第六章 狭間で揺れる想い
翌日の体調はまた最悪だった。
夕餉も食べずに早々に布団へもぐり込んだあたしは、結局一晩泣いて過ごした。
おかげで翌日はひどい頭痛に見舞われ、あたしは再び朝の総触れを堂々とすっぽかした。
「……ま。宮様」
ポスポス、と襖を叩く音がして、藤が控えめに顔を見せた。
おいおいと泣いていたのは、あたしの居所に詰める誰もが知っているし、藤にはグチ混じりに泣きながら事情を訴えたから、彼女とおたあ様だけは理由まで知っているのだ。
「うん、何?」
「上様がおいでどすけど、どないしはります?」
「ッ……!」
あたしは、一瞬怯むように言葉を詰まらせた。
きっとあたしが朝の総触れに顔を出さなかったんで、心配して来てくれたんだろう。――と、疑いもせず思ったところで、あたしは苦笑した。
何を言ってるんだろう。
上辺はそうでも、家茂があたしの心配なんか心からする筈がないと、昨日悟ったところじゃないの。
けれど、事実を本人に確認したいような、それが怖いような。会いたいような会いたくないような、相反する気持ちが複雑に絡み合って、あたしは返事をすることができなかった。
そうする内に、家茂が藤に二言三言告げて、あたし本人の返事など待たずに勝手に入って来た。
……まあ、そういう男性よ、家茂って。
自分がこうと決めたら、他人が何て言ったって押し通すような一面を持ってるのに気付いたのは、つい最近のことだ。
「また体調崩したのか。風邪か?」
「うん……まあ」
枕元に遠慮もなく腰掛けながら話しかけてくる家茂に、あたしは曖昧に言葉を濁した。
家茂には分からないだろうが、あたしにしてみれば、昨日の今日でまともに顔を合わせることなんてできない。
先刻感じた相反する気持ちが、一気に『会いたくない』方へ傾いて、あたしはさりげない風に見えることを祈りながら家茂から視線を逸らした。
……問題を先延ばししたって、何も解決しないのは分かってるのに。
頭の隅で、そう冷淡に断じるもう一人の自分がいるのを確かに感じながら、それでもあたしは確認を先延ばしにしたかった。
今の心地好い関係が壊れるのが、今ほど怖いと思ったことはない。
「……なぁ、お前」
家茂の発言の一つ一つがどう展開するのか読めなくて、あたしは内心で身を縮める。
「何かあった?」
……鋭い。
家茂の簡潔な一言に、あたしはそっと息を吐いた。
若くして――というより殆ど幼くして将軍の座に就いた家茂は、普段自分の知らない決定が自分名義でされていることにうんざりしていると、親しく言葉を交わす様になってから漏らしていた。かと言って、傀儡将軍よろしく頭の回転も鈍いのかと言うと、それはとんでもない勘違いだ。
頭の回転は、常人のそれより段違いに速いくらいだし、良い意味で他人の顔色を窺うのも巧い。もし、家茂が自分の力で政権を奪い取れれば素晴らしい為政者になれるだろう、とあたしは思っている。
だが、今この瞬間に限っては、あたしはそんな家茂の為政者としての資質を、心底呪った。
……どうして、フリでも良いから、知らん顔しててくれないのかしら。変なところで鈍いんだから嫌になるわ。
「和宮?」
「……別に……何もないわよ」
自分が聞いても弱々しく響いた否定の言葉に、第三者である家茂が納得する筈もない。
「別にって顔かよ、それ。話してみろよ。俺達夫婦じゃねぇの?」
一応、と気遣うように小さく付け加えられた一言に、あたしの中の何かに亀裂が入る。
「もう……やめてよね。そうやってあたしを大切にするフリするの」
あたしは、家茂から視線を逸らすように、おもむろに寝返りを打った。
家茂が、キョトンとするのが気配で分かる。
「フリ……って、どうしてそう思うんだよ」
「だって……」
どう言おうか逡巡する。
率直に訊くのが一番簡単と言えば簡単だけれど、もしかしたらあたし達二人の関係を修復不能にしてしまうかも知れない。
別に良いんじゃないの? と囁く自分もいる。
――だってあたしはまだ熾仁が好きなんでしょう? 他の男との関係が拗れたって、相手がたとえ公式の夫だって、それが何だって言うの?
