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第一章

  わたしはお父さんが嫌いだ、古保鞘華ふるほさやかはそう呟き、後ろ手に玄関のドアを閉めた。

 死ねばいいと思う、そういう言葉が口から溢れ出た。もっとも声は小さい。アパートの階段を下りて外に出ると、人影のない暗い路は凍りついていた。

 北の港町の冬は寒い。踏みしめる靴の下で氷が軋む音を立てる。滑るまいと最初はゆっくり歩いたが、寒さに次第に足早になった。遠くにショッピングセンターの明かりが見える。

 家には帰りたくない。歩む先は自然と明かりの方に向かった。

 わたしはお父さんが嫌いだ。死ねばいいと思う。

 声に出さずもう一度そう呟きながら、しっかりと着込んだコートのえりを立て、手袋の両手をとんとんとぶつけ合わせながら歩いた。靴底でまた路面の氷が軋んだ。

 手を打ち合わせたりしたのは、鞘華が戦闘的な気分だったからだ。家を出る時、母親は何も言わなかった。かける言葉が見つからなかっただけだということが分からないほど、鞘華も子どもではないつもりだ。だが実際にこうして家を飛び出して、そろそろ日が落ちようとする曇り空の下を歩く身になってみれば、そうそう割り切れるものでもなかった。

 ショッピングセンターは広い駐車場を中央にしてコの字型にアーケードが並んでいる。駐車場にある照明灯はすでに点灯しており、鞘華が家を出るとき微かに赤みを残していた西の空も今は青黒い闇に染まるところだった。北国の日没は早い。

 鞘華の足はアーケードの一角にある書店に向かった。コートの中の身体は冷えきっている。暖房のある屋内に早く入りたかった。

 目の前を大型のミニ・バンが横切って駐車スペースに入った。黒く塗られた車体のスライド・ドアが開く。助手席から下りた若い女が車内から車椅子を運び出した。誰かが車体につかまりながら車椅子に身体を移そうとしていた。

 手伝った方がいいのだろうか、一瞬そう考えて鞘華の歩みが遅くなった。

 書店の方から歩いてきた足音が急に早くなって近づいて来る。振り返った鞘華の目に黒いコートを着た男が突進してくるのが見えた。鞘華の足元で氷が砕け、身体がふらついた。結果として鞘華は男と車椅子の人物との間に立ちふさがるような格好になった。

「どけっ!」

 男が叫ぶと共に男の身体の前から小さな閃光が走った。パンパンパン。破裂音が三つ聞こえた。鞘華の左側の上腕に焼けるような痛みが走った。

 撃たれた、そんな言葉が鞘華の脳裏をかすめた。映画のワン・シーンなの? ありえない状況に思考が空回りしていた。痛みはまだそれほど大きくなく、他人事のように思えた。

 また足がふらついた。

 鞘華を撃った男はクルッと振り向くと走って逃げ出した。

「まずい! この子怪我をしてる!」

 若い女が押さえた声で叫ぶ。

「車に乗せろ」

 男の声が指示した。

 鞘華は引きずり込まれるようにミニ・バンの座席に座らせられた。男が奥へ詰める。若い女が鞘華にのしかかるようにして何かで傷口を押さえていた。

「『ラ・プルス・アウ・トール』へ」

 女が運転手に言った。

「困りますよ、座席を血で汚されては」

 どうやらこの車は身障者用のハイヤーのようなものらしい。

「どうせ弾の当たった車体の修理も必要だからうちが支払うわ」

 女はそう言って運転手に車を出すよう促した。車が動き出すと傷がズキズキ痛み出し鞘華は何も考えられなくなった。

「急いで、ショック症状みたい」

 女がそう言うのを聞いているうちに、鞘華の意識が跳んだ。


 『La plus haute Tour』は町の高台に建てられたタワーマンションである。五十階建て高さ二百メートルの高層建築は文字通りこの町で『一番高い』建物であるばかりでなく、賃料も『一番お高い』物件だった。首都圏に本社を置く大手の不動産業者が、人口三十万に満たないこの町の高台にあったゴルフ場用地を買い取り、そこにタワーマンションを建設すると発表した時は、何かの冗談だろうというのが一般の評価であった。だが販売が始まってみると十階までのオフィス・スペースばかりでなくその上の居住スペースまでがほとんど直ぐに売り切れた。

