第五章 秘められていた過去
「ほら」
「え、あ……」
あれから、三ヶ月程が経っていた。
その日、奥を訪ねて来た家茂が、言葉少なに差し出したそれを、あたしは反射で受け取った。
青い花弁が三枚付いただけの、慎ましやかな花――露草だ。
「……どうしたの、これ」
「乗馬の稽古の帰りに見つけた、から」
その先を口にすることなく、彼はフイと顔ごと視線を背けてしまった。
けれど、その背け方は、対面初日のそれとは異なるのが分かる。頬がうっすらと赤くなっているからだ。
「……あたしに?」
「……他に誰がいるよ」
視線のやり場に困ったのか、彼は縁側にそのままドッカリと腰を下ろしてしまった。その様が、何だか可愛らしくて、あたしは小さく笑いながら彼の横へ膝を突く。
「……ありがと」
ぎこちなく礼を述べると、「おう」とぶっきらぼうな答えが返る。
「早い内に押し花にしとくね」
「は? 何でだよ」
活けるとか飾るとかいう頭はない訳、と続けた家茂は、どうやら知らないらしい。
「だってこれ、午後にはしおれちゃう花よ?」
言えば、家茂は瞬時、キョトンと目を瞠った。
「……そうなのか?」
「うん、そう。でも、今ならまだ大丈夫だと思う」
多少元気がなくなってるけど、まだ青い色は健在だ。今の内に、と思ってあたしは藤を呼んで小振りの花瓶を持って来させると、そこにそっと貰ったばかりの花を挿す。
「家茂もこういうトコは普通の男ね。花なんか、普段観察しないんでしょ」
「うるせぇ、ほっとけ」
スネたような物言いが、やっぱり可愛らしく思えて、あたしは再度小さく笑う。そんなあたしを、家茂は不快そうに睨み据えるけど、本当に怒っている訳じゃないことくらいは分かるようになった。
いつからだろう。こんな風に、彼と過ごす時間に安らぎを覚えるようになったのは。
初めに寝込んでから三日程、結局あたしは、枕が上がるまで朝の総ぶれをサボり続けた。
家茂が、ほぼ毎日訪ねて来るようになったのは、それからだ。
会ってするのは、こんな風に他愛もない話で、初めの夜の『衝突』についてはあたしも家茂も口にすることはなかった。
家茂の方がどう思ってるのかは――婚儀の夜から一週間の内に彼の中でどういう心境の変化が起きたのかは、あたしには分からない。かと言って、わざわざ問い質すのも躊躇われた。
折角、互いの関係が改善し掛かっているのを、あの日の話を持ち出すことで壊すのが何となく嫌だったのだ。
婚儀から三ヶ月程経った今でも、江戸城古参のお女中達の嫌がらせは絶えないし、あたしの武家に対する心象が良くなった訳でもない。
でも、意地を張って過ごし辛い日常を送るのにも、いい加減疲れていた。
婚儀から一週間で、熱出して、ぶっ倒れたのがいい証拠だ。
今更イヤだと泣こうが喚こうが、京へ帰れる訳でもないのだ。
向こうが折れなきゃ、こっちで折れるしかない。簡単に態度を軟化させるのも、負けを認めるみたいで癪なんだけど……。
それでも、時折訪ねて来てくれる家茂の、友好的に変わった態度が、頑なだったあたしの気持ちを和ませているのも確かだった。
本人が来られない時は、花だとか金魚だとか、高価ではないけれど心籠もった贈り物と一緒に、簡単な文が届くようになって――
『その話』を聞かされたのは、家茂を、『いい男友達』くらいに思えるようになった矢先のことだった。
***
「宮様。公方様から、先程これが届いたそうです」
その日、そう言って小箱を膝の傍に置いて額ずいたのは、庭田嗣子典侍だった。
小箱は漆塗りで、蓋の隅に可愛らしい、白い花柄があしらってある。
典侍から受け取って蓋を開けると、鼈甲の髪飾りと、細く折り畳まれた文が入っていた。
髪飾りの方は、八重の花を象った意匠の、ちょっと見栄えがするものだ。文には、今日は奥へ来れそうにない旨と、詫びが簡単に書かれていた。
素っ気ない文面が、いかにも彼らしくて、無意識に頬が緩む。
「時に宮様」
その瞬間、前方から典侍の声が掛かって、あたしは飛び上がりそうになった。
「び、びっくりしたぁ。何?」
っていうか、まだいたの? と続けそうになったそれは、どうにか呑み込んで、典侍に用件を質す。
「近頃は、とみに公方様と睦まじいご様子。祝着に存じます」
「はあ」
別に、睦まじい訳じゃないけど、毎日会って色々喋ってるものだから、そう見えるのかしら。
と思うと、曖昧というか、何だか気持ちの定まらない間抜けな声が出てしまったが、典侍は気にした風もなく続ける。
「それで、例の話の方は、その後進んでおりましょうな?」
「例の話?」
