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第二十三章

 自分が殺しそびれた男の顔を、清瀬茂子は車の助手席から無感動に眺めていた。相手は歩道をゆっくりと歩いていて、こちらには気づいていない。前にその男を見たのはもう暗くなった街角で、茂子にとって初めての殺しの前後でもあったので、確かな記憶にはなってはいなかった。だが今昼下がりの陽光のもとで見直してみると、それは間違いなくあの男であった。

 殺しそびれたのは鞘華が止めたからだが、茂子は今さらそれについてどうこう思っているわけではなかった。あの時はあの時だったのだし、鞘華にも止めた理由のあることだった。男はそんな茂子の思いなど知らぬげに緑色のネクタイをゆるめ、上着を脱いで肩に掛けた。車とすれ違った後、男は秋葉原の駅の方に歩いていく。茂子は振り返りもせずに運転席の方へ声を掛けた。

「もういいわ。後は公安に任せましょう」

 運転手は権藤の部下であった。そのまま車は動き出す。英輔の指示で昨日から首都圏へ出向いていた茂子は、公安から内情へ上がってきた情報によって剛志の動向を知り、その姿を確認しにやって来たのだった。必要があれば剛志を処分する仕事は自分に廻ってくるだろうと思ったからだ。そうなったらやりかけた仕事を片づけるように、無駄なことは考えずに素早く済ませるだけのことだった。剛志はどう考えてもK国のために働いているとしか思えなかったから、そうなる可能性は高いと茂子は感じていた。

 ホテルへ帰り一人で独占しているスイートに入ると、英輔からのメッセージ・カードと薔薇の花束が届けられていた。ディナーの誘い、と言っても茂子にとっては召喚状に近いが、である。


 英輔もこのところ首都圏に居ついて、与野党の政治家や自衛隊の制服組の間を『手当て』して廻っていた。防衛計画の大綱改正案はすでに両院で了承され、心神改と海神の製造ラインは動き出していたから、今回はもっぱら外交と内政問題である。

 A国の覇権主義に対する反発は極左の空想的社会主義政党ばかりではなく極右の国粋主義的政党にも高まっていた。現在の首相はどちらかというと現実的な政策を堅持しており、その地位についてもう三年になる。一見安定した政権運営を続けているように見えるが、政治というものは時として思わぬところで足元をすくわれることがある。ことに神輿を担いでいる政治家たちは中途半端な覚悟の者が多く、両翼からの突き上げで簡単に動揺してしまう可能性も低くはない。そうなったら安定していると思えていた政権が、あっと言う間に瓦解してしまうことだって考えられるのだ。

 自衛隊の制服組もそれなりの悩みを抱えている。制服組の幹部ともなると、A国の軍人たちと接触する機会も少なくない。彼らは真摯であるがゆえに、A国の軍人が自衛隊を『ブリキの兵隊』、つまり戦場経験のない軍隊と見下しているのではないかと意識しないではいられない。これは必ずしも理性で克服できるとは限らない悩みだ。その原因は『政治』にあるとわかっていても、軍人として実戦で試されていないという引け目のようなものは、どうしても付きまとうのである。この『引け目コンプレックス』が下手なところで弾けてしまっては困るのであった。

 英輔が政治家や自衛官たちに期待するのは現実主義、できれば過激なまでの現実主義であった。だが耳に快い言葉は、聞く者だけでなくそれを口にする者まで酔わせるものであり、言葉の真実を見失わせる。例えば国益という言葉一つをとっても、それが誰のための国益なのかを語らずに乱用され、人を欺き続けてきた実績があるのだ。

 為政者であったり軍人(自衛官)であったりするものは、時として他人を欺く必要があると英輔は考えていた。だがその時も、自分自身を欺いてはならないのだった。

 千明には取り越し苦労だと言われるが、そういう意味での現実主義者がどれだけ政治家や軍人の中に稀少であるか承知している英輔は、手をこまねいてはいられないのであった。


 ホテルのレストランに現れた茂子のファッションは、ゆったりとした綾織のスーツ、上着とパンタロン、白いシャツとパステル・カラーのネクタイ、ストッキングにヒールのある金のサンダル、といった組み合わせだった。

「ふーん、それはシャネルかね?」

「ええ」

 英輔の質問に何気なく頷いた茂子だが、オートクチュールのものを金額を考えずに購入することには未だに抵抗感を覚えずにいられなかった。ネフュスのオペレーターとしてだけでなく、英輔の他の危ない仕事にも関わっている茂子は、今や億単位の年収があったが、身についた貧乏性というのは中々抜けないものである。だが場合によっては英輔と共に一流といわれる人間たちの中に紛れ込まなければならないとなれば、そんなことも言っていられないのであった。


