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第十八章

 黒猫のパスタは二歳半である。だいぶ身体が大きくなって、我が物顔にログハウスの中を歩き回っている。南九州には核融合炉とレールガン基地が完成し、試験運用に入っていた。マイナス・ミューオン・ジェネレーターを操作するため現地に赴いているのは千明である。一番の熟練者ということで選ばれた形になっているが、本当は茂子との折り合いが悪いからだ。と言っても茂子が一方的にそう考えているだけで、千明は気にも留めていない。月ごとに鞘華と交代することになっているので一ヶ月の単身赴任である。

 淋しくないようにパスタを連れて行ったらという鞘華の提案は英輔によって却下された。猫は人にではなく家に懐くものだそうである。違う環境に移されると途端に不安定になる。そんな猫の面倒を見るのでは気が安らがないというのだ。

 長野県の高瀬ダム近くに建設される第三の核融合炉とレールガン基地も着工されて半年になる。ここが完成すれば三人のオペレーターが三ヶ所の核融合炉を順番に巡ることになる。そのためにも茂子の精神状態を安定させることが必要だった。


 LPHTラ・プルス・アウ・トゥールの地下訓練場では、茂子が戦闘訓練に励んでいた。とは言うものの、茂子は拳銃とは相性が良くないらしく、五メートル先の直径十センチの的になかなか当てることができない。感覚や筋力などの肉体的能力が格段に上がっているにも関わらず、何百発撃っても射撃の腕はさっぱり向上しなかった。

 むしろ彼女は太田三曹の指導する徒手格闘術の方が得意だった。徒手格闘術と言っても銃器を使わないだけで銃剣バヨネットや棍棒など、利用できるものは何でも使う。太田に言わせると茂子の強さは体力にものを言わせ、自分が傷つくことを恐れずに攻め続けることである。その攻撃は防具をつけていても太田がヒヤリとするくらい強烈であり、命の危険を感じるほどだそうだ。

 茂子自身は自分の怪力や素早さの意味をまだ理解しておらず、ただ恐怖を克服するために攻撃を続けているだけなのだが、ある意味これは厄介であった。訓練であるのに、手加減というものができないのである。


「というわけで、私がスパーリングの相手を仰せつかったの。私なら茂子さんを抑えられるという理由でね」

 鞘華はそう言って防具を身につけ茂子の前に立った。弾力を確かめるように格闘技用のマットの上でピョンピョン跳んで見せる。それから右手のひらを上に向けて差し出し、茂子の攻撃を誘った。

「別に私は無理な攻撃をしているつもりはないんです」

 茂子は様子を見るように、姿勢を低くした摺り足で横に移動しながら攻撃のタイミングを計る。ゆっくりと動いて鞘華の左側に回り込もうとしたが、鞘華は身体の向きを変えてそれを許さない。茂子は鞘華のスピードや筋力をまだ知らないため、用心して攻めあぐねている。

 間を計っていた鞘華がするすると滑るように前へ進む。それに対して回し蹴りを放った茂子の足を鞘華は取り、身体全体を使った捻り業を仕掛けた。同方向に回転して業を殺そうとした茂子に鞘華の蹴りが飛ぶ。

 太田に教わった業を力任せに掛けていた茂子だったが、同じネフュスの力を持つ鞘華の訓練された動きの前には、木偶の坊も同じだった。掛ける業はことごとく返され、マットに叩きつけられる。もしこれがコンクリートの床であれば、いくら防具をつけていても骨は砕け、内臓にも大きなダメージを受けたろう。いや茂子がネフュスの力を借りていなければ、すでに血反吐を吐いて動けなくなっていたはずだ。