何のことか分からなくて、一瞬眉根を寄せると、典侍は気持ち顔をこちらへ寄せるようにして、声をひそめた。
「攘夷を公方様に確約させる件にございます」
「ああ……」
そのこと。と、こともなげに言いそうになって、あたしは危ういところで口を噤む。
だが、当然ながら、この返答は彼女を満足させるものではなかったらしい。
「『ああ』ではございません!」
と、やはり声をひそめたままに、鋭くピシャリとした一喝が返って来る。
「既に、婚儀から三月が経っているのですよ!? このところ、公方様の奥泊まりも頻繁で、話す機会はいくらでもあった筈です。何をグズグズと引き延ばしておいでなのです!」
「……そうは言ってもねぇ」
この三月、あたしの心情的には、彼との関係修復に忙しかった。
そんな政治的な話を持ち出せば、芽生え掛けた彼との友情にヒビが入るかも知れない。それで切れるなら、それまでの友情――なんて言っても、世間的には夫婦である以上、そう簡単に切れるのもどうだろうと思うし……。
「――その話は、しばらく保留にしておいて貰えないかしら」
試しに言ってみたら、彼女のまなじりはキリキリと吊り上がった。
「宮様! よもや、公方様にお心許されたのではありますまいな!?」
どうやら、彼女の神経を上手に逆撫でしてしまったようだ。それにしたって、面倒臭いというか。
(鬱陶しいなぁ、もう……)
口には出さなかったものの、顔にはしっかりと出てしまったらしい。
「三月ですよ、三月! その間に、チラとお話申し上げるくらいはできた筈でございましょう!? たった一言、申せば済むのです。『可及的速やかに、攘夷実行を天下に号令せよ』と! 御身のご使命を、まさかお忘れですか!?」
顔色を変えた彼女は、抑えた声音で噛み付くようにまくし立てながら、あたしに向かって膝行した。彼女がこうなってしまうと長い。それは、江戸へ下る道々で思い知らされていたので、あたしは早くもうんざりしてきた。
「……ごめんなさい」
もう出てって。と続く予定だったこの謝罪をどう勘違いしたものか、典侍は安堵したように口元を綻ばせた。
「お分かりであればよろしいのです。で、決行はいつになさいますか?」
「決行?」
「公方様に奏上申し上げる予定にございます。次の奥泊まりの後なら、主上に色よい報告がお送りできると思ってよろしゅうございますな」
あたしは、反応を言葉にできなかった。
ただ、理由の分からない疲れがどっと押し寄せて来た気がして、手早く家茂から届いた小箱を片付ける。
「宮様?」
やおら立ち上がったあたしを、不思議そうに見上げた彼女は、答えを待っていたようだけど、あたしはそれを無視して縁側へ足を運んだ。
廊下に出れば、大半を占める江戸城古参女中達の視線も痛いけど、あれやこれやとやかましい典侍と二人でいるよりは、遙かにマシだ。
勿論、典侍は「宮様、お待ちを! ご返答をお聞かせ下さい!」なんて言いながら、後をくっついて来た。でも流石に、九割がお女中しかいない領域にまで踏み込むつもりにはなれなかったらしく、しばらくしたら諦めたようだ。
ホッと息を吐いて、足を止めると、普段ならあたし自身も足を運ばない場所まで来ていたのに気付いた。
再度、溜息を吐いて、見るともなしに庭を見やる。
季節は、初夏を過ぎ、夏へ入ろうとしている。庭の草木は、青々と茂り、それでいて手入れが行き届いているのがよく分かった。
木々の間を抜けてくる風が、まだ心地好い。
「ええ――っ!? 憎んでるってどうして!?」
しかし、その心地好さは、不意に横から飛んできた頓狂な叫びで見事に遮られた。
「知らないの? 上様には想う女性がいらっしゃったのよ。将軍に就任されてから、程なくご内妾に迎えられた方なんだけど」
話し声の聞こえる方に目を向けると、障子の開け放しになった部屋の中から、色とりどりの打ち掛けの裾が、チラチラと覗いている。
(……江戸城のお女中って、そんなに暇なのかしら)
自然、眉根に皺が寄って、また一つ溜息が出る。
あたしが、居室の外へあまり出ない所為もあるかも知れないけれど、それにしても、輿入れしてから井戸端会議によく遭遇するなぁ(正確に言えば、場所は『井戸端』じゃないんだけど)。
それも、大抵があたしの悪口と来てる。
まあ、今更何言われたって驚きゃしないけど、陰口はちゃんと陰で、対象となる本人の耳に入らないように叩いてくれないと困るわ。
「でも、それと上様が宮様を憎んでるって話がどう繋がるのよ」
(……え?)
何、それ。
家茂が、あたしを憎んでる?
