第十九章
金子剛志という名は実は通名である。本名は金容和なのだが、在日三世である彼のその名を知る者は、両親の他には彼の周りに誰もいない。学生時代も就職してからも彼はずっとその名で通してきた。だから彼のことを剛志と呼ぶことにする。彼自身も、余程のことがなければ自分自身を金子剛志だと思って生活していた。何年かに一度のパスポートの書き換え、やむを得ず住民票が必要になった場合、そして今回のような突然の訪問者があった場合以外は。
その男は自分の素性をはっきりとは明かさなかった。ただ漠然と「南麻布から来た」と言っただけである。南麻布と言えばK国やC国をはじめいくつもの国の大使館があることで知られている。だが剛志が「南麻布」と言われて思い描いたのは、パスポートの更新に何度か訪れたことのある母国K国の大使館だった。
男は次に、剛志のパスポートの次回の書き換えでは「兵役義務者国外旅行期間延長許可申請」が認められないかもしれないと告げた。これにはちょっと説明が必要である。K国の成人男子(一八歳~三五歳)には兵役の義務が課されている。しかし例外規定があり、在日三世である剛志はこれに該当する。ただパスポート更新の際に「兵役義務者国外旅行期間延長許可申請」を提出し続ける必要があった。要するにK国籍であるが国外在住者であるので兵役を一時免除してほしいという申請である。これが認められなければ剛志はK国に帰国し兵役に服する義務が生ずることになる。この義務を拒否すればパスポートの更新は認められず、剛志は不法滞在者となってしまう。その後には身柄を拘束され、K国に送還という運命が待ち受けていた。
剛志にとっては晴天の霹靂である。だいたい剛志は日頃、自分がK国の国民であると意識して行動してはいなかった。K国語はほとんど知らず、生活習慣も一般の日本人と変わらない。大学卒業後大手の電子部品製造会社に就職し、今日まで真面目に働いてきた。今年になってから大きなプロジェクトに参加し、仕事にやりがいを感じているところである。
パスポートの更新は一年後に迫っていた。言葉もわからない母国に送還され、兵役に服すことなど到底考えられない。かといって不法滞在者となり今の職を失うこともできない。そういうジレンマに陥った剛志に、男は一つの提案をする。日本国内で『ある任務』を果たしてくれればそれで祖国に貢献でき、兵役を果たしたものとみなすことができると。
剛志にはこの提案を拒否するという選択肢が無かった。そこで与えられた『任務』とは、剛志が関わっているプロジェクトの内部情報入手であった。若干の後ろめたさを感じつつ、剛志は『祖国』のためと言い訳してこの情報を集め、レポートにまとめた。
剛志は知らなかったが、男はC国の大使館員であり、剛志の関わっていたプロジェクトは日本の国防に関連するものであった。当然剛志は公安の監視下にあり、彼がC国大使館員と接触したことは内情(内閣合同情報会議)の知るところとなった。
内情から上がってきた連絡を見て、鞘華は茂子と権藤の部下を率い首都圏へ向った。剛志を監視中の公安の盗聴情報から、彼がC国の大使館員にレポートを渡す日時が特定できたからだ。
その日の深夜、首都圏にも木枯らしが吹き白いものがちらつき始めていた。首都圏の繁華街の雑踏もさすがに薄れ、人の陰もまばらである。剛志は大きな時計の下のショーウインドウの前に立ち、寒さにコートの襟を立てながら待ち合わせの相手を待っていた。時計が十二時の時報を打ち出した頃、角を曲がって近づいてくる男の姿が目に入る。やれやれこれでやっと家に帰って休むことができる、いやそれよりも帰る前にどこかで一杯ひっかけていこう、剛志の頭にはそんなことしか浮かばなかった。
相手はやはり、あの南麻布から来たと言った男だった。黒いコートを着て温かそうなマフラーを巻いた男は、おもむろに近づいて来て剛志に声を掛けた。
「金子さん、約束のものは?」
「これだ」
剛志はA4の書類封筒に入れた資料を手渡した。男はその書類の重さを量るように掌の上に載せてから、鋭い視線を剛志に放って言った。
「じゃあ一緒に来てもらおう」
「何で?」
剛志はうろたえた。レポートを渡したら直ぐ帰れると思っていたのだ。
「中身を確かめないとね」
「あんたと一緒のところを見られたらまずいんじゃないか?」
「どうした? 何を心配している?」
「なあ、こんなことはこれっきりにしてくれ。あんたの要求したものは渡した。もういいじゃないか」
「金子さん、この世界に一度踏み込んだらそんな弁解は通らない。その代わり報酬は悪くないぞ。これは今回の分だ」
