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第二章 駆け引きと敗北

 そこからは言うまでもなく持久戦だった。


 ……まあ、熾仁(たるひと)との婚約が向こうの思惑通り破談になった時から、あたしとしても長期戦は覚悟してたけど、そのしつこさたるや、スッポンも恐れ入るのではないかという凄まじさだった。

 と言っても、あたしと江戸からの使者が直に会うことは一度もなかったから、本当のところ、彼らがどういう態度だったのかは分からない。ただ、何度同じように断っても、懲りずに足繁く通ってくる御所からの使いのしつこさの裏に、幕府の執念が垣間見えるような気がした。


 主に訪ねて来る御所からの使いは、岩倉具視(いわくらともみ)という男だった。

 小ぢんまりとした小太りの男で、全体的に小柄、顔立ちは凡庸。ただ、その瞳だけが悪い意味で印象的だった。まるで、藻が繁殖し過ぎて濁ってしまった泥沼のようだ。

 奥底が全く見えないこの瞳が、あたしは初めて見た時から嫌いだった。正直言って、お世辞にも友人になりたい種類の人間じゃないことだけは確かだ。


和宮(かずのみや)様。どうか、お分かり下さい。諸外国を打ち払う我らの悲願。それが、貴女様のお気持ち一つで達成されるのです」

「絶っっ対イヤ。あんた達の都合なんか、知ったこっちゃないわよ」

「ですが、主上(おかみ)は既にご了承なさいました」

「勝手なこと言わないでよ! 異母兄(あに)様が承諾する筈ないでしょ!?」

「和宮様。どうか」

「行かないって言ったら行かない! あたしは政治取引の道具じゃないわ!!」


 ――と、当初こそこんな調子で、御簾越しに見るのさえ不愉快な男と、日長一日言い争いをしていた。

 けれども、そんなやり取りが、二日続き、三日続きする内に、同じことを言い続けるのも飽きてきた。それは、岩倉の方も同じだったらしい。

 最近では言わずとも分かり切った用件を言わずに黙って座り続ける彼と、これまた言わずとも分かり切った拒絶の意を口に出さずに黙り込むあたしの、無言の攻防に発展している。

 朝早くからあたしの住む桂御所に訪ねて来て日が暮れるまで座り続けてる岩倉には罪はない――と言いたいところだけど、聞けば異母兄様に率先してあたしの降嫁をと説いていたのはこの男だというから、自分の意思とは無関係に差し向けられているのは知っていても、同情はできない。

 それに、あたしにだってあたしの意思があるのだ。

 他のことならともかく、結婚なんて自分の生涯を左右する人生の一大行事よ。お国の一大事ですから一度決まってた結婚を蹴って下さい、なんて言われて、「ハイそうですか」と従う女が何処の世界にいるかってーの。

 それとも、皇族の姫宮なんて周囲の指示にホイホイ従ってるだけの人形だとでも思ってるのかしら。だとしたら、全くとんでもない勘違いだわ。


「……宮さん。その……今日もいつものお客さん来やはりましたで」

 朝の手水(ちょうず)を終えたあたしの所へ、おたあ様がいつものように遠慮がちに、しかし、いささか『うんざりだ』という心情を声色に滲ませて声を掛けて来た。

 いい加減うんざりしているのは、何もおたあ様だけではない。

 はっきり言ってしまえば、もう桂御所の全員――上はあたしから下はお(はした)の女官までの全員がうんざりしているのだ。


 いっそのこと、抜き打ちで(ゆかり)の尼寺に駆け込んで髪を下ろしちゃおうかしら。

 それだけ嫌がってるって判れば幕府も引っ込んでくれるかも知れないけど、事ここに至るまでの幕府の執念を考えると、今度は還俗(げんぞく)しろとか言って、尼寺まで押し掛けて来かねない。


「……もう今日はほっときましょうよ。毎日毎日顔突き合わせて、(だんま)りも飽きて来たわ。今日からあたしは使者の前には顔出さないから、悪いけどそう伝えて」

 溜息混じりに藤に向かってそう言うと、おたあ様がいかにも言いにくそうに口を挟んで来た。

「……それがな、宮さん。その……今日はいつもの岩倉さんだけやないんや」

「え?」

 いつもの岩倉だけじゃない?

