第一話 「拳鬼」
街道から離れ、狩人すら避けるような山奥の開けた場所で、二人の人間が野宿をしていた。一方の人物は、長い黒髪、そして夜空を写すような黒瞳の女性。年の頃は20かそこら、といった様子だが、どこか老成したような雰囲気を出している。長い髪を頭の後ろに適当に束ね、白い首筋をさらしている。色気よりもそういった老成した雰囲気を纏っているのは、どこか鋭い気配を漂わせているからか。
その妙齢の女性は、ちょうど良い高さの岩に腰掛け、石を積んで作った即席の竈に、火を起こし、のんびりと木の枝をくべ、火力を一定にするよう気を配っている。竈の上にはぐつぐつと音を立てる鍋が、食欲をそそる匂いを辺りに振りまいていた。
そして、もう一方。女性と同じ黒髪に黒瞳。女性が十人が十人認めるような美女なら、こちらは十人が十人、普通と表するような少年だった。
年は10代の半ばから、後半にさしかかる程度だろうか。体格は中肉中背、良く言えば引き締まって見える、悪く言うなら痩せていて弱そう……といった評価をされるだろうが、それは服を着ていたらだろう。現在少年は上着を脱いで半裸でいる。少年の肉体は、表するなら、鍛え上げた刀身のようだった。
「腕、下がってきてるわよ」
そう、女性が少年に声をかけた。叱責するような響きではないが、無視すればただでは済まない。第三者がいれば、そう思うような、静かに腹に響く声だった。
「し、師匠……! 限界っす……!」
「あは。冗談が好きね、お前も。その台詞は半刻前にも言っていたわ。なら、もう半刻くらいいけるでしょ」
女性の声音は何一つ変わらず。師匠、と呼ばれた女性の言葉に、弟子らしい少年の顔が青くなる。しかし、滝のように汗をかく少年は、何かをこらえるように、顔色を青から赤に変えた。
「う、くぅ、あぁぁ!」
少年の身体がぶるぶると震える。端から見ても限界そうだった。
少年は今、椅子に座っているような中腰の体勢である。しかし、ここは人里離れた山奥。城の謁見の間にあるような、煌びやかな玉座も、場末の酒場の、座りの悪い椅子さえない。
なら、女性のように岩に腰掛けているのか……といえば、そんなこともない。椅子に座ったような体勢のまま、両腕を前に突き出し、その手には一つずつ、大きな瓶を持っている。ついで、と言わんばかりに、頭にも大きな瓶を乗せていた。
「馬歩」と呼ばれる、修練の一つだった。少年はこれを、両手で抱えるのも大変な荷物を片手ずつ持ちながら、最低でもすでに半刻はこなしているらしい。水たまりのように広がる汗の跡から、それでは済まない時間、こうしているであろう事も伺えた。
「し、しぃしょー! もうほんとに限界っす! 落としそうっす!」
「落とすんじゃないわよ? たく……」
女性が腰を上げ、少年に近づく。少年はこの苦行が終わるのかと、期待した目で女性を見ていたが、止めはかからず、女性は少年が頭に乗せている瓶に、木で出来た小皿を突っ込むと、瓶の中から何かを取り出す。独特の匂いと風味の調味料──「味噌」だ。
「さ、これで軽くなったわ。もう一刻はいけるわね?」
う、嘘っすよね──!? 少年は声に出さずにそう言っていた。口にしてしまえば、また時間が加算されそうで恐ろしい。その思いが、非難の視線を師匠に送る事も躊躇わせ、最後に少年に浮かんだのは、諦めだった。
満足そうに一つ頷いた女性は、味噌をもった小皿を鍋に入れようと、身を屈めた。その瞬間。
「ガルァッ!」
近くの茂みから、突如として大型の獣が飛び出した。狼型の魔物──ワイルドウルフは女性の首を狙い鋭い牙をむく。