(でも、そんなコトになったら、ここでの生活が今よりずっと苦しくなる)
――だからって気遣う必要はないんじゃないの? 武家側だって今まであたしを散々ないがしろにして来たんだから。
(それはそうだけど)
――皇女の身分が尊重されないことを、あたしは気に病んでたじゃないの。
(そんなのどうでもいいの。あたしは……っ)
あたしは――何?
今、何を考えた?
(あたし、は……――)
「和宮?」
家茂の声に、あたしは現実に引き戻されて、思わず声のした方に顔を振り向けていた。
「どうした?」
「ううん……本当に何でもないの。ちょっと、体調崩しちゃっただけ……」
先刻のやり取りから、まるで繋がらない返答をしながら、あたしは視線を外すように目を伏せた。
言えない。
まだ、角を立てないように上手く言う自信がない。
それ以上に、家茂の心の傷を抉るのが嫌だった。
「……ごめん、少し眠りたいから」
もう一人にして、と続くあたしのセリフを遮るように、唐突に襖が開いた。
「失礼いたします。宮様は上様の以前の女君のことで気に病むことがあらしゃるのです」
「藤!?」
乱入して来たのは藤だった。
この瞬間、あたしは内心で舌を打った。何故、黙っているように釘を刺しておかなかったのか。いや、それ以前に、彼女に漏らしたことを、猛烈に後悔しながら、ガバリと上体を起こす。
「何言ってるの、藤。……何でもないの、家茂。お願い、今日はもう帰って」
「……そういう訳にはいかなくなったみたいだな。藤、そこ閉めてこっち入れ。どういうことか詳しく聞かせろ」
「余計なことは言わなくていいの! 藤、上様はもう表にお帰りだから、誰かにお見送りを言いつけて」
話を聞くまでは梃子でも動きそうにない家茂と、幼い頃から仕えて来た主人であるあたしと。どちらに従うべきか、藤は数秒逡巡していた様子だったけれど、やがて前者に決めたとばかりに室内に入って襖を閉めた。
***
室内には静寂が戻っていた。
家茂は、昨日の出来事を藤から粗方聞いてしまうと、藤に一旦部屋の外へ出るように言い、暫くの人払いを命じた。
あたしはと言えば、上半身だけ布団から起こしているものの、家茂の顔なんか見られたもんじゃない。
自分を守るように胸の前に布団を掻き寄せて、黙りこくっていた。
けれど、どれだけ続いたのか判らない沈黙の重さに、先に耐えかねたのもあたしの方だった。
「ごめ…なさい。藤が……余計なこと、言って……」
弾かれたようにあたしを見た家茂が、いや、と言いながら再び目を伏せる。
「こっちこそ……悪かったな。嫌な形で漏らしちまって」
けれど、こんな時にまでこっちを気遣う家茂を見ていたら、訳も分からないまま無性に腹立たしくなって、あたしは思わず家茂に向かって罵声を浴びせていた。
「どうして全部バレた後まで優しく出来るのよ!?」
伏せていた目を丸くしてあたしを見る家茂の視線をしっかり捉えて、あたしは口が動くまま捲くし立てる。理性は、とうに切れていた。
「あたしが憎いでしょ!? 冴那さんが亡くなったのは……元凶はあたしなんだもの!! 恨んだことがないなんて言わせない!! 恨んだことない筈ないでしょ!? ううん、きっと今だって憎んでる筈だわ! なのに何で……!!」
それ以上は、言葉が続かなかった。
気付いたら涙が溢れていて、嗚咽に遮られて声が出ない。
「あたしだって……っ、あたしが、あんたの立場なら……っ、ムリよ、こんな……ッ、優しく、する……ッて……」
シャクり上げながらなりふり構わず尚も声を絞り出すあたしの肩に、家茂がそっと手を触れる。
「――だからこそ、俺達は互いに世界で一番の理解者だと思わないか」