 どういう意味だろ。

 しかしそれをおたあ様に(ただ)す必要はなかった。

 疑問に対する『答え』が自分からやってきたのだ。

 廊下を歩く衣擦れの音と、女官が口々に「お待ち下さいませ」「どうかあちらへお留まりを……」なんて言う声が、微かだったものが徐々に近付いて来る。

 女官の制止を見事に無視したらしい、おたあ様の言うところの『御所の使者についてきたらしい客』が、後続の女官より一歩早く、あたしの部屋の前に下がる御簾(みす)(へだ)てた向こう側の廊下に姿を現した。

先触(さきぶ)れもなく、失礼致します。宮様のお部屋はこちらか」

 ちっとも失礼だと思っていない口振りで現れたのは、おたあ様よりも二十は年輩の女性だった。髪型から一目で武家の人間だと判るその女性は、こっちの返答も待たずに、さっさとその場へ居住まいを正してしまう。

 武家の人間ってどうしてこう、誰も彼も無礼な人間ばっかりなんだろう。

 こっちの不快感を感じ取っているのかいないのか(恐らく後者だと思うけど)、嵐のように現れた女性は、臆することなく軽く一礼すると口を開いた。

「和宮様にはお初にお目もじ(つかまつ)ります。わたくしは故・十二代将軍・家慶(いえよし)公の折、奥にて上臈(じょうろう)お年寄りの任にございました姉小路局(あねこうじのつぼね)と申します。家慶公ご逝去(せいきょ)に伴いまして髪を下ろし、今は勝光院(しょうこういん)と名乗っております。そこにいる観行院(かんぎょういん)さんは、わたくしの姪に当たられます故、宮様とも縁戚の者なれど、これまでご挨拶も致しませなんだこと、まずはお詫び申し上げます」

 おたあ様の叔母様?

 じゃあ、あたしには大叔母様、つまりは元・公家(くげ)の人間ってことじゃないの。

 公家出身でも長い間武家社会で生活してると、公家社会での礼儀も忘れるってことかしら。

 言っちゃあ何だけど、どこかガマガエルを思わせるその風貌からして、如何にも図々しいおばさんて感じだ。

「丁寧なご挨拶有り難う。都へはお里帰りで?」

「恐れ入ります。里帰りと申しましても、父母はもうありませんし、今は江戸の方が里のようなものでございましょうか」

 嫌味たっぷりに応酬してやったつもりなのに、御簾の向こうで申し訳程度に平伏(へいふく)したその表情はビクともしない。見かけ通りのガマガエルのようだ。

「時に宮様。先日来、幕府官僚からお願い致しております件、宮様のお耳にもお届きでしょうな?」

 一応確認の形を取ってはいるけど、口調は確認ではなく断言だ。

 意外と回りくどいことするのね。

 単刀直入に本題に入りたくて仕方ないって顔してるクセに。

「耳にタコが出来るくらい聞いてるわよ。でも貴方達、自分達のお願いは聞いて欲しくてたまらないけど、あたしの意思は聞く気はないみたいね? 毎日毎日同じコト言いに来る岩倉殿もご苦労様だけど、あたしもいい加減同じ答えを言うのも飽きてるの。貴女にも改めて同じ台詞を言わなきゃいけないかしら?」

 キンと尖り始めたあたしの声色にも、目の前のメスガエルは全く動じた様子を見せない。

(おお)せの通り、宮様が此度(こたび)のご縁談を強く拒んでいらっしゃることはよく存じております。それ程の堅いご決意を今更(ひるがえ)そうと努力するだけ無駄なことと、百も承知致しております。ただ、わたくしは、縁者の(よしみ)で、幕府とは関わりなく個人的にご忠告に上がったまでのこと……」

「忠告ですって?」

 あたしは眉根を寄せた。

 これまでの使者は、散々手を変え品を変え、でも言ってる内容は同じだった。

 『何卒(なにとぞ)、ご降嫁(こうか)のご決意を』と彼らの言いたいことはただそれだけだ。

 この女性も言いたいことは同じだろうけど……彼女(いわ)くの『忠告』の内容は、何だか見たこともない武器でも隠しているようで、あたしは急に落ち着かない気分になった。

「過ぎたわがままは御身(おんみ)が為にも(よろ)しからずと存じますが……?」

 ニヤリと上がった大叔母様の唇の端が、奇妙な自信に満ちている。

「……使い古した脅し文句ね。それであたしが、大人しく白旗挙げるとでも思ってんの?」

 鼻先で笑うように吐き捨てたあたしの反応に、自信に満ちた笑みが深くなった。

「これは失礼。では、宮様にもご理解頂けるように申し上げましょう。このままではいずれ、有栖川宮熾仁親王殿下や観行院殿、実麗殿にも何らかのご処分が下ることにもなりかねませぬが……?」