無防備にうなじをさらしていた女性は、直前まで気づいていた様子はない。なかったが──
「うっさいわね」
女性の、皿を持っていた手とは逆の手が、閃光のように動いた。今まさに飛びかかってきたワイルドウルフの鼻面に、裏拳を叩き込む。
肉と骨が潰れる不協和音。ワイルドウルフは「ぎゃわん!」と情けない悲鳴をあげて飛び出してきた茂みの奥へと吹き飛ばされる。
その悲鳴を皮切りに、辺りに満ちる足音と、飢えた吐息。
はっはっはっはっはっ……。
もう隠すつもりも無いのだろう。飢えたワイルドウルフの群は、餌である人間を前にして、今にも襲いかからんばかりにうろつき回っていた。
「五匹ね……トウヤ、もうすぐ夕飯が出来るわ。その前に片づけなさい」
「終わりっすか!? やったっす! さくっと片づけるっす!」
一般人なら、自身に迫る死の恐怖に震えるであろう中、ここに居た人間二人は至極自然体だった。
女性の弟子らしき少年──トウヤは馬歩を止め、立ち上がる。その動きに感化されてか、痺れを切らした2体のワイルドウルフが、トウヤに飛びかかった。
「シッ!」
トウヤの右足が跳ね上がり、二度、宙を切り裂く。
『ぎゃん!』
蹴りをくらったワイルドウルフは何が起こったか解らなかっただろう。2体とも、ほとんど同時に蹴りをくらい錐揉みして宙を舞う。蹴りを喰らった狼たちは、首を折られ地面に叩きつけられるとビクビクと痙攣した。
その仲間の様子をみたワイルドウルフ達に動揺が走る。トウヤが殺気を込めて一睨みすると、悲鳴じみた鳴き声をあげ、残る三匹は元きた茂みの奥に消え去った。
「ふぅ~。びびったっす」
全然そんな空気を感じさせず、トウヤはふぃ~っと安堵の息を付く。汗を拭いたかったが、手は塞がっているし、頭のやつもどかしたかった。
「ん。ごくろうさま」
師のぞんざいな労いの声に、トウヤはここ最近感じていた事を口にした。
「師匠~やっぱそろそろ、街にいきません? こう何ヶ月もここにこもってると、なんか俗世から離れた感がするっす」
普通、何ヶ月も山に籠もったりしないので、それだけ街から離れれば充分俗世から離れた、とも言えるのだが。まったくそこには思い至らないトウヤ。その師匠──ユエは、鍋の中身を味見しながら、トウヤの言葉に耳を傾けていた。
「そうね……ま、まだ調味料に余裕はあるし、用事がない内は却下ね……それよりトウヤ、あなた、随分と余裕そうね?」
「ふぁいっ!? そ、そんな事は無いっすよ!? もう自分足はがくぶるで、 生まれたての子鹿みたいな感じっすよ!」
びくぅ!っと、身体を振るわせるトウヤ。その拍子に、頭に乗せていた瓶を落としてしまう。
「あっ!」
と思ってももう遅い。先ほどまでは、ウルフに蹴りを入れた時でさえ、固定されていたかのように動かなかった瓶は、まるで魔法が溶けたように頭を離れる。
正面に落ちたなら、両手が塞がっていても、足を使って何とかなったかもしれない。しかし、無情にも(トウヤにとっては、だが)横にぐらりと傾いた瓶は、重力に従って落ちる。横は、両手の瓶が邪魔で、足を使ったとしても止められそうにない。
がちゃん。
「……」
重く、非常に気まずい沈黙が二人の間に降りた。
「街にいく用事が出来てしまったみたいね。それよりトウヤ、解ってるわね?」
「はい師匠。覚悟はできてるっす……」
世間では「拳鬼」と呼ばれる人物とその弟子は、こうして何ヶ月振りに、山を下り、街に向かう事を決めた。
余談だが、トウヤはその日、ユエによって夕飯を抜かれ、もう二刻ほど馬歩を続けさせられた。
お読みいただきありがとうございます。
遅筆なため、不定期更新で投稿させていただきます。