 利用者の多くは国内の一流企業であり、オフィス・スペースに支所を構える会社が居住スペースも購入するか賃貸で利用するという形をとっている。利用者の利便を考慮して、一階から三階までにはコンビニエンス・ストアや書籍・文具の店舗、宅配業者、診療所クリニックなどの入居が認められていた。

 鞘華が意識を取り戻したのはこの建物の三階にある外科クリニックの処置室だった。

 あの男の撃った弾丸は鞘華の左上腕部、肩の少し下の外側を前から後ろへ突き抜けていた。

「筋肉は傷付いていません。大きな血管や神経も無事です。皮膚と皮下脂肪、一部の筋膜がやられているかもしれませんが、運動機能に問題は残らないはずです。傷痕もほとんどわからないように治るでしょう。そろそろ手術時の麻酔は切れますが、さっき薬を飲ませましたのでそれほど痛まないはずです」

 血の着いた薄いブルーの手術着を脱ぎ、ピッチリしたゴム手袋を外しながら、スポーツ刈りで黒縁の眼鏡をかけた男が言った。医者らしいこの男の言葉どおりなら、鞘華の傷は大したことないらしい。

 だが、左肩の外側が少し熱を持ち、ぷっくりした短い棒のような、重さを持ったものが入っているのが感じられた。そしてそれが、鞘華を不安にさせ、怯えさせるのだった。

「痛みを訴えるようだったら、こちらの錠剤を二錠ずつ飲ませてください。ただ、六時間は間をおいて。こちらのカプセルはいわゆる腫れどめです、毎食後に。高い熱が明日も続くようでしたら、抗生物質の点滴をしますので、知らせてください。シャワーもしばらく

我慢させてください。再出血するとまずいので激しい運動もひかえて」

 事務的に説明を続ける男に、鞘華は少し腹が立ってきた。私は、私は物じゃない。私は撃たれたんだ。それなのに……。

「あの」

「ああ、ショックから回復したようです。こういうショック症状は撃たれた場合よくあることです。痛むかね?」

 最後の言葉だけが鞘華に向けられていた。

「いえ、あの」

 鞘華は右手で左肩を触れて説明しようとした。言葉が出てこないのがもどかしかった。

「痛みを止めているだけだからね。違和感があるのは仕方がない」

「あの、何かここに……」

「弾は完全に抜けているよ。貫通銃創と言うやつだ。異物感があるとしたら傷のせいだ。傷というのは人間の身体にとっては異物なんだ。完治しても多少はその感じが残るかもしれない」

 この男は何を言っているのだろう。外科医というのはみんなこんなふうに人間の身体を機械か何かのように見ているのだろうか? 鞘華はさっき腹が立ったのも忘れてそう考えた。

「ドクター、もうその辺で。この子はうちのメンバーではないので」

 車で鞘華の傷を押さえていた女が言った。側の車椅子にはあの男が黙って座っている。

「そうだったか、それは大変だね」

 外科医は驚いたような顔で鞘華を見た。そこに同情の色はなく、どちらかというと他人のやっかい事を見る目のようだった。


 無表情になった医師が処置室を出て行くと女が口を開いた。

「あたしは真水千明まみずちあき、こちらの蒲生がもうのアシスタントをしています。あなたが事故に巻き込まれたことは申し訳ないと思っています。ご家族に連絡を取らなければならないと思うので、あなたのお名前と連絡先を教えてもらえる?」

 鞘華は蒲生と紹介された男の方を見た。年齢はよくわからないが中年は過ぎているだろう。髪と顎鬚にいくらか白いものが混じっていて中肉中背、口元や眼に厳しい表情が浮かんでいる。

「蒲生、蒲生英輔、このビルの中でコンサルタント会社を開業しておる。今回は気の毒なことになった。こういう仕事をしていると、他人に恨まれることもあってな。君を巻き込んだことは申し訳なく思っている。できるだけの埋め合わせはするつもりだ。とりあえず、お家の方と話し合いたいと思うのだが?」

 家と連絡? それは困る、そう鞘華は考えた。私は家を出てきたんだ。あそこには戻れない。

「親に連絡は取ってほしくありません。心配……心配掛けたくないので」

「何を言ってるのあなた。あなたいくつ? 中学生か、高校生か、そのくらいでしょう」

 千明と名乗った女が詰問するようにそう言った。千明もせいぜい二十歳ぐらいにしか見えない。黒っぽいタイトなワンピースに黒いカーディガンを羽織っている。車椅子の介助をしているためか靴はヒールの低いパンプスだ。