男はマフラーに首を埋めるようにしてくぐもった声でそう言うと、分厚い封筒を剛志の懐に押し込んだ。
「か、金なんかいらないから……」
そう言い掛けて封筒を突き返そうとした時、男の視線が剛志の背後に向かい驚きを示す。次の瞬間、剛志は首筋に強い衝撃を受け、彼の意識は闇に沈んだ。
意識が戻った時剛志は自分が倒れていて、手がやけに生温かくヌルヌルしたものを握っているのに気づいた。暗がりで手を顔に寄せてみると、何だかやけに鉄臭い匂いがする。周りに人だかりがしているのが見えた。そのうちの一人がしゃがみ込んで剛志の顔に懐中電灯の光りを当てる。制帽をかぶっているところを見ると警察官のようだ。
「ちょっと、あんた、どうしたんだ?」
「いや……」
よくわからない、そう言い掛けて剛志は懐中電灯の光りに照らしだされた自分の手を見る。それは血塗れで、ぐっしょりと血の染みたあの男のマフラーを握っていた。
懐中電灯を持った男は近くの派出所の巡査で、言い争いをしている不審な男たちがいるという通報で駆けつけて来たところだった。倒れていた二人の男の側には骨スキという牛刀の一種が血塗れで転がっており、片方の男は喉を切り裂かれていた。むろんそれは剛志ではなく、あのマフラーの男の方である。
剛志の方は首筋を殴られて気を失っていた以外は無傷であったが、血塗れであったので救急車が呼ばれていた。マフラーの男が持っていたIDカードから、男がC国大使館の二等書記官であることが判明すると、所轄の警察署は大変な騒ぎになった。
マフラーの男を殺したのは茂子である。鞘華が剛志の後ろから忍び寄り、首筋を一撃した時には、茂子もマフラーの男の後ろに迫っていた。男の喉笛を切り裂いた後、返り血を浴びないようにマフラーで押さえ、押し倒した。剛志に凶器を握らせ、匿名で派出所に通報したのも鞘華たちであった。
巡査が到着した頃には、当然鞘華たちは立ち去った後である。その場に残され、血塗れであった剛志が拘束されたのはやむを得ない次第であった。混乱した剛志の供述から所轄の刑事たちが考えた全体像は次のようなものであった。
剛志はC国大使館員のID を持つ男に脅され、自分の勤務する企業の秘密情報を売り渡すことになった。だが受け渡しの時点で何らかの理由から争いになり、剛志が男を殺傷する結果となった。トラブルの原因はまだ不明であるが、それは今後の取り調べで明らかになるものと思われる。
だが捜査の途中で公安から横やりが入った。刑事たちが腹を立てたことに、剛志の身柄は公安に押さえられ、その後K国大使館に引き取られる。大使館員の遺体は検死もされずにC国側に引き渡された。遺体も剛志も二十四時間とたたない内に国外に移送され、その後ようとして行方が知れない。現場に遺留されていた凶器や現金、文書などは公安が回収していった。結局日本国内で起こったにも関わらず、この事件自体が無かったことにされてしまったのである。
こうして日本国内で平和に暮らしていた一人の男、金子剛志の人生は思わぬ蹉跌を迎え、彼はこの国から消えていった。K国が彼をC国に売り渡さなかったら、彼がC国の仕掛けた罠に陥らなかったら、鞘華たちがC国の諜報員を殺害しなかったら、様々な『たら・れば』が避けられたなら、彼は今もこの国で平和に暮らしていたことだろう。だが時として人間は大きな歯車の間で押しつぶされ、うめき声も漏らさずに消えていく弱い存在でしかないのである。鞘華たちが金子剛志の運命に干渉することになったのは、C国とK国の間に不信感を生じさせ、一時的にでも二国間の連携を崩すためであり、彼に対する個人的感情は一切存在しなかった。それはマフラーの男を殺した茂子が、男に対し何ら感傷を持たなかったのと同様のことであった。
「どうやら茂子も合格したらしいな」
「そうらしいね、ダッド」
「無理強いはしていないぞ」
「わかってるよ、ダッド」
「だがお前は茂子が自立しているとは認めんのだろう?」
「それとこれとは話が別だよ」
「何が気に食わないんだ?」
「あれはね、あんたに言われたからやったんだよ、ダッド」
「それではいかんと言うんだな」
「自分が必要だと思わなくても殺しができるというのは違うんだよ」
「お前たちは自分で必要だと判断していると言う訳か」
「そうだよ」
「茂子は俺の操り人形か?」
「多分」
「それでも賭は俺の勝ちだぞ」
「ああ」
「さて、鞘華に何をしてもらおうかな?」
人の悪そうな笑顔になって英輔がそう言った。その顔を見て、どうせまたろくでもないことを考えているに違いないと鞘華は思った。