あたしは、涙でクシャクシャになった顔を上げて、霞んだ視界の中に、家茂の姿を探す。
「正直言って最初は……そりゃ、良くは思わなかったさ。偏見だけで武家への嫁入りを拒むような、了見狭いオヒメサマの為に冴那は死んだのかってな」
言葉を選びながら、家茂が静かに本音を吐露してくる。あの日以来の家茂の『本音』だった。……もっとも、あの時はもの凄く感情的で、『静か』とは程遠かったけど。
「だけど、どれだけお前や幕臣達に腹立てたところで、あいつはもう戻って来ない」
言葉が、出なかった。
家茂の口調は、決して責めているようには聞こえなかった。でも、それはやっぱり、そうあって欲しいというあたしの願望だ。
戻って、来ない。
亡くなった人は、もう二度と。
それが分かっているからこそ、安易に謝ることもできない。謝罪の言葉は、口に出せば、却って空々しく響きそうで、あたしは目を伏せて唇を噛み締めた。
けれど、何を言っていいか分からず逡巡していたのは、あたしだけじゃなかったらしい。
「それに……その」
僅かに言い淀む家茂の声に、ふと目を上げると、彼は伏せた視線をウロウロさせている。
口を開き掛けては閉じるという仕草を、随分長いこと繰り返した末に、彼はまっすぐあたしの目を見て言った。
「……悪かった」
「えっ?」
いきなり謝罪される意味が解らなくて、あたしはまだ涙が溜まったままの目をしばたく。
「婚儀の日の夜のこと、覚えてるか」
今まで、避けに避けてきた話題を急に振られて、あたしは声も出せずにビクリと肩を震わせた。反射で、思わずまた目を伏せてしまう。
「あの、」
「いい。お前を責めてる訳じゃない。ただ、俺が……酷いこと言ったなって」
この先、何を言われるのかが読めなくて、あたしはやはり身を縮める。
「お前、俺に言ったよな。俺に、何が分かるって」
「あれは」
「いいから」
肩に置かれていた手が、あたしの手の甲に重なる。
「……あの日はああ言ったけど……分かるよ。お前ももう知ってると思うけど……あの時のお前は、冴那を失った時の俺だった。……いや、違うな。相手が生きてるってことは、相手への未練は多分、俺以上だと思う」
「家茂」
「ただ……あの時まで俺は知らなかったんだ。お前にも、たった一人、『こいつ』って決めた、そんな相手がいたってこと。言い訳にしかならないのは分かってるけど……そんな相手がいたら、この婚儀、嫌がって当然だよな」
重ねられていた彼の手が、柔らかくあたしの手を握った。
きっと、少し前なら――婚儀前後の頃なら振り払っていただろうけど、今は不思議と嫌じゃなかった。寧ろ、心地良くて、いつまででも握っていて欲しいような気がする。
「それに……慣れ親しんだ土地を離れる時の気持ちも知ってる。なのに、……考えてやれなくて、……ごめん」
頭が、真っ白になった。
何も考えられなくて、また涙が溢れる。家茂の空いた手が、あたしの濡れた頬に伸びた。指先で優しく涙を拭われて、尚更涙は止まらなくなる。
「和宮」
「ちが……」
困ったような家茂の顔が、チラリと涙でけぶった膜の向こうに見える。
(違うの)
漏れる嗚咽が喉を塞いで、何も言えない。代わりに心の中で訴えるけど、勿論、それが家茂に伝わる訳がない。
だけれど、それでも必死に、声にならない声で言い募る。
(違うの、家茂)
あんたの指先が、嫌で泣いてるんじゃないの。ただ――ただ、嬉しくて。
(分かってくれる)
今まで、誰もいなかった。
江戸の人間は、誰一人、あたしを、あたしの気持ちを汲んでくれる人なんていなかった。人間と思っていないのじゃないかとさえ、思ってた。
神経を張り詰めて、心の弱い場所を守っていないと壊れそうで。