「十八です。もう家を出ています」

「嘘はだめよ。中学生? それとも高校生?」

「どちらでもありません!」

 これは半ば本当だった。鞘華は十六歳だったが普通の高校生ではなかった。そもそも鞘華が家を飛び出した理由もそれには関わっていた。

「それより蒲生さんコンサルタントって何? 本当はヤクザなんじゃないんですか?」

「銃で撃たれたからかね?」

「あの男の人、鉄砲玉って言うんですよね」

「ほぉ」

「あれ、本当に蒲生さんを殺さなくても、脅しになればよかったのでしょう」

「なるほど、よく見ている。それでわしがヤクザだったらどうするね?」

「さっき蒲生さん『埋め合わせはする』って言ってました」

「それで?」

「わたしのお父さんを殺して下さい。ヤクザの人ならできるでしょう」


 鞘華の父である古保匡司ふるほただしは中古車販売のディーラーに勤めていた。収入は出来高払いで基本給は雀の涙ほどだ。母の古保綾が看護師として市の病院に勤務していなければ、親子三人の生活は成り立たなかったろう。

 そもそも匡司は自分の収入を家計に入れたためしが無かった。収入はほとんど自分の趣味である車の改造とギャンブルに費やしてしまう。だが無論それで足りるとは限らない。ここ何年か匡司は、綾の収入で賄っている家計費の分まで自分の趣味のため使うようになっていた。

「お父さんが家のお金をみんな持っていってしまう」

 中学校時代の学級担任に鞘華は家の状況をそう説明していた。

 問題は鞘華の高校進学時に発生した。中学三年の一年間、鞘華はそれなりに受験勉強に打ち込み、市内の公立高校にみごと合格した。だがその直後、母親の綾が鞘華のため準備していた入学のための費用を、匡司が使い込んでいたことが発覚したのだ。

 高校の授業料が無償化されたとはいっても、入学時には入学金の他に制服や教材を購入しなければならない。この他に毎年種々の経費が必要である。匡司のせいで生活費にも事欠く古保家には新たににそんなお金を捻出する術が無かった。

 結局、鞘華は高校受験には合格したものの、全日制の高校への進学はあきらめねばならなかった。

 鞘華が定時制高校へ進学したのは勉学のためばかりではなかった。見逃されやすいことなのだが、学生アルバイトの口というのはそれなりにあるのに対し、無職少年、特に女性のそれは少ない。その理由はいろいろあるが、特に一つ上げるとすれば身元確認が面倒だからだ。鞘華が働くためには学生証が必要だった。

 鞘華は家の近くのスーパーでレジ打ちや商品を運搬して店舗に陳列する仕事を始めた。最低賃金より低い学生時給で一日四時間、それでも無遅刻無欠勤で続ければ五月から十一月までの七ヶ月でそれなりの金額になった。十九歳までの四年間でお金を貯め、家を出たいというのが鞘華の夢だった。

 すいぶん前から、家での三人の暮らしは息苦しいものになっていた。匡司と綾の不和は当然と言えたし、匡司は家庭内で暴力を振るうことも珍しく無くなっていた。

 そして鞘華にとって決定的になったのは、匡司が鞘華の机の中に彼女が貯めていたお金を見つけ、持ち出した昨日だった。匡司の『趣味』はすでに『依存症』の段階に達しており、娘が働いて稼いだ金を自分の『趣味』に使うことに何のためらいも見せはしなかったのである。

 もし綾が生活のためにそのお金を使ったのなら、鞘華はそれほどのショックを受けなかっただろう。実際のところ匡司の浪費のせいで、古保家は食べるものを買うお金にも窮していた。しかしどれだけ困窮しようと綾に看護師としての収入がある以上、生活保護の対象にはならなかったのである。鞘華は半ば本気で、自分が家を出るときは一緒にと母親に話していた。そのために鞘華が貯めていたお金を、匡司が『趣味』に使ってしまったのである。

 当然鞘華は匡司を責め、匡司は開き直って鞘華に手を上げる。鞘華にとって何より衝撃だったのは、その時母の眼の中に浮かんだ諦めの色であった。匡司の暴力や理不尽な行為をまるで自然災害のようにしか受け止めていないそれを見たことで、鞘華は寒空の中、家を飛び出すことになったのである。


