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第四章 衝突

「――やだぁ、ホントにぃ?」

「そうなのよ。でね、下座に着くようにって指示された和宮様ってば、何て言ったと思う?」

 最悪な江戸城初日から、明けて翌日。

 与えられた居室の外へ出て、庭に面した廊下を歩いていたら、女中達が集まって何やら話をしていたのに出会った。

 五人ほどの女中が、開け放たれた障子から部屋の中まではみ出して、輪になって話し込んでいる。

 これが、庭の井戸の側でのことなら、正しく井戸端会議という奴だ。

「ええっ、まさか、言い返したの?」

「そのまさかよ。『婚約者と別れさせられて無理矢理ここに来させられたんだから、こっちの要求は全て受け入れるべきだ。そっちこそ、態度を改めるがよい』だってぇ」

 あたしの言い様を真似ているのか、円の中心にいる女中がおどけたように言った途端、どこか品のない笑い声が弾ける。

「うっそぉー! そんなコト言ったのぉ?」

「言ったのよ!」

「ねねっ、それって天璋院様に向かって、よね?」

「勿論。でね、止めが、『兄帝にしっかり報告する。勅命ある前に改めた方が身の為よ』って」

「それって、脅しじゃなーい」

「やだぁ、怖ーい」

 口調からすると、怯えるというよりは面白がってるみたいだ。そんな女中達に対して、輪の中心と思える女中が答える。

「降嫁してくる条件の一つにあったでしょ。『大奥でも万事御所風に』って。あれって、和宮様を皇女としてそれなりに扱えって意味も含まれてるらしいわよ」

 当然だ。

 それでなくても、繰り返すようだが、来たくて来た訳じゃない。寧ろ、どうしてもと幕府が言うから渋々来てやったのだ。それくらい、当たり前ではないか。

 けれど、あたしが何か言うより先に、まだあたしが傍で聞いているのに気付かないらしい女中の一人が言葉を継ぐ。

「図々しいわねー」

 な、誰が図々しいのよ。

「嫁いで来る身のクセに、姑の(しも)が嫌だなんて、何様のつもりかしら。呆れちゃうわ」

「やっだー、そんなの決まってるじゃない。『皇女様』よ」

 最後に発言した女中が言い終えるなり、縁側は再度笑い声に包まれた。嘲りを含んだその笑いは、暖かい()の射す縁側には、ひどく不釣り合いだ。

(……何で、こんな(はした)の女中ごときにここまで言われなきゃなんないの?)

 思うけど、それでも口には出せなかった。

 言い返せば、相手と同じ水準にまで落ちることも分かり切っていたからだ。

 衣擦れの音をわざと立てて(きびす)を返すと、ようやくこちらの存在に気付いたのか、笑い声がピタリと止む。

 言わないあたしの代わりに、京から随行して来た女官が何やら言い返していたけれど、あたしの方はそれに構うことなく居室へと戻った。


 その日から、あたしは居室内に籠城を決め込んだ。

 政治的行事の前に、個人感情なんて配慮はされない。

 重々解っていたつもりだったけど、二日連続でそれを再確認させられたのだ。到底、室外に出る気持ちにはなれなくなった。

 けれども、使用人の方はそうはいかない。

 主人であり、皇女でもあるあたしと違い、侍女達は、都と江戸との温度差に、驚こうが失望しようが、放心して引きこもっていては、仕事にならないからだ。

 否応なく部屋の外へ出ることを余儀なくされている訳だが、部屋の外へ出れば、当然江戸城内に以前からいた女中達と顔を合わせる折りもある。

 一日が終わる(たび)に、侍女達からやれ今日は何をされたの、こんな侮辱を受けたのと報告を受ける――というよりもグチを聞かされていれば、いかに幕府側にこちらの言い分が通っていないか分かろうと言うものだ。

 江戸城に入ってから婚礼までおよそ二ヶ月の間があったが、その間、勿論夫となる家茂と顔を合わせることはなく、あたしの気分は順調に下降の一途を辿っていた。

 別に家茂が機嫌伺いに来ないのが不満という訳じゃない。

 今の武家社会に皇族への礼儀がないのは、残念ながら一日も経たない内に嫌という程思い知らされたのだ。今更、常識は期待しない。

 じゃあ何が憂鬱なのかというと、この調子で、あたし本当にどうしても嫁いで来ないといけなかったのかしらっていう疑問が、日増しに大きくなるのが不愉快なだけだ。

 絶対イヤだって何度も言ったのに、武力チラつかせて、挙げ句こっちの身内全部人質に取って、どうしても何が何でも嫁に来いっていうから、都からわざわざこんな遠い所まで来てやったのよ。