(でも、あんただけが)
あんただけが、分かってくれた。
熾仁と引き離されて悲しくて辛くて、生まれ育った京を離れるのが怖くて、心細くて。
周りには、おたあ様や藤もいるけど、でも、彼女らは分かってくれて当たり前だ。おたあ様達だけでも良かったけど、ここは江戸で、敵意の方が多くて、それがまた怖かった。
女官達も、最近は、江戸方との対立に忙しいように見える。
欲得なく、あたしを受け入れてくれる人間は少なくて、だから――
頬に添えられた掌が、自然に肩に回ってあたしを抱き寄せる。でも、あたしも逆らわなかった。
ホッとする。
熾仁以外の男に抱き寄せられて、心底安心しているなんて、おかしい。理由を考えたら、熾仁に対してもの凄く後ろめたい。
だからあたしは、その場でその理由を明確に言葉にするのを止めた。
ただ、今だけは、何も考えずにいたい。
家茂も、それ以上何も言わなかった。
***
あれから、数日が経った。
枕は何とか上がったものの、あたしは相変わらず朝の総触れには出る気になれなかった。
気持ちの上で色々あり過ぎて、頭の中が飽和状態だったのだ。
気を紛らわそうと、京から持って来た書物をめくっていても、ふと気付けば数日前の家茂とのやり取りが脳内で勝手に反芻されている。こうなると、手に持っている書物なんて、周囲の目を誤魔化す為の小道具だ。
はあ、と溜息を吐いて、縁側の方へ目をやる。
江戸は夏の訪れが遅い。今は梅雨時だけど、今日はその晴れ間なのか、天気がよくて、時折吹き込む風が気持ちいい。
(……そう言えば、今日は遅いな、家茂)
ふと思って、また溜息が出る。
ぼんやりして頭が空になると、この数日はどうしても家茂のことに考えが行ってしまう。
それに加えて、家茂が前にもまして豆々しく、ここへ顔を出すようになっていた。
居心地は前より良いと思う。でも、それだけだ。
家茂にしたって、あの夜のことを謝罪してくれただけで、あたしをどう思うとはっきり言った訳ではないし。
(まあ、夫婦だろとは言われたけど)
それはともかく、普段ならもうそろそろ来る頃だと言うのに、今日に限ってまだ姿がない。
(やだ。これじゃまるで家茂が来るのを心待ちにしてるみたいじゃない)
実際のところはそうなんだと思うのに、あたしは、熾仁への義理立てから、違う違うと自分に言い聞かせる。
もう、こうやって必死で意識していないと、正直なところ、熾仁の存在は既に朧気だった。
それに、数日前、またみっともなく感情を爆発させた所為か、あれをきっかけにあたしの中の家茂の存在は一気に大きくなってしまった気がする。
(別に、ヘンな意味じゃないわよ。ただ、友達として大事に思ってるっていうか)
そう、新しく出来た親友よ。それ以上でも以下でもないんだから。
誰に対するともなく、脳内で言い訳を繰り返しながら、あたしはおもむろに立ち上がった。
「宮様? どちらへ?」
あたしのその動作に、当然の如く驚いたのか、たまたま傍にいた藤が問い掛けてくる。
「うん、ちょっと」
答えにならない答えを返すと、あたしは衣擦れの音を立てて袿の裾を捌いた。
廊下へ踏み出すと、普段なら女中の視線が痛く感じるのに、今日は気にならない。
もうちょっとで最初の角を曲がる、という所まで来て、あたしはふと足を止めた。耳に覚えのある声がしたからだ。
「――上様。そろそろ、毎日こちらへお通いになるのをお控えになった方がよろしいのではないでしょうか」
厳しい、威圧感のあるその声音は、確か、滝山とか言う、奥女中の長を務める女性のものだ。声に誂えたような、威圧感のある細面が脳裏によぎって、あたしは角の手前で一歩後退さる。