「なるほど、だからあなたはお父さんを殺してほしいと言うのね」

 そう言って千明は英輔の方を振り返った。ここはタワーマンションの四十八階と四十九階を占めるペントハウスのリビングである。車椅子に座った英輔は黙って話を聞いている。

「そんなことはいけないと言わないんですか?」

 鞘華が尋ねると千明は首を振る。

「人の思いは善悪だけでは量りきれないわ」

「じゃあ」

「まあ、待って。あなたの思いはわかっても、そう簡単に人が殺せると思う?」

 千明はまた英輔を振り返る。今度は英輔も口を開いた。

「確かに君が怪我をしたことは気の毒に思うが、それだけで人を殺せというのは要求が高すぎるな」

 英輔が低い声でそう言う。つまりもっと大きな代償を払えば殺してやってもいい、そういう意味に鞘華には聞こえた。

「どうすれば殺してくれます? わたしにできることなら何でもします」

「どれだけの覚悟でそう言っているのかね? わしには勢いで口にしているとしか思えんが」

 勢いと言われればその通りかもしれない。だいたい父親を殺すことだってほんのさっきまで考えてはいなかった。それが突然口から飛び出してしまったのだ。一度口から出てしまった言葉は取り戻せない.鞘華の頭の中では急にそれが既成事実であるかのように思え、他の路は考えられなくなってしまっていた。


「わしは別にヤクザでも何でもないのだがね」

「じゃあ、蒲生さんは何のお仕事をされているのですか?」

「コンサルタント業だ」

「それでこんなすごい暮らしをされているんですか?」

 鞘華は二つのフロアをぶち抜いた高い天井を見上げながらそう尋ねた。億ションという言葉があるが、尋常でないこの広さや窓からの景観の豪華さを思えば、それどころではないだろう。

「わしは特別だからな」

「特別だから命を狙われるんですか?」

 言ってしまってから鞘華は悔やんだ。ここで喧嘩を売るのは得策ではない。だが何故か英輔は気分を害した様子が無かった。

「ふーん、元気のいい女は嫌いじゃない。どうだね、五百万やろう。アパートを借りる保証人も立ててやろう。それで独り暮らしをすればいい」

 魅力的な話だった。ずいぶん都合がよくて信用ならないが、昨日までの鞘華だったら一も二もなく飛び付いたろう。だが、拳銃で撃たれた経験は鞘華をまったく違った人間に変えていた。あの時何かが鞘華の中で弾けたのだった。

「それじゃあ駄目なんです。ここで逃げ出しても、あの人はわたし

の人生のどこかでまた現れて、邪魔してくるに決まっています。今、ここで断ち切らなくてはならないんです。……後になればなるほど面倒です」

 鞘華は自分の言っていることがどれだけ危険なことなのか、頭のどこかでは理解していた。少しでも良識を持った大人なら一笑に付すか、あるいは鞘華の考えが間違っていることをわからせるため、諭す努力をするはずだ。だがこの蒲生という男と千明という女から、いわゆる『良識』を持った大人とは違った匂いを鞘華は嗅ぎ取っていた。

「お母さんはどうするの?」

 何かを考え込むような口調で千明が聞いた。

「あの人はもう駄目なんです。お父さんから離れられません。今までだって、わたしを連れて逃げることだってできたはずなのに……」

「悪いけど、たとえあなたのお父さんがいなくなっても、そういう人ってまた同じような人と出会ってしまうものよ」

「いいんです、もう。お母さんとは関係ありません。わたしのお父さんは一人だけです。その人がいなくなれば、問題は解決です」

「その後どうするの?」

「どうって?」

「お父さんを殺して、お母さんと縁を切って、それからあなたはどうするの?」

 鞘華には何の思案も無かった。所詮は子どもの我が儘と言われても抗弁のしようが無い。いくら考えても何も思い付かない。一分ほどしてから鞘華は口を開いた。

「蒲生さんの言う通りします」

「えっ?」

「わたしの頼みを聞いてくれたら、何でも言うことに従います」

「何それ。自分の人生丸投げ? 何でもするから養ってくれってこと?」

 千明がいかにも馬鹿にしたように言った。だが鞘華は仕方ないと思った。自分はまだ子どもかもしれないが、それでも自分の生き方を自分で決めることぐらい許されるべきだ。経験が乏しいからといって判断すること自体を拒まれたら、結果として母親の眼の中に見た諦めの暗い穴に落ち込んでいくような気がした。それがどんなに不利な取引だからと言って、自分の判断で決めることを拒まれたら、自分はどこまで行っても変われないような気がした。

