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第九章 近付く別離

 結婚から一年と少しして、家茂(いえもち)異母兄(あに)様の攘夷実施の求めに応じて、徳川家将軍としては、三代将軍以来、約二百二十九年振りとやらの上洛を果たした。

 その都滞在中、異母兄様に拝謁した家茂は、異母兄様に攘夷を確約させられたらしい。

 ただ、それが家茂には不本意だったようで、彼は帰ってくるなり渋い顔をして、『できもしないコトをやらせようとするな』などとボヤいていた。


「仕方ないでしょ。それが、あたしが降嫁する為の必須条件の一つなんだから」

 声量を落として家茂を(たしな)めると、家茂は「知るか」と吐き捨てた。

「側近共が勝手にやらかした政策のおかげで、こっちはいい迷惑だ」

「あー、それ激しく同感……」

 あたしと家茂は顔を見合わせて、殆ど同時に深い溜息を吐いた。


 元々、あたしも家茂も婚約者(家茂の場合は……恋人というか、側室? 愛人?)がいたのにも関わらず、無理矢理その相手と別れさせられ、政略結婚させられたという共通点がある。家茂に至っては、あたしとの結婚の為に、恋人を側近に殺されたんだから、いい迷惑を通り越してる。

 初めはお互い、元の相手への未練タラタラで中々打ち解けられなかったんだけど、家茂の一歩大人な対応と、彼の人柄を知るにつれて、あたしも徐々に家茂に()かれていった。

 それを認めるには一種の罪悪感……はっきり言っちゃえば熾仁(たるひと)への後ろめたさを乗り越えなければならなかったし、正直言ってかなり抵抗があった。

 けれど、自分の気持ちに素直になったら、精神的負担は随分軽くなった。

 ただでさえ、周囲との所謂(いわゆる)文化の違いから来るすれ違いというか、軋轢(あつれき)から、あたしにとって大奥は住み辛い場所だったのだから。

 せめて、生涯の伴侶である家茂だけでも味方でいてくれなければやってられない。

 遅まきながらそう気付いたあたしは、自分でも思い切った行動に出た。

 平たく言えば、「家茂といちゃつくのを邪魔するな!」と京から随行して来た女官達に宣言したのだ。付随する形で、奥女中達との衝突もなるべく避けるようにと通達をした。

 異母兄(あに)様への連絡係を(にな)っている、庭田嗣子(にわたつぐこ)典侍(ないしのすけ)なんて、腰を抜かしそうな顔をしていたけど、知ったことじゃない。

 女官達には女官達の生活とか、考えがあろうけど、あたしにだって同じように感情があるのだ。

 そして、嫁いで来てしまったからには、ここが生活の場だ。泣こうが喚こうが、京へ帰ることは出来ない。

 なら、一生を鬱々として過ごすのは真っ平だ。

 過ごし易いように考え方を変えていくのに、女官達や、京で暮らしている異母兄様にだって、とやかく言われる筋合いはない。

 おかげで、天璋院(てんしょういん)様とも和解できたと思う。

 彼女とのギスギスが、そのまま互いの侍女達の衝突に結び付いていた大奥の空気も、あれから随分とやわらいだような気がする。

 天璋院様が、あの浜御殿への遠出以降、奥女中達に何か言ったのか、言ってないのかは、あたしは知らない。

 けれど、多分何か言ってくれたんだろう。

 奥女中達も、あれから自然にあたしを家茂の妻――すなわち、大奥の新たなる主と仰ぐような態度を取るようになっていた。


「あ、そうだ。(ちか)、手出せよ」

 家茂が唐突に思い出したという素振(そぶ)りで、懐に手を突っ込みながらニヤリと口の端を上げた。

「? 何?」

「土産だよ。京土産じゃなくて悪いけど」

 疲れてる時はこれがいい、なんて言いながら家茂が懐から取り出した紙包みから出て来たのは、金平糖(こんぺいとう)だった。

「また甘いもの? あんまり食べると虫歯になるよ?」

「嫌いか?」

「……好きだけど」

「だろ? お互い家臣に恵まれないんだから憂さ晴らし」

 悪戯っぽく片目を瞑って見せる家茂に、あたしは小さく吹き出しながら家茂が差し出す金平糖を摘んだ。

 結婚後、暫くしてから知ったのだけど、家茂は実はかなりの甘党なのだ。金平糖の他にも、羊羹(ようかん)、氷砂糖、懐中(かいちゅう)もなか、などなど。家茂の好きな菓子類は挙げていけばキリがない。かすていらなんかは先代様に(なら)って、自分で作ったりしてるらしい。