 茂子は白いテーブルクロスの上から背の高いワイングラスを取り上げる。それを見た英輔もグラスを持ち、軽く頷いてみせる。ワインは少し金色がかった白だった。

「おいしい」

 フルーティな香りが口をつけた茂子の鼻腔一杯に広がる。英輔は口元だけで笑ってグラスを置く。

「フランス人に言わせるとワインは水と同じだそうだ。値段が高ければ美味いといったものでもない。瓶に詰めて売っているから価格という評価がつくが、元来は美味いものは美味く、不味いものは不味い、それだけの話だ」

「世界で一番沢山ワインを作っているフランス人が言うのならそうなのでしょうね」

「ワインの生産量ではイタリアが一位だ。消費量ではフランスが一位だがね。要するにフランス人は世界一呑兵衛のんべぇな国民というわけさ」

「これはどこのワイン?」

「ピエモンテのガヴィだよ」

「それはフランス?」

「イタリアだ」

「イタリア人は呑兵衛じゃないの?」

「消費量はフランスに次いで二位だ」

「では乾杯しましょ。世界で二番目に呑兵衛なイタリア人に!」


 キャビアやシェリンプ・サラダといった前菜の後に冷たいパンプキンスープが出た。それからすずきのソテーとロースト・ビーフ、最後にデザートと珈琲である。

「それで、私を満腹にしておいて、この後誰を殺せというの?」

 茂子の問いに英輔は笑いを浮かべて唇に右の人指し指を当て、首を振った。

「殺すなら私にしてほしいね。甘く、甘くね」

「イタリア映画のセリフみたい。この後シェリーをいただこうかしら?」

 英輔は古い人間だったのでこれがベッドへの誘いであることを承知していたが、少しとぼけてみせた。

「生憎イタリアの映画は昔の西部劇ウエスタンしか知らないんだ」

「あら、では縛り首にでもしてほしい?」

「そいつはよしてくれ。首が長くなるのは嫌だ」

「我が儘なのね。それで本当はどうして欲しいの?」

「こうしよう。今晩は君のキスで私を殺せるか試してみる。それが上手くいかなかったら他の方法も試してみよう」

「いいわ、あなたの心臓が丈夫なことを祈ってるわ」

「では君の部屋で」


 茂子のスイートで英輔が彼女の唇を貪っている時、無粋にも部屋の電話が鳴った。電話を無視するよう茂子が言ったのに、英輔は受話器を取り上げる。しばらく耳を傾けた後、ネクタイをしめ直した英輔を冷たく見上げて茂子が尋ねる。

「何があったの?」

「仁科の話だと対馬にK国とC国の軍隊が上陸したらしい。対馬はK国固有の領土で、今回の侵攻はそれを回復するための措置だという声明を、K国とC国が連名で出したそうだ」

「自衛隊は何をしていたの!」

 日本海側にも自衛隊の哨戒艦が遊弋ゆうよくしているはずである。

「奴らはK国からフェリーの定期便に乗り込んで上陸してきたと言うことだ。K国側で情報統制すれば対馬に到着するまで日本側が察知することはない」

「でもA国は?」

 K国にはA国の基地があり、駐留しているA国軍がK国軍の動きを察知していないはずがなかった。

「事前に知っていたろうな。次は、味方してほしければ言うことを聞けと、日本に言うつもりだろう」

「A国は日本が助けてくれと泣きつくのをまっているのね」

 英輔は顎鬚をなでながら考え込み、それから言った。

「事前にC国側と話がついているのかもしれん」

「どういうこと?」

「落し所さ。A国海軍が出てくればC国が太刀打ちできるとは思えん。まだ今のところはな。だからこれ以上の侵攻は多分ない。A国も沖縄の基地を明け渡したりはしないだろう」

「沖縄?」

「沖縄はC国の属国だったと奴らは主張している。今回も、A国の基地さえなければC国が侵攻していたはずだ」

「対馬はどうなるの?」

「K国は対馬の占領を既成事実化するつもりだ。何と言っても奴らには前科があるし、今回はC国の後ろ楯もある。それに、ひょっとすると侵攻をあおったのはA国かもしれん。K国の前に餌をちらつかせてな」

「他人の国の領土を食い散らかして、自分たちで勝手にことを進めようというわけね」

「所詮A国もC国も覇権主義国家で古い時代の残滓を後ろに引きずっているんだ」

「K国は?」

「あの国の事大主義は今に始まったことじゃない」

「それはどう評価されるべきなの?」

「強きにおもねり弱きをくじく 、というやつさ」

「弱いはずの国が逆襲してきたらどうなるのかしら?」

「奴らが上陸させたのはせいぜい一個大隊、五・六百人というところだろう。装備も軽車両で運べる程度のはずだ。K国やC国に、これ以上の増援を上陸させることを許すつもりはない」

 英輔は南九州のレールガン基地を使うつもりだった。対馬までは四百キロ程しかなく十分射程内だ。海から船舶を使っての兵站を断ち切り、その間にこちらの増援を上陸させる。

 確か対馬には空自や海自のレーダー基地があり、陸自の警備隊も駐屯しているはずだ。侵攻軍に制圧されていなければ、増援を待って反攻するため、拠点を築いて抵抗しているはずであった。

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