいしたもんや」
「さて、客が納得して払うものを得体の知れないとは言えないでしょう。わしは未だあんたが売ろうというものを見ても聞いてもいない」
「あれ、まだ説明してなかったですかな? 俺が売ろうというものは簡単には見せるわけにはいかんもので……、まあぶっちゃけて言ってしまえば『管狐』ですわ」
「それは? あんたに憑いている『管狐』を売ると言われる?」
「左様ですわ。お狐さん一匹一千万、妥当な値段だと思いますわ」
何が妥当なものか。買うとも何とも言っていないものに勝手に値段をつけて、恩きせがましくへらへらと笑っている様子を見て、蒲生は少し腹が立ってきた。当然受け応えも、斜にかまえた物言いになる。
「まあ、例えばそれを買うとして、わしに何の得があるのですかな?」
「何の得と言って、あんたさん、さっきの俺の話を聞いていなかったんですかい?」
「さっきの話と言われても、わしにはさっぱりわかりませんな」
「だから管狐は『もの』を動かせると言うたでしょう」
寒月に言わせると蒲生の『力』は確かに人並み優れていはしても、他人に幻を見せるだけで『もの』に影響を与えるわけではない。もし蒲生が管狐の『力』を得ることができれば、それこそ無敵の存在になれるではないか。この機会を逃す手はない。金惜しみをしないで、上杉謙信や武田信玄も信仰した飯綱大権現の力を得るべきではないか、と言うのである。
「そんなに霊験あらたかな『もの』であれば、他に欲しい方は沢山おられるでしょう。わしなんかよりそちらにお売りになったらいかがかな」
そう蒲生が言うと、寒月は「法力の無い人間には扱えない」と言う。そして「法力のある者には金が無い」とも言った。要するに蒲生がたまたま大きな現金を握ったのを知って、売る気になったと言うのである。
だが蒲生には寒月の言葉が信用ならなかった。それほどその代物が素晴らしいのであれば、寒月の行者仲間が借金してでも買おうとするのではないか。よしんば修験者などというものには信用力が無いとしても、あの鬼嶋あたりがスポンサーに名乗りを上げそうな話ではある。
「寒月さん、あんた何ぞ隠しているのと違いますか? どうにもこの話、裏があるとしか聞こえません」
ズバリと切り込まれ寒月は斜視気味の眼をキョトキョトさせた。千明にさえその姿は怪しく見え、この男の気が弱いのがわかった。寒月がこの話を他の行者仲間に持っていかなかったのは、話の種がいかがわしいばかりでなく、この男の気の弱さにも理由があるのではないかと感じられた。要するにすぐ足元を見られてしまうのである。そこのところを自分のことを未だよく知らないであろう蒲生になら誤魔化せるのではないか、そう寒月は考えたらしかった。だがよく知らないのは寒月の方で、蒲生は幻を見せるだけではなく、人の心の表面をすくい取る『力』を持っているのだ。よほどの自制心の持ち主でもない限り、蒲生に隠し事は不可能だった。
「いや、隠してるなんて、あんたさん……」
蒲生は寒月の心のとんがってビクビクしている部分をすくい取り、寒月の心に投げ込んだ。それはまるで石ころを投げ込まれた池の表面のように波紋を生み広がって寒月の心をいっぱいにした。寒月は頭を抱えて畳の上にころんと転がって悲鳴を上げる。
「ひーっ、やめてつかあさい!」
それは無数に増えた管狐の小さな顔で、その顔はいずれも口を開き歯をむき出して笑っていた。どうやら寒月の最も恐れているものはこの顔の群れらしかった。
「どうしたな寒月さん? 隠し事など無いはずではなかったかな?」
「まいった、すみません、ごめんなさい。全部話すから俺にそいつらの顔をみせるのはやめてつかあさい!」
後でわかったことだが、寒月があまりに簡単に降参したのには理由があった。飯綱使いとして恐れられてきた寒月ではあるが、最近気力が衰え、己が使役しているはずの管狐に対する制御が効かなくなってきていたのだ。