「それはどういう意味だ?」
答えたのは家茂の、凛とした、低すぎず高すぎない、よく通る声だ。
ここからじゃ姿が見えないから、二人がどんな顔をしてやり取りをしているのかまでは判らない。
「どういう……と申されましても。わたくしが言わずとも、聡明な上様ならお分かりかと存じますが」
最初は、角を曲がった廊下で立ち話をしているのかと思っていたけれど、よく注意して聞くと、それは丁度角にある部屋の中から聞こえた。
「分からないから訊いてる」
「されば、僭越ながら申し上げます」
シュス、と衣擦れの音がして、滝山が一拍間を置いた。多分、床に腰を落とすか、膝を突くかしたんだろう。
立ち聞きするつもりはなかったけど、立ち去る機会を完全に逸したあたしは、自然会話の先を耳で追っている。……何だか、最近盗み聞きばっかりしてる気がするわ。
(皇族の姫ともあろうあたしが、盗み聞きの常習だなんて……堕ちたモンよね)
自嘲気味に脳内でそうごちた時、滝山が再び口を開いた。
「お通いになられるのはご自由ですが、くれぐれも、夜のことは程々になさって下さいませ」
「は?」
家茂の反応は、そのままあたしの反応だった。うっかり、家茂と同じように声に出しそうになって、口を押さえる。
それにしたって、『夜のこと』とか、それでボカしてるつもりなのかしら。直接的過ぎて、言ってて恥ずかしくない辺り、やっぱり武家の人間て、恥とか外聞とか、どこかに置き忘れて来てるような気がするわ。
(それにしたって、初夜に何もなかったコトなんて、知ってるクセに)
自嘲の笑いが漏れそうになって、あたしはそれを苦労して呑み込む。もっとも、顔には出ていただろうけど、見ている者がいたとしても、それは廊下で仕事に励んでいるお女中陣くらいだ。
初夜に何もないどころか、初夜からこっちだって、家茂とあたしの間には男女のコトは何もない。
けれども、滝山は、家茂の反応に構わず続けた。
「上様も分かっておいでかと存じますが、和宮様は所詮、公武合体を目に見える形として世に知らしめんが為の、言わば道具に過ぎませぬ」
「滝山」
「それに、歴代の将軍様も慣例としていた通り、将軍御台所は公家の姫であるが故に飾りもの……象徴として迎えるがしきたり。公家の血を継いだ子が産まれれば、何かと不都合は免れませぬ故。まして、宮様は天皇家の姫。であればこそ、例外ではありませぬ」
家茂が、どんな顔をしているかは分からない。
だけどあたしは、さして驚かなかった。
結婚前から武家の人間の無礼は、嫌という程受け尽くしている。今更『道具』扱いで傷つくような可愛らしい神経は、とっくの昔に磨耗して久しい。
強いて言えば、あたしの中に認識されている『無礼』の種類が増えたというところだ。
ただ、それに続いた家茂の言葉にこそ、あたしは驚かされた。
「先に言っとくけど」
その声音は、聞いたことがないくらい温度が低くて、それでいて威圧感がある。
「もし将来的にあいつとの間に子供ができても、その子をどうにかしようなんて間違っても思うなよ」
「上様!」
「お前らが冴那に何をしたか、俺が知らないとでも思ってるのか?」
傍で(盗み)聞いてるだけのあたしでも、ゾッとする程冷たい声音だった。その台詞を向けられた本人である滝山は、何も言い返さなかった。……ううん、違う。言い返せなかったんだろう。
「冴那の時は、敢えて見逃した。未だに割り切れた訳じゃないけど、俺に力がなかったのは事実だし。あの時、あの状況で冴那を残して城を離れたのは、俺の落ち度だったからな。でも、二度目はないと思え」
そこで、家茂が一度言葉を切る。滝山がどんな顔をして聞いているかは、やっぱり分からなかった。
