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第二章

 鞘華の乏しい人生経験から考えても、蒲生英輔はひどく怪しい男だった。心臓が悪いという理由で外出時は車椅子を使っているが、普段部屋の中で歩き回っているところを見ると、それほど支障があるようには見えない。一流企業のコンサルタントを務めているという話だが、自分のことを『預言者』などと呼んでいる。一緒に住んでいる千明という女は何でもヤクザの親分からもらい受けたのだという。

「でもね、蒲生さんのところへ来た時あたし処女だったのよ。鬼嶋きじまは若い頃やったシャブのせいで役立たずだった。だから舐める専門だったの」

 そんな千明の話を聞いて思わず退いてしまった鞘華に、千明は笑いながら続けた。

「世の中にはもっと悲惨なことがいっぱいあるのよ。東南アジアの国に行ってみなさい。あたしなんて十七・八だったのに『姐さん』て呼ばれて、贅沢させてもらって……」


 千明は親の借金の形に風俗に沈められるところをその親分に拾われたのだという。

「海外にも連れて行ってもらったわ。あたしが銃の撃ち方を覚えたのはハワイとマカオね。その前に親分のガードをしていた若いのが撃たれて、あたしが撃たれる一方なのは嫌だと言ったら、トレーニングを受けさせてくれたの」

「人を撃ったことあるんですか?」

「マカオのギャングの脚をね。一度」

 千明が本当に『姐さん』だの『姐御あねご』と呼ばれるようになったのはどうやらその時からだったらしい。ただの小娘だと思っていたのが、この出来事で貫目かんめが付いたというわけだろう。

「蒲生さんて、どういう方なんですか?」

「蒲生はね、ま、確かに特別ね」


 地方公務員という固い仕事をしていた蒲生英輔に異能が発現したのは、定年退職間近の五十代後半になってからであった。他人の心からイメージを拾い上げ投射することで『幻視』を見せるというその力は、突然英輔のところにやってきて彼を戸惑わせた。もっと若い頃だったら夢中になってその可能性を追求するか、逆にそれに翻弄され破滅してしまったかもしれない。だが定年後慎ましくも悠々自適の余生を過ごすつもりであった英輔には、何で今更という感が否めなかった。

 またある意味これはたいした能力でもないという意識もあった。少し優秀な催眠術師であれば、言葉による暗示を与えることで同様な効果を得ることができる。ただ違ったのは、英輔には言葉が必要なかったという点だけであった。おまけに英輔は己のこの能力に不安を感じていた、どう考えても世間に好感を持って受け入れられるとは思えなかったからである。良くて好奇心の対象、悪くすれば排斥され、あるいは拘束されて実験動物のように扱われる可能性さえあった。臆病な英輔はそう考え、自分の能力を極力隠して暮らしていた。千明に出会いさえしなければ英輔はそのまま年老いていったことだろう。


 初めて会った時から千明は感のいい女だった。その千明と、たまたま英輔が立ち寄った高級食材を扱う店ですれ違ったのが、英輔の運命を変えることになったのである。

 千明を初めて見た時、英輔は久々にときめくのを感じた。千明の肌のみずみずしさや歩く姿勢に惹かれ、いい女だなと思ったのである。次に彼女のすぐ後を歩いてくる黒服の男を見て、何だ筋者の女かと考えた。ヤクザというのはどうしていい女を情婦にしたがるのだろう……そんな思いの乱れが、英輔に悪戯心を抱かせた。