「クダ屋の法力が弱ると奴らは勝手を始め、いつの間にか増えてクダ屋を食い殺してしまうんですじゃ」
「その後は、どうなるんだね?」
「さて、何処かへ行ってしまうのか、姿を消すということですたい」
「じゃあ、あんたが食い殺されれば万事解決ではないか、寒月さん」
寒月がどうしても食い殺されるのは嫌だというので、蒲生は管狐を買い取ることにした。
随分人のいい人間だったのね、人助けに命をかけるなんてと千明が考えていたら、依代は蒲生自身ではなく千明だという。つまりいざとなったら食い殺されるのは千明ということだ。蒲生の考えでは、依代が自分自身だと恐怖にかられ冷静さを失いやすい。制御するものが別にいる方が安全なのだという。千明はにんまり笑って、一言付け加えてから承諾した。
「あたしが食い殺される時は蒲生さんも一蓮托生よ」
「ああ、いいとも」
何がいいのかわからなかったが、蒲生がそう言うので千明は納得した。
「ちょっとぉ、千明さん、何がいいの? 千明さんが食い殺されたらそれでお終いじゃないですかぁ!」
鞘華はあきれたらいいのか腹を立てたらいいのか迷いながら立ち上がって叫んだ。あまり豊かではない胸や股間の陰りまでむき出しである。千明はちょっと苦笑いして鞘華の片腕をつかみ、泡立つ湯の中に引っ張り込んだ。
「いいのよ鞘華、蒲生はね、万が一あたしが食い殺されたら、一緒に死んでくれる。そんな気がするのよ」
「そんなの、わからないじゃないですかぁ」
鞘華はふくれっ面でそう言ったが千明はそれ以上とりあわなかった。
「それで、その寒月って人はどうなったんですか?」
「どおって、まだ生きていると思うわ」
「食い殺されなかったんですね」
「そおね」
結局、蒲生は寒月から三百万で管狐を買い取ることにした。証文も何も無しで、ただ「売ります」「買います」と言って金の遣り取りがあっただけである。それで管狐はいつの間にか千明の元にやって来た。ゾロゾロと眷属を引き連れてやって来るのかと思ったら、一匹だけだった。他は寒月のところへ残ったのかと思えば、そうではないらしい。今まで管狐がいたところにはポッカリとした虚空しか残っていないと寒月は言っていた。
そのホッとしたようなガッカリしたような顔を見て、千明は思わず笑いだしそうになったと言う。
「笑わなくてよかったですね」
「どうして?」
「そんなの、笑うってよくないですよ」
「そうかしら?」
風呂上がりに千明の作ったアールグレイのシャーベットを食べながらそんな会話があった。この香料の入った紅茶の茶葉は、フランスのメーカーの方がシャーベットには向いていると千明が解説した。後でメモしておかなくちゃと鞘華は考える。自分で作って、暑い季節に出すのもありだと思ったからだ。
蒲生がダイニングに歩いて入って来て、白いバスローブを来て頭にタオルを巻いて座っている二人を眺め、少し口を尖らした。
「あ、シャーベット食べますか? まだありますよ」
鞘華があわてて立ち上がって蒲生に聞く。
「二人で何を話していたんだ?」
蒲生がそれを遮って尋ねた。
「あの、狐のことです」
鞘華が答えると蒲生は千明に尋ねる。
「どこまで話した?」
「まだ、ほとんど……」
「あのことは?」
「ちょっと無理じゃないかしら。鞘華、男を知らないみたいだし」
「そうか」
この会話に鞘華がひっかからないわけがなかった。
「ちょっとぉ、千明さん、それなぁに? わ、私が何で?」
「ヴァージンでしょ」
「そんなこと、どうしてわかるんですか!」
「まるわかりじゃないの」
千明に言わせれば鞘華に現在進行形で男がいないのははっきりしている。そんな相手がいれば出会った時あんな寒い場所をうろついていたりしないはずだし、怪我が直るまでに何とか連絡をとろうとしたはずだ。鞘華の言動を見れば過去についても男の陰は見当たらない、そういう判断だった。