 最低限これだけは守ってちょうだいって言う五項目の条件付きでね。

 でも、既にその内の一条、『江戸城内に於いてもあたしの身辺は万事御所風のこと』――つまり、『御所の常識』であたしは扱われなければならないのにそれがもう守られていない。

 この分じゃ残りの四ヶ条も守られるかどうかかなり怪しい。ていうより守られることはないと思っていいだろう。女中にまで揶揄(からか)いのネタにされるくらいだから、絵に描いた餅と一緒だ。

 だけど、あたしのことだけならまだいい。

 あたしが我慢すれば済む話だからだ。

 でも、異母兄(あに)様と幕府が交わした攘夷の約束まで(たが)えられては、それと引き換えに、こんな所までノコノコやって来たあたしの立つ瀬がない。

 『必ず攘夷を実行します』という約束の下に、あたしは言わば『お礼』として、どうしてもあたしを欲しいという幕府に差し出されたのだ(もっとも、そう捉えてるのは異母兄様ではなく、その周りの側近共だけど)。

 ならば、必ず約束は果たして貰わないと、割に合わないのは確かだ。庭田典侍に言われるまでもない。

 見てなさいよ、野蛮人達。

 このまま泣き寝入りすると思ったら大間違いなんだからね。


***


 明けて文久二(一八六二)年二月十一日。

 あたしが江戸城に入ってから丁度二ヶ月後、あたしこと皇妹(こうまい)和宮親子内親王(かずのみや・ちかこないしんのう)と将軍・徳川家茂の婚儀が江戸城内にて執り行われた。


 家茂と顔を合わせるのも二ヶ月振りになる訳だけど、この男はお式の間中、隣に座っていてさえやはり目を合わせようとしなかった。

 本当になんてイヤミな男なんだろう。

 こんな男と一生添い遂げなきゃなんないなんて……。

 あのまま何事もなければ、去年の冬には、あたしは有栖川宮熾仁親王妃(ありすがわのみや・たるひとしんのうひ)になっていた筈なのだ。

 愛する男性(ひと)と、穏やかに暮らす毎日。熾仁の妻としての日常。

 理不尽な横槍に因って、遂に来ることのなかった未来。それをついうっかり思い描いてしまったあたしは、お式の途中だというのに、危うく物憂げな溜息を吐きそうになるのを懸命に堪えた。


 しかし堪えていた溜息は、一番避けたい儀式を前には抑えようもなかった。

 夜着に着替えさせられ、「では、お休みなさいませ」と言ってお女中が部屋を出て行った後、頼りなげな明かりが揺れる薄暗い部屋の中で家茂と二人きりになった時、ああもう逃げられないんだという思いに反射的に溜息が出た。