 英輔は黒服の男の心から千明のイメージをすくい取り、急に店を出て行く千明の姿を幻視として送り込んだのである。

「あ、姐御!」

 黒服の男はあわててそう叫ぶと店の外へと駆け出した。思わずしてやったりという表情になった英輔が視線を戻すと、目の前に千明の人の悪そうな笑い顔が迫っていた。

「ねえ、今あなた木田に何をしたの?」

 獲物を前にした猫のような眼で、千明はそう尋ねた。


 木田というのが、あの黒服の男の名前らしかった。『姐御』の言葉が示すように、木田は単なるボディガードで、千明を囲っている男はその親分筋だろうと思われた。

 英輔は一瞬とぼけてやろうかと考えた。何の証拠も無いのだ。だが千明の眼を見ているうちにそんな考えは消えていった。目元が少し潤んでいて、下瞼をしっとりと見せている。いい女だ、そういう言葉が英輔の脳裏に浮かんだ。それをすくい取ると、英輔は千明の心にそっと送り込んだ。

「えっ?」という表情が千明に浮かんだ。英輔が予想したような恐れは無かった。

「今の何?」

「何だと思う?」

 千明の片目がすがめられた。その時英輔は自分が秘密を守りきれないことを悟った。

 英輔は結局、誰かに自分を理解して欲しかったのだ。自分が何者で、どんな力を持っているのか。自分にはどんな可能性があるのか。誰にも伝えずにこのまま朽ち果てていくのには耐えられない、心の底でそう考えていたことに気付いたのだった。

「知りたいわ」

「全部話そう」

 英輔と千明の関係がここから始まった。


 余人に邪魔されずに話すため、英輔と千明はそこから歩いて十分ほどの距離にあるビジネス・ホテルに入り、ツインの一部屋を借りた。荷物も持たず親子ほども歳の離れたこのカップルに、フロントの男が不審な目も向けずにキーを渡したのは、千明の服装が地味目だったからだろう。

 千明の好奇心は最初、もっぱら英輔の異能に向けられていた。どんなことができるのか、限界はあるのかなどを詳しく聞かれた。その次には『幻視』の力を体験したがった。心の中を覗かれイメージを引き出されることに抵抗が無いのかと英輔が尋ねると、千明は答えた。

「好きでも何でもない男に、体中舐めまわされる女に、そんなものあると思う?」

「体中……か?」

「どこもかしこもよ。あれの役に立たない男って、執着心が半端じゃないの」

「それは……」

「きっとそれで女を征服した気になれるんでしょう。嫌な思いしか残らないのに」

「……その、親分とかを憎んでいるのか?」

「感謝しているわよ! 憎むなら実の親の方ね。でも、それとこれとは別よ」


 英輔に『占い師』になれと言い出したのは千明だった。彼女は自分の今の境遇から抜け出すために英輔を利用しようとしたのである。

 多くの下部組織を傘下にし、東日本に強い勢力を持つ右翼系政治組織『大和誠心会』の会頭である鬼嶋清造きじませいぞうという男が千明のパトロンであった。鬼嶋は千明に強い執着心を持ち、さらに己の不能という秘密を知られていることから、千明を手放すことなどありそうになかった。

「しかし、ぜんぜん駄目なのか。今はその、EDとかに効く薬があるのじゃないのか?」

 英輔がそう尋ねると千明は首を振る。

「鬼嶋は薬が怖いのよ。どうも昔のトラウマのせいじゃないかと思うんだけど」

 それが薬恐怖症のことなのか、それとも不能のことなのか曖昧な口ぶりで千明が答えた。

 千明によれば鬼嶋は神道をオカルト的な見方で信仰していて、修験道や仙道にも関心を持っているという。いわゆる行者という種類の人物とも交流があって、千明もその内の何人かとは面識があった。だが鬼嶋のところへやって来るような『行者』は、金目当ての胡散臭い人間ばかりだというのが千明の見解だった。

