第七章 通じ合った心
その後、相変わらずあたしと家茂の間には、『何』もなかった。
あたしから見た家茂は、友達以上、恋人未満。
それ以上気持ちが大きくなることはない、とあたしは自分に言い聞かせていた。
家茂が奥泊まりをする日はあったけれど、男女の『コト』がある訳ではなく、ただ布団を隣に敷いて一緒に眠るだけ。
家茂がそれをどう思っていたかは分からないけど、あたしにとってその距離は、熾仁を裏切ることなく、家茂の傍にいられるという、丁度良い――言い換えれば都合の良い距離だったのだ。
けれど、結婚から既に半年経つ。
普通の夫婦なら、そろそろ懐妊の兆しがあってもおかしくない頃合いだろうか。
もっとも、滝山があんな風に――つまり、あたしと家茂の間に子供ができることをよく思ってないってことは、多分幕閣も、考えてることは一緒だろう。
通常、権力者の正妻は、跡継ぎを産まないと周囲の風当たりはよくないものだけど、あたしの場合、嫁いで来ただけで婚家との衝突は凄まじいものがあった。
それでなくとも、実家は天皇家。
幕府側にとってあたしは、公武合体の為に、正室の座にあってくれさえすれば良いだけの『飾り』だ。
飾りなんて言えばまだ言い方が良い方で、滝山の言葉を借りるなら、『道具』に過ぎない。子供なんか産んでくれたら、返って困る『人形』。
向こうの本音を知った時から、あたしは、家茂以外の江戸城内の人間に、益々頑なにならざるを得なかった。
彼ら彼女らに、あたしに皇女への礼を取って貰うことは諦めている反面、無性に反発したくて仕方がない、とでも言おうか。
藤からその話を聞かされたのは、家茂との関係を、親友以上のものへ意識的に進展させなくなってから暫く経った、夏の終わりの頃だった。
***
「宮様、お聞きにならしゃいましたか」
藤が、何やら重い顔付きで切り出したのは、夕餉の席でのことだった。
「何の話?」
あたしは、ご飯を胃に落としながら、キョトンと訊ねる。
そんなあたしに、藤は恐る恐るといった口調で切り出した。
「何でも、上様に側室を持たせる話が持ち上がっているとか……」
あたしは、咄嗟に反応出来なかった。どう反応したら良いのか分からなかった、というのもあったけど、面白くない、と反射的に口にしてしまうのも躊躇れたのだ。
でも、多分代わりに、目は真ん丸になっていただろう。
そりゃ、あたしはまだ家茂を『男』として見ている訳じゃないから、家茂の女性問題にとやかく言う権利があるとは言えない(第三者から言わせれば、仮にも正室が、夫の女性問題に口を出さないのもどうかと思うだろうけど)。
家茂にしたって、今のところあたしを『女』と思ってる訳ではなさそうだ。だから、あたしにそれを隠す理由もない筈なのに、内緒にされたのが面白くない……ような気がする。
『本当にそれだけ?』と訊くもう一人の自分がいることには目をつぶり、あたしは「それで?」と藤に話の先を促した。
「それで……と申されましても……宮様はよろしいのどすか?」
「よろしいって何が」
「仮にも宮様と上様とは夫婦であらしゃいますよ? 勿論、望んだ婚姻ではあらしゃいませぬが、幕府が是非にと申し、無理矢理に婚約まで破棄させて成立した結婚ですのに、宮様に懐妊の兆しなしと見るや側室の話を持ち出すなどあまりななさりようではあらしゃいませぬか。まだ婚儀から一年経たしまへんのに、早計な……」
年の割に息継ぎもなく言い募る藤の言い分に、あたしは苦笑した。
あれから何度か、家茂が奥泊まりする日もあったものだから、藤は、あたしと家茂がとっくに『夫婦』だと思っているのかも知れない。
けれども、早計も何も、くどいようだが、あたしと家茂の間には男女のコトは未だに何もない。
一年経とうと二年経とうと、コトがないのに子供ができる訳ないじゃない。
それを、馬鹿正直に藤に告げる訳にもいかないので黙っていたけど、家茂と他の女性の間に子供が出来るかも知れないと思うと、それも何だか腹立たしかった。
その『腹立たしい』という気持ちすらも鬱陶しくなって、あたしはまだ何か言いたげな藤と、食べ差しの食事が乗った箱膳をその場に残して、縁側へ出た。
少しずつ夏が遠退く様は、京にいる時よりも江戸の方がはっきりと見える気がする。
まだ暑さは残っているけど、陽が落ちた戸外は風が心地良い。