「あいつに何かしたら、その時はただじゃ置かない」
感情なんてものが一切殺げ落ちたような声音に、心臓が跳ねる。
でも、それは恐怖が原因じゃない。
『あいつに何かしたら、ただじゃ置かない』
(……って、何よ、それ)
面と向かって口説かれるより、格段に威力のある、ある意味での殺し文句みたいだ。
(べ、別に、口説かれてるつもりじゃないけど)
それに、その内容が、すなわちあたしを女として見ていると思うなんて、自意識過剰も良いところだ。本人から聞いた訳でもないし、あんなの、滝山を黙らせる方便かも知れないし。
「……おい」
うん、きっとそう。
「おい、和宮」
だから、今聞こえてる、この家茂の声も空耳で――
「おいってば!」
「きゃああ!」
空耳じゃなかった! と気付くのと、腕を強く引かれるのとは、殆ど同時だった。
「お前、こんな所で何やってるんだ?」
思いっ切り眉を顰めて問う家茂に、動転したあたしはつい、墓穴を掘る一言を口走っている。
「ななな、何っにも聞いてないからっっ!」
「……聞いてたんだな」
すいません、ごめんなさい。今日はもう帰って下さい。
というのは口に出せずに、あたしはただ目一杯、彼から顔を反らせる。できれば逃げ出したかったけど、左腕をしっかり掴まれていて、それは叶わなかった。
「あ、あたしはただ、あんたが遅いから、」
「……へぇ?」
言い訳を始めると、何故か家茂の声が面白がるような、それでいて物騒な響きを帯びてその場に落ちる。
「つまり、俺を待ってた訳だ」
「違、」
「違うのか?」
墓穴の底で墓穴を掘ったことに気付いても、時既に遅し。
「だから、別に話を聞こうと思った訳じゃ、」
「うん、それは分かった。俺が行くのが遅かったから、ここまで様子を見に来たんだろ?」
そう。と答えたら、誘導尋問的に本音を喋らされそうな気配に、あたしはようやく口を噤んだ。
「ふぅん。黙りに出たか」
上等だ、と低く言うなり、家茂はあたしの二の腕を掴んだまま、廊下を進み出した。
「え、ちょっ」
突然のことに混乱するあたしの思考を置き去りに、家茂は廊下の角を曲がると、そのすぐ傍にあった部屋(つまり、先刻まで彼が滝山と話し込んでいた部屋だ)に入る。
六畳程の広さがある室内は、普段空き部屋になっているのか、何もなくてすっきりしていた。ただ、そこにはまだ滝山がいた。
「う、上様!?」
唐突に部屋へ戻って来た家茂(と、あたし)を、座ったままの姿勢で見上げた滝山は、ギョッと目を剥いた。
「お前は席を外せ」
「し、しかし」
「いいから外せ。それと、他の奴らにも言っとけよ。俺達のコトは子供ができようとできまいと、俺達『夫婦』の問題だから口出しすんな、ってな」
『夫婦』の部分を何故か強調して言った家茂の言葉に、滝山は返事をしなかった。
しばらく逡巡するように、伏せた目線をウロウロさせていたようだったけど、黙って頭を下げて退出していく。
「さて、邪魔者がいなくなったところで、」
「なっ、何する気よ!」
先制攻撃、とばかりに声を上げるけど、それは余り意味を成さなかった。壁際へ押し付けられて、左の二の腕は痛くない程度に握られ、彼の空いた手が逃げ場を塞ぐ。
これで、あたしの背にあるものが、壁でなく床だったら、完全に押し倒されてるのと変わらない体勢だ。
「どこから聞いてた?」
「き、聞いてない!」
「何を?」
「な、何をって」
あんたが訊いてんでしょ! と突っ込みたいけど、多分言ったら言った分だけあたしが不利になるコトだけは分かる。こんな頭の回転の速い人が、何で飾りものの将軍に甘んじてるのかは激しく疑問だけど、今問題なのはそこじゃない。
(近いってば!)