「だからね、蒲生さんの『力』を見せてやれば、鬼嶋はころっと騙されると思うの」

 千明にそう言われて英輔は考え込んだ。騙したのがバレた時、鬼嶋がどんな態度に出るのか目に見えるようだったからだ。

「金を騙し取ろうというのか?」

「お金は……あればあったでいいけど、あたしは自由が欲しいのよ」

「金より命の方が大事だとは思わんのか?」

「お金あっての自由よ」

「何か、言ってることが矛盾してないか?」

「ああん、もう! 生きていたってお金が無ければ自由じゃないのよ! あたしは嫌っていうほどそれを体験したの」

「私にはメリットが無いように思うがな」

「あるわよ。殺されないですむわ。あたしとホテルに入った時点で蒲生さんには拒否権が無いの。乱暴されそうになったと言えば鬼嶋は蒲生さんを殺すわ」

 はめられた、そう英輔は思った。どうやらこの千明という小娘の話しにのる以外、路は無いようだった。


 二人は英輔の『力』の活用法について話し合った。その中には英輔の思いもよらないものもあった。例えば誰かが英輔を襲おうとした時、英輔の『力』でその矛先を逸らすことができるのではないかと千明は言う。相手が銃を持っていたとしても英輔の見せる『幻影』を狙って撃つだけでは英輔を傷つけることができない。これは刃物での攻撃でも同様だ。

「だが、まぐれ当たりということもある。不意をつかれても同じだ」

「まあ、確かに不死身というわけにはいかないわね。それに拳銃は狙いどおり当てるのが難しいからかえって危険かぁ」

 あっけらかんと千明が言う。こっちは命が懸かっているのだぞ、思わずそう言いかけた英輔はその様子にかえって拍子抜けしてしまった。いずれにしてもずっと押し隠してきた自分の『力』について話し合う相手ができたことは、英輔にとって新鮮な体験であった。


 三時間ほどして千明は、電源を切ってあった携帯を復活させ木田を呼び出した。

「姐御、どこにいらしたんで?」

 ホッとした声でそう言う木田に、千明はホテルの名前を告げた。一階のカフェで十五分ほど待つと血相を変えて入ってきた木田が、いきなり英輔の胸ぐらをつかもうとした。

「やい、てめえはどこの唐変木だ? この姐さんを誰だと思ってるんだ? こんな所に連れ込みやがって」

「待って木田さん。この先生に失礼があっちゃいけないよ」

「せ、先生?」

「わしは蒲生という者で陰陽道を修めておる。こちらの真水さんから鬼嶋さんのことで相談を受けてな、話を聞いている最中じゃ」

 英輔が『私』ではなく『わし』と自分のことを呼んだのは千明のアドバイスだ。言葉遣いを変えた方が重みが付くというわけだが、慣れないことをして失敗しないかと英輔は心配だった。だがこれが木田には効果があったようで、不承不承ではあるが矛を納め話を聞く気になったようである。そこで千明は英輔が徳の高い陰陽道の行者であり人の運勢を左右する岐路での先達であること、鬼嶋が現在抱えている悩みを解決できるのは英輔しかいないと思われることを木田に告げた。