 熾仁とおたあ様、伯父様の名と『処分』という言葉を一緒に出された瞬間、一気に血の気が引くのが自分でも判った。

 御簾越しでなかったら、この蝦蟇蛙は自分の勝利が目前だと早合点(はやがてん)しただろう。

 ドクドクと波立つ心臓に落ち着けと言い聞かせて、御簾の向こうに聞こえないように気を付けながら深呼吸する。

 そうよ、落ち着いて。

 こんなのタチの悪い(おど)しに決まってるんだから。

 声が震えていないことを祈りつつ、あたしはどうにか言葉を絞り出した。

「……それこそ、陳腐(ちんぷ)な脅し文句よね。熾仁様達の名前を出せば大人しく従うとでも思ったの?」

 これで打ち止めであることを、半ば縋る思いで願いながら、御簾越しに大叔母様の顔を睨み据える。しかし、あたしより遙かに人生経験豊富らしいこのガマガエルは、更なる切り札を隠し持っていた。

「これは異なこと。お気付きではありませぬか」

 気付いてない……あたしが何に気付いてないって言うの?

 ……ううん、答えなんか聞きたくないわ。聞いてしまったら、きっとあたしの逃げ道は完全に塞がれてしまう。

 本能が警鐘(けいしょう)を鳴らすのに、あたしの耳は勝手に大叔母様の言葉の先を追っている。

「今や幕閣では、これ程までに和宮様がご降嫁をお(いと)いになるのは、観行院殿や実麗殿が和宮様に対し(たてまつ)り、幕府に関してあることないこと吹き込んだ所為ではないか……という噂もありましてね」

 咄嗟(とっさ)に、言葉が出なかった。

 何なのよ、それ。どういう意味?

 あたしが降嫁を承諾しないのはおたあ様と伯父様の所為だって言うの?

 だから、あたしがこのままこの縁談を拒み続けたら二人を罰するっていうこと?

 ――完全な言い掛かりじゃない!!

「それに、将軍様とのご縁談が持ち上がってからも、ご破談になった筈の熾仁殿と逢い引きを続けておられるのではと、下世話な想像を働かせる者もいるとかいないとか――ま、どれも噂程度のことでございます。どうぞお気になさらず和宮様にはこれまで通りご降嫁を拒み続けて頂いて結構ですので」

 あまりのことに、何も言えずにいるあたしに向かって、言うことは言ったとばかりに「では、わたくしはこれにて」と涼しい顔で型通りに頭を下げたガマガエルはさっさと立ち上がって(きびす)を返す。背を向けて立ち去るその後ろ姿は勝ち誇っていた。

 頭に上った血が、行き場を失う。あたしは、もう見えなくなった背中に向かって『クソババア!!』と怒鳴り散らしたい衝動を、理性を総動員して、どうにか抑え込んだ。

 実行したところで負け犬の遠吠えに過ぎないことが判り切っていたからだ。口に出した遠吠えを、相手に聞かれる方が余程屈辱のような気がした。

 ――そう、あたしは負けたのだ。

 それを認めたくない感情の方が今は強いけれど、熱く(ただ)れてしまったかのような頭の中で、ひどく醒めた部分が既に敗北を悟っている。

 もうどんな抵抗も、拒絶の意思も聞き届けられない。

 泣いても喚いても、幕府の持つ権力とは別の絶対的な力の前に、個人の意思など尊重されないのかも知れない。

「あの……宮様。これを……」

 一過性の嵐が去って、静けさが戻った廊下に、大叔母様の後から来ていたらしい女官が文箱(ふばこ)(たずさ)えて(ぬか)ずいていた。

「岩倉様より預かりましたものにございます」

「……岩倉……殿から? 彼はもう帰ったの?」

 頭がまだ冷め切らなくて、地に足が着かない心持ちではあったけれど、女官の言葉に何とか反応するだけの冷静さは戻ったらしい。

 大叔母様の突然の乱入に心を乱されてすっかり忘れていたが、今日は岩倉具視には会わないつもりだったことを思い出す。

 岩倉の方は、当然いつものように対面の間前の廊下で、夕方まで居座るのだろうと思っていた。だから、文だけを桂御所(ウチ)の女官に託してあっさり帰ったのが意外で、疑問は口から滑り出ていた。