「……いきなり盛大な溜息だな」


 苦笑混じりに掛けられた声に、あたしは思わず顔を上げた。

「まぁこの結婚には相当ゴネたらしいから、溜息の一つや二つ、吐きたくなって当たり前か」

 初めて聞く声は、彼の持つ瞳と同じように澄んでいて、少し低い。対面の儀の時からあたしを避けていた目線が、今は正面からあたしを捉えている。

 あの時、状況も忘れて吸い寄せられた綺麗な瞳に、何もかも見透かされたような気がして、あたしはムッと唇をヘの字に曲げてしまった。

「そっちこそいきなりタメ口なんて。やっぱり所詮武家の人間よね」

 フイと顔ごと視線を外すと、痛みを感じない程度に軽く髪を引っ張られる。

「これは、ご無礼を致しました」

 引っ張られた髪に否応なく視線を元に戻されると、あたしの髪に口吻(くちづ)けながら、家茂が揶揄混じりの口調で言った。

「ご機嫌を直して頂けますか? 姫宮様」

 こちらを見上げる瞳は完全にあたしを揶揄っていた。

 それが判った途端、カァッと頭に血が上る。

「――~~~……っっ、きっ……き、気安く触らないでよね! そりゃ……そりゃ、婚儀は済んでるけど、誰が……誰があんたなんか!」

 家茂の手から髪の毛を奪い返しながら、あたしは口が動くのに任せてまくし立てた。

「こ、この際だからあんたにもはっきり言っとくけど、あたしはスキでこんな所に来たんじゃないんだから! あんた達が武力行使チラつかせなきゃ」

「ハイ、そこまで!」

 皆まで言わせずに、家茂があたしのセリフを遮った。その指先が、あたしの目と鼻の先に、鋭く突き付けられている。

 先刻まで好意的、とまではいかなくとも普通だった筈の、黒曜石の瞳には、明らかな敵意が剥き出しになっていた。

「お前が『スキでこんな所間まで来た訳じゃない』コトくらいよーく知ってるよ。わざわざ言われなくてもな」

 ずい、と顔を寄せて来られて、あたしの体は自然に後ろへ下がった。

 あたしを射抜く鋭い瞳に宿っているのは、もはや『敵意』なんて生易しい言葉では片付けられないものに変貌している。

 体の芯から震えが来る――家茂の瞳に映されている感情は、憎悪に近い。

「只、ここまで来たからにはそーいう甘ったれた考えはもう捨てとけよ」

 憎、悪……?

 待ってよ。

 何であたしが、この男に恨まれなきゃなんないの?

「『俺達』には選ぶ権利なんてない。そういうモンだろ」

 言うだけ言ってしまうと、家茂の体はあたしから離れ、二つ並べて敷かれた布団の片方へゴロリと転がる。

 言葉の裏に秘められた家茂の持つ悲しみに、この時のあたしには気付く余裕はなかった。

 背を向けた家茂の瞳の呪縛から逃れて自然と脱力しながらも、あたしは必死に声を絞り出す。

「『そういうモン』……ですって? 選択権をなくしたのはあんた達じゃないの。あんた達さえ余計な横槍入れなきゃ、あたしは今頃好きな男性と一緒になれてたのに」

「そりゃ、その時までの運が良かっただけだろ」

 同情欲しさに言ったつもりはなかったけれど、掛け値無しに同情の欠片(カケラ)もない家茂の声色にも腹が立って、あたしは思わず声を荒げる。

「あんたなんかに何が分かるのよ!!」

「分からねぇよ。さも自分だけが、無理矢理政略結婚させられた、みたいな顔してる人間の気持ちなんか」

 静かな、それでいて明らかに芯からの怒りを(はら)んだ声に息を呑んだ時には、家茂は既に立ち上がっていた。

 平手が飛んで来るような気がして思わず身を縮めて瞼を固く閉じる。

 だが、いつまで経っても、覚悟した痛みは頬に与えられなかった。

 襖が開く乾いた音に振り向くと、家茂の姿は開かれた襖の奥に消えたところだった。

 初夜だというのに、一人取り残されたのだと理解するのに少し時間が掛かる。

 冷たい夜気が背筋を這い上がって来て、あたしは仕方なく用意された夜具に一人で潜り込んだ。


 混乱して何が何だか解らなくなっていた頭も、横になってから暫く経つと、徐々に冷えて来る。

『さも自分だけが、無理矢理政略結婚させられた、みたいな顔してる人間の気持ちなんか』

 不意に去り際の家茂の台詞が甦って、あたしは目を瞬いた。

『自分だけが』

(……まさか……)

 『居た』んだろうか、あの男にも。

 将来を誓い合った、婚約者が。

 確かめようにも、もう本人は今ここにいないけど、もしもそうだとしたらあたしと同じようにこの結婚はかなり……ううん、絶対に何が何でも嫌だったに違いない。

 でも、それだけではあたしに向けられた憎悪の意味の説明は付かない。

 他に何かあったんだろうか。

 婚約者と無理矢理別れさせられたというだけの出来事以上の『何か』が。


 その夜はちょっとした自己嫌悪と、家茂の過去の事で頭が一杯で、中々寝付けなかった。


 ***


 翌日は、色んな意味で最悪だった。


 昨夜は結局、明け方にようやくウトウトしただけで、殆ど眠れなかった。

 それでも、翌日から朝の総触れに顔を出さなければならない。

 ちなみに、総触れというのは、大奥での朝、将軍夫婦と奥の女中が一同に会する朝の儀式のことだ。

 それだけでもキツいのに、昨夜家茂とあたしの間に『何もなかった』のを知っているお女中達の好奇と憐れみの視線といったら、素晴らしく居心地が悪い。だけならまだしも、わざわざ聞こえるようにヒソヒソ話をされるのには、本気でちょっと耐えられなかった。