「陰陽道ってあの『安倍清明』のやつですか?」

 木田はまだ半信半疑だった。そこで英輔は木田に言った。

「信じられぬのなら信じられるようにしてやろう。両手の平をくぼませて器の形にしてみなさい」

「こうですかい?」

 木田が両手を合わせてカップの形を作ると英輔がささやく。

「そうだ、その手の中をよおく見るのだ。大きな声を出すのでないぞ。身動きするでないぞ」

「な、何ですか先生」

 木田は震える声で言って英輔を見、それから助けを求めるように千明の方を見た。千明は声を出さずに笑っている。

「手の中を見るのだ、何が見える?」

「何か黄色く光るものが……ふわふわ動いているのが見えます」

 木田には手の平で囲った中にそれが見えるようだ。

「それはお前の命の炎だ。消えないうちに呑み込め。そっと呑み込むのだぞ。消えたら命が無いぞ。さ、早く呑み込むのだ」

「はふっ」

「よおし、呑み込んだな。よかったな、消えなくて。だが、お前がもし馬鹿なことを言ったりしたりしようものなら、その炎をわしが吹き消してしまうぞ。わかったか?」

「先生、脅かさないで下さいよ」

「誰が脅かしたりするものか。お前が馬鹿なことをしない限り心配することは何も無いのだ。わかったな」

「わ、わかりました」


 英輔は千明に出会ったその日の内に大和誠心会の本部に乗り込み鬼嶋清造と面会した。間を置くと英輔が気を変えるのではないかと千明が心配したからである。

 大和誠心会の本部は東関東の都市郊外にあり、元は民間保養施設だった建物を改修したものだった。広い敷地は石垣に囲まれ、その上には鉄柵が設けられて部外者の侵入を拒んでいる。正面の頑丈そうな鋼鉄製の門は、車がぶつかっても破れそうにない。千明と英輔は裏の通用門から入って駐車場で車を降りたが、そこにも鉄製の扉と監視カメラがあり、来訪者を威嚇していた。

 大和誠心会は対外的には戦前の玄洋社の流れを組む右翼組織であるとうたっていた。だがその実態は、企業の倒産整理、債権取立、競売に絡む執行妨害、総会屋行為等の民事介入によって利益を上げる暴力団組織である。政治団体として登録し、行動右翼の仮面を被っているとはいえ、他の暴力団組織とも深いつながりを持ち、官憲にも目をつけられていた。


 建物の中に入ると、中は意外と静かだった。頭髪を角刈りにした作務衣の若者が千明に黙って頭を下げた。

「会頭は?」

「へい、奥におられます」

 千明が尋ねると若者が答えた。どうやら修行中という身分の若衆らしい。物静かな身振りの割に目つきが鋭かった。

「こちらの先生をお連れしたので応接間に通して頂戴。あたしは会頭に知らせてくる」

「へい」

 英輔は鋭い目つきの若者に導かれるまま奥の座敷に上がった。そこは広さ六十畳ほどの和室で、床の間には不動明王の掛け軸と神社の本殿にあるような神鏡が飾られていた。千明に聞いた話では、会頭の鬼嶋という男は神仏習合の信仰を日本古来のものと考える真言密教の一派にかぶれているらしかった。

 英輔が床の間を背に胡座をかいて座っていると、鬼嶋が足音も荒く廊下を踏みならしてやってきた。どうやら木田の報告を聞いて腹を立てているらしい。ある種のコンプレックスを持つ男が、自分の女が一時行方不明になり、ホテルで他の男と密会していたと聞けば動揺するのも無理なかった。

 鬼嶋が座敷に踏み込んだ時、英輔は鬼嶋が見た床の間の不動明王のイメージをすくい取り、鬼嶋の心に流し込んでやった。鬼嶋がたたらを踏んで後ずさりした。

 そこからは英輔の独壇場だった。英輔が鬼嶋に「お前には悩みがあるだろう」と決めつけると、鬼嶋は口ごもった。己の不能を千明から聞き出したに違いないという思いから、一瞬殺意を抱いたに違いないが、英輔の投げかけた幻影にその気をくじかれてしまう。

「その悩みを解決して欲しいか?」という問いに、思わず頷く。

続いて「ではわしの言うとおりするか?」との言葉に希望を抱いた。

「お前の悩みはお前の『ごう』のなせるわざだ」と言われて怯える。

「前世から続くお前のごうを今背負っているのは千明だ」という言葉にハッとする。

「お前の側に千明を置いている限りお前は自分のごうから逃れられない」

「かといって千明を害せばごうはお前に還ってくる」と言われ困惑する。

最後に「わしがお前のごうを背負うこの女を預かってやろう」という英輔の言葉に、鬼嶋はホッとしたように頷いた。


「おかしいのはね」と、千明が続ける。「それで鬼嶋の悩みが解決してしまったことよ」

「えっ? それって……?」

「だから、女とまたできるようになったらしいのよ。次に会った時、鬼嶋はもうすっかり蒲生に傾倒して、『先生』って呼んでたわ」

「結局、鬼嶋のあれが役に立たなかったのはメンタルな理由からだったのね、きっと。蒲生は鬼嶋があたしに執着していることを逆に利用して、その障害を取り除いたというところかしら」