濡れ縁に腰を下ろして、あたしはぼんやりと庭を眺めた。
(側室、かぁ……)
頭が空っぽになるとイヤでも思考はそっちへ向かってしまう。
どうだっていいじゃない、という思いは嫁いで来る前ならこの上ない程強かったに違いないけど、今は何故だか必死で思い込んでいないと『面白くない』という思いに呑まれてしまいそうになる。
(……別にいいじゃない。あたしだってまだ、熾仁の事が好きなんだから)
内心で言い訳しながらも、いつしかそう必死で自分に言い聞かせていることにも、あたしは気付いていた。
そうしていなければ、『熾仁が好きだ』という気持ちは、最近どんどん色褪せて行くようだった。
代わりに大きくなっているのは、家茂の存在。
別に『好き』な訳じゃない。
いや、『好き』か『嫌い』で答えるなら、『好き』は『好き』だけれど、彼はただのいい友達だ。
けれど、遠からず異性として『好き』になってしまう気がして、あたしはそれを懸命に抑え込もうとしていた。
あたしには、熾仁がいる。
どういう状況に置かれようと、心だけは熾仁のものでいようと決めてここへ来た。
あたしはそれを貫かなければならない。
それが、理不尽で横暴な振る舞いをした幕府への、せめてもの抵抗だからだ。
屈したくない。
心だけは絶対に屈したくない。
それなのに、今のあたしの心の中の大半は、もう家茂が占めているのだ。
(……違う。心だけは熾仁のものよ)
あたしは、堪らなくなって、両手で顔を覆った。
***
それから数日後、出し抜けに『その時』はやって来た。
あたしにしてみれば、正しく不意打ちもいいところだ。
珍しく、普段あたしを敬遠している筈の奥女中達が、意味ありげにクスクスと嫌な笑い方をしながらあたしを呼びに来たのが、その始まりだった。
「御台様。天璋院様がお呼びでございます。恐れ入りますが、天璋院様のお住まいまでご足労下さいませ」
慇懃無礼を絵に描いたような口上で、集団の先頭にいた女中は、形だけ頭を下げた。
初対面の翌日に、確か廊下であたしを扱き下ろしていた女中の一人だったと記憶している。
というか、何であたしが天璋院の住まいまで、わざわざ『ご足労』しなきゃなんないのよ。
「悪いけど、体調が良くないの。どうしてもご用がおありなら後日改めて頂くか、天璋院様にお運び頂いてくれる?」
素気なく返してやると、女中は露骨にムッとした表情を浮かべた。
けれど、いくら腹を立てても、相手があたしじゃ、侍女達にするように言い返す訳にもいかないだろう。下手を打てば、あたしの異母兄である今上帝に直接苦情が行っちゃうんだから。
「宜しいのですか?」
しかし、意外にも女中は食い下がって離れなかった。
「何が?」
あたしも、江戸の人間と話すのも面倒臭いと言わんばかりの様相で投げるように返す。
久し振りの根比べだ。
けれど、次に女中が放った一言に、旗色が悪くなったのはあたしの方だった。
「これから、ご側室選びのお庭お目見えを行いますのよ。天璋院様は、ご正室である御台様にも是非ともご臨席をと、斯様にお知らせ下さいましたのに……」
女中は、一度そこで言葉を切ると、その瞳にあからさまな嘲笑を浮かべてあたしを見た。
瞬間、あたしは手にしていた扇で口元をさり気なく隠す。半分、扇で顔が隠れた格好になるが、顔色が変わったのは隠せていないのだろう。
「ですが、仮にも御台様のお立場で、同席なさらなくて後で悔やまれないとお思いでしたらご随意に」
その証拠に、女中は、笑いを噛み殺すような声音で、「では、天璋院様には、御台様はご欠席とお伝え致します」と言って、あたしの前を辞して行った。
その勝ち誇った背が、いつかの大叔母様のそれと重なる。
「宮様……」
藤が、心配げな顔であたしの肩に手を置く。
「や……だな。あたしなら、大丈夫よ」
自嘲気味な笑いを漏らしながら、あたしは立ち上がった。
ともすれば、足に力が入らなくなりそうになりながら、奥の間へ歩を進める。
(大丈夫……)
言い聞かせながら、奥の間へ入ると、無意識の内に襖を閉じていた。そのまま、畳にペタンと座り込む。
そりゃ、ちょっとは堪えた。
本当の意味での伴侶を選ぶのに、あたしには黙ってた。わざわざ女中を使って、しかも直前に報せて来るなんて、意地悪過ぎる。
名目上の妻だから、言えなかったってこと?
ホント、水くさいんだから。だって、あたしは親友よ?