「……結局、昨夜(ゆうべ)はお床入りがなかったんでしょう?」

「そうなの。言い争う声が丸聞こえ」

「で、その後、上様が寝所から出ていらして」

「『宮様はお疲れのご様子だから』なんて言ってらしたけど、あんな言い争いの後じゃ、お床入りなんて無理よねぇ」

「ね、どんな言い争いだったの?」

「それがね――……」


 ……と言った具合だ。

 よっぽど着物の端でも踏んづけてやろうかと思ったけど、武家の人間と同じ水準に堕ちるのなんかもっと耐えられないので、理性を総動員して踏み留まった。

 大体『床入り』なんてはっきり口にする辺りホントに下品なんだから。お里が知れるってこのコトね。

 

 でも、結婚二日目にして、早くもこの調子だなんて、本当にこの先が思いやられる。

 仮にも夫となった家茂とは、総触れの後もまともに話す隙はなかった。

 たとえ話す時間があったとしても、冷静に話せるかどうかは自信がない。幾ら初対面での印象が悪かったとはいえ、返す返すも初夜の席でいきなり感情的に衝突したのはマズかったと思う。しかも、それをお女中に聞かれてたなんて。

 ……そりゃ、あたしだって小さな頃から侍女がいつも――それこそ手水(ちょうず)の最中にも――傍に居るのなんか普通だった。だから、江戸城に入ってからも、女中が寝所までついて来るのなんか気にも止めなかった。けど、まさか夫婦の寝所のアレコレにまで聞き耳立ててるなんて思わなかった。

 どうにかして、本当に二人きりになれないもんかしら。

 ちゃんと謝りたいし……それに、話がしたい。

 あの男にも心に決めた女性がいたのかどうか、本人に聞いてみたい。

 聞いてどうしようって何もそこまで決めてる訳じゃないけど、このままじゃ何だかすっきりしないし……。


 それに……それに、正直言ってちょっと心細い。

 ぶっちゃけた話、京から随伴してきた人間で、信頼できる人と言ったら、おたあ様と藤だけだ。

 他の女官は、庭田嗣子典侍(ないしのすけ)以外は、京の桂御所からついて来てくれた人間ばかりで、信頼できないことはない。けれども、今のところ、大半の女官は、江戸城内古参のお女中との意地の張り合いに燃えているか、でなければ、庭田典侍と同じく、「早く、将軍に攘夷の申請を!」と要求してくる者ばかり。

 そして、一歩自室を出れば悪意と嘲笑の渦。

 味方の筈の女官達は、あたしを気遣う余裕なんてなくしてるし、お女中はお女中で、誰もあたしを敬ってなどくれない。皇女という身分もここでは誰も尊重してくれやしないのだ。一番頼りになる筈の異母兄(あに)様だって、遠い京都にいる。窮状(きゅうじょう)を訴えても、異母兄様に伝わるまでに時間が掛かるし、異母兄様はあたしのことだけを考えてる訳にもいかない。


 これからどうなるんだろう。

 先なんか全然見えない。

 怖い。

 心細い。

 助けて、誰か――


(熾仁)


 唇に触れる。

 たった一度の口吻けの名残(なごり)なんて、もう残っていない。

 それでも、薄れ掛けた記憶の中に、あたしは懸命に手を伸ばす。

(熾仁)

 会いたい。

 抱き締めて欲しい。

 

 あんたさえいれば、他に何も要らなかったのに――。


 ***


(……あ~……(だる)い……)


