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第八章 浜御殿にて

「今度、遠乗りしないか」


 家茂がそんなことを言ったのは、あたし達が名実共に『夫婦』になってから、二月(ふたつき)程経ったある日のことだった。

「遠乗り?」

「そう。浜御殿って呼ばれてる、徳川家の別邸まで」

 季節は、本格的に秋になっていた。

 今日も、陽射しが心地よくて、暑すぎず寒すぎず、丁度いい日和(ひより)だ。

 座る濡れ縁から見る庭先が、すっかり秋の色に染まっているのが目にも楽しい。嫁いで来たばかりの頃は、実用的な建物だけが目について、それが冷たく見えたものだったけれど。

 庭の景色は季節の移ろいがよく判る造りになっていたことに気付いたのは、ほぼ最近の話だ。

「そうね。久し振りに外へ出るのもいいけど……」

「けど? 何だよ」

「あたしが行っていいのかな」

 隣に座る家茂を伺うと、彼はその綺麗な瞳を一瞬大きく(みは)った。

「いいに決まってるだろ」

 苦笑混じりにこちらを見ながら、「何でそう思うんだよ」と彼は続ける。

「いや、だってさ。あたし、最近まで散々嫌な態度取って来たじゃない?」


 最初に、今の結婚話を聞かされたのは、(さかのぼ)ること、ほぼ一年前だろうか。

 去年の冬も間近のある日、こともあろうに、その当時婚約者だった熾仁(たるひと)の口から、破談と新たな縁談の可能性を聞かされた。

 幕府の横暴とも言える結婚の申し入れに、とんとん拍子に破談は現実のものとなり、あたしは当時かなり抵抗したけど、結局泣く泣くこの江戸へ――家茂の元へ嫁いで来たのだ。

 輿入れの交換条件として遵守(じゅんしゅ)するようにと提示した五箇条の内の一条『あたしの周囲は万事御所風のこと』が、江戸城入りして早速守られていなかったりしたものだから、幕府方への不信感は、根が深いものがあった。

 思えば、新婚初夜から怒鳴り合った挙げ句に別室で休んだこの家茂と、今は相思相愛だってんだから、人生ってのは分からないものだけれど。

「そんなあたしが、徳川家の別邸なんか、行っていいのかなって」

 それでなくとも、あたしと、姑に当たる天璋院(てんしょういん)様との衝突は、そのまんま、お互いの侍女たちの衝突となって、未だに大奥には京都派と江戸派の派閥争いが絶えない。

(ちか)が肩身狭い思いしてんのは知ってるよ」

 クス、と苦笑混じりの答えが聞こえて、伏せていた視線を上げると、声と同じ表情をした家茂の顔がそこにある。

「でもあれから、お前が努力してるのも、ちゃんと知ってる」

 言いながら、家茂はあたしの手を取って、指を絡み付けるようにして繋いだ。

 家茂が言う『あれから』というのは、つまり、あたし達がここで本当に『夫婦』になった日からのことを指しているのだろう。

 そう、あれから――あの日から、あたしは御所風にこだわるのをやめた。

 正確に言えば、やめる努力を始めた。

 そりゃあ、生まれた時から親しんだものを、言わば捨てるようなものだったから、すっぱり切り替えが上手くいくものでもない。

 江戸城に入ってから受けた無礼を忘れるのも、難しい。

 それでも、あの日の、家茂が側室を取ると聞かされた時の息苦しさを思えば、安いものだった。

「今着てる打ち掛け、俺がやったやつだろ?」

「あ、うん。……どこか、おかしい、かな」

 白地に、裾の方に淡い藤の意匠と、その色に合わせたような、紫の濃淡の染め抜きのある打ち掛けは、一月(ひとつき)くらい前に家茂が京都から取り寄せて贈ってくれたものだ。

「いいや。すっげ似合ってる」

「ホント?」

「当たり前だろ。誰が見立てたと思ってんだ」

 言うなり、口吻(くちづ)けが一つ落ちてきて、顔に熱が上る。

 今いる濡れ縁は、二人きりの空間じゃない。見物人がいるのも同じ状態だから、できれば(ねや)以外でこういうコトをして欲しくはないんだけど、家茂は聞いてくれた(ためし)がない。