 昼間あたしを訪ねて来てくれる時、割合にして三度に一度はお菓子を手にしている。

 あまりにも甘味を手にしていることがしょっちゅうのように思えるので、気になる時は今みたいに注意するのだけど、家茂は耳を貸さなかった。


「失礼致します。上様、そろそろ表へお戻り下さいませ」


 数ヶ月振りに会った家茂と、取り留めのない話をしているところへ、いつものようにお邪魔虫、こと大奥総取締の滝山が割って入った。

 家茂は、分かった、と言うとあたしに向き直った。耳元で「じゃあ、今夜な」とぼそっと囁くと、林檎(りんご)に負けないくらい顔を赤くしたあたしを残して、飄々と去って行く。

 後に残った滝山が、これ以上ないくらい頬を染めているであろうあたしを見て、一瞬不思議そうな顔をしたけれど、彼女はすぐにいつもの無表情に戻った。

 普段は愛想のない彼女にあまり好感を覚えないあたしだけれど、今は余計な詮索をしないその性格が有り難かった。

(……全く、どうしてくれるのよ、この顔の熱……)

 若干冷えた指先で頬を冷やそうとするけど、顔に昇った熱は簡単には引いてくれそうにない。

 所謂(いわゆる)閨房でのコトになると、家茂は意外と強引だった。あたしが初めての女じゃないから手慣れている、と言うのは今更なんだけど、暗がりの中でそういうコトをする時の顔は、同い年の少年にはとても見えない。

 ちょっと油断すると、今みたいに昼間でもさらりとああいうことを言ってのけたり、実際口吻けくらいは実行したりするので、冴那(ひな)さん以外にも女がいたんじゃないかと時々疑いたくなってくる。

(……っていうか、昼間っから何考えてんのよ、あたし……)

 昼間の人前でこういう事を平然と(?)考えられるようになったなんて、あたしも焼きが回ったというか……朱に交われば赤くなるってこういうことかしら。


「宮様。少しよろしいでしょうか?」

 妙な妄想がひと段落するのを、まるで見計らったかのように、まだそこにいた滝山が声を掛けてきた。

「え、何?」

 そう言えば、いつもは家茂を呼びに来たら一緒に退出するのに、今日は珍しいな。


「……ご相談がございます」


 ***


 常に沈着冷静な大奥総取締の滝山も、あの浜御殿への遠出以降、あたしに心からの臣下の礼をとるようになった一人だ。その彼女が、いつになく神妙な表情で切り出したのは、成る程、正室であるあたしには言い辛い話だった。


「つまり、妻であるあたしに、夫に愛人を持つように説得して欲しいって言う訳?」

「は……」

 何気なく投げ出したセリフは、一瞬自分でもゾッとした程温度が低かった。

 それに萎縮したのか、それとも相当言い辛いことを言っている自覚があるのか、普段淡々と用件のみを口にする彼女が珍しく口ごもっている。

 あたしがそうさせておいてちょっと気の毒な気もしたけど、一方で、もっと困れば良いわと思っている自分もいた。

「あんた達、前にも家茂に側室持たせるって話、してたわよね。確か今回、家茂が上洛する前のコトだったと思うけど」

 滝山から返事はない。ひたすら(かしこ)まって平伏している。

「それはやっぱり、あたしとの間に天皇家の血が混ざった子ができると困るから?」

「それは……」

「いいのよ、隠さなくて。そう確か、言っていたのはあんただったわ」

 いつも不動の無表情を誇る滝山の顔が、微かに歪んで、言葉は完全に詰まっている。

 いい気味だ。そう思いながら、あたしは更に畳みかけた。

「ねえ。ちょっと、素朴な疑問なんだけど。今頃側室を持たせるなんて話になるくらいなら、何で冴那さんを暗殺しちゃった訳?」

「宮様」

「あたしを迎える為に、わざわざ殺したんでしょう? どうして今頃新しく側室をなんて話になるのか、さっぱり理解できないわ」

「それは……早急なるお世継ぎの誕生が、肝要となったからでございます」

「でも、母親はあたしじゃ困る訳ね」

 勿論、滝山は口ごもって答えに(きゅう)するものだと思っていたら、この問いには意外にも「いいえ」という、嫌にきっぱりとした否定が返って来た。

「時勢が差し迫っております。この際ですから、母御は宮様でも良いと、幕閣からも声が挙がっております。……いえ、この時勢であればこそ、真に天皇家と徳川家の血が混ざったお世継ぎのご誕生をと申す者もおります。ですが」