「どうせ私にはそんな付き合いなんてありませんよ」
ここ一年余り鞘華の私生活は父親のせいで家とバイトと学校の間を行き来するだけの厳しいものだったし、中学時代にも家の事情を他人には知られたくなくて壁のようなものを周囲に作ってしまった彼女に、浮いた噂の立つような相手はできなかった。
「だから無理だと思うわ」
千明が突き放すようにそう言うと、鞘華は余計気になった。
「何が無理なんです?」
「知りたいのか?」
ショット・グラスに十六年物のヴァランタインを注ぎながら蒲生が言った。その眼は少し荒れていて、本人の言うところの『悪い大人』の顔だと鞘華は思った。
「えっ、うん」
「知りたいのかと聞いたんだ。はっきりしろ」
「知りたいです」
無理やりそう言わされたような気がして鞘華は絞り出すようにそう返事した。だがそう言わなければ先へ進めないのだと自分を納得させた。無傷で生きていくことなどできはしないのだ。危険を冒すことを恐れていては自分の足で前へ進めない。蒲生の眼は獲物を狩ろうとする爬虫類の眼のように鞘華には見えたが、自分は恐れていないと自分に言い聞かせた。
「依代が千明だけではうまくないんだ」
「それって、私にもなれっていうこと?」
「ああ」
ミューオン触媒核融合プロジェクトのキーパーツである『触媒ジェネレーター』の正体は『管狐』であった。寒月から管狐を譲り受けた後、蒲生と千明はその正体をいろいろ探ったがよく分からなかった。西洋の伝説にある『火蜥蜴』や民数記に現れる『火の蛇』とも関わりがあるのではないか、あるいは地球外に由来する生命体ではないかという仮説を立ててみたりしたが、結局考えるのをやめた。
次に考えたのは管狐が何をできるか、あるいは何をさせることができるか、だった。寒月から聞いた伝承によると、管狐は次のような『通力』を持つと言われている。
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
だがこれもそれを使役する依代の能力次第で、例えば気力の衰えた寒月には管狐を制御することが困難になり、逆に食い殺されるのではないかという恐怖に怯える破目に陥ってしまった。
試行錯誤した結果、管狐は『もの』つまり物質を運んだり変化させたりすることができるが、その際の制御は『もの』の重さつまり『質量』が大きいほど難しいということがわかった。つまり米俵一俵より米粒一つを運ばせる方が容易なのである。であるならば原子一個とか素粒子とかのレベルであれば比較的容易に制御できるのではないか、そういう発想から生まれたのが『マイナス・ミューオン触媒ジェネレーター』のアイデアである。
ミューオンは従来、高エネルギー粒子加速器から生成されるパイ中間子の崩壊という過程からしか得ることができなかった。蒲生と千明は管狐にこれを生成させる方法を見つけ『マイナス・ミューオン触媒ジェネレーター』という装置を考え出したというわけである。
「ジェネレーターを操作できるのが千明一人では何かあった時に困る。クライアントたちに千明の『個人的能力』だと受け取られると拙いんだ。ただでさえ、あれだ……」
「あー、蒲生さんの能力のことね」
鞘華は前に見た千明の人の悪い笑顔を真似しようとしながらそう言った。
蒲生は苦笑いするとほんの少しだけ頷く。
「まあそうだな。わしのやり方は成果を上げているからいいようなものの、コンサルタントというより『占い師』じゃないかと言う者も少なくない。そこにきて千明が『狐憑き』だなんて言ったらクライアントの腰は間違いなく退ける。本当のところを誤魔化すために
は、ジェネレーターの操作ができるのが千明だけでは困るんだよ」