 家茂(いわ)く、『どうせ厳密に言えば閨だって二人きりじゃないんだから、今更だろ』だそうだ。

 実際、堂々と(?)いちゃつくようになってから、女中からのあたしに対する嫌がらせはかなり減った。

 それが、家茂があたしを寵愛していることを表沙汰にしたからなのか、あたしが家茂への気持ちを表明したからなのかは、判断に迷うところだけど。

「今はそうやって、着るものでもこっちに合わせてくれるだろ? 育ったところの習慣を改める苦痛みたいなものも、俺は分かってる。周りも気が付いてるさ。ただ、最初の衝突具合から素直になれないだけで」

 優しい笑みは、割と最近になって見せてくれるようになったものだ。

 あたしは、何も言わずに、黙って家茂の肩に頭をもたれさせる。家茂も黙って、あたしの頭の上に、同じように顔を(かたむ)けた。


「失礼致します。上様、そろそろ表へお戻り下さいますように」


 良いところで、お邪魔虫――(もとい)、滝山の声が、逢瀬(おうせ)の時間の終わりを告げる。

 放っておくと、家茂が一日奥に入り浸るのではないかと心配なのだろう。まあ、公私の区別は付いている家茂のことだから、その心配は無用だと思うけど。

「分かった、すぐ行く」

 不機嫌を隠そうともしない声を投げ返すと、「じゃ、今の話、考えといてくれな」と言って家茂は席を立つ。

「あ、待って。そこまで送る……」

「いいって。どうせ今夜はまた閨で会うんだから」

 余りにあからさまな夜の誘いに、あたしは思わずまた言葉を詰まらせた。

 頬が熱くなるのが、触らなくても分かる。

「ば、バカ! あたしはただ、」

「分かってるって」

 慌てて立ち上がったあたしに、家茂が()かさず、黙れと言わんばかりの口吻けを落とす。

「冗談だよ。じゃあ、そこまで送って」

「っもう……」

 歩き出す家茂を小走りに追って、今度はあたしから手を絡める。

(やっぱり負けてる気がする)

 あの日から、気付くと家茂には振り回されっ放しだ。でも、悔しいけど、それが不快じゃない。

 思えば、熾仁との頃は、こんなに濃密な甘い時間を過ごしたことはないような気がする。

 勿論、熾仁と想い合っていたのも、決して嘘ではないんだけれど、熾仁との間には障害があまりなかった分、ある意味熱が足りなかったのかも知れない。

 ごめんなさい、と思う。

 あんなに、決心してここへ来たのに。

 この男性(ヒト)には絶対に()かれないと。

 死ぬまできっと、心だけは熾仁(あなた)のモノだと。

 それが、幕府の横暴と理不尽に対する意趣返しになる筈だったのに。

(……ごめんね、熾仁)

 もう一度、届かない謝罪をそっと内心で呟きながら、家茂の手を握り直すように、力を込める。

 でも、この男性だけだったの。

 この針の(ムシロ)のような大奥で、あたしを分かってくれるのは。

 そんな『同族意識』が、『恋』に変わったのがいつだったか、分からない。

 ただ、あたし以外の女に、この温もりが向けられるのは、胸が裂かれそうな思いがした。

 一人の男性を、他の女に渡したくないと思う。

 その感情が、恋か愛以外の何という名で呼ばれるのか、あたしは知らない。

 未だに、『同族意識』のままのものを、『恋愛感情』と勘違いしているだけかも知れない。

(それでもいい)

 それでも、家茂の傍は心地よくて、彼の視線があたしだけに向いていると分かるだけで、幸せだ。

 彼の視線を独り占めする為なら、きっとあたしは何でもできる。

 いつものことなのに、束の間、離れるのが寂しいような気がして、あたしは、身体を擦り寄せる振りをしながら、滲んだ涙を拭った。


 ***


「宮様。折り入ってお話がございます」


 家茂をお錠口(じょうぐち)手前まで見送って、私室に戻ると、まるで、かつて桂御所まであたしを降嫁の説得に来た大叔母・勝光院(しょうこういん)様もかくやという形相をした、庭田嗣子(にわたつぐこ)典侍(ないしのすけ)が待ち受けていた。

「何なの?」

 あたしが、打ち掛けの裾を捌いて上座に腰を下ろすと、典侍は、明らかに顔を(しか)めた。

 その脇に、藤とおたあ様がオロオロとした顔で膝を突くのが見える。

「まずは、今お召しの打ち掛けをお着替え下さりまし」

「はあ?」

 話がある、というから話を始めるのかと思えば、着物を着替えろですって?