「あたしに中々産まれないから、結局のところ、この際母親は誰でもいい。そういうコト?」

「は……」

 身も蓋もないあたしの問いに、滝山はまたも言葉を詰まらせる。

 肯定としか取れない彼女の反応に、あたしは早々にぶち切れた。

「人をバカにするのも大概(たいがい)にしてよ」

「いえ、決してそのような!」

「バカにしてるんでなければ何だって言うの?」

 家茂への想いに気付いてから、あたしは、自分の生来の価値観からくる主張を全て呑み込んで来た。

 御所風の生活も、皇女としての扱いを受けることも、意地も見栄も誇りもかなぐり捨てた。

 そんなもの、後生大事に持っていたって、彼は手に入らないと分かったから。

 実際、彼と過ごすのには必要ないものばかりだ。

 でも、それとこれとは話が別だ。

「理不尽にも程があるわ。要するに世継ぎの問題なら、分家から養子でも何でも取ればいいじゃない」

 家茂に側室を持たせる?

 そんなの御免だ。

 家茂の視線が、他の女に向くなんて、許せない。だからこそ、捨てたものがある。

 だけど、今この話に抵抗して守りたいものは、皇女としての意地でも誇りでもない。

 彼の、妻としてのそれだ。

厳密(げんみつ)に言えば、家茂だって先代様の実子(じっし)じゃないんでしょ。次の将軍、どうしても家茂の実子でないと不都合なの?」

和宮(かずのみや)様」

「それに、まだ結婚して一年よ。あたしに子供が産めないとか、決め付けないで欲しいんだけど」

「繰り返すようで恐縮(きょうしゅく)ですが、時勢をお読み下さいませ」

 静かな、毅然(きぜん)とした声音に遮られて、あたしは思わず息を呑んだ。

此度(こたび)の上洛は往復に四月(よつき)で済みましたが、またいつ何時(なんどき)主上(おかみ)召喚(しょうかん)を受けないとも限りませぬ。その時、上様がどのくらいの間江戸を留守にされるかは分かりませぬ。また、このご時世、道中が決して安全だという訳でもありません。宮様のご不安を煽る訳ではございませぬが、実際問題、陸路でも海路でも危険はさして変わらぬでしょう。つまり、上様にいつ何があってもおかしくはないということでございます」

 滝山は、一度そこで言葉を切って、あたしを(うかが)うように一瞥(いちべつ)すると話を続ける。

「失礼を承知で申し上げますが、そうしたご時世の中、悠長に宮様のご懐妊(かいにん)をお待ちする余裕は『幕府』にはございません。早急なるお世継ぎのご誕生が肝要にございます」

「――……」

 あたしは何とか反論を探そうとしたけれど、結局何も思い付かずに押し黙ってしまった。

 冷静に聞けば、滝山の言い分は反論の余地もなく筋が通っていたからだ。――幕府の(おさ)である、将軍の妻としての立場で聞けば、という注釈付きでだけれど。

 感情だけで激昂(げっこう)するのは簡単だ。

 だけど、それじゃ子供の駄々と変わらない。――少なくとも、この滝山という女性の前では。

「……また、『幕府』だけの都合を押し付けるのね」

 苦し紛れに吐き出した言葉は、皮肉になっただろうか。

 表面上は無表情を保ったままの滝山の顔から、読み取れるものは何もなかった。

「……その話、家茂にはしたの?」

「は……」

 滝山は、またしても押し黙ってしまった。

 大方、家茂には先に話を通してはいるのだろう。できれば、こんな問題は、すったもんだの末に御台所として迎えたあたしには内密に済ませたかった筈だ。

 だけど、肝心の家茂本人に一蹴(いっしゅう)されたのに違いない。だから、あたしを懐柔(かいじゅう)に来た訳だ。

 押し黙ってしまった滝山と、同じく黙ったままのあたしとの間に、沈黙が落ちる。

 あたしは聞こえよがしに溜息を一つ吐くと、氷のような温度の声音を滝山に投げ付けた。

「……分かった。話だけはしてあげる。だけど、あんた達は冴那さんを殺して、あたしと熾仁を無理矢理別れさせた揚げ句にあたしを迎えておきながら、今度はそのあたしに、夫に愛人を持つように説得しろって言ってんのよ。自分達がどれだけ勝手なコトやりまくって、あたしと家茂に迷惑かけまくってるのか……自覚はあるんでしょうね?」