それとも、親友の慶事を喜べない程、心の狭い女だって思われてるのかしら。
(そうよ。あたしは、あの人の親友なの)
そして、心は熾仁のものだから。
女としての心は、熾仁のものでないといけないの。だから、あたしに口を出す権利も資格もない。
なのに。
(……何で?)
鼻と目の奥がじんわり痛んで、涙が溢れるのが分かる。
(……嫌だ)
不意に、自分でも驚く程、強く突き上げて来た想いに狼狽する。
けれど、涙と同じで、止めどなく渦を巻いて、胸を突き破るのではないかと思える程の激情は、一度決壊したら制御不能に陥ってしまった。
(嫌だ)
家茂が、他の女を愛する。
あの笑顔が、あたし以外の女に向けられる。
あの腕が、他の女を抱く。
あの声が、閨の中で他の女の耳元に愛を囁く、なんて。
(違う……違う)
嫌だなんて、思ってない。
そう、この期に及んで必死で否定する。
だけど、自分で自分の身体を抱き締めていないと、天璋院の住まいへ駆け込んで、最悪の醜態を晒してしまいそうだった。
嗚咽が漏れないように、袖口を口元へ当てながら、衝動を必死で呑み込む。
叫びたかった。
醜いと思われてもいい。
役目を忘れて、籠絡されたと思われても構わない。
屈したと思われたって、もう知ったことじゃない。
(嫌だ……取られたく、ない)
あの人の視線が、他の女に向けられるなんて、そんなの許せない。
こんなコトになって、ようやく自分の気持ちが見えたなんて、皮肉としか言い様がないけど。
攘夷?
そんなコト、知らないわ。
天皇家の威光も、皇女としての誇りも、そんなモノが何だって言うの。
いくらでも傷つければいい。
あたしにあの男性を、家茂をくれるなら、他に何も要らない。
僅かな残り香も消えたように、この瞬間、あたしの中の熾仁への義務感と後ろめたさは、木っ端微塵になっていた。
代わりに湧いて来るのは、取り返しの付かない焦燥と後悔と、――どこの誰とも分からない女に対する、底なしの嫉妬だ。
(もっと早く、伝えていたら)
あんたは、あたしだけのモノでいてくれた?
あたしだけに、その視線を注いでくれた?
あたしだけを、守って、愛して――
「嫌だッ……!!」
嫌だ――嫌だ。
叫びたい。駆け出したい。
あたしだけを見て。
あたしを理解してくれるのは、あんただけなの。
味方は、あんただけなの。
今、あんたがあたしだけのモノになるなら、あたしは何でもする。何だってできる。
でも、もう遅い。間に合わない。
正室であるあたしに、指を触れてもいない家茂が今夜、他の女を抱くんだと思ったら、気が狂いそうだった。
***
いつの間にか、陽はとっぷりと暮れていた。
襖で仕切られているとは言え、外に面した側は障子だから、陽が射していれば明るい奥の間も、今は、月明かりだけが光源だ。
畳の上に横になって身体を縮めている所為で、横倒しになった室内の景色が、群青色の闇に沈んでいる。
時間の流れは感じなかった。
後から後から沸いて出る勢いの涙に、嗚咽をかみ殺すのに必死で、ふと気付けば夜だった。
久し振りに長時間泣いていたものだから、頭がガンガンする。
もう夕餉の時間かも知れないけど、誰も呼びには来ない。
もっとも、呼びに来られても困るけど。
泣いている理由なんて、京から随行して来た女官にも話せたもんじゃない。
……いや、違う。
女官にこそ、話せない。グチもこぼせない。
最初が最初だっただけに、今更家茂を男として意識しただなんて、言える筈もない。誇りも見栄もかなぐり捨てた割に、まだこんなところで見栄を張っている自分がおかしくて、あたしは小さく笑った。
ただ、おたあ様か、藤にはバレているかも知れない。
多分、ここへ誰も様子を見に来ないのも、藤が気を遣って人払いをしてくれているのだろう。
乳人の気遣いに感謝しながら目を伏せると、新しく溜まっていた涙が、鼻の上を伝って床へ落ちた。
「……家茂の、ばぁか」
ボソリと届かない悪態を吐いてみても、涙も激情も、容易に収まりはつきそうにない。
……ううん、違う。
(バカは、あたしだ)
見栄と自尊心と、熾仁への義理立てがとことん邪魔をして、素直になるのに時間が掛かり過ぎた。
きっかけが、夫の愛人選びが実際に行われてるのを知ったからっていうところが、自分でも呆れる。
もう、何もかもどうだっていい。
名目上でも何でも、夫すら味方でいてくれなくなるなら、生きていても意味なんてない。
半ば、自棄になり掛けたその時を、まるで見計らったように、襖を開く音が微かに響いた。
「……藤……?」
返答はない。
でも、いい加減、そろそろ様子を見に来た方が良いと思ったのだろう。
産みの母親よりもある意味付き合いの長い乳人は、いつもながら、その『頃合い』をよく心得ている。
静かに襖の閉まる音がして、出入り口に背を向けたあたしの背後に腰を下ろす気配がした。
「ねぇ、藤。……あたしさ。もう、本当にここにいる意味ないみたい」
やはり、返事はない。
彼女の方を向いていないから、あたしには藤がどんな顔をしているのか分からない。
けれど、あたしにはそれもどうでも良かった。
基より、何らかの反応を期待している訳じゃない。ただ、聞いて欲しいだけだ。
他の女官や、おたあ様にさえ言えないことでも、昔から藤にだけは打ち明けることができた。
「おかしいよね。家茂の視線が、他の女に向くかもって……それが現実になって、ようやく自分の気持ちに気付くなんて」
自分が相手をどう思っているか、本当の土壇場にならないと見えなかったなんて。
「気が付いた途端、後悔しか残らないなんて……バカよ、ホントに」
「……何が何だか、俺にはさっぱり話が見えないんだけどな」
(――えっ!?)