「そんなに簡単なことなんですか?」

 鞘華は何だか騙されているような気がして素直に千明の言葉を呑み込むことができなかった。

「簡単なことなのよ。人間て意外と単純なの」

 千明は押しかぶせるように言った。

「それで、その後は?」

「鬼嶋の紹介でいろんな業界の顧客が付くようになったの」

「それで『億』の収入ですか?」

「ああ、それはね、最初吹っ掛けるつもりで一千万の見料と言ったのよ。ところがそれで実際問題が解決してしまってね、しばらくすると専属契約を求める会社が出てきたの。つまり、こちらが顧客が選べる立場になったわけ。それで蒲生が、あるプロジェクトに関連する会社に限って年間契約を結ぶことにしたの」

「あるプロジェクトって何ですか?」

「線形出力核融合炉のプロジェクトよ」

「核融合ですかぁ?」

「そ、核融合」


 鞘華が通った中学校の理科教師が授業中、核エネルギーの利用について語ったことがある。その時の内容を思い返してみると、核分裂の利用より核融合の方が技術的に格段に難しく、今世紀中の実用化は不可能だろうということだった。

「線形出力って?」

「それはね、煙突みたいな構造の炉の片方から反応材料と点火のためのエネルギーを注入すると、反対側から反応で生成した物質とエネルギーが出てくるという仕組みのことよ」

「ずいぶん単純なんですね」

「発想自体はかなり昔からあるのよ。ただ、入力するエネルギーに対して出力されるエネルギーの比が低いので実用化されていないだけ」

「低いってどのくらいなんです?」

「今までの方法では一対一・二がせいぜいね。実用化のための実証実験が成功と評価されるためには、せめて一対十は必要なのよ」

 要するにエネルギーを作り出すために必要なエネルギーが、得られるエネルギーの十分の一以下でなければ成功とは言えないというわけだ。

「その線形何とかプロジェクトって他の方法と何が違うんですか?」

「まず、低温で進行するミューオン触媒核融合を利用することね」

 これまで研究開発されてきた核融合炉は、二重水素や三重水素から外殻の電子を剥ぎ取ったプラズマ状態で衝突させ、原子核と原子核を融合させるタイプのものが主流であった。

 だが、電子の二百七倍の質量を持つマイナス・ミューオンを二重水素や三重水素に照射すると、これらの原子の一部はそのミューオンを獲得しミュオニック水素に変化する。このミュオニック水素を利用するのがミューオン触媒核融合炉である。

 マイナス・ミューオンの束縛軌道ボーア半径は電子の二百七分の一なので、周囲から見ればミュオニック水素の原子核は中性になったように見え、他の水素原子が通常の二百七分の一程度の距離まで接近することが可能になる。これだけ接近した水素の原子核は高い確率で核融合反応を起こし、ヘリウムが生成され反応エネルギーは中性子として放出される。この時自由になったマイナス・ミューオンは再度ミュオニック水素を生成し、あたかも触媒であるかのようにふるまって核融合反応を続けさせる。

「何でその方法が主流にならなかったの?」

「マイナス・ミューオンの寿命が二・二マイクロ秒だから、反応システムの中でマイナス・ミューオンを作らなければならないの。でも一番問題なのは、マイナス・ミューオンが融合反応で生成されるヘリウムに吸着されてしまう確率が高いってことよ」

「千明さん、何でも答えられるんですね。すごい!」

「こんなのただの受け売りよ。蒲生だってわかってはいないと思うわ。ただ、顧客が連れて来る研究者の話をそのまま喋っているだけ」


 鞘華がついていけなくなったためプロジェクトの細かい話はそれで打ち止めになった。要するに英輔がやっている『占い』というのは、企業が連れてきた研究者たちのブレーン・ストーミングのようなものらしい。ただ、通常のそれと違うのは言葉や映像のような媒体を利用せず、研究者たちのイメージが直接交流されるという点であった。