 婚礼の儀から、一週間後。

 あたしは、久々に熱を出して寝込んでいた。

 原因は、分かり切ってる。

 急激な環境の変化と、精神的負担が重すぎる所為だ。


 無理矢理な結婚に、要求をちゃんと聞いてくれない婚家。

 争いごとに忙しい女官とお女中達。

 心の通い合わない夫と、「使命を果たせ」とうるさい典侍。


 いい加減にして欲しい、と爆発するのは早かった。

 自分でも病的だと思うくらいに、今は江戸城内の誰とも――女官・お女中達は勿論、おたあ様や藤にさえも会いたくなかった。

 それでも、『御台所の勤め』とやらで毎日嫌でも、一度は朝の総触れで大奥の全員と顔を合わせなければならない。

 二日、三日と経つ内にあたしの中の拒絶感は遂に頂点に達した――のが昨夜のことだった。

 熱が出ると怠いには違いないんだけど、寝込んでいれば朝の総触れに出なくても言い訳は立つ。

(……いっそ、このまま(はかな)くなってしまえれば)

 これまで、どんなにこの結婚が嫌だと思っても、決して浮かばなかった考えが、ふと頭を過ぎった。

 ……そうね。どうしてもっと早くそう思わなかったのかしら。

 このまま生きていたって、どうせもう誰にも顔を合わせないで自室に引き籠もって一生過ごすのなら、死んだって同じかも知れないわ。

 おたあ様や藤、もしかしたら実麗伯父様も、あたしが死んだら悲しむかも知れないけれど。それに、異母兄様も。

(……熾仁、も……?)

 熾仁は、どう思うかしら。

 あたしが死んだって報せが届いたら、悲しんでくれるかしら。

 連れて逃げれば良かったと、後悔してくれるかしら……?


 思考の視野が狭くなって感傷的な気分の底まで落ち込んだ時、まるでそれを遮るかのように額に冷たい感触が落ちる。

 額に乗せられたそれは、冷えた手拭いだとすぐに解った。

「……誰……藤……?」

「――……俺」

 息を呑んだような沈黙の後、落ちて来たのは、藤の声ではなかった。勿論、おたあ様のものでもない。

 明らかに男性のもので、そして大奥に出入りを許された男性はたった一人だけだ。

 あたしは思わず瞼を開ける。視線の先にいたのは、(まさ)しく、家茂その人だった。

「え……ちょっ……何……ええ? 何でアンタここにいんのよ」

 混乱して発したあたしの声は、自分で思っていたよりもひどく掠れていた。

 居ちゃ悪いのかよ、と顔を(しか)めながら、家茂は手拭いを取り上げてあたしの額に指を這わせる。

「朝の総触れに顔見せなかったから……気になって」

 家茂の指先は冷たい手拭いと同じ温度で、それが火照(ほて)った額に心地良かった。

 熱で理性もぼやけている所為なのか、熾仁以外の男性に触れられているのにちっとも嫌じゃない。

「……大丈夫か?」

 遠慮がちに声を掛けて来る家茂の瞳に、この間の夜に垣間見たような憎悪も敵意も感じられない。ただ、心から心配している色だけがその瞳に映っている。……ここは、夢の中なのだろうか。

「……うん……平気。ただの風邪だから」

 本当は、熱の原因は風邪ではないのだが、家茂を納得させる為に適当な病名をでっち上げる。

 本当に心配げな家茂の瞳を見ていたら、何だかあたしまで、ごく自然に心配掛けたくないと思えてしまうから不思議だ。――さっきまで、死にたいとさえ思っていたことが嘘のように。

 と、そこへ藤が顔を出して、「まあ、上様!」なんてびっくりした声を上げたので、家茂も「じゃ、俺はこれで」なんて言いながらそそくさと退出してしまった。

 ……途端にあたしも、夢から醒めたような気分になる。

(な、何だったんだろう、今の……)

 高熱から来る動悸ではないそれで、心臓がドキドキ言ってる。

 初夜の日、あれだけ反発して衝突し合ったのが嘘みたいに、普通の会話をしていた気がする。

「……宮様? 大丈夫でございますか? 上様は何を……」

「……――…うん……」

 ただ頷いたあたしの言葉は、藤の疑問の答えにはならなかっただろう。

 だけど、あたしは今、藤とちゃんと話をする気分じゃなかった。


 『恋慕』と呼ぶには、まだ程遠い。

 けれど、あたしは今確かに、家茂に対して嫌悪ではない感情を持った。

 それが『恋慕』になり、『愛情』へ発展するのかどうかは、今のあたしには判らない。

 あたしはまだ熾仁を忘れた訳じゃないのだから。


 だけど、家茂が訪ねて来る前の、暗鬱とした気分が払拭されているのだけは、認めない訳にはいかなかった。


©️和倉 眞吹2013.

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