 滝山はこれ以上ないくらい身を縮めて、無言で床に額を擦り付ける勢いで頭を下げると、目も上げられないまま退出して行った。


 まだ思いっ切り言い足りないんだけど……まぁ、いい気味だわ。


 ***


「……それで? 親はそれ承諾した訳だ」


 しかしその夜、あたしも家茂から思いっ切り冷たい反応を喰らう事になった。……『因果応報』て言葉はこういう時に使うんだわ、きっと。


「……別に承諾した訳じゃないわよ。ただ……世継ぎの一人も産んでない正室としては反論の余地がなかったっていうか……」

「滝山がそう言ったのか」

「……別にそういう訳じゃないけど」

「そういう意味のことは言われたんだな」

 あたしは、無言のまま肩を竦めて見せた。

 それを見た家茂が、溜息を吐きながらあたしの手を取る。

「思うんだけど。俺達が連中の言うこと聞いてやる必要ある訳?」

「……個人的にはないと思うけど、それって一国の長として問題発言じゃない?」

「知らねぇよ、そんなの」

 本気で無責任発言をした家茂は、そのままあたしの手を引っ張った。

 痛くない程度の勢いで押し倒されて、気付けば布団が背中の下にある。

「……俺には親がいればそれでいい」

 真摯(しんし)な漆黒の瞳に、真上から見つめられて、思わず心臓が跳ねる。

 ……どうしてこの男は、()でこういう口説き文句が言えるんだろう。

「親以外の女なんて要らない」


 反論する暇もなく唇を塞がれて、その夜はもう説得どころじゃなくなっていた。


 ***


 その後、何がどうなったのか、家茂が何をどう言ったのか、滝山があたしに側室の話を持ち出すことは、二度となかった。


 あたしにも勿論懐妊の兆しは見えぬまま月日が流れる間に、八月十八日に、京では政変が起きた。その後処理に伴って、家茂は文久三(一八六三)年末に再び上洛し、翌年の五月に戻って来た。