 この方法によっていくつものブレイク・スルーがなされ、今や日本のこの研究は実証実験システムのプランを構築する段階に入っていた。

「核融合炉が実用化されたら、人類は今の何百倍ものエネルギーを自由に使えるようになるというわけね」

「すごいんですね」

「机上の空論よ」

「えっ?」

 投げやりな千明の言葉に、鞘華はあっけにとられた。さっきまでの話はどうなったのだろう。

「今のプロジェクトが上手くいくという保証は無いわ」

「でも、さっき問題が解決されたって……」

「今まで出てきた問題はね。でもこれからも順調に行くとは限らないのよ。あたしは疑っているの。何もかもが蒲生の『幻視』による誤魔化しじゃないのかと。あの研究者たちも蒲生に成功の幻影を見せられ、踊らされているのじゃないかと」

「そんなこと、ありえるんですか?」

「そうね、疑わしいわ」

「だって、優秀な学者さんたちなんでしょ。それが揃って騙されるなんて」

「それが、蒲生の『力』なのよ」


 『La plus haute Tour』自体がこのプロジェクトの研究センターとして建てられたという。蒲生たちが一番上のペントハウスを占領しているのも、彼がこのプロジェクトの鍵になっているのであれば不思議はなかった。

「蒲生が首都圏ではなくて、こんな北の町に拠点を置くよう要求したのだって、その方があの人たちの心をコントロールしやすいからじゃないかと思うの。首都圏のような刺激の強い環境では、何かの拍子に暗示が解けてしまうのではないかと用心しているの」

「えーと、それって詐欺じゃないんですか? 嘘とわかっていることに、大変なお金を使わせているんでしょう」

「だから私は蒲生のことを『占い師』と言うのよ」

「『預言者』じゃないんですか?」

「それなら『偽預言者』って言うべきね」


 鞘華が『La plus haute Tour』で千明たちと奇妙な共同生活を始めてから二週間が過ぎ、左肩の傷口もふさがって三角巾も必要なくなった。傷跡にひきつれは残り、大きく動かすと痛んで存在を主張したが、医師にいわせるとリハビの段階だそうだ。医師は千明にストレッチとマッサージの方法を指示した。負傷した理由が理由なので一般の医療施設に行かせるわけにはいかなかったからだ。

 傷跡を見る度、弾丸の当たった場所があと二十センチほど内側だったら左胸を撃ち抜かれていたという事実が思い浮かび、鞘華はパニックを起こしそうになった。それを止めてくれたのは英輔だった。英輔の例の能力は鞘華にも有効で、パニックを起こしそうになると自動的に平常心が浮かびそれを抑止するような暗示をかけてくれたのだ。おかげで何とか鞘華は、毎日眠ることができていた。

 千明が探ったところでは、鞘華の両親が彼女の失踪を警察に届け出た様子はないということだった。単なる家出にしては長すぎると思わないのだろうか? 鞘華はそう考えてから家を出る直前の母親の諦めに満ちた眼を思い出し、母親は鞘華の存在を諦めたのだろうと想像した。父親の匡司については言わずもがなだった。

「あいつを殺したいと思ったのに、逆に殺されてしまった気分」

 鞘華がそう言うと千明がわざと明るい声で答える。

「いいじゃないの、これで縁が切れたと考えれば。あたしみたいに親に売り飛ばされないだけましよ」

 千明にそう言われてしまえば鞘華には返す言葉がない。もともと関係を断ちたいと言い出したのは鞘華の方なのである。だが親の方からこんな扱いを受けてみると怒りよりも悔しさの方が先に立つのだった。