「それで、私なんですか?」
「そうだ」
「でもヴァージンじゃ駄目なんでしょ」
「絶対無理と言うわけじゃないが……」
蒲生の説明によると、女性が管狐の依代になるというのは一種の恋愛関係に近い共生状態なのだという。つまりもし今の鞘華が管狐を受け入れるとなると『初恋』に近い関係になってしまう。多分その場合、鞘華が理性を保つことは難しいだろう、これは人間同士の恋愛の場合も同様なのだが、と言うのである。
「依代にならないとジェネレーターの操作はできないの?」
「自分に憑いている管狐を通してジェネレーターの中の管狐と意志の疎通を図るわけだからな」
「困ったわね。それって私がどこかでヴァージンを棄ててくればいいってもんでもないんでしょ」
蒲生はまた苦笑いをして答えた。
「恋愛経験があるかどうか、露骨に言えば『発情』したことが過去にあって、それを客観的に見ることができるかどうかということだからな」
鞘華は蒲生と千明の様子を伺いながら考え込んだ。どこかに抜け道があるに違いない。最初から無理ということであればこの二人が話を持ちかけてくるはずがない。どう考えてもこの会話は仕組まれたものだ。答えを鞘華自身が見つけて、自分から求めてくるのを待っているのだ。
「要するに私が理性を失わなければいいのよね」
「そんなことになれば何が起こるかわしにもわからない」
「蒲生さん、あたしが撃たれた時のフラッシュバックで苦しんでいた時に助けてくれたよね」
「ああ」
「あれと同じことができるんじゃないの?」
つまり鞘華が理性を失いそうになったら、蒲生が鞘華の心に干渉して引き戻せばいいというのである。
「鞘華の心の中にわしが手を突っ込んでもいいのか?」
「前にもやったじゃない」
「あれはパニックのきっかけになる記憶をぼやけさせただけだ」
前回のそれが目隠しをする程度の干渉であるとすれば、今回は裸に剥いてバケツで氷水をぶっかけるくらいのものになる、蒲生はそう言った。性衝動とはそのくらいしなければ打ち消すことのできないものだと言うのである。
どうやら鞘華の提案は正解だったらしく蒲生と千明は話に乗ってきた。鞘華は二人目の依代として蒲生たちに協力することになった。
鞘華が管狐の依代になる前に予防線を張るのだと言って、蒲生は鞘華の心に何やら細工を加えた。おかげで鞘華は管狐を受け入れても多少身体がポカポカするような気がするだけで、これという異常も感じずに済んだ。
「千明さんの時はどうだったの?」
鞘華がそう尋ねると千明は妙な笑顔を浮かべた。ちょっと間があって鞘華は説明を拒否されたことに気付いた。どうやらそれについて語りたいような体験ではないらしい。蒲生の『予防線』が無かったら自分はどうなっていたのだろう、そう考えて鞘華は身震いした。
けれど同時に好奇心が心の何処かで目覚め、後で蒲生に聞いてみようという考えを抑えきることができなかった。
よく考えてみると鞘華は蒲生の操り人形になったようなものだった。蒲生の手を離れ、管狐と鞘華が残された場合どんなことが起こるか知っておかなければならないと思った。だが、これに関して蒲生の口は重かった。それでも色々聞いていくに従って鞘華は自分が結構なリスクを負ってしまったことを知った。
管狐が憑いた人間は欲望が肥大して暴走しやすい。信じられないほどの大食らいになったとか、色欲が留められなくなって何人もの娘を攫って夜な夜な犯したとか、金品や米穀を周囲の家から管狐に奪わせたとか、そういう伝承はたくさんあって、それがまた『クダ屋』が蔑視され嫌われる理由となっているのだという。
「管狐を暴走させると私もそうなってしまうってこと?」
「だから、勝手をさせないようにわしの手助けが必要なのだ」