 結婚後、二年と三ヶ月の中で、あたしと家茂は、たった一年と半年しか一緒に過ごしていない計算になる。


 それでも、その後江戸では暫く平穏な日々が続いたけれど、京都じゃ過激派とか呼ばれる志士達がじっとしててくれる訳がなかったのだ。


 元治元(一八六四)年六月五日、京では池田屋事件が発生。それに端を発する形で起きた禁門の変が原因で、長州藩内でも政変が勃発。

 尊皇攘夷派が実権を握った長州藩は、幕府に反旗を(ひるがえ)した。


 ***


「え――――っ、また長州征伐!?」


 慶応元(一八六五)年の暮れ、あたしは自室のすぐ傍の縁側で()頓狂(とんきょう)な声を上げた。


「ね、ちょっとそれって、また(いくさ)になるってこと!?」

「ん――。池田屋事件の後の御所の戦の話は親も聞いてるだろ。あれの関係」

 元治元年に起きた池田屋騒動を皮切りに、長州の動きがにわかに怪しくなり、遂に暴発した長州を幕府が征伐に乗り出したのが、その年の八月。

 結局、幕府が出した条件を長州が一方的に飲んだことで、長州丸ごと取り潰しにすることは見送った。

 それが、二年も経たない内に、再び不穏(ふおん)な動きを示したらしい。

 幕府が鎮圧に乗り出すとしたら、実質飾りモノとは言え、当然幕府の長たる家茂が出陣しない訳にはいかない……のは分かってるんだけど……。

「それって……どうしても家茂も行かなきゃダメなの?」

「当たり前だろ」

 ……何よ。

 ダメ元で訊いたんだから、少しくらい言い淀んでくれたっていいのに。

 即行で返事が返って来て、あたしは思わずうなだれてしまった。

「……何も親が陣頭指揮執る訳じゃないんだから、そんなカオするなよ」

 呆れたような苦笑と共に、家茂の掌がそっと頭に置かれる。

「……そういう問題じゃないわよ、バカ」

 頭に置かれた手から伸びる家茂の腕の下から、恨めしげに睨み上げれば、家茂は一瞬キョトンとしてすぐにまた声は立てずに苦笑した。

「……それで、出発はいつ頃になりそうなの?」

「ああ……そうだな。あんまり遅くならない内にとは思ってるけど、それでも正式決定は年明けだな」

「そう……」

 あたしは、ほっと息を吐いた。

「良かった」

 家茂の顔を覗き込みながら少しだけ笑うと、家茂は不思議そうに目を瞬く。

「だってそれなら、今年終わるまでは家茂は絶対に江戸にいるでしょ?」

「――……ああ……」

 家茂は、ようやく合点(がてん)がいったという顔をして、口元に手を当てた。

「そうか。そういう言い方もあるな」

「でしょ?」

 こうして、傍で家茂を見つめていられる幸せ。

 それがまた暫くお預けになる寂しさに、あたしは家茂から目を背けてそっと呟いていた。

「……来年なんか、来なければいいのにね」

 家茂に聞こえないように呟いた筈だったのに、彼の耳にはしっかり聞こえていたらしい。

 あたしの正面に器用に上半身だけを傾けた家茂の唇が、あたしのそれを不意に塞いだ。

「ッ……~~~……」

 一瞬で唇を離した家茂は、イタズラが成功したとばかりにニヤリと唇の端を持ち上げてあたしを眺めた後、多分熱くなっているだろうあたしの頬に優しく掌を這わせて、そっと言った。

「……大丈夫だよ」

 何が、大丈夫なのか。

 キョトンと家茂を見つめるあたしに、家茂が微笑む。


「ちゃんと、帰って来るから」


 不意に、胸の内を言い当てられたような言葉が降って来て、目の奥がキュッと痛くなる。

「大丈夫だって」

 つい頬に流れた(しずく)を、唇で拭ってくれながら言う家茂の温もりに、余計に涙が止まらなくなる。

 その一言に、返って不安になったなんて、言えなかった。


 年が明けなければいい――――。


 そう願ったあたしの思いも空しく、毎日は同じ速度で過ぎて行って、慶応元年六月十五日、家茂の出立の時が迫っていた。


 ***


「……そうだ。お土産はどうしようか?」


 見送りに出て、廊下を一緒に歩いていたら、家茂がふと思い付いたように言った。

「え、だってそんなの……仕事で行くのに」

 しかも、今回は戦の陣頭指揮だ。

 妻に買うお土産なんて、物色している余裕があるとは思えないけど。

「いいんだ、遠慮しないで」

 家茂は、そんなあたしの思考に構うことなく優しく笑う。

「幕府の都合で結局一度も里帰りさせてやれてないし、何か京土産で欲しいものがあればと思ってさ」

「――……」

(……欲しいもの、か)

 何も要らない、と思う。

 家茂さえ無事に帰って来てくれるなら、他には何も。

 でも、にこにことあたしの答えを待つ家茂の笑顔を曇らせたくなくて、あたしもさり気ない笑顔を貼り付けながら家茂にねだる。

「じゃあ、西陣織がいいな」

「西陣織?」

「うん。家茂が見立ててよ」

「わかった。親に似合いそうなの見繕(みつくろ)って買ってくるよ」

「ん、楽しみにしてる」

「失礼致します」

 けれど、他愛のない会話も、無粋な横やりで終わりを告げる。

「上様、宮様、そろそろ出立のお時間でございます」

「わかった。すぐ行く」

 家茂は、ひざまずいた家臣を一瞥するとあたしに視線を戻した。

「じゃ、親」

「気をつけてね。早く帰って来てよ?」

 頬に添えられた手に、あたしは自分の手を重ねて家茂を見上げた。

 返事の代わりのように短く口吻けられて、行って来る、という一言と共に家茂の手が離れる。


 その瞬間、背筋がザワリ、と粟立った。


(え、何)

 鼓動が脈打つ音が、ひどくはっきりと認識出来る。

 家茂が遠退(とおの)く姿に、何故か猛烈な胸騒ぎを覚えて、あたしは彼にしがみつくのを必死で堪えなければならなかった。

 ――ううん、そうしていれば良かったのかも知れない。


 泣いて(すが)って、行かないでと引き留めていれば、彼は――。


©️和倉 眞吹2013.

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