「あなたに着るものまで指図される覚えはないんだけど?」

「ですが、宮様。それは武家のお召し物でございましょう?」

「何言ってんの。打ち掛けくらい、御所でも着てるじゃない」

「では、申しようを改めましょう」

 典侍は、切れ長の目元を更に細めるようにして、あたしの発火点に触れそうなことをサラリと言った。

「そちらは、公方様の贈り物でありましょう? 仮にも天皇家の姫宮様が、身に着ける代物ではございません」

「どういう意味よ」

 女官ごときが、何を差し出たことを言い出すんだろう。

 けれど、あたしの内心には多分気付いていない典侍は、更に調子づく。

「そもそも、わたくし共もこちらへ参る道々、また、江戸城へ入っても常々申し上げていた筈です。お役目をお忘れめされませぬようにと」

 役目――幕府に攘夷を、異国を打ち払う仕事を達成させること。

 そんなことは分かってる。

 あたしだって、異国人が闊歩(かっぽ)している江戸に来たくなかったことも、この結婚を拒否した理由に含まれているんだもの。

 でも、江戸城入りしてからこっち、自分のことに精一杯で、そんなこと、実行する暇もなかった。

「宮様ご自身も、公方様にはなびかぬと、固いご決意の上で、この江戸城へ入られたのではありませぬか」

「それはそうだけど」

「このところの宮様のご様子は見るに耐えませぬ。公方様と所構わず(むつ)み合われ、あまつさえ、そのように公方様から贈られたお着物などお召しになる始末。わたくしは、どのように主上(おかみ)へご報告申し上げれば良いやら、戸惑うばかりにございます」

 あたしは、咄嗟(とっさ)に何と反論すべきか判らず、黙り込んだ。『所構わず』の下りは一理あるから、反論の余地はない。ただ、あたしの名誉(?)の為に言うなら、家茂には止めてくれるよう言っているが、彼の方が聞かないだけだ。まあ、あたしも嫌じゃないから、その点はやっぱり反論できないけれど。

 でも、夫からの贈り物を喜んで身に着けたからって、それを責められる()われはない。

 典侍の方は、あたしが反論に(きゅう)していると見たのか、畳み掛けるように言葉を継ぐ。

「そろそろ、定期報告を京へ送らねばなりません。呉々も、わたくしの報告が嘘になりませぬよう、宮様には言動を慎んで頂けますように」

「何よ、それ。あたしが言動を慎むのは、あんたの名誉の為なの?」

 考える余裕はなかった。

 反射で覚えた不快感のままに、投げるように言い放つ。流石(さすが)に、典侍の顔色が変わった。

「いえ……いえ、そうではなく……」

「そう。貴女がそのつもりなら、丁度いい機会だから言っておくわ。藤」

「は、はい」

 苛立った声音のまま話を振られた藤は、おたつくように平伏する典侍の後ろで、(かしこ)まって頭を下げる。

「同じことを二度も言うのは面倒だから、女官には時機を見て貴女から話してくれる?」

「何を、でございましょうか」

「使命は忘れていない。あたしがここへ嫁いだ意味も、ここにいる意味もね。でも、その役目とあたしの感情は、今後は別に考えてちょうだい」

 そこで、一度言葉を切ると、顔を俯けて、微かに震えている典侍を見やった。

「あたしは上様をお慕いしている。だから、彼があたしだけを見てくれるなら何でもするわ。彼といる為に、ここでの生活を武家風に改めろと言われればそれも(いと)わない」

「宮様!」

「黙りなさい。貴女に発言を許した覚えはない」

 思わずと言った口調であたしの言葉を遮ろうとした典侍に、あたしは冷えた温度の声を投げ返す。

「上様からの贈り物をあたしが喜んで受け取ろうと、貴女を含めた女官たちにとやかく言われる覚えはない。今後は、いちいち奥女中達と衝突するのもやめて。いい? 言動を慎むのは貴女達の方よ」