その辺のノウハウは千明の時でわかっているから大丈夫だと蒲生は保証した。鞘華は蒲生と千明の関係が思っていた以上に深いと感じ、この関係に入っていけるものかと自問した。千明が得ているものと同等以上の何かを手に入れるために自分は何ができるのだろうかと考えたのである。
しばらくすると鞘華は自分の身に異変が起こっているのに気付いた。感覚が前より鮮明になった。身体が軽くなり、走ったり跳んだりする力が倍増した。平衡感覚が変化し、高い所へ上がることへの恐怖が無くなった。
「ひょっとして、千明さんも同じことができるの?」
鞘華がそう尋ねると千明は頷き、ペントハウスの高い天井まで跳び上がって見せた。
「すごい! 忍者みたい」
「昔の忍者の中には『犬神憑き』がいたのじゃないかと思うのよね」
その時蒲生がふいに『管狐』の呼び名を変えようと言い出した。
「え? どうして? 狐とか、可愛いと思わないですか?」
鞘華がそう言った。
「可愛いかぁ、いや、可愛いというのは少し困る……」
「どうして? 意味わかんないです」
「これからマイナス・ミューオン触媒ジェネレーターに関して話す機会が増えると思うんだ。万が一他の人間に聞かれたとき『管狐』じゃ、正体がばれてしまうと言うか、誤解されてしまう危険性がある」
「じゃあ『管ちゃん』とかなら?」
「可愛いけど、かえって変な興味をひいてしまうとあたし思うわ」
千明がそう言った。どうも可愛いのにこだわるのはいけないらしい。
「じゃあ、蒲生さんは何がいいと思うんですか?」
鞘華は少しふてくされた口調でそう尋ねた。
「そうだな。『ネヒュスタン』というのはどうかな? これはモーゼが神の遣わした『炎の蛇』を模して作った『青銅の蛇』の呼び名だ」
「それとあたしの『管ちゃん』と、どういう関係があるんですか?」
「いや、あれだ、民数記に出てくる『炎の蛇』というのが、いかにもそれらしいと思ってな」
「じゃあ、あたしの管ちゃんはこれから『ネヒュたん』って呼びます。それでいいんですね」
「鞘華、あなたちょっと変よ」
千明が心配そうに鞘華の顔を覗き込んだ。
「これって……英輔さん!」
「あ、ああ」
次の瞬間、鞘華は頭から氷水をドッと浴びせられた……気がした。実際は蒲生が鞘華に感じさせた幻覚に過ぎなかったのだが、そのショックは凄まじく、鞘華は涙目になってうずくまった。
ガタガタ震えている鞘華に千明が毛布を着せ掛けて言った。
「大丈夫? 実際は濡れているわけじゃないんだけど、温かいお風呂に入った方がよさそうね、鞘華」
「ひどい! うーっ。もう、死ぬかと思いました。ひどいです!」
「あなたが理性を失いかけたからよ。そうしてくれって言ったでしょう」
「そ、それはそうだけど、こんなに凄いとは思いませんでした」
結局鞘華はその後お湯に入って身体を温めなければならなかった。そうしなければ震えがおさまらなかったからである。
「『管狐』の依代になるってことがどういうことかわかった? 親近感を持つのが悪いとは言い切れないけど、うっかり気を許すと心を乗っ取られてしまうわよ。さっきだって危ないところだったんだよ、鞘華」
浴槽の側に腰掛けて鞘華の肩にお湯をかけながら千明がそう言った。
「可愛いと思うのがいけないんですか?」
「『嫌悪感』を持つのも自己矛盾を抱えることになるからよくないけれど、やっぱり自分との間に線を引いてそこから中には入れないようにしないとね。ズンズン入ってこられたら、自分と相手の区別がつかなくなってしまうの。その辺はセックスと似ているわ」
「それは……私経験が無いから……」
「今さら言っても遅いけどね」
結局鞘華が自分で選んだ路なのであった。これでしばらくは蒲生の側を離れられない。一人では管狐に自分を乗っ取られてしまう危険があったからである。だが、我を忘れそうになる度にあの氷水の洗礼を受けることになると考えると、鞘華は文字通りゾッとする思いであった。