「何で、何であなたには攻撃が当たらないんです?」

「茂子さんがカッカし過ぎているからだよ」

「わ、私はカッカなどしていません!」

「そんなこと言ってること自体が冷静さを失っている証拠だね」

 そう言って鞘華は前蹴りを放ち、茂子の身体を五メートルも蹴り飛ばした。さすがの茂子も直ぐには立ち上がれなかったが、鞘華が近づくと手を伸ばし寝業に持ち込もうとする。

「おっと、その手は食わない」

 片足を上げてそれをかわした鞘華は、そのままその足を茂子の鳩尾に蹴り込んだ。防具の上からでもこの衝撃は手ひどく伝わり、茂子は一瞬にして意識を刈られることとなった。


「さすがですね鞘華様、私ではこうはいきません」

 太田がタオルを渡しながらそう言った。鞘華は汗を拭ってからマットの上で動かない茂子を振り返って見る。

「ありがと。でも太田さんだって茂子さんを殺そうとすればできたでしょう?」

「それは……まあ、隠している業の二つ三つはありますから。でも、手加減して気絶させるなんて言うのは無理です」

「これでわかってくれると思う?」

「どうでしょう? 私には予想がつきません。でも用心はするようになるはずです」

「だといいけど」


 茂子には実戦経験がなく、自分の強さというものがわかっていなかった。無論ネフュスの力を持つ茂子に、普通人は到底及ぶものではない。だがネフュスの力を得る前には自分の弱さを身に染みて感じていた茂子は、自分が得たネフュスの力に眼を眩まされ、自制なくそれをふるうことに溺れてしまった。ネフュスの力も万能ではないと、茂子には知ってもらう必要があったのである。


 東亜細亜で日本の西に位置し巨大な人口と国土を持つC国、この国は日本にとってまことに厄介な隣人であっった。

 世界第二位のGDP(国内総生産)を誇るC国であるが、この国はまた『遅れてきた大国』でもあった。第二次大戦後長らく低迷していたC国のGDPが急激に上昇したのは、二十一世紀に入ってからであり、二〇〇〇年から二〇一三年の一三年間で実に六倍にもなっている。だが逆に言うと、この国の安定はこの急成長に支えられていると言ってよい。成長が鈍ると国民の不満が増大し、政権に向う危険性を常に抱えている。

 過去に何度かそうなった時、C国の政権は外部に敵を求め、国民の感情をそれに向けることで保身を図ってきた。だが一方、今やこの国の成長は国外との輸出入によって維持されている。国際的に認められない行動をとり、万が一経済制裁の対象になった場合、C国の経済は致命的な痛手を受ける可能性があった。従ってC国は部分的な紛争や示威活動には手を染めていたが、危険な結果をもたらしかねない全面紛争=戦争には及び腰であった。

 つまるところC国は、世界第二の経済規模に基づき軍備を増強しながら、その時点で反撃できないと思われる相手にだけ攻撃を仕掛け、事実上の侵略を進めていくという方針を、周辺諸国に対して取っていたのである。このC国にとってとりあえず目障りなのは、目の上のたんこぶとも言える場所に位置する、日本という国であった。世界第三位の経済規模を誇るこの『小日本』は、その経済力に応じた軍備と海軍の伝統を持っていたし、第一の大国であるA国と軍事同盟を結ぶことで、C国としても手出しし難い相手だったのである。

 幸い前回の世界大戦での敗北により、小日本には『専守防衛』という足かせがあったから、小規模な紛争ではC国に有利であったが、A国を巻き込むような紛争の拡大は避けねばならなかった。

 無論C国は将来的にもそれで満足しているわけではない。現在の世界体制はA国を中心に作られているが、これに代わる世界秩序を構築するためには、A国の力が世界に及ばないようにする必要がある。そのためにはA国海軍に代わり、C国海軍が太平洋・インド洋を支配しなければならないと考えていた。

 そのために確保すべき領域として、所謂第一・第二列島線を戦略ラインとして挙げているが、この内側のラインである第一列島線には、すでに日本列島の一部が含まれている。つまりC国の軍事戦略上の概念では、日本の属国化が既成事実として盛り込まれているのであった。

 まあC国にしてみれば、すでにA国が日本国内に置いている軍事基地をC国のものに置き換えればいいだけではないか、という論法でしかないのであろうが、随分乱暴なことである。だが、C国の伝統的なイデオロギーとしては世界はC国に恭順すべきなのであり、C国に追従しない者は野蛮の民だというのであるから、仕方がない。