こんな体勢――壁に押し付けたあたしに、まるでのし掛かるように、家茂が壁に肘を突いているこの体勢の所為で、彼の顔が今までにないくらい近い場所にある。
こんなに接近を許した男性は、彼以外には今までに一人だけだ。だけど、だからって今のこの状況が嫌という訳でもない。
寧ろ……寧ろ、嫌じゃないから困るって言うか。
(まるで浮気してるみたい……)
いや、違うわ。あたしはもうこの男と世間的には夫婦なんだから、何も後ろめたいコトなんかない筈なのに。
「……お前さ」
「なっ、何よ!」
急に低く話し掛けられて、あたしは反射で尖った声を出してしまう。
「まだ昔の男に気があんの?」
「へ?」
どこを見ていいか分からなくなって、自然俯けていた顔の中で、多分あたしの目は真ん丸になっていたと思う。
反射で上げた視線が、それこそ至近距離で、彼の澄んだ瞳とかち合って、あたしはまた顔ごと目を反らした。
「あ、の」
何を言ったらいいのか分からない。
分からないけど、一瞬見た、彼の瞳はどこか寂しそうだった。
沈黙が続いたのがどのくらいだったのか。やがて、体温が離れる感覚に顔を上げると、家茂はあたしの二の腕を掴んでいた手を離して踵を返した。
「……家茂?」
「……今日は、戻るよ」
「えっ……え、ちょっと」
放っておいたら本当に戻られそうな雰囲気に、あたしは慌てて家茂の腕にしがみつく。殆ど、無意識の動作だった。
「わ、わざわざ来たのに戻るなんてっ……」
「だから、まだ昔の男に気があるんだろ?」
「き、気があるっていうか……」
それと、表に戻るって話がどう関係あるのよ。そう言おうとしたけど、どこかスネねたような家茂の瞳に、あたしは言葉を呑み込んだ。
熾仁にまだ気持ちがあるかないかと言えば、……正直言って申し訳ないくらい、あたしの中にある熾仁の存在はもう薄い。熾仁への気持ちは、今は、貫かなければっていう義務感だけだ。
だって、そうしなければ、負けてしまう。
幕府の官僚達への横暴と、理不尽な振る舞いに。
武家社会が、あたしに働いた無礼な仕打ちに。
彼らに対してあたしが出来る唯一の抵抗は、『家茂を男として見ない』『熾仁への気持ちを死ぬまで貫く』っていう、そのことだけなのに。
「あたし……」
自然、俯いた視線の先に見えるのは、咄嗟に掴んだ家茂の着ている着物だ。
その着物からも視線を反らせるように、目を閉じて、自分に言い聞かせる。
(熾仁を、裏切っちゃ駄目だ)
ただ、この男性は、あたしを理解してくれる。
あたしの置かれた立場を、気持ちを、江戸城内で理解してくれる、たった一人の人だ。
それだけでいい。異性として見る必要はない。ただの、友達で充分。味方でいてくれれば、それだけでいいの。
「あたし、は」
「いいよ」
「え?」
家茂の、苦笑混じりの声に、視線を上げると、声と同じように苦笑気味の彼の顔が目に映る。
「分かってる。でも、今日はやっぱり戻るよ」
明日出直してくるから、と付け加えると、あたしの頬に一つ指を這わせて、今度こそ家茂は踵を返した。
引き留める術なんて、知らなかった。
(……まだ熾仁が好きな筈なのに)
家茂の言う通り、あたしはまだ熾仁を忘れた訳じゃない。なのに、もう家茂がこの場にいないことが寂しい。
苦しくて仕方ない。
角部屋を出た時、家茂が去ってからどれくらい経っていたのか、はっきりした時間は分からない。
けれど、その時刺すように集まった女中達の視線より、滝山に道具だと言われたことより、去り際の家茂の表情が、胸に痛かった。
©️和倉 眞吹2013.