そう、脳裏で呟くと、出し抜けに思い出されるのは、初夜での、家茂があたしを見る目だ。あれは――彼の瞳に渦巻いていた感情は、確かに憎悪だった。
「考えてもみなさいよ。御台様として嫁いで来られるお方が普通の武家の方ならまだしも、天皇家の姫宮様よ? しかも、ご婚約が本決まりになるまでに相当ゴネた方がお相手ですもの。ご内妾が居るなんてお知りになったら、また面倒なコトになるって側近の方々が考えるのも無理からぬ話よね」
立ち聞きするつもりはなかったけど、あたしは夢中で話の先を耳で追い始めてしまった。
ご内妾っていうのが何のことかよく分からないけど、まさか踏み込んでそう訊くわけにも行かない。話の筋から察するに、側室か、側室と認められていなかった個人的な恋人だろうか。
「それで、『ご正室が来るから出て行け』って言われて、そのご内妾の方は追い出されたってこと?」
「追放で済んだなら、三ヶ月も経つのに、上様が宮様に手も触れない程お怒りの筈がないじゃないの。それならまだ冴那様はご存命って訳だもの」
「やだ、それってまさか」
「そーいうことよ。ま、それ以上は口に出さない方が身の為ね」
目眩がした。
(嘘……)
ガクガクと、身体が小刻みに震え出す。
袿の裾を踏まないように後ずさるのが精一杯で、彼女らに、ここに立っていたことを気取られないようにすることは難しかった。
彼女らが、あたしに気付いたかどうかも、今は確認する余裕はない。
柱に寄り掛かって、倒れないように身体を支えながら、口元を押さえる。
家茂に、元々あたしと結婚する前に恋人がいたのは知っていた。
彼本人の口から聞いた訳じゃないけど、初夜でのやり取りから、そういう予想はできていた。
結婚する前なら、あたしだって立場は同じだし、嫉妬する理由も権利もない。
でも、相手の方がどうされているかまでは、知る由もなかった。
今、この瞬間までは。
(――家茂)
無意識に、彼の名を脳裏で呟いて、脱力しそうな足を踏み出す。
お錠口へ――彼の元へ向かって足を動かせば、自然、井戸端会議の前を通ることになった。でも、彼女らの視線が集中するのが分かっても、気にならない。
相手の方……家茂の最初の恋人だった冴那さんは亡くなっていた。
それも、多分暗殺。
(あたしの……所為で)
あたしが嫁いで来ることになったばっかりに。
幕閣の閣僚達にとっては、そりゃあ自分達の権威を守る為に娶せようとしている姫宮の手前、将軍の寵愛する女なんて、邪魔以外の何者でもないだろう。
でも……だからって、仮にも主君の寵愛する女性を。
(殺したり……する!?)
……ううん、やりかねない。
あたしの元の婚約を破談にする為に、あたしの身内を人質に取るような連中だもの。必要とあらば、主君の女だろうが構わず殺すだろう。
(ひどい)
でもそれならば、初夜の日、あたしを見た家茂の瞳に宿っていた『憎悪』の意味の説明もつく。
あたしだって、立場が逆なら、家茂を憎んだだろう。
家茂が、幕府そのものが存在さえしていなければ、熾仁を失わずに済んだと思ったに違いない。
(……今も、恨まれている……の?)
あたしは、とにかく家茂に会おうと動かしていた足を止めた。
今も、憎まれているのだろうか。
天皇家さえ、あたしさえ存在していなければ、愛しい女性は死なずに済んだと思っているのだろうか。
閨以外で会って話をするようになって、三ヶ月。
名目だけの初夜の日の、あれが最初で最後に、家茂にそんな様子は見られない。けれど、それはそうあったら良いという単なるあたしの思い込みで、本当は、まだ家茂は、忘れられない想いと共に、あたしへの憎しみも募らせているのかも知れない。
あたしなら、どう?
もしも、熾仁を暗殺されていたなら。
きっと家茂と話をするどころか顔だって見たくないだろう。
なのに、家茂は――……
「……ッ!」
あたしは、闇雲に家茂の元へ向かいかけていた身体を反転させると、元来た廊下を戻り出す。
ここまで来た以上の速度で足早に廊下を進むけど、とても自室に駆け込むまで持たなかった。
ジワリとイヤな感じに鼻の奥が締め付けられて、視界が歪む。あたしの意思など頭から無視して勝手に溢れ出す涙に、そこらにいる女中やら女官やらが、驚いた顔をして慌てて目を逸らすのが目に入るけど、厄介なことに、一度緩んだ涙腺はそう簡単に元には戻らなかった。
何故だか分からないけれど、婚儀一週間後、あたしが熱を出して倒れた日を境に友好的になった家茂の態度。
家茂の気遣いの心地好さを、あたしは心のどこかで当然と思っていなかっただろうか。
自分の憎しみを胸奥深くに封印して、憎い女に手を差し伸べるのにどれだけの葛藤があったのか。噂話を聞いてしまった今ならば、痛い程に理解できる。
(家茂)
時折見せてくれるようになった笑顔の裏に、貴方はどれだけの憎しみを押し隠しているのか。
それでも憎い女である筈のあたしに優しく接してくれる貴方は、どれだけの苦しみをその胸に抱えているって言うの?
あたしなら、耐えられない。
相手の顔など見たくもないだろう。
それなのに――
(家茂)
嗚咽が慟哭に変わる前に、あたしは間一髪自室へ滑り込む。
襖一枚では声までは隠せないけどどうにもならない。
江戸へ来て七ヶ月と少し。
あたしは初めて熾仁以外の男を思って泣いた。
©️和倉 眞吹2013.