 当面この状況は英輔たちにとっては都合がよく、怪我が直ったとしてもこのペントハウスに置いてもらえるのではないかと鞘華は思っていた。だが彼女自身がこの中途半端な身分に満足していたわけではない。前に英輔が提案した首都圏での独り暮らしの提案に乗ろうかと考えてみたが、高校も卒業していない自分の学歴と年齢を思うと、先行きろくなことにはならないだろうという結論しか思い浮かばなかった。

 鞘華が英輔の仕事に関心を持つようになったのは、単なる好奇心からではなく、そんな理由からだった。つまり自分も助手として使ってもらえないかと考えたのである。


 普段はぐだぐだしている英輔が仕事モードにスイッチするのには儀式があった。自分の気に入っている曲を大音量で聞くのである。その選曲は時によって異なっていたが、どういう基準で選んでいるのか鞘華にはよく理解できなかった。

「これ何ていう曲?」

 そう千明に聞くと、「アン・ルイスのAlone in the Dark」とか「リッキー・マーティンのLivin’la Vida Loca」とか「ドビッシィのベルガマスク風組曲」などという返事が返ってくる。中には「Bad Apple!! feat.nomico」などというアニメの曲らしいものもあった。

 まあとにかく、英輔がそうして集中力を高めている間に、千明は軽食とお茶の準備をする。というのは、ほとんどの場合英輔の『仕事』は、一件あたり数時間に渡ることが多かったからだ。


「お茶出し、手伝わせてください」

 鞘華は千明にそう持ちかけた。

「どういう風の吹き回し?」

「このままじゃ心苦しくって。わたし暇すぎます。肩も治ったし」

「そうね、じゃあ運ぶのを手伝ってもらおうかしら。ただし、余計なお喋りは無しよ」

「わかってます」

「そのうち紅茶とコーヒーの入れ方も覚えてね」

「はい」


 気軽に返事をしたがこれが大変だった。コーヒーの方はブルマンとブレンドの二種類しか豆は用意されていない。要望に応じてこれをミルで挽き、ペーパーフィルターで落とす。勿論注ぐお湯には適温というものがあり、注ぎ方もコーヒー粉の蒸れ具合を見ながら判断しなければならない。英輔はたまにしかコーヒーを口にしないが、千明が淹れた時でさえ時々眉をぴくりとさせ文句を言う。

 紅茶の方になると十種類以上の茶葉のストックがあって、それぞれの茶葉により抽出温度と時間が異なる。ポットやカップも温めておかなければならない。英輔は紅茶に何も入れずストレートで飲むので、こちらの方が微妙な違いにうるさい。

鞘華は千明に教えてもらった要領をメモしてキッチンに貼り、その通り淹れているつもりなのだがなかなかOKが出ない。二週間目に英輔から「今日の紅茶は美味かった」と言われた時、鞘華は不覚にも涙ぐんでしまい、英輔をあわてさせた。

 それから英輔の指示で、鞘華は千明から家事関係の仕事を教えてもらうようになった。英輔曰く「真剣に覚えようとしているのがわかった」からだという。ただ鞘華はまず、「オムレツを作る方法」と「オムレツを上手に作る方法」の違いから教えてもらわねばならなかった。

「千明さん、何でもできるんですね」

「前の旦那に頼んで、料理教室に通わせてもらったの。あの人はそういうことには寛容で、お金も出してくれたのよ」

「料理の他に何を習ったんですか?」

「英会話にダイビング、車と二輪に小型船舶の免許、お茶とお花と日舞、会計ソフトの教室」

「すごいですね」

「あたしそれがなかったら気が狂ってたわ、きっと」

「えっ?」

 思えば鬼嶋との生活は千明にとって地獄のような毎日だったに違いない。鬼嶋と過ごす以外の時間を、考えつく限りの習い事に費やすことによって、千明は正気を保とうとしたのだろう。完璧主義に見える千明の心の裏側を見てしまったことに気づき、鞘香は思わず声を失うのだった。

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