「ですが、宮様」

「いいのよ? 異母兄(あに)様に、ありのままを報告してくれて。貴女の名誉が傷つくものね? あたしは構わないわ。夫と睦まじく過ごしているって報告されたって、後ろ(ゆび)()される理由はないもの」

「宮様」

「話は済んだわ。下がりなさい。不満ならいつでも京へ帰って構わないのよ。あたしは全く困らないから」

 あたしは、言うだけ言ってしまうと、さっさと立ち上がって奥の間へ引き上げた。下がれと言っておいて矛盾しているとは思ったが、彼女はきっといつまで経っても腰を上げないような気がしたのだ。

(何が分かるって言うの)

 苛立ちのままに、あたしは胸の内で呟いた。

 京から共に来て、大奥での苦楽を共にした彼女らにも分からないことが、一つだけある。

 政略の道具にされる理不尽への怒りのようなものだ。

 そんな中で見つけた平穏を維持することを、どうして咎められなければならないのかと思う。

(もうやめるって、決めたもの)

 見栄を張るのも、意地を張るのも。

 見栄も意地も、いくらあったところで、愛しい男は手に入らない。

 周囲の思惑で、欲しい男を取り上げられるのは、一度で沢山だ。

 ()した以上は、あたしのいるべき場所も、帰るべき場所も、ここしかない。

(いいえ。家茂の傍しかない)

 家茂の傍が、あたしのいる場所だ。そこは、特に江戸城でなくてもいい。

 この場所を守る為なら、身分を尊重されることにこだわるのもやめると決めた。

 その為に、歩み寄るべき女性(ヒト)が一人いる。

 けれども、今更歩み寄ろうとしても、その女性は受け入れてくれるだろうか。

 そんな風に思ったら、中々その女性の棲む西の丸へ足が向かなかった。

 その機会が、思わぬ形で訪れたのは、一週間後のことだった。


 ***


 カツッカツッ、と軽快な音を立てて、家茂の操る馬が風を切る。

 その上で、あたしは必死で、馬ではなく家茂にしがみついていた。彼は、片手にあたしを抱いて、もう片方の手で(たく)みに手綱を(さば)いている。

 臀部(でんぶ)の下でもぞもぞと動いている馬の筋肉が、絶えず乗った人間の姿勢を強制的に動かすから、いくら家茂が支えてくれると言っても、ぼんやりしていると地面へ放り出されそうだ。

「上様! お待ち下さい!」

 なんて言いながら、やっぱり必死で家茂(の乗った馬)を追い掛けている(だろう)家臣達の形相とか姿とかは、生憎(あいにく)あたしには見えない。

 見れば本当に面白かったと思うけど、あたしはあたしで、多分見物すれば面白い顔をしていたんだろう。

 家茂が馬を止めたのは、ようやく馬の動きに慣れ始めた頃だった。

「どうっ!」

 家茂が、掛け声と共に思い切り手綱を引き絞ると、馬はいななきと同時に前足を振り上げて停止する。

 彼は、先に地上へ滑り降り、馬上に残ったあたしに手を伸ばした。

 馬の背中は思いの外高くて、臀部をずらすとそのまま落ちそうになる。

「きゃっ……!」

 思わず悲鳴を上げ掛けたけど、下にいた家茂が上手く受け止めてくれたので、無様に落馬するのは避けられた。

「……大丈夫か?」

「う」

 怖かったっていうか、緊張したっていうか……そう、緊張してずっと身体に力を入れていた所為か、腰が抜けたようになってしまってる。

「……ごめん。帰りはあたしも輿(こし)に乗るわ」

「そうした方が良さそうだな」

 言うなり、家茂はあたしを抱えたまま歩き始める。

「ちょっ……家茂!」

「何」

「お、下ろして。少しすれば自分で歩けるから!」

「いいだろ、このままでも」

「だ、だけど」

 見物人の数がいつもの比じゃない。

 大奥にあるあたしの部屋の濡れ縁なら、せいぜいその辺で働いている女中と女官が数人くらいずつしかいないけど、ここには後から馬で追い付いてくる重臣やら、別邸から出迎えてくれる家臣やら……。