「いいのかね? わしは多分『悪い大人』だぞ」

 蒲生が脅すように言ったがその眼は笑っていた。

「ちょっと待って、あなたの問題って、単にあなたが家出すれば解決するような気がするけど」

 千明が異を差し挟んだ。言われないでもわかっている。さっきの蒲生の提案に乗ればいいのだ。蒲生なら別の遠い町にでも住居を用意できるだろう。だがそれでは自分が逃げ出すような気がして、鞘華はどうしても納得できなかった。

「ああ、それでもいいな。東京あたりで暮らしたらどうだ?」

 蒲生が平気な顔をしてそう言うことに、鞘華は腹を立てた。

「けしかけておいて引きずり落とすような真似はやめてください。あたし本気なんです」

「何が本気なの? あたしが拳銃を渡して、お父さんを撃ってこいと言ったら、あなた引金を引けるの?」

「それは……」


 鞘華はあのマンションで千明たちと一緒に暮らすことになった。法的に言えば未成年者略取誘拐にあたる可能性が強いが、蒲生たちにとってそれよりあの狙撃が『なかったこと』になることの方が重要のようだった。銃弾による怪我が治らないまま鞘華を帰宅させるという選択肢は、匡司の人となりを知った後ではありえないことであった。

「あなたのお父さんがあなたの言う通りの人なら『金蔓かねづる』をつかんだとしか考えないでしょうね」

 千明がそんなふうに説明した。つまり傷が治るまではこのマンションに居候できるわけだ、そう鞘華は考えた。

 銃創の方は痛み止めを飲んでいるのにまだ疼いた。三角巾で左腕を吊りじっとしているのにも飽きたが、身動きすると傷が痛んだ。五十インチのテレビ画面を一日中視ている羽目になったのだが、鞘華が行方不明になったというニュースは流れなかった。後ろめたい所のある匡司が警察に届けを出すことは多分ないという千明の読みが当たったわけである。半分予想していたことではあるが、鞘華は両親に対する失望感をまたもや味わうことになった。


 毎朝肩の傷口に当てられたガーゼを交換し、身体を拭いてくれる千明に鞘華が尋ねた。

「コンサルタントって、蒲生さんどんな仕事しているの?」

 交換したガーゼの臭いをクンクンと嗅いだ後千明は口を開く。

「何でそんなこと聞くの?」

「だって蒲生さん、自分のこと『特別』って言ったでしょ」

「そうね、要するに『占い師』よ」

「占いでこんなに儲けているの?」

「おいおい、せめて『預言者』と言ってくれ」

 部屋の向こうで書き物をしている蒲生が不満そうに言った。

「どう違うの?」

「ただの占い師に国内の一流企業や政治家が顧問料を払うと思うか?」

「どのくらい貰っているの?」

「一社あたり九桁だな」

「えっ?」

 鞘華は指折り数えてみた。

「一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、億ぅ?」

「そう、最低一億円ね」

「想像がつかない。コンサルタントってそんなに儲かるんだ」

「うちは特別よ」

 千明は後の傷口を閉じているテープの具合を確かめながら言った。

「順調ね。あたしの見立てではあと二週間かしら」

「そんなにかかるの? それに、何でそうやって臭いを嗅ぐの?」

 あれから三日たって鞘華は自分の体臭が気になっていた。特に一日目は傷の痛みに輾転反側し、かなり汗をかいたはずだ。

「健康な傷の臭いよ。すぐ良くなるわ」

「臭いでわかるの?」

 千明は黙って笑った。この千明という女もどんな経歴の持ち主かよくわからない。銃創の手当ても初めてではないようだ。蒲生のアシスタントと自分を紹介したがそれだけの関係にしてはやけに近しい。だが夫婦にしては年齢が離れすぎているし、愛人というのとも違うようだ。

「もう出血はほとんど止まっているでしょう。黄色っぽいのはリンパ液、回復している証拠よ。安心しなさい」

 そう言われても鞘華は素直に頷けなかった。傷が治るまでは猶予期間だが、その間に今後のことを決めておかなければならない。蒲生の考えは読めないが、千明は鞘華に当面の生活費を与えてこの町から遠ざける方向で考えているようだ。ただ鞘華はヤクザではないという彼らの言葉を信じ切ることができなかった。うかつな言動をしたら始末されてしまう可能性だって残っている。

 銃弾に身をさらした時の情景が鞘華の脳裏に何度も浮かび、彼女を怯えさせた。この二人と出会ったことは自分にとってのチャンスなのだから、得られるだけ沢山のものを得ておきたい、そう鞘華は考えていた。だがその考え自体が死に直面した記憶からの逃避であることに彼女自身は気付いていなかった。

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