思わず目を見開く。
今、何て言った? っていうか、誰の声!?
ガバリと擬音が付きそうな勢いで身体を起こして、背後を振り向く。
向けた視線の先にいたのは、片膝を立て、そこに頬杖を突いて座る家茂だった。
「えっ……え、何……何で、」
今日はここに来ない筈じゃ、とか、今頃側室候補との伽に付いて色々準備中じゃ、とか、疑問はそれこそ、さっきの涙くらいの勢いで沸くけど、口がついて来ない。
「何ではこっちの台詞だっつの。義母上がこっちにも連絡寄越したって言ってたけど、顔見せなかっただろ」
けれど、それを聞いた途端、頭に血が上った。
「み、見せられる訳ないでしょ!? ったく、あんたも本当に武家の頭領ね、この無神経!!」
ここまで延々と自分の中で鬱屈していたものが、怒濤の勢いで噴出する。
勿論、口に出す前に言葉を吟味するなんて余裕は、全くない。
「なっ、誰が無神経だよ!」
「あんたに決まってるでしょ! ふざけないでよ、大体ね! 側室を選ぶなら選ぶで、事前告知くらいあっても良いじゃない、それをっ……!」
「誰が側室選んだなんて言ったよ!」
怒鳴り合う声は、とっくに部屋の外へも漏れているだろうに、やはり、誰一人様子を見に来ない。藤の有能っぷりに、頭の隅でひたすら感謝しつつ、あたしはこの半日の不満をぶち撒け続ける。
「誰も何も、今日、側室選びのお庭お目見えしたんでしょ!? こんなこと、言わせないでよ、バカ!!」
「バカはお前だ! 大体、今回の話は俺の意思じゃないし、そういうコトがあったって、選ぶとは限らないだろ!?」
あたしも、上流の人間にしては、口汚いという自覚はある。けれど、家茂の方も、毒舌という点では負けていなかった。
「選ぶに決まってるじゃない! あたしなんて、どうせ形だけの妻なんだから!!」
「形だけの妻であるコトを望んだのはお前だろ! でなきゃ、とっくにっ……!」
そこで勢い余ったという顔をして、家茂は口を噤む。
だけど、あたしは、彼のその意図に気付く余裕さえなかった。
「とっくに何よ」
殺せない喧嘩腰で、あたしは聞き返す。
家茂の方は、一通り怒鳴り合ったことで半分くらい頭が冷めたらしい。彼が、何をどう言おうか逡巡しているのはあたしにも分かったけど。
「ッ、……だから!」
散々悩んだらしい彼の言葉に続いたのは、『言葉』ではなかった。
「……!」
前触れなく抱き寄せられて、気付いた時には、あり得ないくらい家茂の顔が間近に見える。
「っ、ん……!」
唇が、彼のそれで塞がれていると気付くのに、更に数秒掛かった。焦点が合わないほど近くにある彼の顔を見続けるのが気恥ずかしくて、思わず目をつぶる。
あたしが無反応(?)で硬直しているのを良いことに、家茂の腕が腰に回る。空いた手が後頭部に押さえ付けるように添えられて、殊更深く口吻けられた。
あたしは抵抗しなかった。しようとさえ思わなかった。
頭は真っ白になったけど、腕を彼の背に回してしがみつく。無言の受容が、彼を調子づかせたのか、更に貪られる羽目になった。
何度も角度を変えて与えられる口吻けに、息が続かなくなった頃、やっと彼は一度完全に唇を離す。
「……お前の気持ち、無視していいなら、とっくにこうしてた」
そう言う彼の息も、かなり上がっていた。
ただでも薄暗い中で、泣いた所為ばかりでない涙でけぶった視界の向こうに、怒ったような家茂の顔が見える。
「俺の気持ちが他に向くなんて、何でそう思った?」
いつの間にか、背中の下には畳がある。
「だ……って、」
頭がぼんやりして、上手く言葉を紡げない。でも、それは酸欠の所為だけじゃないと分かってる。
「あたしは……あんたにとって、あたしって、何?」