「何度も言うけど、今更だろ」

「そんなコト言ったって」

 言う間も、家茂の足は止まらない。

 家茂に横抱きにされたあたしは、彼の首に掴まるようにして彼の腕に収まっているものだから、視線が丁度後ろを向いている。

 すると……ああ、ほら、門を(くぐ)って暫く行くと、見張りの侍が目を一杯に見開いてこっちを見てるのが嫌でも目に入ってしまう。

 何だかもの凄く気恥ずかしい。

 そんなコト言ったら、閨事(ねやごと)を毎回聞かれているのは恥ずかしくないのかって話になるんだけど、それは、こっちから分からないように襖を立てて貰うことにしたから、まだ知らない振りができる。

 でも、後ろにぞろぞろ付いてくるお供が、今のあたしには全部見えるもんだから……。

 その見物人の中に、あたしは一人の女性を見つけた。

 輿から出した足を地に着けて、身を(かが)めるようにして立ち上がったその女性とは、家茂との結婚前に、江戸城へ入った時に一度顔を合わせた切りだった。

 一纏めに結い上げた髪を、首筋の辺りで切り落としているのは、落飾(らくしょく)されておられるからだ。薄紫色の外出着に身を包んだその女性は、決して美貌とは言えない、けれど凛としたその容貌をこちらへ向けた。

 彼女の瞳と、視線がかち合う。そして彼女は、周囲と同じように瞬時唖然とした。

「い、家茂!」

「何」

 耳元で小さく叫ぶと、家茂は鬱陶(うっとう)しそうに言った。

 下ろす気ゼロの声だ。

 でも、あたしもいい加減下ろして貰わないと、この後、庭を見るどころじゃなくなっちゃう。

「ね、本当に下ろして」

「やだね」

「って言ったって、天璋院様も見てるのにっ」

「いいだろ、見せといてやれば」

 な、何てコト言い出すのよ、この男はっっ!