「はい。先日主上が幕府に宛ててしたためられました勅書(ちょくしょ)の写しだと言付かりました。こちらをご覧になられた上で今一度ご勘考(かんこう)あらしゃいますように、と……」

 異母兄様の『勅書』。

 もう逃れられないのだと、誰かに囁かれた気がした。

 御簾の向こうに出たおたあ様が、女官から文箱を受け取るのを、あたしはまるで遠い出来事のようにただぼんやりと見守っていた。


 ***


 その夜は眠れなかった。

 

 幼い頃からの習慣で、就寝時間になればあたしは布団へ入らざるを得ない。眠かろうが眠くなかろうが、侍女達がワラワラ寄ってきて寝間着に着替えさせて布団に押し込むからだ。

 あたしだって、布団に横になってしまえば大抵は遠からず眠りの世界へ入ることが出来ていた。

 けれど今夜は、横になったところで、眠ることなんか出来なかった。

 待っていれば、普段はいずれ訪れる筈の微睡(まどろ)みの代わりに、今夜は御所の使者から渡された異母兄様の勅書の写しの内容が、途切れる事なく頭の中を渦巻いている。

『――……既に関東が攘夷(じょうい)の命を(ほう)じた以上、朝廷も降嫁勅許の約束は果たさねばならぬ』

 目を閉じ、耳を塞いでも、脳内での再生は止まらない。

『にも関わらず、和宮本人が降嫁を固く拒絶している。かと言って、この縁談が成立しなければ幕府に対して信義を欠く事になるので、私は我が娘・寿万宮(すまのみや)を代わりに立てることも考えている』

 異母兄(あに)様の、苦悩の表情を思わず想像してしまって、あたしは殊更きつく目を(つぶ)る。

『しかし、もしも幕府が寿万宮では不承知であり、その上で尚和宮も固辞するようならば』

 ――()めて。

『私は、この責任を取って譲位(じょうい)する他はないと考えている』

 譲位――譲位。

 その単語が、今度は(うるさ)く頭の中を駆ける。

『譲位する他はない』

 ――何で…?

『このままでは実麗殿や観行院殿にもご処分が……』

 ――どうしてよ。

『イヤだと喚いてどうにかなるものなら、どれだけ……』

 異母兄様の言葉の狭間に大叔母様、熾仁の顔がちらついて、あたしは閉じた瞼に力を入れる。

 沸き上がって来るのは、理不尽に対する強い疑問と、怒りだけだ。

 何であたし達が、幕府の横暴の犠牲にならなきゃいけないの!?

 あたしも熾仁も異母兄様もおたあ様も伯父様も……普通に暮らしていたいだけよ。大好きな男性(ひと)と一緒になりたいだけよ。それがどうして許されないの!?

(……でも……)

 ふと、思った。

 あたしはもう無理だけど、他の人は?

(……そうよ……)

 ……あたしさえ我慢すれば。

 現実を直視するのはもの凄くイヤだけど、あたし一人が黙って首を縦に振りさえすれば。

(……そうよ、熾仁達は助かるわ)

 あたしは、脳裏で(ひらめ)いた、光にも似たものを、必死で追い掛ける。

 それは、あたしにとっては光ではないのかも知れない。

 でも、周りの人間にとっては、あたしが江戸に行くことは、日常を取り戻すことが出来る、もはや唯一の道だ。

(……そんなに欲しければ、もうくれてやるわよ)

 そう、幕府の望み通りに。

 例えここで幕府を退けたとしても、もう熾仁と復縁できる望みなんてない。

 熾仁と一緒になれないなら、何処に居たって同じ――それが関東でも尼寺へ行くのでも変わりはしない。

 ならば、周りの皆を巻き込まないように、江戸に行くしか道は残されてないじゃない。


 でも覚えておくのね、幕閣のクソジジイ共。

 あたしは決してあんた達に屈した訳じゃない。

 心まで思い通りになると思ったら大間違いよ。


 意のままになる操り人形だと思ってたら、痛い目見るんだからねっっ!!


©️和倉 眞吹2013.

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