目に溜まった涙の膜の向こうで、家茂がキョトンと目を瞠るのが分かる。
この期に及んで、『道具』とか『飾りもの』とかいう、人でなしな答えが返って来ることだけはないと、そのくらいにはあたしも家茂を信用している。
だけど、まさか、『親友』以上の答えもないだろう。そう、思っていたのに。
「……今の俺の行動だけじゃ、答えになってねぇ?」
という台詞が、彼の口から出るのにも、随分時間が掛かった。
「え……だ、けど」
それが、あたしの脳に認識されるのにも、彼が答えに要した時間と同じくらいの時間が必要だった。
「他に答えが必要なら、ずっと前に、滝山に言った台詞も付け加える」
「ずっと、前って」
まさか、あの『あいつに何かしたら、ただじゃ置かない』ってアレのこと?
「あ、あんなの、親友が相手だって言えるじゃない」
聞いた直後は、思わずドキドキしたけど、頭が冷えてからよく考えればそうだ。
あんなの、異性に限らず、大切な相手なら、例えば大事な友達とか、両親が相手でも出てくると思う。
「……お前、俺が同性の友達にもこういうコトできると思うのか?」
「……思いたく、ないわね」
できるできないは別として、自分の夫が同性愛者だったら、別の意味で泣きたくなる。他の男がどうであろうと、自分の夫だけは、異性愛者であって欲しいと思うのは、妻として当然のことだ。
「俺としては、寧ろお前の気持ちの方が気になるね。……あんなコト、先にしといて、ナンだけど」
家茂は、やや気まずそうにしながらも、視線を外すことなくあたしの目を見たまま言った。
極上の黒曜石のようでいて、澄んだ瞳。
初めて会った時も、この瞳だけは素直に綺麗だと思った。
思えばあの時から、もう彼に惹かれることは決まっていたのかも知れない。
(……悔しい)
彼がこの場にいない時は、素直になれなかった自分の言動を散々に悔いたものだったけど。
抱き締められて、激しく口吻けられて、家茂の気持ちが自分にしか向いていないことが確認できたら、自分の気持ちは、口にするのが悔しくて堪らなくなる。
何なんだろう、この天の邪鬼っぷりは。自分が、こんな女だなんて、知らなかった。
「おい。早く言ってくれよ。もう我慢の限界なんだけど」
おおいかぶさった家茂が、耳元で低く囁く。
何に対する『我慢』が限界なのかは、考えるのは恥ずかしいけど考えるまでもなくて、あたしは思わず忍び笑いを漏らした。
「……何がおかしいんだよ」
「なぁんでもない。そうね。あんたがはっきり言ってくれたら、あたしも言ってあげる」
家茂の背に回していた腕を、肩に移動させながら言う。すると、彼の目は再度丸くなって、やがて表情全体がゆるゆると苦笑の形に歪められた。
「お前って、ホンット……」
何か言い掛ける彼の唇を、あたしは人差し指で押さえる。
「親、よ」
「え?」
「あたしの名前、全部覚えてないの? 和宮親子っていうんだけど」
「知ってる、けど……」
家茂が、呆然と言葉を紡ぐ。
あたしが、何を言おうとしているのか分からない。そんな顔だ。
「これから、そう呼んで?」
あたしは、改めて彼の首にしがみついて、彼の耳に唇を寄せる。
まだ、彼はあたしの望む言葉をはっきりと言ってくれていない。それでも良かった。
今なら、自然に告げられる気がしたのだ。互いの気持ちは分かり切っているのだから、どちらから言っても同じことだと、今はそう思えた。
「好きよ、家茂」
あんたが、好き。
あんたがいれば、他に何も要らないの。
唖然としっ放しだった家茂は、やっぱり苦笑をその唇に浮かべた後、あたしの首筋に顔を埋めながら言った。
『惚れたのは、俺が先なんだよ』と。
©️和倉 眞吹2013.