 C国という国は、存続するために『多様な価値観』など認めることができない国なのである。それは多様な意見を持つ人を『法の下の平等』という枠で束ねるのではなく、権力者の意向によって従わせるという政治体制にも現れている。つまりC国は伝統的に『人治国家』であり続けてきたのであり、現在の政治体制が続く限りそうあり続けるしかないのであろう。

 しかしこのC国にとって、日本の装備したレールガンと無人戦闘機の組み合わせは実に都合の悪い存在であった。レールガンはその射程円内の制海権をほぼ確保することができる。例外はその位置が特定されづらい深深度での潜水艦行動であるが、この分野で日本には数日の長があった。また無人戦闘機心神改の存在は戦闘時のパイロットの消耗を回避し、工業生産力で制空権の優位を得ることができる。

 唯一優位を確保しているはずの第二砲兵隊(戦略核ミサイル部隊)の攻撃に対しても、レールガンによる迎撃の実験が成功しているとなると、当面日本に軍事的な圧力をかけることは、失うものが多く危険でさえあった。

 そこでC国は火中の栗を拾わせようとK国を焚きつけているのだが、先般のF-15K撃墜事件で痛い目を見ているK国としては、そう簡単にC国の誘いに乗るわけがなかった。

 ただC国とK国には、いずれも日本を仮想敵国とし、国民の不満をそこに向けることで政権の安定を保ってきたという、政策上の共通点があった。この点から見れば、C国とK国の共闘はありえないことではなかったのである。


 木枯らしの吹く季節である。緑を残しているのは常緑樹の木立だけだ。すっかり色あせた芝生の上にも落ち葉が舞っている。ログハウスのリビングにガードのチーフで内情(内閣合同情報会議)との連絡係も勤める仁科が報告に現れた。

「ということは、C国の諜報組織の建て直しにK国が手助けをしているってこと?」

 鞘華がそう確認すると仁科は無言で頷いた。パジャマの上にナイトガウンを羽織った英輔は黙ってソファに腰を下ろしたままだ。ログハウスのストーブでは何本かの薪が炎を上げ始めている。ストーブに点火したばかりのせいか、辺りには微かに煙の匂いが漂っていた。やがて英輔が口を開く。

「特別在住資格を持って日本に住んでいるK国人は何十万人もいるからな、C国の組織に取り込めば人数だけは確保できるだろう」

「しかし彼らは本国の人間と違い徴兵の経験がありません。戦力になるのは極僅かでしょう」

 公安とも繋がりのある仁科はそういう見方をするらしかった。だが諜報員の任務は何も破壊活動ばかりではない。要求に従った情報の収集から分析そして送達、これらの任務であれば戦闘訓練を受けていない人間の中にも適した人材が見つかる可能性は高い。実際に英輔がかって洗脳したC国のスパイは、何十年も日本人として平和に暮らしていた男だった。

 K国政府は日本の在住資格を持ったK国人のリストを持っているから、そういう点でC国に協力するのは容易だ。しかし自国民を他国の諜報活動のため売り渡すような行為がK国内に暴露されたら、K国の現政権は非常に困った立場に追い込まれるだろう。

「K国がそんな危ない橋を渡ろうとする見返りはなんだ?」

 英輔がこめかみを揉みながらそう尋ねた。鞘華がストーブの扉を開けて太い薪を投げ入れる。薪は直ぐに音を立てて燃え上がり始めた。

「まだわかりません。スワップの積み増しか、貿易条件の緩和か……それとも……」

「何だね?」

「現金かもしれません。K国では議会選挙が迫っています。与党も選挙資金を都合しなければなりません……」

「それが不足していると?」

「大統領が人気取りに財閥系を締め上げたので、今回は資金が中々集まらないそうです」

「自業自得だな」

「内情書記局から通常の監視下に置く措置だけでよいか問い合わせがきております」

「向こうには監視だけに留めるよう言っておけ。あとはこちらで対処するとな」

「わかりました」


 仁科が出ていった後、鞘華が期待した目で英輔を見ながら尋ねる。

「それじゃ、いよいよ茂子さんの出番ね」

「できると思うか?」

「それはやってみなければわからないわ」

 ログハウスの外には雪が降り始めている。窓に上がった黒猫のパスタが身震いをするように肩をすくめニャアと鳴いた。

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