「冗談でしょ!」

「それ以上騒ぎやがったら、冗談じゃなくこの場で口塞ぐぞ」

 物騒な内容と裏腹に、声に笑いが含まれてて、あたしは口を噤まざるを得なかった。

 本気だ。こいつ、本気でこんな公衆の面前で口吻けする気だわ。

 半泣きで、もう一度天璋院様の方へ視線を戻すと、彼女は何故か、どこか嬉しそうに微笑していた。


 ***


 結局、家茂に抱かれたまま、あたしは庭園を移動する羽目になった。


 多分、人の手で造られたであろう大きな池の上に橋が渡されている。その橋の終点に、小さな屋敷が建てられていた。

 江戸城に比べれば、大分小さい。

 けど、平均的な武家屋敷はこんな具合ではないだろうか。


 茶室に案内されて、お茶と茶菓子を頂いたけど、あたしは先刻までの恥ずかしい光景をまだ引きずっていて、甘い茶菓子の味を堪能(たんのう)するどころではなかった。

 湯呑みに入ったお茶が温くなる頃、ようやく一息吐()いたあたしは、ふと視線を上げた。

 そこは丁度庭に面していて、開け放たれた障子の外が一望できた。

 常緑樹が植えられた庭先は、一面の緑で、秋晴れの空の青を背景にした対比が清々(すがすが)しい。

「ねぇ、家茂」

「ん?」

「少し、外を歩いてみない?」

「えー、大丈夫かぁ? さっきは思いっ切り腰抜かしてたみたいだけど」

 瞬間、上座でお茶を(すす)っていた天璋院様が、チラリとこっちを見たので、あたしは慌てた。

「そ、そのコトはもう言わないでよ!」

 顔の熱が再び上がった気がして、あたしは先に立ち上がる。

「ほら、行こう、家茂! あ……」

 家茂を急かすように彼の腕を取った時、もう一度天璋院様と視線がかち合う。

「あの……」

 今が、その機会のような気がした。

 これを逃したら、次はいつ話が出来るか分からない。

 そう思ったら、あたしの口は、勝手に言葉を紡いでいた。

「あ、あの……え、と、て、……天璋院…様も、行きませんか……い、一緒に」

 一気に言い切ったものの、あたしはまた下を向いてしまった。

 家茂が、珍しく目を一杯に見開いているのは視界に入ったけど、天璋院様の方がどんな表情をしているのかは見えない。

 けれども、一拍の間の後に、「そうですね。では」という彼女の言葉に、衣擦れの音が続いた。

 裾をわずかに(から)げて濡れ縁へ進み出る彼女に続いて、あたしと家茂も歩を進める。

 履き物を履こうと、踏み石に目を落としたあたしは、思わず目を剥いた。

 天璋院様は、既に草履を履いて、庭へ降り立っている。

 踏み石の上に残っているのは、どう見てもあたしの草履だけだ。

 家茂の分は、と視線を巡らせると、踏み石の手前に鎮座している。

(誰かしら、気の利かない)

 思うと同時に、あたしは打ち掛けの裾を絡げた。ちょっと行儀が悪いけど、踏み石の横へ、履き物は履かずに直接飛び降りる。

(ちか)?」

 再度、瞠目(どうもく)する家茂には構わず、あたしは自分の草履と家茂の草履を入れ替えるようにして踏み石の上へ置いた。

「はい、どうぞ」

 あたしは、おどけるようにお辞儀をして、家茂の方を見た。丸くなっていた家茂の瞳が、やがて、柔らかな苦笑の形に歪められる。彼は、あたしに短く、照れたような謝意を述べて、草履の鼻緒に爪先を突っ込んだ。

 あたしも、持っていた自分の草履を地面へ置いて、足を乗せる。

 ふと、視線を上げると、天璋院様が、やっぱり嬉しそうに微笑んでいた。

 不思議に思って、無意識に首を傾げるあたしに、天璋院様は目配せする。

「上様。申し訳ありませぬが、少し遠慮して頂けますか?」

 その意図を掴むより早く、彼女は家茂に向かって言った。

「は? あの、義母(はは)上?」

「わたくしは、宮様と女同士の話がございます故。後からゆっくり参って下さい」

 やんわりと、けれど有無を言わせないきっぱりとした口調だった。家茂が何か返すより先に、あたしに視線を向けて「さあ、参りましょう、宮様」と言った彼女は、さっさと(きびす)を返してしまう。

「あ、えっと……ご、ごめんね、家茂。後でねっ」

 慌ただしく家茂に一言告げると、急いで天璋院様の後を追う。

 後をついて来た、侍女や侍達に、池に渡してある橋の袂で待つように言い置くと、天璋院様はその真ん中でやっと足を止めた。

「あの……天璋院様」

「……安心しました」

「えっ?」

 出し抜けに言われて、一瞬何のことか判らず、混乱する。

「今日、ここへ参った時から、お二人の様子を微笑ましく拝見しておりましたが……先程の、そなたが草履を置き換えた仕草に安堵する思いがありました」

「天璋院様」

「そなたも、ようやく徳川の嫁になったのですね」

「あ……」

 あたしは、どこか気まずい心持ちで下を向いた。

「あの……天璋院様。その……」

 歩み寄らなければ。

 そう思っていた時からずっと、彼女にこれまでの態度を詫びなければならないと思っていた。けれど、いざとなると、中々その言葉が出ない。

 幼少期から育った自尊心は、そう簡単に曲がるものでもないらしい。

 俯いて言葉を探すあたしの手を、天璋院様の手がそっと取って包んだ。

「あ、の」

「良いのです。もう、良いのですよ」

「でも、」

 天璋院様は、それ以上何も言わなかった。

 黙って首を振って、柔らかく微笑んでいた。

 あたしは、握られた手に視線を落として、やっと一言を絞り出した。


 「ありがとうございます」と。

 それが、精一杯だった。


©️和倉 眞吹2013.

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